第52話 黄金竜オークション、開幕
「それじゃあ、今回は全部聖奈に任せるよ」
晴れ渡った昼下がり。
西園寺グループ本社の応接室で、ハルトはいつも通りの気軽さでそう言った。
その口調は、まるで文化祭の出し物を友人へ任せるような軽さだった。
「俺、こういう難しい話は全然分からないし。オークションとかもテレビで見たことあるくらいだからさ」
照れ笑いを浮かべながら頭をかく。
「だから、売るとか手続きとかは全部聖奈にお願いしてもいい?」
向かいに座る聖奈は、静かに微笑んだ。
「もちろんです、勇者様」
その返事には一切の迷いがなかった。
「黄金竜像の管理、鑑定、出品手続き、各国との調整、警備、輸送、保険契約に至るまで、すべて私ども西園寺グループで責任を持って対応しております」
「さすが聖奈だな」
ハルトは素直に感心したように笑う。
「やっぱり頼りになるよ」
その一言だけで、聖奈の胸は満たされた。
勇者様からの信頼。
それ以上の報酬など、この世には存在しない。
「勇者様が動画制作へ集中できる環境を整えることが、私の役目です」
柔らかな笑みを崩さない。
「どうか何もご心配なさらず、お待ちください」
「ありがたい!」
ハルトは本当に安心した様子で立ち上がった。
「じゃあ俺は次の動画考えてるから!」
「はい」
「結果とか教えてくれれば十分だから!」
「承知いたしました」
最後まで一切金額を聞こうとしない。
普通なら、自分の所有物がいくらになるのか気になるはずだった。
しかしハルトにとって黄金竜像は、
『動画撮影のために作った小道具』
という認識でしかない。
(……勇者様らしいですね)
聖奈は心の中で微笑む。
だからこそ、この方は尊い。
世界がひっくり返るほどの価値を持つ作品ですら、自らの利益として数えようとはしない。
ならば、その価値を正しく世界へ示すことこそ、自分の役目だった。
「必ず……世界最高の評価を受けていただきます」
静かな決意が、その瞳に宿った。
そして聖奈は応接室を後にした。
向かう先は、西園寺グループが誇る最高峰の舞台である。
――――――
西園寺グループ・ロイヤルオークションホール。
世界中の富豪や王族、大企業の経営者だけが招待される、完全会員制の特別会場。
巨大な円形ホールは、美術館とも劇場とも違う独特の威厳をまとっていた。
天井には幾重にも連なる巨大なシャンデリア。
柔らかな黄金色の光が、深紅のじゅうたんを照らしている。
壁一面には歴史ある名画が飾られ、その一枚一枚が国家予算にも匹敵する価値を持つと言われていた。
客席は段状に配置され、中央の壇上を取り囲むように設計されている。
椅子一脚ですら職人による特注品。
木目の美しさと革張りの質感は、見る者へこの場の格を無言で伝えていた。
既に世界中から集まった招待客たちが静かに席へ着いている。
中東の王族。
欧州の旧貴族。
世界的大企業の会長。
著名な美術収集家。
世界市場を動かす巨大ファンドの代表。
普段なら一国の首脳ですら簡単には会えないような人物たちが、一堂に会していた。
誰もが落ち着いた表情を崩さない。
しかし、その視線だけは一点へ向けられている。
壇上中央。
黒い布で覆われた、巨大な展示台。
その下に眠る今日最大の目玉商品。
黄金竜像。
純度百パーセント。
現代技術では製造不可能と証明された、史上唯一の黄金芸術品。
会場の空気には、静かな熱気が満ちていた。
「……本当に存在するのか」
「鑑定書は見た」
「だが、まだ信じられない」
「内部まで完全な純金だと?」
「加工跡すら存在しないとは……」
抑えた声で交わされる会話。
誰もが冷静を装っている。
だが、その内心には隠し切れない高揚があった。
聖奈は代理人席へ静かに腰を下ろす。
西園寺グループ代表。
そして黄金竜像の正式な代理出品者。
背筋を伸ばしたその姿は、まるで王女が玉座へ座るかのような気品を漂わせていた。
(勇者様)
心の中でそっとつぶやく。
(どうか、ご覧になっていてください)
(あなた様の作品が、今この瞬間、世界の歴史を変えます)
その時だった。
ホール全体の照明がゆっくりと落ちる。
ざわめきが消えた。
全員の視線が壇上へ集まる。
黒い燕尾服に身を包んだ一人の男性が、静かな足取りで中央へ歩み出た。
世界最高峰のオークショニア。
数十年にわたり歴史的名品を扱ってきた名司会者である。
その立ち姿だけで、場の空気がさらに引き締まる。
男性は会場全体をゆっくりと見渡した。
そして、落ち着いた低い声で口を開く。
「本日は、西園寺グループ・ロイヤルオークションへご来場いただき、誠にありがとうございます」
よく通る声が、美しいホール全体へ響き渡る。
「本日の競売には、美術史、工芸史、そして資産価値、そのすべてにおいて歴史的意義を持つ品々をご用意しております」
一拍置く。
その沈黙すら演出の一部だった。
「そして、本日の最後には──」
壇上中央の巨大な黒布へ、静かに手を向ける。
「世界が初めて目にする、新たな伝説をご覧いただきます」
会場中の空気が張り詰めた。
誰一人として息を漏らさない。
オークショニアは穏やかに微笑み、木槌を静かに持ち上げる。
「それでは――」
乾いた音が、静寂を切り裂いた。
「西園寺グループ・ロイヤルオークション、開幕でございます」
軽やかな木槌の音が会場へ響く。
「それでは、一点目の出品物をご紹介いたします」
壇上中央へ、厳重な警備に囲まれたガラスケースが運び込まれる。
中に納められていたのは、深い青色に輝く一粒の宝石だった。
「『蒼海の雫』」
オークショニアの声が静かに響く。
「十九世紀、ある王家の王冠を飾っていた天然サファイアでございます。重量は百二十八カラット。現在確認されている中でも最高峰の透明度を誇り、百年以上にわたり個人所有となっていたため、市場へ姿を現すのは今回が初めてとなります」
会場のあちこちから感嘆の息が漏れる。
大型スクリーンには拡大映像が映し出され、その青はまるで深海そのものを閉じ込めたようだった。
「開始価格は三十億円」
一瞬の静寂。
そして。
「三十五億」
「四十億」
「四十五億」
間髪入れずに札が上がる。
誰もためらわない。
この会場では、十億円単位の数字が日用品を買うような感覚で飛び交う。
「六十億」
「七十億」
「七十五億」
価格はあっという間に跳ね上がった。
オークショニアは一切表情を変えない。
「八十五億」
「九十億」
最後は中東の王族と欧州の資産家による一騎打ちとなった。
「百億」
その一言で勝負は決した。
「百億円。一回」
木槌が軽く鳴る。
「百億円。二回」
誰も動かない。
「三回」
カンッ。
「落札です」
会場から穏やかな拍手が起こる。
百億円という常識外れの金額にも、ここでは驚きより称賛の空気が勝っていた。
「続いて二点目」
今度は長いケースがゆっくりと運ばれる。
中には一本の日本刀。
刃文は月明かりのように美しく、鞘には金蒔絵が施されている。
「室町時代に製作された名刀、『月霞』」
スクリーンへ映された刃は、芸術作品そのものだった。
「現存数本のみ確認される伝説級の名品であり、重要文化財指定以前に海外へ渡った希少な一本でございます」
刀剣愛好家たちの目が鋭くなる。
「開始価格は十五億円」
「二十億」
「二十五億」
「三十億」
こちらも価格は一気に上昇していく。
「四十億」
「四十五億」
「五十億」
競り合うのは、日本の美術館財団と海外の著名コレクター。
最後に。
「六十五億」
静かな声が響いた。
海外の財団代表だった。
「六十五億円、一回」
「二回」
「三回」
カンッ。
「落札でございます」
再び大きな拍手。
会場の熱気は確実に高まっていた。
「本日三点目の出品物です」
今度は高さ一メートルほどの白い彫刻。
一見すると大理石。
しかし照明を受けるたび、柔らかな虹色が表面を流れていく。
「二十世紀最高峰の彫刻家、アルベルト・ロッシによる最後の未公開作品、『永遠の祈り』」
その名が読み上げられた瞬間、何人もの参加者が姿勢を正した。
「作者本人が完成後、一切公開することなく保管していた幻の遺作となります」
開始価格二十五億円。
価格は静かに、しかし着実に積み上がっていく。
「三十億」
「三十五億」
「四十五億」
「五十五億」
「六十億」
芸術作品を専門とする世界的な収集家たちが最後まで競り合い、
最終的に七十八億円で落札された。
カンッ。
三度目の木槌。
ホール全体は満足げな空気に包まれていた。
どれも歴史へ名を残す逸品。
普段なら、この三点だけで世界中のニュースを独占しても不思議ではない。
しかし――。
誰もが知っている。
これは前座だ。
本命は、まだ姿を現していない。
会場には、再び静寂が訪れる。
オークショニアは深く一礼すると、穏やかな笑みを浮かべた。
「皆様、本日はここまで素晴らしいご入札をありがとうございました」
一呼吸置く。
「ですが」
その一言だけで、空気が変わる。
「本日の競売は、ここからが本番でございます」
照明がゆっくりと落とされる。
壇上中央だけが黄金色の光に照らされた。
「これよりご紹介する作品は、事前公開以来、世界中から数万件を超える問い合わせをいただきました」
大型スクリーンへ映るのは、鑑定書の一部。
純度百パーセント。
内部構造完全一致。
人工的製造不可能。
いずれも世界最高峰の鑑定士たちが署名した証明書である。
「芸術品として。」
「工業素材として。」
「資産として。」
「歴史的価値として。」
「そのいずれの尺度でも前例が存在しない、唯一無二の作品でございます」
静まり返る会場。
誰一人、身じろぎひとつしない。
その時だった。
ホール後方の巨大な扉が、ゆっくりと開き始める。
重厚な金属音が静寂へ響く。
姿を現したのは、西園寺グループ最高レベルの警備部隊。
前後左右を完全に固めるように隊列を組み、その中央には、黒い特注カバーで厳重に覆われた巨大な台車がゆっくりと進んでくる。
その大きさだけで、これまでの出品物とは比較にならないことが分かる。
誰もが無意識に息をのんだ。
世界中の視線を集めながら、巨大な台車はゆっくりと壇上の中央へ到着する。
オークショニアは静かに一歩前へ出た。
「皆様、お待たせいたしました」
その声には、これまで以上の敬意が込められていた。
「本日の最終出品物――黄金竜像をご紹介いたします」
壇上中央。
黒い特注カバーへ、すべての視線が集まる。
オークショニアは一礼すると、ゆっくりと白い手袋をはめた。
「それでは、ご覧いただきます」
その一言とともに、布が静かに取り払われた。
──その瞬間。
黄金の輝きが、会場全体を包み込んだ。
「……っ!」
誰かが息をのむ。
いや、それは一人ではない。
数百人いる会場全員が、言葉を失っていた。
巨大な翼。
鋭く天を睨む双眸。
今にも咆哮を上げそうな口元。
黄金でありながら一枚一枚が生きているような鱗。
力強く地を踏みしめる四肢。
しなやかに伸びる尾。
圧倒的な存在感。
ただそこに置かれているだけで、まるで伝説の竜そのものが眠っているようだった。
照明を受けた黄金は眩く輝き、その反射光がホール全体へ幻想的な光を散らしていく。
静寂。
誰一人として声を発することができない。
オークショニアですら数秒間、言葉を失った。
ようやく口を開く。
「こちらが……」
深く息を吸う。
「純度百パーセントの黄金のみで製作された唯一無二の芸術作品──黄金竜像でございます」
大型スクリーンへ鑑定結果が映し出される。
『純度:100.0000%』
『内部空洞なし』
『継ぎ目なし』
『鋳造痕なし』
『加工方法:解析不能』
どの鑑定士も結論は同じだった。
製造方法、不明。
現代技術では再現不能。
世界に一つだけの存在。
静まり返っていた会場に、やがて小さな拍手が起こる。
それは一人。
二人。
十人。
そして。
割れんばかりの拍手へと変わった。
芸術家たちは立ち上がる。
美術館関係者も立ち上がる。
世界的収集家たちも惜しみない拍手を送る。
これは競売以前に、一つの芸術作品への敬意だった。
拍手が収まるのを待ち、オークショニアが静かに告げる。
「開始価格は──」
一呼吸。
「三百億円」
常識ならあり得ない金額。
しかし。
「五百億」
間髪入れずに札が上がった。
会場がどよめく。
「六百億」
「七百億」
「八百億」
開始から十秒。
すでに千億円が目前まで迫っていた。
「九百億」
「千億」
その数字が告げられた瞬間、会場には拍手が起こる。
通常なら、ここで決着しても歴史に残る。
だが今日は違った。
「千二百億」
「千五百億」
「千八百億」
「二千億」
数字が止まらない。
世界各国の超富裕層。
巨大資産ファンド。
国家級企業。
王族。
誰もが競りを降りようとしない。
壇上脇に座る聖奈は、静かにその様子を見つめていた。
(ここまでは想定通り)
西園寺グループが行った事前根回し。
各国の鑑定機関による証明。
世界中の専門家を納得させた解析結果。
それらすべてが、この熱狂を生み出している。
「二千五百億」
「三千億」
誰かが思わず笑った。
「信じられない……」
「国家予算じゃないか……」
しかし誰も止めない。
止められない。
この作品を逃せば、二度と手に入らない。
そんな確信が、全員にあった。
やがて参加者は絞られていく。
残ったのは三者。
中東最大級の王族。
世界有数の資産ファンド代表。
そして。
会場最後列。
一人の老婦人。
真利だった。
派手な動きはない。
ただ静かに座り、競り札を上げ続けている。
「三千五百億」
王族。
「四千億」
ファンド代表。
真利は少しだけ微笑んだ。
「五千億」
会場全体が息をのむ。
一気に千億円の上乗せ。
これまでの流れを完全に断ち切る一手だった。
王族が眉をひそめる。
ファンド代表も初めて沈黙した。
それでも。
「五千二百億」
王族が返す。
「五千五百億」
ファンド代表も続く。
真利はゆっくりと黄金竜像を見つめた。
(やはり……)
(あの日、坊やが何気なく作っていた像とは思えないわね)
自然と笑みが浮かぶ。
この像は芸術品ではない。
奇跡そのもの。
西園寺家が守るべき宝だ。
そして何より。
(あの子の作ったものを、他人へ渡す気などありませんわ)
静かに札を上げる。
「一兆円」
──その瞬間。
時間が止まった。
「……」
「…………」
「………………は?」
誰も反応できない。
一兆円。
聞き間違いではない。
スクリーンにも表示される。
『¥1,000,000,000,000』
十二桁の数字。
国家予算規模。
世界中の視線が真利へ集中する。
王族は苦笑した。
「降りよう」
隣へ静かにつぶやく。
「これ以上は国家への説明がつかない」
ファンド代表も肩をすくめた。
「利益計算の領域ではない」
「芸術への愛では勝てないな」
二人とも札を下ろす。
オークショニアは、生涯で初めて声を震わせていた。
「い、一兆円……」
喉を鳴らす。
「一兆円、一回」
誰も動かない。
「一兆円、二回」
静寂。
全員が歴史の瞬間を見届けていた。
「一兆円……三回」
高く掲げられた木槌が振り下ろされる。
──カァンッ!!
澄み切った音が、ホール全体へ響き渡った。
「落札です!」
その宣言と同時に、会場は今日一番の拍手と歓声に包まれた。
史上最高額。
前例なき国家予算規模の落札。
黄金竜像は、歴史そのものとなった。
壇上の聖奈は静かに目を閉じ、小さく息を吐く。
(おめでとうございます、勇者様)
(あなた様の作品は、本日この瞬間──世界最高の芸術品となりました)
鳴り止まない拍手の中、オークショニアは静かに一礼した。
「皆様、本日は誠にありがとうございました」
会場はなお興奮に包まれている。
史上最高額となる一兆円での落札。
この場にいた全員が、自分たちが歴史の証人になったことを理解していた。
「本日の全出品物につきましては、これにて競売を終了いたします」
深々と頭を下げる。
「本日のご落札者様には、この後、専用ラウンジへご案内いたします。各品目ごとに所有権移転契約、決済方法、保険契約、輸送手段、保管体制などの最終確認を行わせていただきます」
大型スクリーンにも案内が表示される。
「特に最終出品物『黄金竜像』につきましては、美術品としてだけでなく国家級資産としての価値も考慮し、通常とは異なる特別契約となります。担当者が個別にご説明いたしますので、ご理解とご協力をお願いいたします」
誰も異論を唱えない。
一兆円の取引である。
契約が通常で終わるはずもない。
「改めまして、本日は西園寺グループ・ロイヤルオークションへご参加いただき、誠にありがとうございました」
最後の一礼。
そして木槌が静かに置かれる。
「本日の競売は、これにて閉会といたします」
会場には惜しみない拍手が響き渡った。
◇
西園寺グループ本社。
最上階・特別応接室。
重厚な扉の向こうは、外の喧騒が嘘のように静かだった。
長いテーブルを挟み、向かい合って座る二人の女性。
一人は西園寺聖奈。
もう一人は、一兆円で黄金竜像を落札した投資家――真利。
両者の前には数十ページにも及ぶ契約書類が並べられている。
西園寺グループの法務責任者が淡々と説明を続けた。
「以上が所有権移転契約となります」
「保険契約はこちらです」
「輸送については、ご指定いただいた保管施設まで当グループが責任を持って護送いたします」
真利は書類へ目を通しながら、迷いなく署名していく。
確認も速い。
しかし雑ではない。
一文字たりとも見落とさない正確さだった。
聖奈もまた、代理人として署名を終える。
やがて最後の一枚が閉じられた。
「これにて、すべての契約手続きは完了となります」
法務責任者が一礼する。
「ありがとうございました」
関係者が退室すると、部屋には二人だけが残された。
静かな沈黙。
先に口を開いたのは真利だった。
「見事な運営だったわ。」
率直な評価だった。
「一兆円の取引でも一切混乱しない。さすが日本最大級の財閥ね。」
「ありがとうございます。」
聖奈は微笑む。
「すべて西園寺グループの積み重ねです。」
「いいえ。」
真利は首を横に振る。
「組織は人が動かすものよ。」
その視線が聖奈へ向く。
「あなたが優秀だからこそ、あの会場は機能していた。」
聖奈も否定しない。
それは事実だからだ。
彼女は幼い頃から、組織を動かすためだけの教育を受けてきた。
人材。
資金。
情報。
世界中へ張り巡らされた西園寺グループのネットワーク。
それらを最適な形で動かすことこそ、自分の役割だった。
「あなたは、生まれながらにして王者の器ね。」
真利は静かに笑う。
「人脈も資産も、最初から最高の環境がある。」
その口調には嫌味はない。
純粋な分析だった。
「私は違う。」
真利は紅茶を一口飲む。
「ゼロから積み上げる方が性に合っているの。」
「一円から一億。」
「一億から百億。」
「百億から兆。」
「何もない場所から価値を生み出す瞬間が、一番面白い。」
その瞳には、自信が宿っていた。
誰かから与えられた財産ではない。
自ら築き上げてきたという絶対的な自負。
聖奈は静かに頷く。
「素晴らしい才能だと思います。」
「ええ。」
真利はあっさり認めた。
「だから今の私がある。」
部屋に再び静寂が訪れる。
そして真利は、本題へ入った。
「ところで。」
真っ直ぐ聖奈を見る。
「一ノ瀬晴人。」
その名前が出た瞬間。
聖奈の表情がわずかに変わった。
「彼については調べさせてもらったわ。」
「青葉高校二年。」
「炎の勇者チャンネル。」
「最近急激に知名度を上げた動画投稿者。」
「そして。」
真利は少しだけ口角を上げる。
「あなたが傍にいる男性。」
聖奈は否定しない。
「はい。」
「そうです。」
真利は組んでいた足をゆっくりと組み替える。
「紹介してちょうだい。」
あまりにも自然な口調だった。
お願いではない。
命令でもない。
ただ当然の提案のように言う。
「彼に会いたいの。」
「……理由を伺ってもよろしいでしょうか。」
聖奈の声は穏やかだった。
だが瞳だけは鋭い。
真利は一切動じない。
「興味を持ったから。」
「黄金竜像を作れる人間なんて、この世界には存在しない。」
「そんな価値を持つ人間を放っておくほど、私は愚かじゃないわ。」
言葉に迷いはない。
「彼自身が価値。」
「なら、その価値を私の手元へ置きたい。」
支配欲。
独占欲。
収集家が最高級の宝石を求めるように。
投資家が未来を生む企業を手中へ収めるように。
真利は一ノ瀬晴人という存在そのものを欲していた。
「彼は、世界を変えられる人間でしょう?」
静かな声だった。
「だったら、その力は私が管理するべきよ。」
聖奈は沈黙する。
その胸中には、小さな警戒心が芽生えていた。
この女性は金を欲しているのではない。
黄金竜像すら目的ではなかった。
真に欲しているのは、それを生み出した勇者本人。
そして、その視線は恋慕とはまったく異なる。
価値あるものを自らの支配下へ置きたいという、純粋で強烈な所有欲。
聖奈はゆっくりと微笑んだ。
「……申し訳ありません。」
その笑みは崩れない。
「その件につきましては、勇者様ご本人のご意思が最優先となります。」
真利もまた、小さく笑みを返した。
「でしょうね。」
「だから紹介してと言っているの。」
互いに微笑みながら。
しかし、その瞳だけは決して譲らない。
財閥を率いる令嬢と、ゼロから兆を築いた女王。
勇者を巡る最初の静かな火花が、誰にも気づかれぬまま散った。
静寂。
互いに笑みを浮かべたまま、誰も次の言葉を発しない。
だが、この部屋の空気は先ほどまでとはまるで違っていた。
穏やかだった温度は消え去り、見えない刃が交差している。
先に口を開いたのは聖奈だった。
「一つだけ、お伝えしておきたいことがあります。」
「どうぞ。」
真利は腕を組み、穏やかに続きを促す。
「私は、勇者様の周りに優秀な方が集まることを否定するつもりはありません。」
真利は少しだけ眉を上げた。
「意外ね。」
「財閥令嬢なら、競争相手は排除するものだと思っていたわ。」
聖奈は静かに首を横へ振る。
「いいえ。」
「勇者様は、世界を導くお方です。」
その声音には、一切の迷いがない。
「そのお方の周囲には、より優秀な人材が必要です。」
「勇者様を支えられる方。」
「勇者様の夢を実現できる方。」
「勇者様の可能性を広げられる方。」
「そのような方であれば、私は歓迎いたします。」
真利は黙って聞いている。
「仮に、その方が勇者様へ恋心を抱いたとしても。」
聖奈は微笑む。
「私は否定いたしません。」
「勇者様ほど魅力的なお方へ惹かれるのは、ごく自然なことですから。」
その言葉には、嘘も強がりもなかった。
ハルトの価値を誰より知っている。
だからこそ、彼へ惹かれる女性が現れることも当然だと受け止めている。
「……なるほど。」
真利は興味深そうに頷いた。
「器が大きいのね。」
「いいえ。」
聖奈は即座に否定する。
「勇者様のためです。」
その一言だけだった。
自分のためではない。
ハルトがより高みへ進めるのであれば、自分の感情など二の次。
それが聖奈という女性だった。
しかし。
その微笑みが、ほんの僅かだけ鋭く変わる。
「ですが。」
その一言で空気が変わる。
「勇者様を所有物として扱う方だけは、お断りいたします。」
部屋の温度が一気に下がったようだった。
「勇者様は誰かの道具ではありません。」
「誰かの資産でもありません。」
「ましてや、支配されるようなお方では決してありません。」
聖奈の瞳が真利を真っ直ぐ射抜く。
「あなたのお考えは、その一点において受け入れられません。」
真利は数秒、黙っていた。
そして。
ふっと笑う。
「なるほど。」
「やっぱり調べた通り。」
「あなた、本当に彼へ惚れているのね。」
「はい。」
迷いなく答える。
「心から愛しております。」
一切照れない。
隠そうともしない。
それほどまでに、その想いは揺るがないものだった。
「ですが。」
聖奈は続ける。
「だからこそ、私は勇者様を縛りません。」
「勇者様が望まれる未来なら、私はそのためにすべてを尽くします。」
「それが、私の愛です。」
真利は小さく息を吐いた。
「理解できないわ。」
即答だった。
「愛なんて非効率。」
「価値あるものは手元へ置く。」
「管理する。」
「育てる。」
「最大限に利益を生む環境を与える。」
「それが一番合理的でしょう?」
彼女にとって人も企業も才能も同じだった。
価値あるものは手に入れる。
それだけ。
「一ノ瀬晴人は、世界最高の資産よ。」
その瞳が輝く。
「黄金竜像を作れる。」
「常識を覆せる。」
「市場を変えられる。」
「経済を変えられる。」
「国家を動かせる。」
「そんな人間を自由に放置する理由なんてない。」
真利は微笑む。
「私なら、彼の価値を何十倍、何百倍にもできる。」
「世界中を支配できるほどにね。」
聖奈も笑みを崩さない。
「勇者様は、そのようなことを望まれません。」
「だから?」
「望まれないことはいたしません。」
「私は望ませる。」
真利は即答した。
「本人が理解していないなら、理解させればいい。」
「価値ある人間には、価値ある場所がある。」
「その場所を用意するのが私。」
まるで絶対の真理を語るような口調だった。
聖奈は静かに立ち上がる。
「残念です。」
「私たちは最後まで分かり合えないようですね。」
「ええ。」
真利もゆっくりと席を立つ。
「最初から、そのつもりよ。」
二人の距離は数メートル。
だが互いに一歩も引かない。
聖奈が静かに口を開く。
「勇者様へお会いいただく機会は設けます。」
真利の目が細くなる。
「ただし。」
「勇者様を支配しようとなさるのであれば。」
聖奈の笑顔は美しい。
それでいて、どこまでも冷たかった。
「その時は、西園寺聖奈が全力であなたの前へ立ちはだかります。」
真利は口角を上げる。
「面白い。」
「久しぶりね。」
「ここまで真正面から私へ敵意を向ける人は。」
その瞳に宿るのは高揚。
恐れではない。
「なら、楽しみにしているわ。」
「あなたが守ろうとする勇者を。」
「私がどうやってこちら側へ引き寄せるのか。」
聖奈も負けじと微笑む。
「そのような日は永遠に訪れません。」
「ふふ。」
「断言するのね。」
「当然です。」
「勇者様は、誰の所有物にもなりませんから。」
短い沈黙。
そして。
二人は同時に踵を返した。
出口へ向かう足音だけが静かな部屋へ響く。
互いに一度も振り返らない。
しかし、その胸中には同じ決意が宿っていた。
──必ず、譲らない。
勇者を巡る新たな戦いは、静かに幕を開けた。




