第49話 幼馴染がいない会議は、世界を壊す方向へ進む
朝から降り続く雨が、窓ガラスを静かに叩いていた。
私立青葉高校。
二年生の教室には、一つだけぽっかりと空いた席がある。
如月結衣。
いつもなら誰よりも早くハルトへ声を掛け、「おはよ!」と教室の空気を明るくする幼馴染は、今日は姿を見せていなかった。
理由は単純。
風邪である。
熱が出たため、大事を取って学校を休んでいた。
もっとも、それを心配している者は、この学校にはほとんどいなかった。
ハルトを除けば。
いや――正確には、ハルトだけが「もう大丈夫」だと断言していた。
その理由を知る者は、放課後の動画研究部室に集まっている四人だけだった。
――――――
放課後。
動画研究部室。
結衣の姿だけがない部屋は、どこか落ち着かない空気に包まれていた。
丸テーブルを囲むように座るのは、ハルト、聖奈、凛、摩夜の四人。
いつもなら真正面に座り、「その企画はやめよう」と真っ先に止める結衣の席だけが空いている。
その空席へ目を向けた凛が、小さく息を吐いた。
「結衣殿の体調は、本当に問題ないのでしょうか」
心配そうな問い掛けに、ハルトは気楽な笑顔でうなずく。
「ああ、大丈夫だよ」
その一言だけで終わらせず、昨日の出来事を思い返すように話し始めた。
「昨日の夜、熱があるって聞いたからさ。家まで様子を見に行ったんだ」
その場にいた全員が、その光景を思い出す。
結衣の部屋。
額に冷えたタオルを乗せ、少し赤い顔で布団へ横になっていた結衣は、ハルトの姿を見るなり苦笑していた。
『ごめんねぇ……明日の会議、行けそうにないや……』
『気にしなくていいって。それより薬を作るから』
そう言ったハルトは、部屋の隅へ置かれていた小さな鉢植えを持ち上げた。
観葉植物しか植えられていなかった土へ手をかざし、何でもないことのように呟く。
『植物魔法』
淡い緑色の光が土へ染み込む。
次の瞬間。
何もなかった土が盛り上がり、小さな芽が顔を出した。
芽は見る間に伸び、葉を広げ、白く透き通るような花を咲かせる。
異世界では「命結び草」と呼ばれていた薬草。
重い熱病に苦しむ兵士たちを何度も救ってきた希少な植物だった。
現代には存在しない植物である。
もっとも、それを知っているのは転生者だけだった。
聖奈は、その花を見た瞬間に目を細めていた。
『懐かしいですね……王都でも滅多に見られない薬草でした』
『勇者様が遠征から戻られるたびに、お持ち帰りになっていましたね』
凛も静かにうなずく。
『一枚の葉だけで高熱が下がる奇跡の薬草……』
『え、そんな便利だったっけ?』
ハルト本人だけが首をかしげる。
『結構その辺に生えてたし』
『勇者様が歩かれる場所だけです』
凛が即座に訂正した。
『普通の人間は命懸けで採取しておりました』
『そうだったのか?』
本人だけが知らない。
異世界ではよくある光景だった。
ハルトが「近くにあったから」と持ち帰る植物は、大半が国宝級だったのである。
その薬草を数枚摘み取ると、ハルトは今度は小さなコップへ水を注いだ。
『じゃあ、あとは錬金術』
青白い魔法陣が浮かぶ。
葉が光となって溶け、水へ吸い込まれていく。
透明だった液体は淡い金色へ変わり、ほんのり甘い香りを漂わせ始めた。
異世界で「霊薬」と呼ばれていた万能薬。
病気、疲労、毒。
ありとあらゆる不調を大きく改善する秘薬である。
『はい、結衣』
『……これ、苦くない?』
『甘いぞ』
『ほんと?』
恐る恐る口を付けた結衣は、一瞬目を丸くした。
『……ほんとだ』
『ちょっと甘い』
『だろ?』
安心したように飲み干した結衣へ、ハルトは笑って言った。
『これなら明日にはちゃんと治ってるよ』
その言葉に、結衣は苦笑しながらも安心したように目を閉じていた。
――回想はそこで終わる。
部室へ戻ると、ハルトは当たり前のように言った。
「だから明日にはきっちり治ってるよ」
その言葉に疑問を抱く者は、一人もいない。
昨日の霊薬を見ていた三人なら、それが当然だと理解していた。
「勇者様のお作りになった霊薬ですから」
聖奈が微笑む。
「熱程度でしたら、一晩で完治するでしょう」
「問題ありません」
凛も力強くうなずいた。
「あれで治らない病であれば、世界中の医師でも治療は不可能です」
「理論的にも否定材料はない」
摩夜まで冷静に結論付ける。
「昨日の段階で回復は確定している」
「だよな」
ハルトは満足そうに笑った。
「じゃあ安心して会議を始めよう!」
その一言で、部室の空気が切り替わる。
だが。
その場には、いつもなら必ず言う人物がいなかった。
『その前に企画の内容を聞かせて』
『ちょっと待って、その発想危ないから』
『はい却下』
そう言って暴走を止める、唯一のストッパーが。
結衣不在の会議は。
まだ誰も気付いていない。
この瞬間から、世界経済すら揺るがしかねない企画へ向かって動き始めていることを。
ハルトはテーブルの上へ両肘をつき、楽しそうに周囲を見回した。
「それじゃ、明日の動画会議を始めよう!」
その一言で、部室の空気が仕事のものへ切り替わる。
聖奈は手帳を開き、凛は撮影用のメモを取り出し、摩夜はノートパソコンを立ち上げる。
結衣が編集担当としてまとめる役割を担っていたため、いつもとは少しだけ進行がぎこちない。
だが、それでも四人は自然と会議を始めていた。
「で、今回はどんな企画を考えているんだ?」
摩夜の問いに、ハルトは「ああ、それなんだけど」と笑う。
「昨日さ、結衣の薬を作る時に思ったんだよ」
三人の視線が集まる。
「錬金術って、やっぱり便利だよな」
「はい」
聖奈が迷いなくうなずく。
「異世界でも、勇者様ほど錬金術を自在に扱える方はいらっしゃいませんでした」
「だよな」
ハルトは当然のように続ける。
「だからさ、せっかくだし錬金術を前面に出した動画を撮ろうかなって。」
「錬金術ですか」
凛が首をかしげる。
「具体的には、どのような内容でしょう」
「うーん……例えばだけど」
ハルトは天井を見上げながら考える。
「石像を作るじゃん?」
三人は静かに続きを待つ。
「それを錬金術で金ぴかに変えるんだ。」
部室が静まり返る。
ハルトだけが楽しそうだった。
「普通の金の延べ棒とかじゃ面白くないだろ? だから等身大くらいの像を作って、それ全部を純金にしたら、『うわ、本当に黄金像になった!』って映像的にもすごいと思うんだよ。」
本人の頭の中には、再生数が伸びる未来しかない。
「しかもさ、石像なら好きな形に作れるし。」
ハルトは身振りを交えながら説明を続ける。
「ドラゴンでもいいし、勇者像でもいいし、巨大な剣でもいい。そこから一瞬で全部金色になったら、絶対バズるって!」
いつものように期待を込めた笑顔だった。
本来なら、この辺りで。
『待って待って待って!』
『何言ってるの!?』
『純金を作るのは禁止!』
そんな悲鳴が飛んでくるはずだった。
しかし。
部室には結衣がいない。
三人は互いに顔を見合わせた。
最初に口を開いたのは聖奈だった。
「……私は、良いと思います。」
あまりにもあっさりした返答だった。
ハルトは目を輝かせる。
「本当か!」
「はい。」
聖奈は落ち着いた笑みを浮かべたまま続ける。
「昨日の配信をご覧になった方は世界中にいらっしゃいます。」
静かに指を一本立てる。
「しかも、勇者様は大勢の方々が見ている前で、『精神鎮圧』とはっきり口にされたうえで、不思議な現象を起こされました。」
「そういえば言ったな。」
ハルトは軽く思い返す程度だった。
「現代の常識では説明できない現象だったことは間違いありません。」
聖奈は真っすぐハルトを見る。
「もちろん、それでも多くの方は『最新技術』『特殊演出』『まだ知られていない映像技術』などと解釈するでしょう。」
「うん。」
「ですが、その一方で、『もしかすると本当に魔法なのではないか』と考え始める方々も、確実に増えています。」
昨日の配信は、それほどまでに衝撃的だった。
視聴者全員へ同時に心の変化を与えた現象など、現代科学では説明が付かない。
「ですから私は……」
聖奈は一切迷わず言い切る。
「勇者様の魔法は、いずればれるものと考えた方が自然だと思っております。」
その言葉に、凛もうなずいた。
「私も同意します。」
「隠し続けることを前提に企画を考えるよりも、受け入れられることを前提に進めた方が合理的でしょう。」
摩夜も冷静に分析を重ねる。
「ネット上でも、以前は一笑に付されていた『本物説』が、今では一定数の支持を集め始めている。」
ノートパソコンを軽く閉じる。
「情報の流れを見る限り、完全に否定される段階は既に過ぎた。」
「なるほど。」
ハルトは素直に感心したようにうなずいた。
「じゃあ、これからはもっと影響力を強める方向で考えてもいいってことか。」
「はい。」
聖奈は優雅にほほ笑む。
「勇者様のお力を少しずつ世へ示していく段階へ移った、と私は考えております。」
その言葉に、部室の空気が静かに変わる。
結衣がいれば、「いやいやいや! その前提がおかしいから!」と全力で止めていたはずだ。
しかし、そのツッコミはどこにもない。
暴走を止める者がいない会議は、ごく自然な流れで次の段階へ進み始めていた。
「影響力を強める方向で進める」。
聖奈のその一言に、会議の前提そのものが変わった。
ハルトは腕を組みながら、「だったらさ」とさらに企画を膨らませていく。
「せっかく純金にするなら、ちゃんと本物だって証明した方が面白くないか?」
「証明、ですか?」
聖奈が問い返す。
「うん。」
ハルトは楽しそうに指を鳴らした。
「動画の中で『本物の金です』って言っても、どうせ『CGです』『仕込みです』って言われるだろ?」
「その可能性は高いですね。」
摩夜が静かにうなずく。
「なら、専門家に見てもらえばいい。」
あまりにも自然な結論だった。
「金の鑑定士っているだろ? その人に目の前で調べてもらって、『間違いなく純金です』って言ってもらえば面白そうじゃないか。」
部屋が一瞬だけ静まる。
そして次の瞬間には、聖奈が穏やかにほほ笑んでいた。
「でしたら、その役目は西園寺グループでご用意いたします。」
「本当か?」
「はい。」
聖奈は当然のように答える。
「西園寺グループには、貴金属を専門とする鑑定士が複数在籍しております。」
「金の純度を測定する設備も、研究施設に完備しております。」
「おお!」
ハルトは身を乗り出した。
「じゃあ本当に鑑定してもらえるのか!」
「もちろんです。」
聖奈は少しだけ楽しそうに続ける。
「映像用の演出ではなく、正式な鑑定結果として発表できます。」
「それいいな!」
ハルトの目が輝く。
「本物って分かった方が絶対盛り上がる!」
その会話を聞きながら、摩夜も一つ提案を加える。
「鑑定するだけでは少し弱い。」
「ん?」
「その後の行き先があった方が、物語として完成する。」
「行き先?」
「オークションだ。」
その一言に、ハルトは「おお」と声を上げる。
「なるほど!」
「鑑定だけでは、『すごいですね』で終わる。」
摩夜は淡々と分析する。
「しかし、実際に市場へ出せば価値が可視化される。」
「いくらで落札されるのか。」
「誰が欲しがるのか。」
「社会がどう反応するのか。」
「その一連の流れ自体が、一つの企画になる。」
「確かに!」
ハルトは何度もうなずいた。
「それ面白そうだ!」
すると聖奈もすぐに話を引き継ぐ。
「オークション会場につきましても、西園寺グループでご用意できます。」
「美術品や宝飾品を扱う関係者とのつながりもございますので、正式な形で出品可能です。」
「さすが聖奈!」
「助かる!」
ハルトは素直に笑う。
もっとも、彼の頭の中にあるのは「バズりそう」という感想だけだった。
純金を市場へ流通させる影響など、一切考えていない。
一方で、聖奈たち三人も、その点について異論はなかった。
昨日の配信。
あの「精神鎮圧」を経て、彼女たちの認識は一つの結論へ至っている。
もう勇者様の力を隠し続ける段階ではない。
ならば。
社会へ与える影響も含めて、受け止める準備を進めるべきだ。
結衣だけがまだ、その覚悟を決め切れていない。
だが、この場に彼女はいない。
だからこそ、会議は誰にも止められることなく進んでいく。
「じゃあ。」
ハルトは立ち上がり、ホワイトボードへ歩いた。
企画欄へ大きく文字を書き込む。
『錬金術で黄金像を作ってみた』
「タイトルはあとで考えるとして……。」
ペンをくるりと回しながら笑う。
「像はインパクトがある方がいいよな。」
少しだけ考え込み、
「あ、決めた。」
三人が視線を向ける。
「実寸大の、今まさに獲物へ飛びかかろうとしてるドラゴンでも作るか。」
まるで「今日の昼飯は何にしようか」とでも言うような軽い口調だった。
異世界最強の勇者にとって、巨大なドラゴンの石像を作ることなど、料理を作るのと変わらない。
「迫力もあるし、金色になったら絶対かっこいいだろ!」
「素晴らしい案です。」
聖奈が笑顔で拍手する。
「勇者様らしい企画ですね。」
「映像映えも申し分ありません。」
凛も真剣にうなずく。
「護衛計画も立てやすい。」
「ネットでの話題性も十分。」
摩夜はすでに検索トレンドを予測し始めていた。
こうして。
結衣という最後の安全装置が不在のまま。
『巨大なドラゴンの石像を作り、それを純金へ錬成し、本物であると鑑定した上で、後日オークションへ出品する』
という、常識外れの企画が満場一致で可決されたのだった。
「よし、それじゃ今回の企画はこれで決まり!」
ハルトがホワイトボードへ大きく丸印を書き込む。
部室にいた四人は、それぞれ満足そうにうなずいた。
企画内容は決定。
あとは実行するだけである。
「撮影日は予定通り明日でいいよな?」
「はい。」
聖奈が即座に答える。
「場所につきましても、以前使用した西園寺グループ所有地をご利用いただけます。」
「ありがとう。」
ハルトは笑顔で礼を言った。
「じゃあ俺は明日、ドラゴン像を作って純金にする!」
あまりにも軽い宣言だった。
世界中の金市場へ影響を与えかねない一言とは、とても思えない。
しかし、その場にいる三人も誰一人として止めない。
むしろ、すでに次の段階を考え始めていた。
「では、私は警備計画を策定します。」
凛が手帳へ素早く書き込みながら言う。
「純金製である以上、撮影終了後は厳重な警備が必要です。」
「搬出経路も複数確保し、襲撃への対策も準備いたします。」
「お願い。」
ハルトは気軽にうなずく。
「その辺は凛に任せるよ。」
「お任せください。」
その返事には一切の迷いがなかった。
続いて聖奈も予定を整理していく。
「完成した黄金像につきましては、西園寺グループの美術品保管施設へ搬入いたします。」
「温度や湿度だけでなく、防犯設備も国内最高水準ですので、ご安心ください。」
「それと、鑑定士の予定も本日中に押さえておきます。」
「オークション会社とも事前に打ち合わせを進め、正式な出品手続きだけは済ませておきます。」
あくまで今回は出品予定を発表するだけ。
実際のオークションは、もう少し先。
十分な準備期間を設けた上で開催する予定だった。
それでも、今から手続きを始めるあたりが西園寺グループらしい。
「ありがとう、聖奈。」
「助かるよ。」
ハルトが素直に礼を言うと、聖奈は嬉しそうに目を細めた。
「勇者様のお役に立てるのでしたら、何よりです。」
最後に摩夜がノートパソコンを閉じる。
「私は情報面を担当する。」
「予告動画の公開時間、SNSでの告知文、切り抜き対策。」
「それと。」
少しだけ考えてから付け加える。
「今回は『黄金像をオークションへ出品予定』という情報だけ先に流す。」
「実際の開催日は伏せる。」
「準備期間中の注目度を維持できる。」
「なるほど。」
ハルトは感心したように笑う。
「そういうのは全然分かんないから助かる。」
「専門分野だから。」
摩夜は淡々と答えた。
「君は面白いものを作ることだけ考えていればいい。」
「了解!」
役割分担はあっという間に終わった。
企画。
警備。
保管。
鑑定。
オークション。
広報。
すべてが自然な流れで決まり、それぞれ担当者が引き受けていく。
もし結衣がこの場にいたなら。
『いやいやいや!』
『何でそんな話がこんなスムーズに進むの!?』
『純金をオークションに出す前提になってるじゃん!』
きっと、そう叫んでいただろう。
しかし、その声は最後まで聞こえなかった。
「じゃあ今日はここまで!」
ハルトが立ち上がる。
「みんな、準備よろしく!」
「承知いたしました。」
「お任せください。」
「問題ない。」
三人も席を立ち、それぞれ自分の仕事へ向かう。
その日のうちに、西園寺グループでは黄金像保管用の特別区画の確保が始まり、警備会社との連絡が行われる。
貴金属鑑定士の予定が押さえられ、オークション会社との事前調整も進められた。
凛は護衛計画を一から組み直し、搬送経路や警備人数まで細かく検討する。
摩夜はネット上で予告を公開する最適な日時を分析し、公開後の反応予測までまとめ始めていた。
結衣が病院ではなく自宅で寝込んでいる、そのわずか半日の間に。
後戻りできないほど準備は進み始めていた。
――――――
夕暮れ。
オレンジ色の光が住宅街を染める中、ハルトは見慣れた道を歩いていた。
手には、小さな紙袋。
中には昼休みに購買で買っておいたゼリーやスポーツドリンク、それに食べやすそうなプリンが入っている。
「明日には治るとは思うけど。」
独り言のようにつぶやく。
「一応、お見舞いくらいは行っとかないとな。」
幼い頃から何度も通った道。
目的地は決まっている。
幼馴染――如月結衣の家だった。
ハルトがインターホンを押すと、ほどなくして玄関の扉が開いた。
「ハルト?」
顔を出したのは結衣の母だった。
「あら、お見舞いに来てくれたの?」
「はい。結衣の様子どうですか?」
「もう熱は下がっちゃったのよ。」
苦笑しながら肩をすくめる。
「朝にはすっかり元気になってて、お医者さんにも『もう大丈夫でしょう』って言われたんだけど、一応今日は学校を休ませたの。」
「そっか。」
ハルトは満足そうに笑う。
「やっぱり効いたな。」
「え?」
「いや、何でもないです。」
結衣の母は首をかしげたが、それ以上は気にしなかった。
「上にいるから、入ってあげて。」
「ありがとうございます。」
ハルトは慣れた足取りで階段を上がっていく。
幼い頃から何度も遊びに来た家だ。
自分の家のように迷うことはない。
コンコン。
「結衣、入るぞ。」
「……どうぞー。」
部屋へ入ると、ベッドの上へ座った結衣が振り向いた。
昨日まで赤かった頬はすっかり元に戻り、顔色も良い。
寝間着姿ではあるものの、いつもの結衣そのものだった。
「おっ。」
ハルトは笑う。
「元気そうじゃん。」
「うん。」
結衣も苦笑した。
「自分でもびっくりするくらい元気。」
「熱もないし、体も軽いし。」
「お母さんに『今日は寝てなさい』って言われたから、おとなしくしてるだけ。」
「だろ?」
ハルトは紙袋を机へ置く。
「一応、お見舞い。」
「ありがとう。」
中をのぞき込んだ結衣が嬉しそうに笑った。
「プリンまで買ってきてくれたんだ。」
「病人と言えばプリンかなって。」
「ふふっ。」
自然と笑みがこぼれる。
しばらく他愛もない話をした後。
結衣は少しだけ真面目な表情になった。
「ねえ、ハルト。」
「ん?」
「今日、会議だったでしょ?」
「ああ。」
「私いなかったけど……。」
結衣は少しだけ視線を泳がせる。
「変な企画、決まってないよね?」
幼馴染だから分かる。
ハルトは悪気なく、とんでもないことを思いつく。
そして。
それを止める役目は、いつも自分だった。
だからこそ、不安になる。
「うーん。」
ハルトは少し考えてから笑った。
「面白い企画は決まったぞ。」
「え。」
結衣の笑顔が引きつる。
「お、面白いって……どんな?」
「明日のお楽しみ。」
にこっと笑う。
「えぇ……。」
嫌な予感しかしない。
「ねぇ、本当に大丈夫なんだよね?」
「もちろん。」
ハルトは迷いなくうなずいた。
「みんなも賛成してくれたし。」
「みんな?」
「聖奈も、凛も、摩夜も。」
「…………。」
結衣の胸の中で警報が鳴り響く。
その三人は。
ハルトの暴走を止める側ではない。
むしろ。
全力で後押しする側である。
(終わった……。)
まだ企画内容は聞いていない。
聞いていないのに、嫌な予感だけがどんどん膨らんでいく。
そんな結衣の様子に気付くことなく、ハルトは優しく笑った。
「ほら。」
「今はそんなこと気にしなくていいって。」
「でも……。」
「病み上がりなんだから。」
ハルトは昨日と同じように、安心させるような口調で言う。
「ちゃんと休むのも大事だぞ。」
「明日の撮影は、結衣も観客気分で楽しめばいいから。」
「俺たちが全部準備しておくし。」
その言葉は、百パーセント善意だった。
結衣に無理をさせたくない。
今日はゆっくり休んでほしい。
だから明日は何も考えず楽しんでほしい。
ただ、それだけ。
しかし。
(観客気分って……。)
結衣の背中を冷たい汗が伝う。
(私が止めなくても大丈夫ってこと……?)
(いや、違う。)
(止める暇もないくらい準備が進んじゃってるんじゃ……。)
嫌な想像ばかりが浮かんでくる。
「ハルト……。」
「ん?」
「明日って、本当に普通の撮影だよね?」
「普通普通。」
本人は満面の笑みだった。
「今まで通り、みんなで撮るだけ!」
(その『普通』が一番信用できないんだけど……。)
結衣は心の中だけで盛大にツッコんだ。
ハルトは時計を見ると、「そろそろ帰るか」と立ち上がる。
「今日はちゃんと寝ろよ。」
「う、うん……。」
「明日には治ってるな!」
親指を立てて笑う。
「また明日な!」
「……また明日。」
ハルトは最後まで明るい笑顔のまま部屋を出て行った。
パタン、と扉が閉まる。
静かになった部屋で、結衣はベッドへ倒れ込んだ。
「…………。」
天井を見つめる。
「絶対。」
一拍置いて、小さくつぶやく。
「絶対、私がいない間に、とんでもないこと決めたよね……。」
風邪は治った。
だが、その代わりに。
胸の奥には、熱とは別の嫌な予感だけが、どんどん大きくなっていくのだった。




