第47話 魅惑の「もふもふ」騒動
その日の夜。
猫宮陽葵の部屋には、静かな囁き声が流れていた。
『こんばんは』
イヤホン越しに聞こえるのは、昼間の生配信で収録されたハルトの声だった。
配信のアーカイブではなく、ASMRパートだけを切り抜いて、自分用に編集した音声。
机の上にはノートパソコン。
画面には波形編集ソフトが開かれ、不要な間やノイズを丁寧に取り除いた跡が残っている。
陽葵は布団へ入ったまま、小さく微笑んだ。
「……やっぱり、素敵です」
耳元へ優しく届く声。
穏やかで。
温かくて。
聞いているだけで胸の奥がじんわりと満たされていく。
『今日は来てくれてありがとう』
「はい……」
まるで自分だけへ話しかけられているような感覚。
もちろん、実際には配信で視聴者全員へ向けた言葉だと分かっている。
それでも。
どうしても頬がゆるんでしまう。
「えへへ……」
布団へ顔を埋めながら、小さく身をよじる。
前世では勇者として、数え切れない人々を励まし、救ってきた声。
それは今も何一つ変わっていなかった。
むしろ現代という平和な世界だからこそ、その優しさだけがより強く伝わってくる。
『もう今日は頑張らなくていい』
「……はい」
返事をした瞬間。
胸の鼓動が少しだけ速くなる。
心が温かくなる。
嬉しい。
幸せ。
安心する。
そんな感情が次々と湧いてくる。
そして――。
「……あれ?」
陽葵は少しだけ首を傾げた。
「なんでしょう……」
胸がぽかぽかする。
それだけではない。
何というか。
無性に。
「……会いたい、です」
昨日までだって会っていた。
今日も一緒に配信した。
十分なほど話もした。
それなのに。
「もう一度、お会いしたいです……」
抱きしめてもらいたい。
頭を撫でてもらいたい。
近くにいたい。
そんな気持ちが、じわじわと膨らんでくる。
「……変ですね」
自分でも理由が分からない。
恋しい気持ちは以前からあった。
けれど今日は、それとは少し違う。
もっと本能的というか。
もっと理屈を飛び越えた衝動だった。
その時だった。
『焦らなくて大丈夫』
イヤホンから流れるハルトの声が耳へ届く。
『また会えるから』
「……はい」
自然と笑みがこぼれた。
「明日、お会いできますね」
学校へ行けば会える。
それだけで胸が弾む。
「明日が楽しみです」
陽葵はイヤホンを外し、枕元へ丁寧に置いた。
そして布団へ潜り込む。
その表情は、配信者として見せる穏やかな笑顔でも、聖女としての神々しい微笑みでもない。
大好きな人へ会えることを楽しみにしている、ごく普通の女の子の笑顔だった。
静かに目を閉じる。
夢の中でさえ、自然と笑みを浮かべたまま。
翌朝を心待ちにしながら眠りへ落ちていった。
――――――
翌朝。
「おはようございます」
青葉高校へ登校した陽葵は、いつものように穏やかな笑顔で教室へ入った。
「おはよう、陽葵さん!」
「昨日の配信すごかったね!」
「アーカイブもう一回見たよ!」
クラスメイトたちが次々と声を掛けてくる。
「ありがとうございます」
陽葵は一人ひとりへ丁寧に頭を下げていく。
普段通り。
いつも通り。
……の、はずだった。
「……?」
自分の席へ座った瞬間。
何とも言えない違和感を覚える。
「……なんでしょう」
胸がそわそわする。
落ち着かない。
窓の外を見ても。
本を開いてみても。
スマートフォンを見ても。
どうにも集中できない。
「昨日はちゃんと眠れたのですが……」
寝不足ではない。
体調もいい。
むしろ、これまで以上に身体は軽い。
なのに。
「……落ち着きません」
机へ頬杖をつく。
じっとしているだけなのに、身体の奥がむずむずする。
まるで何か大切なものが足りないような。
そんな不思議な感覚だった。
「陽葵さん、大丈夫?」
隣の女子生徒が心配そうに尋ねる。
「はい。少し不思議な感じがするだけです」
「熱とか?」
「いえ、それはありません」
むしろ元気なくらいだ。
熱もない。
頭痛もない。
どこか痛いわけでもない。
なのに。
「……うぅ」
胸の奥がきゅっと締め付けられる。
何かを求めているような。
そんな気持ち。
その時。
廊下から楽しそうな男子生徒たちの笑い声が聞こえてきた。
「炎の勇者チャンネル見た?」
「昨日のASMRやばかったよな!」
「ハルト先輩、あれ初めてってマジ?」
その名前を聞いた瞬間。
ぴくり、と陽葵の肩が震えた。
「……ハルトさん」
ぽつりと名前を口にしただけで。
胸の奥が、きゅうっと甘く締め付けられる。
無意識のうちに教室の入り口へ視線が向く。
「……?」
どうしてでしょう。
会いたい。
今すぐ。
そんな気持ちが急に強くなった。
「…………」
陽葵は自分の胸へそっと手を当てる。
「本当に、どうしてなのでしょう……」
理由が分からない。
恋しい気持ちは分かる。
でも、それだけでは説明できない。
まるで身体そのものが「そちらへ行きたい」と訴えているようだった。
そんな自分へ戸惑っていると。
キーンコーンカーンコーン。
始業のチャイムが校内へ響き渡る。
「それじゃあ席についてー」
担任教師が教室へ入ってくる。
生徒たちが一斉に席へ着き、教科書を準備し始める。
陽葵も慌てて姿勢を正した。
「……はい」
授業が始まる。
それなのに。
胸の奥のむずむずだけは、少しも収まる気配を見せなかった。
授業開始から、およそ十分。
数学教師が黒板へ数式を書きながら説明を続けていた。
「この公式を使えば――」
しかし。
「…………」
陽葵は、まったく授業へ集中できていなかった。
視線は黒板へ向いている。
ノートも開いている。
けれど、文字は一文字も書き進められていない。
(……落ち着きません)
胸がそわそわする。
いや。
先ほどよりもずっと強い。
何かを探したい。
どこかへ行きたい。
そんな衝動が、どんどん膨らんでいく。
「猫宮?」
教師が声を掛ける。
「はい?」
「具合でも悪いのか?」
「い、いえ……」
答えようとして。
その瞬間だった。
ふわり。
「……!」
陽葵の鼻先が小さく震えた。
(この匂い……)
知っている。
忘れるはずがない。
前世でも。
今でも。
世界で一番安心できる匂い。
(ハルトさん……!)
廊下の向こうから、ごく微かに流れてくる。
本人しか気付けないほど微かな匂い。
けれど、獣人だった頃の本能は、それをはっきりと捉えていた。
(近い……)
胸が高鳴る。
(あちらにいらっしゃる)
行きたい。
会いたい。
今すぐ。
頭では駄目だと理解している。
授業中なのだから。
それでも。
「……っ」
身体が。
勝手に動いた。
ガタンッ!!
椅子が勢いよく後ろへ倒れる。
「猫宮!?」
教師が振り返る。
しかし陽葵は返事もしない。
教室の扉へ向かって一直線。
「はっ……ハルトさん……!」
がらっ!!
勢いよく扉を開けると、そのまま廊下へ飛び出した。
「あっ、猫宮さん!?」
「え!?」
「ちょ、ちょっと!」
教室中が騒然となる。
教師も慌てて飛び出した。
「猫宮ーー!! 戻りなさい!!」
だが。
陽葵は止まらない。
廊下へ出た瞬間、左右を見渡し、小さく鼻を動かす。
「くん……」
もう一度。
「くん、くん……」
まるで何かを探すように。
そして。
「……こっちです!」
ぱぁっと笑顔になる。
見つけた。
そう確信した瞬間。
陽葵は一直線に廊下を駆け出した。
「待ちなさい!!」
教師も全力疾走。
さらに教室から顔を出した生徒たちもざわつく。
「猫宮さん走ってる!?」
「何事!?」
「追い掛けろ!」
「面白そう!」
数人だった追跡集団は、あっという間に十人を超える。
廊下を駆け抜ける足音が学校中へ響き渡った。
ドドドドドドドッ!!
「何だ!?」
隣の教室の教師が扉を開ける。
「お、おい! 何があった!?」
「猫宮さんが逃げたらしい!」
「逃げた!?」
「追い掛けてる!」
「なんで!?」
「知らん!」
「とりあえず行こう!」
事情は誰も知らない。
だが。
人は走っている集団を見ると、つい追い掛けたくなるものである。
「お前ら授業は!?」
「先生も来てるから大丈夫!」
「いや全然大丈夫じゃない!」
そんなやり取りをしながら、生徒たちまで廊下へ飛び出していく。
さらに別の階。
「下が騒がしいぞ。」
「何か事件ですか?」
「分からん!」
教師が様子を見に廊下へ出る。
その目の前を。
「すみません!」
陽葵が猛スピードで駆け抜けた。
「えっ」
その数秒後。
「待てーーー!!」
「猫宮ーー!!」
「捕まえてーー!!」
「右だ右ーー!!」
大量の教師と生徒が雪崩のように通過する。
「…………」
取り残された教師は呆然と口を開けた。
「……何だ今の。」
その教室の生徒たちは顔を見合わせる。
「先生。」
「……うん。」
「行きます?」
「……行くか。」
「ですよね。」
結局、そのクラスまで全員参加。
青葉高校史上最大規模の追跡劇が始まってしまった。
その頃。
陽葵は階段を軽やかに飛び降りていた。
足取りは驚くほど軽い。
身体が自然と動く。
(近い……)
もうすぐ。
(もうすぐ会えます)
嬉しい。
胸が弾む。
思わず笑顔になってしまう。
「ハルトさん……」
鼻先がまた小さく動く。
「くん……」
匂いは、さらに濃くなっていた。
その後ろでは。
「止まれーー!!」
「猫宮さーーん!!」
「誰か前に回れーー!!」
教師も生徒も入り乱れた大集団が、校内を全力で駆け回っていた。
階段を駆け上がり。
廊下を曲がり。
陽葵は迷うことなく目的地へたどり着いた。
二年A組。
ハルトたちの教室。
(ここです!)
匂いはもう目の前。
安心する。
温かい。
胸いっぱいに広がる懐かしい感覚。
陽葵は勢いよく教室の扉を開いた。
ガラッ!!
「ハルトさん!!」
その一声に、教室中の視線が一斉に集まる。
「陽葵?」
ちょうど授業中だったハルトは、突然現れた陽葵へ目を丸くした。
その次の瞬間。
「っ!」
陽葵は一直線に駆け出す。
迷いは一切ない。
まるで飼い主を見つけた子猫のような勢いで。
「ハルトさんっ!」
ぽすんっ。
「おっと。」
ハルトの胸へ、そのまま飛び込んだ。
教室中が静まり返る。
「…………」
「…………」
「…………」
誰も言葉を失っていた。
だが。
飛び込まれた本人だけは違った。
「あー、なるほど。」
ハルトは苦笑しながら陽葵を支える。
「猫になってるのか。」
まるで見慣れた光景のような口調だった。
「えへへ……」
陽葵は安心したように胸へ頬を擦り寄せる。
その表情には、普段の落ち着いた配信者らしさはどこにもない。
完全に甘え切った子猫だった。
「今日は随分甘えん坊だな。」
ハルトは自然な動作で頭へ手を置く。
優しく。
ゆっくり。
さらさらと髪を撫でる。
「よしよし。」
「……ん」
陽葵の肩から、すっと力が抜ける。
気持ち良さそうに目を細め。
喉の奥から小さく。
「……にゃ」
誰にも聞こえないほど小さな声が漏れた。
「かわっ……!」
「今聞こえた!?」
「猫だ!」
「本当に猫だ!」
教室が一気にざわつく。
一方、廊下では。
「見えたか!?」
「前詰めるな!」
「押すな押すな!」
「先生! 見えません!」
「私も見えん!」
二年A組の教室へ入り切れなかった教師や生徒たちが、廊下いっぱいに集まっていた。
後ろの方では背伸びをする者。
窓からのぞこうとする者。
何が起きるのか固唾を飲んで見守る者。
気付けば、廊下はちょっとした観客席になっていた。
教室内では。
「……ハルト。」
結衣がぽつりと呟く。
「ん?」
「それ、何か心当たりあるの?」
「あるよ。」
あっさり答えるハルト。
「異世界の獣人って、たまに本能が強く出ることがあるんだ。」
「え。」
「疲れてたり、安心したりすると猫化する奴が結構いてさ。」
「結構いるの!?」
「珍しくないよ。」
「珍しいわ!!」
思わず全力で突っ込む結衣。
ハルトは陽葵の髪を撫で続けながら首を傾げた。
「ベネルディスも昔はたまにこうなってたし。」
「だから慣れてるの!?」
「うん。」
「うん、じゃなーい!」
結衣は額へ手を当てた。
「異世界って何なのもう……。」
しかし。
そんなことを言っている間にも。
「……ん」
陽葵はさらにぎゅっとハルトへ抱き付く。
完全に離れる気配がない。
「これは……」
結衣は腕を組んだ。
考える。
陽葵。
猫。
甘えている。
ハルト。
撫でる。
「……あ。」
ぴん、とひらめいた。
「猫だ。」
「だからさっきからそう言ってるけど。」
「違う違う。」
結衣は人差し指を立てる。
「猫として考えればいいんだ。」
「猫?」
「うん。」
小さい頃から近所の猫たちと遊び。
友達の家でも何度も猫の世話をした経験がある。
猫の行動なら、多少は分かる。
「だったら必要なのは……。」
結衣は教室を見回した。
「猫飼ってる人!」
「え?」
一人の男子生徒が手を挙げる。
「うち三匹いるけど?」
「お願い!」
結衣は勢いよく駆け寄った。
「猫じゃらしとか、またたびとか、おもちゃとか持ってない!?」
「あるけど……。」
「学校に!?」
「今日たまたま写真撮って見せようと思ってバッグに……あと猫じゃらしの新しいやつも帰りに買って帰る予定で。」
「助かった!」
結衣は両手を合わせた。
「貸して!」
「え、う、うん。」
男子生徒は事情も分からないまま、慌てて鞄を開け始める。
その様子を見ながら、廊下中の教師と生徒たちは同じことを思っていた。
(……何で学校で猫グッズが役に立つんだ?)
男子生徒から受け取った猫じゃらしを見て、結衣は小さくうなずいた。
「よし。」
その表情には、不思議な自信がある。
「任せて。」
「任せるって……。」
ハルトは腕の中の陽葵を見下ろく。
相変わらず安心しきった様子で胸へ頬を寄せ、撫でられるたびに気持ち良さそうに目を細めていた。
「……ん。」
完全に猫である。
「まずはハルト。」
「ん?」
「そのまま撫で続けて。」
「分かった。」
ハルトはいつも通りの手つきで陽葵の頭を優しく撫でる。
「よしよし。」
「……えへへ。」
陽葵の口元が緩む。
その隙を見て、結衣は猫じゃらしをそっと取り出した。
ふわふわした羽根が先端に付いた、ごく普通のおもちゃ。
「さて、と。」
左右へ。
ふり。
ふりふり。
陽葵の耳元――ではないが、その視界の端で小さく揺らす。
「…………」
反応なし。
「ん?」
結衣は少しだけ近付けた。
ふり。
ふり。
その瞬間。
ぴくっ。
陽葵の視線が羽根へ吸い寄せられた。
「……!」
今度はもう一度。
ふり。
ふりふり。
「…………」
じーっ。
陽葵は瞬きもせず見つめ始めた。
「よし。」
結衣は心の中でガッツポーズ。
さらに少しだけ動かす。
右。
左。
上。
下。
陽葵の視線も、それに合わせて動く。
右。
左。
上。
下。
「……ふふ。」
結衣の笑みが深くなる。
「やっぱり猫だ。」
そのまま猫じゃらしを少し離す。
すると。
「……!」
陽葵の身体がぴくりと反応した。
思わず手が伸びる。
ぱしっ。
「取った。」
本人は無意識なのだろう。
嬉しそうに羽根を両手で抱える。
「かわいい……。」
「反則だろ……。」
「尊い。」
教室中から小さな悲鳴が漏れる。
廊下でも。
「見えた!」
「猫じゃらし効いてる!」
「本当に猫じゃん!」
「すげぇ……。」
教師までもが食い入るように見つめていた。
結衣はさらに一歩踏み出す。
「ごめんねー。」
猫じゃらしを軽く引く。
「……!」
陽葵も追い掛ける。
「ほらほら。」
ふり。
ふり。
陽葵も一歩。
二歩。
三歩。
気付けば自然とハルトの腕の中から離れていた。
「あ。」
ハルトが苦笑する。
「成功だ。」
「まだまだ。」
結衣は猫じゃらしをくるりと回す。
陽葵もその場でくるり。
右へ。
左へ。
ぴたっ。
止まれば止まる。
動けば追い掛ける。
完全に遊ばれていた。
「……えへへ。」
本人はものすごく楽しそうである。
結衣は満足そうにうなずいた。
「次。」
今度は男子生徒から小さな袋を受け取る。
「これ?」
「猫用のおやつ。」
「あと、それ。」
「またたびクッキーです。」
「便利!」
結衣は袋を開けた。
ふわりと独特の香りが広がる。
陽葵の鼻が小さく震えた。
「……!」
結衣は一枚だけ取り出す。
「陽葵。」
返事はない。
「おいで。」
ことん。
掌へ乗せる。
陽葵はそろそろと近付き、小さく匂いを嗅いだ。
「…………」
ぱくっ。
「食べた!」
「食べたぞ!」
歓声が上がる。
陽葵は幸せそうに頬を緩め、小さくもぐもぐと食べ始めた。
「おいしいです……。」
「よしよし。」
結衣は今度は頭を撫でる。
すると陽葵は自然とその手へ額を擦り寄せた。
「……。」
「ふふ。」
結衣は優しく微笑む。
「いい子、いい子。」
そのまま首筋。
耳の後ろ。
顎の下。
猫が喜ぶ場所を思い出しながら、ゆっくり指先で撫でていく。
「……ん。」
陽葵は目を閉じた。
肩の力が抜ける。
呼吸も穏やかになる。
先ほどまでの落ち着かなさが、嘘のように消えていく。
やがて。
「……あれ?」
陽葵がゆっくり目を開けた。
きょろ。
きょろきょろ。
「……え?」
教室中が目に入る。
ハルト。
結衣。
クラスメイト。
そして。
廊下を埋め尽くす大量の教師と生徒。
「…………」
数秒の沈黙。
「……えぇぇぇぇぇっ!?」
陽葵は顔を真っ赤にして飛び上がった。
「な、ななな、何ですか、この人数は!?」
「落ち着いて、陽葵。」
結衣が肩へ手を置く。
「とりあえず正気には戻ったみたい。」
「わ、私は何を……。」
「そこから聞きたいの。」
結衣は椅子を一つ引き寄せた。
「さ、座って。」
陽葵はまだ真っ赤な顔のまま、おずおずと腰を下ろす。
ハルトも隣へ椅子を持ってきた。
「大丈夫?」
「……はい。」
まだ少し恥ずかしそうだったが、先ほどのような本能的な衝動は消えている。
それを確認してから、結衣は腕を組んだ。
「じゃあ事情聴取を始めます。」
教室中の視線が、一斉に陽葵へ集まった。
教室へ静けさが戻った頃。
陽葵はまだ少しだけ恥ずかしそうに俯いていた。
「……申し訳ありません。」
「いや、別に怒ってないけど。」
結衣は苦笑する。
「とりあえず聞かせて。」
「はい……。」
陽葵は深呼吸を一つしてから、ゆっくり話し始めた。
「昨日の夜、生配信のASMR部分だけ編集した音声を聞いていたんです。」
「うん。」
「聞いているうちに、とても幸せな気持ちになって……。」
そこまでは普通だった。
「その後から、無性にハルトさんへお会いしたくなりまして……。」
「それで今日も朝から?」
「はい。」
陽葵は小さく頷く。
「授業が始まってから、急に身体が落ち着かなくなって……。」
「それで飛び出した、と。」
「気が付いたら走っていました……。」
教室中が何とも言えない表情になる。
「本人も分かってなかったんだ。」
「完全に本能だったのか……。」
そんな声が漏れる中。
結衣だけは腕を組んだまま考え込んでいた。
「……待って。」
ぽつりと呟く。
「ん?」
「昨日のASMR。」
「うん。」
「それを聞いてからおかしくなったんだよね?」
「はい。」
「…………」
結衣は眉をひそめる。
嫌な予感がした。
とても嫌な予感。
頭の中で、一つの可能性が浮かぶ。
「……まさか。」
そして思い出す。
昨日の生配信。
コメント欄。
"疲れが吹き飛んだ"
"身体が軽い"
そんなコメントが妙に多かった気がする。
その時は、ASMRでリラックスしただけだと思っていた。
だが。
「いやいや……。」
自分で首を振る。
「そんなわけない。」
動画を見ただけで何か起きるなんて。
そんなオカルトみたいな話。
「……でも。」
念のため。
本当に念のため。
結衣はスマートフォンを取り出した。
「検索だけ……。」
SNSを開く。
動画サイト。
掲示板。
検索欄へ昨日の配信タイトルを入力する。
そして。
「…………え?」
スクロールする指が止まった。
『昨日の配信見たら肩こり消えたんだけど。』
『徹夜明けだったのに疲れが全部飛んだ。』
『捻挫してた足が普通に歩ける。』
『腰痛なくなった。』
『風邪っぽかったの治った。』
『ASMR部分を寝る前に流したら朝まで熟睡した。』
『昨日のライブ見た祖母が元気になってる。』
『病院行こうと思ってた頭痛が消えた。』
『アーカイブでも効果あったぞ。』
『ライブほどじゃないけど、体が軽くなる。』
『何これ。』
『マジで意味分からん。』
『宗教じゃないぞこれ。』
『医学的に説明できる?』
『誰か検証しろ。』
『これ世界的ニュースになるぞ。』
「…………。」
結衣の顔から血の気が引いた。
「ハルト。」
「ん?」
「これ見て。」
「お。」
ハルトはスマホを受け取る。
「へぇ。」
「へぇ、じゃない!」
結衣は珍しく声を荒げた。
「これ全部昨日の配信の話!」
「ほんとだ。」
「ほんとだ、じゃないって!」
陽葵も画面を覗き込む。
「こんなに……。」
しかも。
投稿は一つや二つではない。
数百。
数千。
今もなお増え続けている。
結衣は額へ手を当てた。
「お願いだから……。」
嫌な予感が外れてほしい。
「ハルト。」
「ん?」
「アーカイブ見て。」
「アーカイブ?」
「魔力とか残ってないよね?」
「え?」
「お願い。」
教室中が静まり返る。
ハルトだけがスマートフォンを受け取り、自分の配信を再生した。
画面を見る。
少しだけ首を傾げる。
「んー。」
「ど、どう?」
「何かある?」
ハルトは数秒ほど画面を見つめ。
そして。
「あ。」
「あ?」
「これ、魔力残ってるな。」
「…………。」
一同の思考が止まった。
「残ってる。」
あまりにも軽い口調だった。
「え?」
結衣が引きつる。
「残ってるって……。」
「うん。」
「あるの!?」
「ある。」
「何でそんな普通に言えるの!?」
「いや、ほら。」
ハルトは画面を指差す。
「ここ。」
「私には何も見えない!」
「あ、そっか。」
ハルトだけだった。
魔力を知覚できるのは。
「ASMRの時に無意識で流した魔力が、そのまま録画に定着してる。」
「定着するの!?」
「たまにある。」
「たまにあるんだ……。」
結衣は頭を抱えた。
「早く!」
「ん?」
「早く抜いて!」
「あー、はいはい。」
ハルトはスマートフォンへ軽く手をかざす。
まるで静電気でも払うような気軽さで。
「よっと。」
ふわり。
誰にも見えない光が画面から吸い上げられる。
「終わり。」
「……終わった?」
「うん。」
「今度は?」
「もう空っぽ。」
結衣はその場へへたり込みそうになった。
「よかったぁ……。」
教室中からも安堵の空気が流れる。
「これで一安心かな。」
「危なかった……。」
「動画で奇跡なんて洒落にならないし。」
誰もが胸を撫で下ろした。
しかし。
その時だった。
陽葵がスマートフォンを見つめたまま、小さく呟く。
「……でも。」
「ん?」
「もう見てしまった方々は……。」
「!」
結衣の動きが止まる。
画面には今も増え続ける投稿。
『あれ?』
『さっきまで効いてたのに。』
『ASMRが普通になった?』
『気のせい?』
『もう一回あの感じにならない。』
『え?』
『何か変わった?』
『俺だけ?』
『さっきまで本当に効いてたのに。』
結衣の背筋へ冷たいものが走った。
「……まずい。」
その呟きは。
誰に向けたものでもなかった。
ただ一つだけ。
確かなことがある。
一度"奇跡"を知ってしまった人々が、それを失ったと気付いた時。
その反応が、穏やかに終わるとは到底思えなかった。
教室の窓から吹き込む風が、静かにカーテンを揺らす。
その穏やかな景色とは裏腹に。
ネットの向こう側では、新たな騒動の火種が、音もなく燃え広がり始めていた。




