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『承認欲求強めの最強勇者、魔法動画でバズって前世のヒロインたちを召喚してしまう~今世の幼馴染が管理しきれないほど愛が重すぎる~』  作者: 悪癖


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第46話 眠りの先にあった奇跡

 終電がなくなった街は静かだった。


 それでも、オフィス街の一角だけは白い光を漏らし続けている。


 時計の針は、とっくに日付をまたいでいた。


「……すみません、すぐ対応します」


 佐藤健二、三十五歳。


 都内の中堅企業で営業をしている、ごく普通の会社員だった。


 本来なら午後六時には帰宅しているはずだった。


 だが現実は違う。


「佐藤! お前、何回同じミスするんだ!」


 怒鳴り声がフロア中へ響く。


 部長が書類を机へ叩き付けた。


「申し訳ありません」


「謝れば済む話じゃないんだよ! 客が怒ってるんだ! 今すぐ電話しろ!」


「はい……」


 頭を下げる。


 下げ続ける。


 反論なんて、もう何年もしていない。


 電話を掛ける。


『だから何度言わせるんですか!』


 受話器の向こうから怒声が飛んでくる。


『責任者を出してください!』


「申し訳ございません」


『謝るだけなら誰でもできますよね!?』


「……申し訳ございません」


 頭を下げる。


 電話相手には見えないと分かっていても、自然と頭が下がる。


 十分。


 二十分。


 三十分。


 ようやく電話が終わった頃には、肩が石のように重くなっていた。


「おい」


 振り返る。


 また部長だった。


「終わったなら次だ。明日の資料、全部作り直せ」


「……はい」


「今日は徹夜するつもりでやれ」


「はい」


 それしか言えなかった。


 気付けば、昼食も夕食も食べていない。


 腹は空いているはずなのに、何も食べたいとは思えなかった。


 心も身体も、何も感じなくなっていた。


 最近は朝が来るたびに思う。


 会社へ行きたくない。


 でも休めない。


 休めば迷惑を掛ける。


 迷惑を掛ければ、また怒鳴られる。


 その繰り返しだった。


 病院へ行ったこともある。


 医師には「かなり疲れていますね」と言われた。


 休養を勧められた。


 だが、そんなことができる会社ではなかった。


 有給を申請した同僚は翌月には地方支店へ飛ばされ、半年後に退職した。


 その姿を見ていたからこそ、自分には休むという選択肢が存在しなかった。


「……帰るか」


 会社を出た頃には午前一時を回っていた。


 駅前のコンビニで適当に弁当を買う。


 味なんて分からない。


 腹へ詰め込むだけ。


 帰宅したのは一時半過ぎだった。


 築三十年のワンルーム。


 誰もいない部屋。


 ネクタイだけ外し、そのままソファへ倒れ込む。


「はぁ……」


 大きく息を吐く。


 そのまま目を閉じたくなる。


 だが、それだけはしなかった。


 疲れ切った毎日にも、一つだけ楽しみがある。


 スマートフォンを手に取り、動画アプリを開く。


 登録チャンネル一覧の一番上。


『ベネルディス』


 穏やかな笑顔の少女のサムネイルが表示される。


 数年前、偶然おすすめへ流れてきた配信だった。


 優しい声。


 落ち着く話し方。


 誰か一人へ語り掛けるような距離感。


 それ以来、毎日のように配信を聞くようになっていた。


 眠れない夜。


 仕事で怒鳴られた夜。


 何もかも投げ出したくなった夜。


 彼女の声だけは、不思議と心を落ち着かせてくれた。


「今日も……やってるか」


 画面を見る。


 すでに配信は終了していた。


「ああ……間に合わなかったか」


 少しだけ肩を落とす。


 最近は残業が増え、生配信へ間に合わない日も多い。


 それでもアーカイブが残っているだけありがたい。


 再生ボタンへ指を伸ばしかけた、その時だった。


「あれ?」


 タイトルの横に見慣れない名前が表示されている。


『【初コラボASMR】炎の勇者チャンネル・ハルトさんと一緒に』


「コラボ?」


 少し意外だった。


 ベネルディスは他人との配信が少ない。


 それだけに珍しい。


 炎の勇者チャンネルという名前には聞き覚えがあった。


 動画サイトで時々おすすめへ出てくる、魔法のようなCG動画を投稿している人気チャンネルだ。


 正直、自分は動画を見る余裕などなかった。


 だが登録だけはしてある。


 会社の昼休みに流れてきた動画を一本だけ見たことがあり、その完成度に驚いて「すごいクリエイターだな」と思って、そのままチャンネル登録だけしていたのだ。


「そうか……あの人か」


 少し興味が湧く。


 珍しい組み合わせだった。


「今日は……これを聞きながら寝るか」


 イヤホンを耳へ付ける。


 部屋の電気は消したまま。


 ソファへ身体を沈める。


 画面の中では、穏やかな笑みを浮かべたベネルディスが視聴者へ向かって頭を下げていた。


 その隣には、少しだけ緊張した様子の高校生くらいの少年――ハルトが座っている。


 佐藤はスマートフォンを胸の上へ置いた。


 疲れ切った身体を預けながら、静かに配信へ耳を傾け始めた。


 配信が始まる。


 ベネルディスはいつも通り穏やかな笑顔で視聴者へ語り掛けていた。


『今日も来てくださってありがとうございます』


 その一言だけで、張り詰めていた肩から力が抜ける。


「……やっぱり、この人の声は落ち着くな」


 自然と頬が緩む。


 コメント欄もいつも以上に盛り上がっていた。


『コラボ楽しみ!』


『炎の勇者チャンネルから来ました!』


『初見です!』


 普段とは違う空気だったが、不思議と居心地は悪くない。


 隣に座るハルトという少年も、思っていたより親しみやすかった。


 質問に答えるたびにコメント欄が笑いで流れていく。


「設定を貫くタイプなんだな」


 魔法が使える。


 昔は勇者だった。


 魔王を倒した。


 どれも本気で話しているように見える。


「こういう世界観で活動してる人なんだろうな」


 それくらいの認識だった。


 やがて雑談が終わり、本番のASMRが始まる。


「おっ、待ってました」


 イヤホンを付け直す。


 ベネルディスの囁きは今日も優しかった。


 心へ直接触れてくるような柔らかい声。


 仕事で荒れ切った心が少しずつほどけていく。


「これこれ……」


 自然と目を閉じそうになる。


 その後、交代するようにハルトがマイクの前へ座った。


「男のASMRかぁ……」


 少しだけ苦笑する。


「まあ、一応聞いてみるか」


 正直、そこまで期待はしていなかった。


 男性配信者のASMRを聞いたことは何度かあるが、自分にはあまり合わなかったからだ。


 しかし。


『こんばんは』


 その一言で、意識が止まった。


 優しい。


 落ち着く。


 それだけでは説明できない何かがあった。


『今日は来てくれてありがとう』


『学校だった人も』


『仕事だった人も』


『お疲れさま』


 その言葉を聞いた瞬間。


 胸の奥で何かがほどけた。


「……あ」


 仕事だった人も、お疲れさま。


 ただ、それだけ。


 それだけなのに。


 今日は誰からも掛けられなかった言葉だった。


 上司には怒鳴られた。


 客には責められた。


 誰一人として労ってくれる人はいなかった。


 だからこそ、その一言が胸へ深く染み込む。


『もう今日は頑張らなくていい』


『安心して』


『大丈夫だから』


「……はは」


 思わず笑みが漏れる。


「男なのに……すごい声だな」


 ぼんやりとそんなことを考えた。


 瞼が重い。


 身体が温かい。


 まるで布団へ包まれているような安心感だった。


 そのまま、佐藤の意識は静かに眠りへ沈んでいった。


 スマートフォンには、配信が流れ続けている。


 その穏やかな声が、部屋の静寂へ溶け込んでいった。




 翌朝。


「……ん」


 目が覚める。


 窓から差し込む朝日が眩しかった。


「朝……か」


 時計を見る。


 七時十分。


「やばっ!」


 飛び起きようとして――思わず動きが止まる。


「……あれ?」


 身体が軽い。


 驚くほど軽い。


 肩が痛くない。


 首も回る。


 腰も重くない。


 毎朝感じていた鉛のような疲労感が、どこにもなかった。


「え?」


 立ち上がる。


 ふらつかない。


 階段を駆け下りても息が切れない。


 鏡を見る。


「……顔色、良くないか?」


 目の下にあった濃い隈も、ほとんど目立たなくなっていた。


 昨夜まで、今にも倒れそうだった身体とは思えない。


「昨日……何かしたっけ」


 酒は飲んでいない。


 栄養ドリンクも飲んでいない。


 高い薬も使っていない。


 思い当たることは一つしかなかった。


「……配信、かな」


 昨夜のASMRを思い出す。


 あれだけ安心して眠れたのは、いつ以来だろう。


「ぐっすり寝たから疲れが取れたのか」


 そう結論付ける。


 医学では説明できないほど劇的な回復だった。


 何年も積み重なっていた心身の疲弊が、一晩で消えるなど本来あり得ない。


 だが佐藤は、そんな発想には至らない。


「いやあ、いい配信だったな」


 穏やかに笑う。


 それだけだった。


 奇跡は起きた。


 だが、当人だけは奇跡だと気付かなかった。



――――――



 放課後の陸上競技場。


「ラスト一本!」


 顧問の声がグラウンドへ響く。


「はい!」


 勢いよく返事をしたのは、高校二年生の陸上部員・高橋翔太だった。


 専門は四百メートル走。


 全国大会出場を目標に、毎日誰よりも練習へ打ち込んでいる。


 汗で濡れた前髪をかき上げ、スタートラインへ立つ。


 部内でもトップクラスの実力。


 あと少しタイムを縮めれば、全国への切符が見えてくる。


「絶対に行く……!」


 スタート。


 地面を力強く蹴る。


 腕を振る。


 足を前へ。


 呼吸を合わせる。


 風を切る感覚が心地良い。


 苦しい。


 だが、その苦しささえ翔太は好きだった。


 積み重ねた努力は裏切らない。


 そう信じて、毎日走り続けてきた。


 カーブへ差しかかった、その瞬間だった。


「っ!?」


 足裏へ違和感が走る。


 踏み込んだ地面が、ほんのわずかに沈んだ。


 体勢が崩れる。


 次の一歩を無理に踏み出した。


 その瞬間。


 ――ゴキッ。


 嫌な音が、自分の身体の内側から聞こえた。


「がぁっ!!」


 激痛。


 右足へ焼けるような痛みが走る。


 身体を支え切れず、そのままトラックへ倒れ込んだ。


「高橋!」


「大丈夫か!?」


 部員たちが駆け寄る。


 翔太は右足を押さえたまま歯を食いしばる。


 動けない。


 立ち上がろうとしても、足へ力が入らなかった。


 その場にいた誰もが悟っていた。


 これは、ただの捻挫ではない。


 骨が折れている。



 診断結果は残酷だった。


「右脛骨骨折です」


 整形外科の医師はレントゲン写真を見ながら静かに告げた。


「全治二か月ほどですね。しばらくはギプスで固定します」


「……二か月」


 翔太の口から、力なく言葉が漏れる。


「全国大会予選は……」


 医師は一瞬だけ言葉を選び、ゆっくり首を横へ振った。


「無理をすれば治りが遅くなります。まずは怪我を治すことを考えましょう」


 その一言で、翔太の世界は止まった。


 全国大会。


 毎朝の自主練。


 放課後の走り込み。


 休日返上のトレーニング。


 積み重ねてきたものが、一瞬で遠ざかっていく。


 病院を出ても、頭の中は真っ白だった。




 夜。


 自室のベッドへ腰を下ろす。


 右足には白いギプスが巻かれ、少し動かすだけでも鈍い痛みが走る。


「はぁ……」


 自然とため息が漏れた。


 机の上には全国大会のパンフレット。


 壁には歴代大会の写真。


 その中央には、自分で書いた目標が貼ってある。


『全国出場』


 何度見ても、今日は胸が痛かった。


「もう……今年は終わりか」


 誰に聞かせるでもなく呟く。


 スマートフォンを手に取る。


 こういう日でも、寝る前の習慣だけは変わらない。


 動画アプリを開き、一番最初に押そうとしたのは『炎の勇者チャンネル』だった。


 翔太は動画投稿を始めた頃からの視聴者だ。


 魔法みたいな映像。


 現実ではあり得ない企画。


 何より、ハルト本人がいつも楽しそうだった。


 落ち込んでいる時ほど、その姿を見ると少しだけ元気になれた。


「あ……そういえば」


 指が止まる。


「今日は生配信するって言ってたっけ」


 昼間、部室のグループチャットでも話題になっていた。


『今日はベネルディスって人とコラボらしいぞ』


 そんなメッセージを思い出す。


「せっかくだし、そっち見るか」


 検索欄へ『ベネルディス』と入力する。


 すでに配信は終わっていたが、アーカイブが残っていた。


 再生ボタンを押す。


『皆さん、こんばんは』


 画面いっぱいに映るベネルディスが優しく微笑む。


「この人、めちゃくちゃ落ち着く声だな」


 人気なのも納得だった。


 コメント欄には炎の勇者チャンネルのリスナーも多く、いつも以上の盛り上がりを見せている。


 やがて画面へハルトが映る。


「こんばんは!」


 いつも通りの明るい笑顔。


 怪我なんてしたことがないような、真っ直ぐな表情だった。


 質問コーナーでも笑いながら答え、コメント欄を盛り上げている。


「……やっぱりハルトさん、すごいな」


 自然と笑みが浮かぶ。


 どんな企画でも全力。


 どんな時でも前向き。


 画面越しに見ているだけなのに、不思議と元気を分けてもらえる。


「俺も……落ち込んでばかりじゃ駄目だよな」


 まだ終わったわけじゃない。


 今年が駄目でも、来年がある。


 怪我を治して、また走ればいい。


 そう思えた。


 ――だが。


 ふと視線が右足へ落ちる。


 白いギプス。


 膝から足首まで巻かれた固定具。


 その現実だけは変わらない。


「……でも」


 翔太は力なく笑う。


「こればっかりは、気合いじゃどうにもならないよな」


 走れない。


 練習もできない。


 仲間がタイムを縮めていく間、自分だけが立ち止まる。


 その事実が胸を締め付けた。


 配信はそのまま進み、やがて本題のASMRが始まる。


 最初はベネルディス。


 柔らかく包み込むような囁きが耳へ届く。


 自然と呼吸が落ち着いていく。


「これ……眠くなるな」


 思わず笑う。


 続いてハルトがマイクの前へ座った。


『こんばんは』


 その声が聞こえた瞬間だった。


「……え?」


 耳だけではない。


 胸の奥。


 もっと深い場所へ、その声が静かに染み込んでくる。


『今日は来てくれてありがとう』


『焦らなくていい』


『ゆっくり休もう』


 一言一言が、不思議なほど身体へ響く。


 まるで優しく背中を押されているようだった。


 そして。


「あれ……?」


 右足が、ほんのり温かい。


 ギプスの中。


 折れたはずの場所が、じんわりと熱を帯びている。


「血行……良くなったのかな」


 そう思った。


 痛みはある。


 だが、不快な熱ではない。


 春の日差しを浴びているような、穏やかな温もりだった。


 心地良い。


 安心する。


 瞼がゆっくり閉じていく。


『もう今日は頑張らなくていい』


『安心して』


『大丈夫だから』


「……はい」


 誰に返事をしたのか、自分でも分からなかった。


 スマートフォンを握ったまま、翔太は静かに眠りへ落ちていく。


 その右足を、誰にも気付かれない小さな光が、優しく包み込んでいた。




 翌朝。


「ん……」


 翔太はゆっくりと目を開けた。


 いつものように寝返りを打とうとして――違和感を覚える。


「あれ?」


 右足が痛くない。


 昨日は少し動かすだけでも顔をしかめるほど痛んだはずだ。


 それなのに今は、痛みどころか鈍い違和感すらない。


「そんなわけ……」


 半信半疑でギプス越しに足へ触れる。


 痛くない。


 指先を動かしてみる。


 問題なく動く。


 恐る恐る立ち上がる。


「え?」


 普通に立てた。


 右足へ体重を掛けても、まったく痛みが走らない。


「いや、いやいや……」


 昨日、医師は確かに言っていた。


 全治二か月。


 絶対安静。


 今日から歩くことすら難しいはずだった。


「……病院、行こう」


 何かがおかしい。


 自分の思い違いなのか、それとも昨日の診断が違っていたのか。


 翔太はそのまま病院へ向かった。



「もう一度レントゲンを撮りましょう」


 医師は昨日と同じように診察室へ翔太を案内した。


 ほどなくして新しいレントゲン写真が映し出される。


「…………」


 医師が黙った。


 画面を見つめたまま動かない。


 隣にいた看護師も首をかしげている。


「先生……?」


「あ、ああ」


 医師は慌てて昨日の画像を呼び出した。


 昨日の写真。


 今日の写真。


 二枚を何度も見比べる。


「そんな……」


 思わず口から漏れた声は、医師自身も驚いているようだった。


「昨日は、確かに骨折していました」


 翔太も画面を見る。


 昨日の写真には、素人でも分かるほどはっきりと骨へ亀裂が入っている。


 だが今日の写真には、その傷がどこにも存在しなかった。


 まるで最初から何もなかったかのように。


「痛みは?」


「ありません」


「腫れは?」


「ほとんど……」


「少し歩いてみてください」


 翔太は診察室をゆっくり歩く。


 一歩。


 二歩。


 三歩。


 そして軽く足踏みまでしてみせた。


「本当に痛くありません」


「……信じられない」


 医師は腕を組み、何度も首をひねる。


「こんな治り方は見たことがありません。普通なら骨がくっつくまで何週間も掛かるはずなんですが……」


 もう一度レントゲンを確認する。


 やはり異常は見当たらない。


「医学的には説明できませんが……」


 医師は苦笑いを浮かべた。


「少なくとも今の検査では完治しています」


「完治……ですか?」


「はい。運動も問題ありません。ただ、昨日まで骨折していたことだけは事実です。不思議ですが、本当に治っています」


 診察室には奇妙な沈黙が流れた。


 翔太自身も状況を理解できない。


 だが。


「治ったなら……いいか」


 考えても答えは出ない。


 医師にも分からないなら、自分に分かるはずがない。


 翔太は笑顔で頭を下げた。


「ありがとうございました!」



 午後。


「高橋!?」


 陸上部のグラウンドへ現れた翔太を見て、部員たちが一斉に目を丸くする。


「お前、病院じゃなかったのか!」


「治った!」


「はぁ?」


「先生にも完治って言われた!」


「そんなことあるか!?」


 顧問まで駆け寄ってきた。


「レントゲンも見せてもらいました。本当に骨折は治っています」


「……意味が分からん」


 顧問は頭を抱える。


「まあ、治ったなら良し!」


 翔太は笑いながらストレッチを始めた。


「今年の大会、まだ間に合う!」


 昨日まで絶望していたとは思えない笑顔だった。


 深く考える性格ではない。


 奇跡よりも、また走れることの方が何倍も嬉しい。


「よし!」


 シューズのひもを結び直す。


「今日からまた頑張るぞ!」


 誰も説明できない奇跡は、こうして一人の高校生の日常へ静かに溶け込んでいった。



――――――



 消毒液の匂いが漂う病室。


 窓から差し込む昼の光だけが、静かな部屋を優しく照らしている。


 ベッドの上へ横たわる、一人の少女がいた。


 小学三年生。


 名前は、結城美咲。


 九歳。


 つい数日前。


 担当医から、余命三か月という現実を告げられたばかりだった。


 難しい病名までは理解していない。


 ただ、お父さんとお母さんが泣いていたことだけは覚えている。


 最近は起き上がることすら辛い日が増えた。


 学校へも行けない。


 友達とも遊べない。


 ベッドの上で天井を眺める時間が、一日のほとんどを占めていた。


 だから最近の楽しみは一つだけ。


 スマートフォンで配信や動画を見ること。


 特別に好きな配信者がいるわけではない。


 おすすめへ流れてきたものを眺めたり、人気配信を開いたり。


 画面の向こうで誰かが楽しそうに笑っているだけで、自分も少しだけ笑顔になれた。


 今日も小さな指で画面をゆっくりと操作する。


「今日は……なに見ようかな」


 おすすめ一覧には、いくつもの配信アーカイブが並んでいた。


 病室は今日も静かだった。


 窓の外では子どもたちの笑い声が聞こえる。


 それを聞くたびに、美咲は少しだけ寂しくなる。


「……いいなあ」


 学校へ行きたい。


 友達と遊びたい。


 ランドセルを背負って歩きたい。


 そんな当たり前の願いも、もう叶わないのだと大人たちは思っている。


 美咲も、なんとなく分かっていた。


 余命三か月。


 その言葉の意味を全部理解しているわけではない。


 でも、お父さんも、お母さんも、お医者さんも、みんな悲しい顔をしていた。


 だからきっと、自分はもうすぐ死ぬのだ。


「……まあ、いいや」


 泣く元気も残っていない。


 最近は嬉しいことも、悲しいことも、少し遠く感じる。


 スマートフォンを胸の上へ置く。


 おすすめ欄へ流れてきた配信を何となく開く。


『【初コラボASMR】炎の勇者チャンネル・ハルトさんと一緒に』


「……これにしよ」


 深い理由はなかった。


 ただ、一番上へ表示されていた。


 それだけだった。


 配信が始まる。


 ベネルディスが優しく笑う。


「お姉ちゃん、きれい……」


 ふわりと笑顔になる。


 病院では見かけないような、柔らかい空気をまとった人だった。


 しばらく雑談を聞いていると、隣に座る少年が元気よく手を振る。


『こんばんはー!』


「元気な人だ」


 自然と笑みが浮かぶ。


 コメント欄も楽しそうだった。


 皆が笑っている。


 それだけで少しだけ嬉しかった。


 配信を眺めながら、美咲はぼんやりと思う。


「わたしも……もっと元気だったらなぁ」


 走ったり。


 遊んだり。


 学校へ行ったり。


 そんな毎日は、もう来ないのかもしれない。


 でも不思議だった。


 画面の中のハルトを見ていると、その暗い気持ちが少しだけ軽くなる。


 まるで「大丈夫」と言われているような気がした。


 やがてASMRが始まる。


 ベネルディスの優しい声が病室へ流れる。


 美咲は布団へ身体を沈めた。


 毎日の習慣だった。


 配信を流したまま眠る。


 それだけ。


 続いてハルトの声が聞こえてくる。


『こんばんは』


 その一言だけで、身体の力が抜けた。


『今日は来てくれてありがとう』


『いっぱい頑張ったね』


『今日は安心して眠っていいから』


「……うん」


 思わず返事をする。


 まるで目の前で話し掛けられているようだった。


『また明日』


『元気になろう』


 その言葉を最後に、美咲の意識はゆっくりと沈んでいく。


 画面の中では配信が続いている。


 病室には穏やかな声だけが静かに流れていた。


 


 翌朝。


「……あれ?」


 目を覚ました美咲は、最初に違和感を覚えた。


 身体が軽い。


 呼吸が苦しくない。


 胸も痛まない。


 腕を持ち上げる。


 昨日まであれほど重かった腕が、嘘みたいに軽かった。


「おかあさん」


 思わず声を上げる。


「どうしたの、美咲!」


 母親が駆け寄ってきた。


「なんか……元気」


 その一言で、母親は固まった。


 昨日まで青白かった顔に血色が戻っている。


 呼吸も安定している。


 何より、その瞳には久しく見なかった力が宿っていた。


 すぐに担当医が呼ばれた。


「念のため検査をしましょう」


 血液検査。


 CT。


 MRI。


 腫瘍マーカー。


 考えられる検査を何度も繰り返した。


 一日。


 二日。


 三日。


 医師たちは検査結果を前に何度も首をかしげた。


「……信じられない」


 担当医が静かに呟く。


「腫瘍がありません」


 病室に沈黙が流れた。


「そんな……」


 母親が震える。


「昨日まで確かに存在していた腫瘍が、すべて消失しています」


 別の医師も資料を見直す。


「検査機器の故障ではありません」


「データの取り違えもありません」


「血液検査も正常です」


 誰も説明できなかった。


 医学的にはあり得ない。


 奇跡としか言いようがない現象だった。


「完治です」


 担当医は静かに告げる。


「もう退院できます」


 その言葉を聞いた瞬間。


 母親は美咲を強く抱きしめた。


「よかった……本当によかった……!」


 父親も涙をこらえ切れなかった。


 美咲自身も何が起きたのか分からない。


 でも。


「おうち……帰れるんだ」


 その事実だけで十分だった。



 数日後。


 退院した美咲は、自宅で何度も同じ配信を見返していた。


「なんで治ったんだろう」


 不思議だった。


 薬ではない。


 手術でもない。


 何かきっかけがあったはずだ。


 思い返す。


 最後に見たもの。


 最後に聞いたもの。


 そして気付く。


「あ……」


 あの日。


 眠る前に見ていた配信。


 ベネルディスとのコラボ配信だった。


 さらに動画サイトを調べていくと、不思議なことに気付く。


 同じ配信を見たあと、「身体の調子が良くなった」という感想が少しずつ投稿され始めていた。


 もちろん、誰も病気が治ったとは言っていない。


 疲れが取れた。


 よく眠れた。


 肩こりが軽くなった。


 その程度の感想ばかりだった。


 けれど美咲には、それで十分だった。


「この人……」


 画面の中で笑うハルトを見る。


 あの声。


 あの「大丈夫」という言葉。


 あの安心感。


 全部思い出した。


「ハルトお兄ちゃんが……助けてくれたんだ」


 その瞳がきらきらと輝く。


 九歳の少女にとって、答えはもう一つしかなかった。


「神様だ……」


 画面の前で両手をぎゅっと握る。


「ハルトお兄ちゃんは、本当に神様だったんだ」


 こうしてまた一人。


 本人だけが何も知らないまま、最強の勇者を本物の神として信仰する者が、この世界へ静かに生まれたのだった。


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