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『承認欲求強めの最強勇者、魔法動画でバズって前世のヒロインたちを召喚してしまう~今世の幼馴染が管理しきれないほど愛が重すぎる~』  作者: 悪癖


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第45話 初めての生配信と聖女のルーティーン

 配信開始まで、あと十分。


 人気配信者『ベネルディス』の配信部屋は、普段と変わらない静けさに包まれていた。


 部屋の中央には配信用の机。


 高性能カメラ。


 照明。


 モニター。


 そして、机の上には一本のコンデンサーマイクが置かれている。


 しかし今日だけは、いつもの配信とは一つだけ違うことがあった。


「それでは……始めますね」


 猫宮陽葵は、小さく頭を下げると、机の端へ透明なガラスの器を置いた。


 中には澄んだ水が入っている。


 その光景を見たハルトは不思議そうに首をかしげた。


「それ、何するんだ?」


「配信前のルーティーンです」


「ルーティーン?」


「はい。ずっと昔から続けている、大切な習慣なんです」


 陽葵は柔らかく微笑みながら答える。


 その笑みは、普段の配信者『ベネルディス』のものではない。


 もっと自然で、どこか懐かしい笑顔だった。


「昔って、配信始める前から?」


「はい。配信者になる前……もっとずっと前からです」


 そう答えながら、陽葵は両手を胸の前で重ねる。


 静かに目を閉じた。


 その姿は、まるで祈りを捧げる修道女そのものだった。


(教国では……)


 陽葵の意識は自然と前世へ向かう。


 教国で聖女として生きていた頃。


 奇跡を行う前には必ず身を清めていた。


 祝福した水で祭壇を洗い。


 神具を磨き。


 自らの心も静める。


 それは神へ敬意を示すためであり、人々へ届ける祈りを少しでも清らかなものにするための儀式だった。


 現代へ転生した今でも、その習慣だけは変わらない。


 誰かに命じられたわけではない。


 誰かに見せるためでもない。


 ただ、自分がそうしたいから続けている。


「皆さんが今日も穏やかな時間を過ごせますように」


 穏やかな声が部屋へ溶ける。


 次の瞬間。


 器の中の水が、ほんの一瞬だけ淡い金色に輝いた。


 それは一瞬にも満たない光。


 気付ける者など、この世界にはいない。


 ……ハルトを除いて。


「おっ、祝福の奇跡か!」


 ハルトは懐かしそうに笑った。


「久しぶりに見たな。やっぱり陽葵の祝福はきれいだよな」


「ありがとうございます」


 陽葵は嬉しそうに微笑む。


 自分の奇跡を褒められたことよりも、ハルトが覚えていてくれたことが何より嬉しかった。


「でも、配信で使うんだろ? 何を祝福してるんだ?」


「このマイクです」


「マイク?」


「はい」


 陽葵は祝福した水を柔らかい布へ少しだけ含ませる。


 そして机の中央に置かれたマイクを、まるで宝物を扱うように丁寧に磨き始めた。


 一本一本、優しく。


 傷一つ付けないように。


「配信では、このマイクが皆さんへ私の声を届けてくれます」


「そうだな」


「だから、いつも感謝を込めて清めているんです」


 陽葵は本心からそう言った。


 前世では聖杯も祭具も、神へ祈りを届けるための道具だった。


 現代では違う。


 このマイクが、自分の声を世界中へ届けてくれる。


 ならば陽葵にとって、それは十分に神聖な道具だった。


「なるほどなぁ」


 ハルトは感心したように腕を組む。


「物を大事にするっていいことだよな。長持ちもしそうだし」


「えへへ……そうですね」


 もちろん理由は少し違う。


 だが、ハルトらしい答えだと陽葵は嬉しくなった。


 もし今日も誰か一人でも笑顔になれるなら。


 もし疲れた誰かが少しでも癒やされるなら。


 その願いを込めて、今日もマイクを清める。


 それだけだった。


 やがて手入れを終えたマイクは、新品以上に美しく見えた。


「よし、俺も準備しようかな」


 ハルトは椅子へ腰掛ける。


 今日は炎の勇者チャンネルではない。


 ベネルディスチャンネルへのゲスト出演。


 人生初めての生配信である。


「ちょっと緊張するな」


「ハルトさんでも緊張されるんですね」


「動画は撮り直しできるけど、生配信はそうじゃないだろ?」


「確かにそうですね」


「コメントもリアルタイムなんだよな?」


「はい。皆さんとその場でお話しできます」


「面白そう!」


 さっきまでの緊張はどこへやら。


 ハルトの目が一気に輝いた。


「視聴者と直接しゃべれるのか! それ楽しみだな!」


 その切り替えの早さに陽葵は小さく笑う。


「ふふっ。きっと皆さんも喜ばれます」


「何聞かれるんだろうなぁ」


「雑談もたくさんしましょう」


「よし!」


 ハルトはぐっと拳を握る。


「今日はいっぱいしゃべるぞ!」


 その様子を、部屋の外から結衣たちがモニター越しに見守っていた。


「ハルトって緊張してるって言った三秒後には楽しそうにしてるよね……」


 結衣が苦笑する。


「勇者様らしいですね」


 聖奈も微笑む。


「主は本番に強いお方です」


「配信事故だけは起こさないでほしいけど」


 摩夜だけは少しだけ不安そうだった。


 今回は裏方として全員が待機し、配信へ映るのは陽葵とハルトだけ。


 機材確認も音声確認も終わっている。


 あとは開始ボタンを押すだけだった。


 陽葵は深呼吸を一つする。


 モニターには待機画面。


 開始を待つ視聴者数は、ものすごい勢いで増え続けていた。


「すごい……」


 ハルトが数字を見て目を丸くする。


「もう何万人も待ってる!」


「皆さん、とても楽しみにしてくださっているみたいです」


「期待に応えないとな!」


 陽葵は静かにうなずく。


「はい。一緒に、皆さんが笑顔になれる時間を作りましょう」


「おう!」


 時計の針が、開始予定時刻を指す。


 陽葵はマウスへ手を添えた。


「それではハルトさん」


「ああ」


 二人は顔を見合わせ、小さく笑う。


「配信、始めます」


 クリック音が静かな部屋へ響き、ベネルディスチャンネル史上最大規模となるコラボ生配信の幕が静かに上がった。



「皆さん、こんばんは」


 配信開始と同時に、陽葵はいつも通り穏やかな笑顔でカメラへ頭を下げた。


「本日もベネルディスチャンネルへ来てくださって、本当にありがとうございます」


 画面右側のコメント欄が一瞬で流れ始める。


『きたああああああああ!!』


『待機してました!』


『こんばんは!』


『配信始まった!』


『今日のコラボ楽しみ!』


『ベネルディスちゃん今日もかわいい』


『炎の勇者から来ました!』


『初見です!』


「今日はたくさんの方が来てくださっていますね」


 陽葵は少し驚いたように目を丸くした。


「炎の勇者チャンネルから来てくださった皆さんも、いつも見てくださっている皆さんも、本当にありがとうございます」


『両方見てる!』


『勇者組です』


『ベネルディス組です』


『兼任です』


『初コラボ!』


「そして今日は、以前からお知らせしていた特別なゲストをお迎えしています」


 陽葵が少し横へ体を向ける。


「どうぞ」


「こんばんは!」


 ハルトが元気よく手を振った。


「一ノ瀬晴人です! よろしくお願いします!」


『きたーーーーー!!』


『勇者だ!』


『本人だ!』


『思ったより普通の高校生!』


『爽やか』


『炎の勇者きた!』


『初めまして!』


『誰?』


『動画の人だ!』


「今日は呼んでもらいました!」


 ハルトは楽しそうにコメント欄を眺める。


「これ、生配信ってすごいな! 本当にみんなのコメントが流れてる!」


『見えてるよw』


『ちゃんと読んでるw』


『初々しいw』


『かわいい』


『配信初心者で草』


「初めてなんです」


 陽葵がくすりと笑う。


「ハルトさん、生配信は今日が初めてなんですよ」


「動画は結構撮ってるけど、生放送は初挑戦だからな」


「皆さん、どうか温かく見守ってあげてくださいね」


『もちろん!』


『頑張れ!』


『応援してる』


『事故期待』


『事故るなw』


「事故はしないぞ!」


 ハルトが即座に反応すると、コメント欄には笑いを表す文字が大量に流れた。


『反応早いw』


『ちゃんとコメント見てるw』


『距離近いなw』


「それでは、ハルトさんのことをご存じない方もたくさんいらっしゃると思いますので、簡単に自己紹介をお願いできますか?」


「お、了解」


 ハルトは姿勢を正した。


「改めまして、一ノ瀬晴人です。高校二年生で、『炎の勇者チャンネル』っていう動画チャンネルをやってます!」


『高校生!?』


『若い』


『学生だったの!?』


『あのCG作ってる人?』


『VFXすごい人!』


『あの心霊動画見た!』


「普段は動画投稿がメインで、いろんな企画をやってます!」


 ハルトは指折り数え始める。


「海に行ったり、宇宙っぽいことやったり、学校を探検したり、心霊スポットに行ったり!」


『ラインナップがおかしいw』


『何でも屋じゃん』


『心霊動画見た!』


『浄化動画すごかった』


『CG班死ぬぞw』


「とにかく面白そうだと思ったことは全部やる感じです!」


『楽しそうw』


『それが人気なんだよな』


『勢い好き』


「あと!」


 ハルトは笑顔のまま続ける。


「コメント読むの好きだから、動画のコメントも結構見てる!」


『本人見てるの!?』


『急に緊張してきた』


『悪口書けないw』


『いつも見てます!』


「みんなの反応見るの面白いんだよな!」


 その一言だけでコメント欄はさらに盛り上がった。


「今日は生配信なので、皆さんともたくさんお話しできたら嬉しいです」


 陽葵が穏やかに話を引き継ぐ。


「質問なども拾いながら進めていこうと思っています」


『質問コーナー!』


『楽しみ』


『読まれたい』


『コメント早すぎるw』


 コメント欄は勢いよく流れ続けていた。


 ハルトはそれを夢中になって目で追っている。


「すげぇ……。」


「どうしました?」


「動画だと投稿したあとにコメントを見るけど、生配信ってこんなに会話してる感じなんだな!」


「それが配信の一番の魅力なんです」


 陽葵は優しく微笑んだ。


「皆さんと同じ時間を過ごせることです」


「なるほど!」


 ハルトは何度もうなずく。


「確かに楽しいな!」


『もう慣れてるw』


『適応早い』


『コミュ力高い』


『見てて気持ちいい』


 少し落ち着いたところで、陽葵は改めてカメラへ向き直る。


「それと、本日は皆さんへご報告があります」


 コメント欄の流れが少しだけ緩やかになる。


「すでに炎の勇者チャンネルの動画をご覧になった方はご存じかと思いますが……」


 陽葵は穏やかな笑顔で続けた。


「私、ベネルディスは、このたび正式に炎の勇者チャンネルへ加入することになりました」


『おめでとう!』


『正式加入!』


『待ってました!』


『最高!』


『これから動画増える!?』


『チーム入りおめでとう!』


「ありがとうございます」


 陽葵は嬉しそうに頭を下げる。


「これからは動画の撮影が中心になりますので、以前より配信の回数は少し減ってしまうと思います」


『寂しい……』


『仕方ないね』


『動画も楽しみ』


『どっちも見る!』


『応援する!』


「ですが」


 陽葵は優しく続ける。


「配信をやめるわけではありません。」


「これからも、こうして皆さんとお話しする時間は大切にしていきたいと思っています」


『安心した』


『よかった』


『ずっと応援します』


『動画も配信も全部見る』


『ベネルディスなら付いていく!』


「今日はその第一歩として、ハルトさんとのコラボ配信を楽しんでいただければ嬉しいです」


「俺も頑張る!」


 ハルトが元気よく拳を握る。


「配信は初めてだけど、今日はめちゃくちゃ楽しんで帰ってくれ!」


『もちろん!』


『もう楽しい』


『最高のコラボ』


『ASMR楽しみ!』


『雑談助かる!』


 コメント欄には期待の言葉が次々と流れ続ける。


 その様子を見ながら陽葵は静かにうなずいた。


「ありがとうございます。それでは、本番の前にもう少しだけ皆さんと雑談を楽しみましょうか」



「それじゃあ、せっかくだし質問コーナーでもやるか!」


 ハルトがそう言うと、コメント欄の流れが一気に加速した。


『質問!!』


『きたーー!』


『読んで!!』


『コメント早打ち選手権開始』


『流れるの早すぎw』


「わぁ……。」


 ハルトは画面を見て目を丸くする。


「全然追いつけない!」


「ふふっ。流れが速い時は、止まったコメントを拾う感じで大丈夫ですよ」


「なるほど!」


 陽葵が慣れた様子でコメントを指差す。


「あ、こちらなんていかがでしょう」


「おっ!」


 ハルトが画面を読み上げた。


「『炎の勇者さんって、本当に魔法使えるんですか?』」


『聞いたw』


『一番気になる』


『設定確認』


『キャラ設定好き』


「使えるよ」


 ハルトは即答した。


「俺、魔法使いだから」


 一瞬だけコメント欄が止まる。


 次の瞬間。


『即答www』


『ブレないw』


『設定を貫くスタイル』


『好きw』


『世界観大事』


『ロールプレイ完璧』


「攻撃魔法も生活魔法も飛ぶのも結界も使える。」


「昔から普通に使ってるし」


『全部盛りw』


『設定欲張りセット』


『便利すぎるw』


『生活魔法だけ欲しい』


「生活魔法は便利だぞ。」


「掃除も料理も洗濯もすぐ終わるから」


『家事魔法w』


『主婦歓喜』


『その魔法売って』


「俺しか使えないけどな!」


『草』


『そこだけリアル』


『唯一無二設定』


 陽葵は横で微笑みながら聞いていた。


(ハルトさんは、今日も一切隠されないのですね)


 もちろん、それで困ることはない。


 この世界では誰も本気にはしないのだから。


 続いて陽葵が次の質問を拾う。


「こちらはいかがでしょう。」


「『ベネルディスさんとはどういう関係なんですか?』ですね」


『気になる』


『知り合ったきっかけ』


『馴れ初め!?』


『コラボの経緯』


「えっと……」


 ハルトは少し考えてから笑った。


「昔の仲間だな!」


『仲間!?』


『昔?』


『高校違うよね?』


『ゲーム仲間?』


「すごく頼りになる仲間!」


「また会えて嬉しかったよ。」


 その何気ない一言だけで、陽葵の耳がぴくりと動いた。


 嬉しさを隠しきれず、頬がほんのり赤くなる。


「……はい。」


 小さくうなずくだけで精一杯だった。


『ベネルディス照れてる!』


『かわいい』


『尊い』


『本当に仲良しなんだ』


 陽葵は照れを隠すように次のコメントへ目を向けた。


「ではこちらです。」


「『どうやって知り合ったんですか?』」


「あー、それは旅先かな!」


 ハルトは懐かしそうに笑う。


「いろいろ旅してた時に知り合った!」


『旅?』


『海外?』


『バックパッカー?』


『高校生なのに?』


「一緒にいろんな場所を回ったんだよな。」


「はい。」


 陽葵も優しくうなずく。


「あの頃は毎日が新しい発見でした。」


『エモい』


『青春じゃん』


『仲良しだなぁ』


 もちろん視聴者は、異世界を旅していたなどとは夢にも思わない。


 海外旅行か何かだと自然に受け止めていた。


「次!」


 ハルトはコメントを見つける。


「『好きな食べ物は?』」


「カレー!」


 即答だった。


『早いw』


『迷いゼロ』


『子供w』


「あと炒飯も好き。」


「自分で作るのも好きなんだ。」


『料理するの!?』


『意外』


『家庭的』


『チャーハン動画また見たい』


「料理も魔法使うと早いぞ!」


『また魔法w』


『便利すぎるw』


「私は甘い物が好きですね。」


 陽葵も答える。


「特にプリンは幸せな気持ちになります。」


『かわいい』


『プリン案件待ってます』


『癒やされる』


 さらにコメントを拾う。


「『休日は何してますか?』」


「動画考えてる!」


 ハルトは笑った。


「これ面白そうって思ったら、すぐ企画考える。」


「あと学校行ったり遊んだりかな。」


『高校生してる』


『安心した』


『企画脳w』


『休んでw』


「休むのも大事ですよ?」


 陽葵が少しだけ困った顔をする。


「うーん……でも面白そうなこと思い付くと止まらないんだよ。」


『完全にクリエイター』


『分かる』


『だから動画多いのか』


 さらに質問は続く。


「『最近一番うれしかったことは?』」


「今日!」


 ハルトは迷わず答えた。


「陽葵がチームに入ってくれたこと!」


「これからもっと面白い動画が作れそうだから!」


 陽葵は思わず両手を胸の前で握り締めた。


「……ありがとうございます。」


『また照れてる』


『てぇてぇ』


『いいチーム』


『空気が平和』


 そして、コメント欄に流れた一つの質問へ、ハルトは思わず笑った。


「『勇者さん、人生で一番強かった敵は?』」


「魔王かな。」


 あまりにも自然な返答だった。


「最後は世界中巻き込むくらい強かったし。」


『設定細かいw』


『ラスボスきた』


『世界観好き』


『RP完成度高い』


「でも勝った!」


 ハルトは胸を張る。


「だから今こうして動画やってる!」


『めでたしめでたしw』


『ハッピーエンド』


『その後が配信者なの草』


 最後に陽葵が一つの質問を読み上げる。


「こちらは少し面白いですね。」


「『もし現実で魔法が使えたら、一番最初に何をしますか?』」


『おっ』


『気になる』


『俺は空飛ぶ』


「俺?」


 ハルトはきょとんとした。


「いや、だから使えるって。」


 真顔だった。


「朝起きるの苦手だから、まず生活魔法で目を覚ます。」


『また始まったw』


『最後まで貫くw』


『好き』


『設定が一ミリもブレない』


『もうこれが勇者なんだよ』


 コメント欄は笑いで埋め尽くされる。


 ハルトだけは、本当に何がおかしいのか分かっていなかった。


「……みんな笑ってるけど、結構便利なんだぞ?」



「それでは……」


 陽葵はコメント欄を見ながら柔らかく微笑んだ。


「雑談はこのくらいにして、そろそろ今日のメイン企画へ移りたいと思います」


『きた!!』


『待ってました』


『ASMR!』


『イヤホン装着』


『ヘッドホン準備完了』


『ここから本番』


 コメント欄は一気に期待で埋め尽くされる。


 ハルトはその勢いに少し驚きながら、机の上に置かれたマイクを見つめた。


「そんなに楽しみにされてるんだな」


「はい」


 陽葵は優しくうなずく。


「ASMRを楽しみに来てくださる方も、とても多いんですよ」


「そもそもASMRって何なんだ?」


「そういえば知らなかったな」


「簡単に言うと……」


 陽葵はマイクへ少しだけ顔を近付ける。


「耳元で話しかけたり、小さな音を聞いていただいて、心を落ち着かせたり、眠りやすくしたりする配信ですね」


「なるほど」


「なので、普段より少し静かにお話しします」


 そう言うと、陽葵はマイクとの距離を数センチまで縮めた。


 そして、普段よりもずっと柔らかい声で囁く。


「……今日も来てくださって、ありがとうございます。」


 吐息がそっとマイクを撫でる。


 空気が震えるほど小さな声。


 それでいて一語一語がはっきり耳へ届く。


「どうか、ゆっくり休んでくださいね。」


 その数秒だけで、コメント欄は爆発した。


『ひゃああああああ』


『耳が幸せ』


『これこれ!!』


『一言で浄化された』


『イヤホン民死亡』


『破壊力やばい』


『今日も最高』


 ハルトも思わず感心した。


「すげぇ……。」


「こんな感じなのか。」


「はい。」


「囁く感じで、ゆっくり話していただければ大丈夫ですよ」


「なるほど。」


 ハルトはマイクを見つめる。


「普通にしゃべるんじゃなくて、近くで話すんだな。」


「はい。」


「相手が一人だけいると思って話すと、自然になりますよ」


「一人だけ……か。」


 ハルトは一度目を閉じた。


 相手は一人。


 目の前にいる誰かへ届ける。


 異世界で、不安に震える子どもへ。


 仲間へ。


 傷付いた人へ。


 大丈夫だ、と伝えてきた時と同じように。


 そう考えた瞬間だった。


 ハルトの雰囲気が、ふっと変わる。


 さっきまで笑っていた高校生の空気が消えた。


 静かで、穏やかで。


 誰かを安心させることだけを考える勇者の表情になる。


 陽葵は思わず息をのんだ。


(このお顔は……)


 旅の途中。


 夜営の火を囲みながら、何度も見てきた表情だった。


「じゃあ……やってみる。」


 ハルトはゆっくりとマイクへ近付く。


 距離はほんの数センチ。


 そして。


「……こんばんは。」


 優しい声だった。


 決して甘いだけではない。


 低すぎず、高すぎず。


 耳元で自然に語り掛けられているような距離感。


「今日は来てくれて、ありがとう。」


 その一言だけで、コメント欄が止まる。


 誰も文字を打てない。


 画面の向こう側では、無数の視聴者が思わず息を止めていた。


「今日はいろいろ頑張ったんだろ。」


 声が近い。


 まるで、本当にすぐ隣で話しているようだった。


「学校だった人も。」


「仕事だった人も。」


「家事をしてた人も。」


「みんな、お疲れさま。」


 柔らかな吐息が言葉に混じる。


 決して演技ではない。


 勇者として、数え切れない人々へ向けて掛けてきた労いの言葉。


 だからこそ自然だった。


「もう今日は頑張らなくていい。」


「ゆっくり休もう。」


「安心して。」


「大丈夫だから。」


 一つ一つの言葉が。


 耳からではなく、心へ直接落ちていく。


 聞いているだけで肩の力が抜ける。


 張り詰めていた心がほどける。


 そんな不思議な安心感だった。


 部屋の外。


 モニター越しに見守っていた結衣たちも、思わず言葉を失う。


「……え。」


 結衣が最初に漏らした。


「ハルト……?」


「勇者様……。」


 聖奈も目を見開く。


 凛は無意識に姿勢を正していた。


 摩夜だけは静かに目を細める。


「これは……。」


 配信技術ではない。


 経験だ。


 何万人、何十万人もの命を背負ってきた男だけが持つ、人を安心させる話し方。


 しかも本人は、それを一切自覚していない。


 コメント欄がようやく動き始める。


『え?』


『待って』


『何これ』


『うますぎる』


『初めてって嘘でしょ』


『プロじゃん』


『声優?』


『なんでこんなに落ち着くの』


『鳥肌立った』


『本当に初配信?』


『才能の塊』


『ガチで眠くなる』


『声が心地良すぎる』


 陽葵は隣で微笑みながら、小さく胸へ手を当てた。


(さすがです……。)


(ハルトさん。)


(あなたは今日も、誰かを救ってしまうのですね。)


 その言葉だけは、心の中へ静かにしまっておいた。



 それから三十分ほど。


 ハルトは陽葵に教わりながら、耳元で囁いたり、優しく語り掛けたり、ページをめくる音や小物を軽く触れる音を交えたりと、初めてとは思えないほど自然なASMRを続けていた。


 途中で照れたり、笑ったりすることもなく、最後まで落ち着いた空気を保ち続けたのは、本人が「相手を安心させる」ということに関しては誰よりも経験豊富だったからだろう。


「……それじゃあ。」


 ハルトは最後にマイクへ優しく声を掛ける。


「今日はここまで。」


「少しでもゆっくり休めたなら嬉しい。」


「また会おう。」


 その一言を最後に、マイクからゆっくりと離れた。


「……ふぅ。」


 普段の明るい高校生らしい表情へ戻る。


「これで大丈夫か?」


「はい。」


 陽葵は満足そうにうなずいた。


「とても素敵でした。」


「本当か?」


「はい。本当に。」


 ハルトは照れくさそうに頭をかく。


「なんか、いつもの動画より緊張したな。」


「お疲れさまでした。」


「ありがとう。」


 ようやく肩の力を抜いたハルトは、何気なくコメント欄へ目を向けた。


「……あれ?」


 さっきまで滝のように流れていたコメントが。


 止まっていた。


 画面には新しいコメントがほとんど現れない。


「え?」


 ハルトは画面を見直す。


「配信止まった?」


「止まってはいませんよ。」


 陽葵もコメント欄を見る。


「回線も正常ですね。」


「じゃあ何でこんな静かなんだ?」


 数十万人が視聴しているはずなのに。


 コメントがほぼ流れてこない。


 ようやく一件だけ表示された。


『……』


 そして。


『スヤァ』


『寝落ちした』


『もう無理……』


『おやすみ』


 数件だけ流れて、また止まる。


 陽葵はその様子を見て、ふわりと微笑んだ。


「もしかすると……」


「うん?」


「ハルトさんのASMRがあまりにも心地良かったので、皆さん眠ってしまわれたのかもしれません。」


「そんなことある?」


 ハルトは苦笑する。


「俺の声って、そんな眠くなる声なのかな。」


「私は、とても安心できる声だと思います。」


「そうか?」


 どうにも納得できない。


 コメントが止まるほど寝落ちする配信というのは、配信者として喜んでいいものなのか悪いものなのか。


 判断が付かなかった。


「まあ……」


 ハルトは気を取り直して笑う。


「アーカイブも残るしな!」


「寝ちゃった人は、起きたらまた見てくれるだろ!」


「はい。」


 陽葵もうれしそうにうなずく。


「それでは最後のご挨拶をしましょう。」


 二人はそろってカメラへ向き直った。


「本日は配信へ来てくださって、本当にありがとうございました。」


 陽葵が優しく頭を下げる。


 ハルトも続いて笑顔を見せた。


「初めての生配信、めちゃくちゃ楽しかった!」


「また機会があったら呼んでくれ!」


「炎の勇者チャンネルもよろしく!」


「そして、これからは私も炎の勇者チャンネルの一員として活動していきます。」


 陽葵は穏やかに微笑む。


「動画も配信も、皆さんに楽しんでいただけるよう頑張りますので、どうぞよろしくお願いいたします。」


「それじゃ!」


「皆さん、おやすみなさい。」


「またお会いしましょう。」


 二人が手を振る。


 そして配信終了のボタンが押され、ベネルディスチャンネル史上最大規模のコラボ配信は静かに幕を閉じた。


 部屋の外では、結衣たちもほっと息をついていた。


「無事終わったね。」


「大成功だったと思います。」


 聖奈が微笑む。


「コメントもすごく盛り上がっていましたし。」


「途中までは、ね。」


 摩夜だけが少し首をかしげる。


「最後だけ異様に静かだったのは少し気になるけど。」


「寝落ちしただけじゃないか?」


 ハルトは笑う。


「ASMRってそういうものなんだろ?」


「……そうですね。」


 陽葵も素直にうなずいた。


 誰一人として。


 本当の理由には気付いていなかった。



――――――



 その夜。


 日本中のあちこちで、不思議な出来事が起きていた。


 配信を見ながら机へ突っ伏して眠ってしまった会社員。


 ベッドでイヤホンを付けたまま寝落ちした学生。


 病室で静かに目を閉じた少女。


 夜勤明けで仮眠を取っていた看護師。


 疲れ切ってソファーで眠った主婦。


 誰もが、とても穏やかな表情で眠っていた。


 そして、その身体には本人すら気付かないほど穏やかな変化が静かに訪れていた。


 まるで春の日差しが雪を溶かすように。


 長年積み重なっていた疲労が。


 痛みが。


 わずかな不調が。


 ゆっくりと、確かに消えていく。


 それは医学では説明できない、小さな奇跡。


 だが、この時点ではまだ誰も知らない。


 翌朝。


 世界中で「信じられない出来事」が起き始めることを。


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