第42話 神様がくれた、二度目の人生
「……生きて、います」
最初に聞こえたのは、女性の泣き声だった。
「元気な女の子ですよ」
誰かが優しく笑う。
目を開けると、そこはもう異世界ではなかった。
白い天井。
見たこともない光。
知らない言葉。
けれど、その意味だけは不思議と理解できた。
(ここが……ハルトさんの世界)
ベネルディスは、生まれ変わった。
猫宮陽葵として。
まだ赤ん坊の体では何もできない。
声も言葉にならず、手足も思うように動かない。
それでも彼女は泣かなかった。
泣く理由など、どこにもなかったからだ。
(会えます……。)
(また、ハルトさんに)
それだけで胸がいっぱいだった。
その時だった。
『焦らなくて大丈夫』
頭の中で、懐かしい声が響いた。
優しくて。
温かくて。
世界で一番安心できる声。
『君はちゃんと会えるから』
「……!」
陽葵は目を見開く。
もちろん赤ん坊なので返事などできない。
けれど、その声が誰なのかだけはすぐに分かった。
(ハルトさん……?)
『うん。でも、本物の僕じゃない』
『君の心が作った僕だよ』
『寂しくならないように』
『君が前を向けるように』
陽葵は小さく笑った。
(それでも……嬉しいです)
(ハルトさんがお話ししてくださるなら)
それ以来。
陽葵の人生には、いつももう一人のハルトがいた。
誰にも見えない。
誰にも聞こえない。
自分だけの神様。
自分だけの導き手。
もちろん、それは神託などではない。
幼い陽葵が心のよりどころとして作り出した妄想。
そう思っていた。
けれど彼女は、一度も疑わなかった。
異世界で聖女として生きた彼女にとって、「神の声を信じる」という行為は呼吸と同じくらい自然だったからだ。
――――――
月日は流れた。
陽葵は小学生になっていた。
教国で聖女として受けた教育は、現代でもほとんど無駄にならなかった。
人前で笑うこと。
相手の目を見て話すこと。
安心させる声。
穏やかな所作。
話を聞く姿勢。
誰かを立てる振る舞い。
どれも教国では「聖女として当然」と教え込まれた技術だった。
当時は利用されるための教育だと思っていた。
だが現代では違う。
先生からも。
近所の人からも。
同級生からも。
「陽葵ちゃんって優しいね」
「話してると安心する」
そんな言葉を何度も掛けられた。
(教国で学んだことも……無駄ではなかったのですね)
その夜。
布団へ入ると、またあの声が聞こえる。
『君の笑顔で救われる人は、これからもっと増えるよ』
「はい。」
『だから、人前に立つことを怖がらなくていい』
「人前……ですか?」
『そう』
『君は多くの人に笑顔を届けられる』
『それは、いつか僕を助ける力にもなる』
陽葵は少し首をかしげた。
(私が……ハルトさんを?)
異世界最強の勇者を、自分が助ける。
想像もできない。
けれど。
ハルトがそう言うなら、きっとそうなのだ。
「でしたら頑張ります。」
迷いはなかった。
――――――
中学生になる頃には、陽葵は動画や配信という文化を知った。
世界中へ言葉を届けられる。
笑顔を届けられる。
それは聖女が説法を行っていた広場よりも、はるかに広い世界だった。
「すごい……。」
画面を見つめながら陽葵は感動していた。
すると、また神様が笑う。
『これだよ』
「これ……ですか?」
『君に合っている』
『君なら、きっと多くの人を幸せにできる』
『そして』
少しだけ間を置いて。
『ハルトという少年にふさわしい立場になれる』
その一言だけで十分だった。
陽葵の瞳が輝く。
(ハルトさんに……見合う私)
異世界では。
ハルトは勇者だった。
自分は聖女。
だから隣に立てた。
けれど現代では違う。
ただの少女ではいけない。
ハルトさんが胸を張って「仲間だ」と言える存在にならなければ。
「配信者になります。」
即答だった。
「たくさんの人を笑顔にして。」
「たくさんの人に愛されて。」
「ハルトさんの隣に立っても恥ずかしくない私になります。」
『うん』
『それがいい』
神様は優しく笑った。
『君ならできる』
その一言だけで、十分だった。
陽葵は何年も努力した。
配信の話し方。
間の取り方。
コメントへの返し方。
歌。
ゲーム。
雑談。
失敗しても笑顔。
落ち込んでも笑顔。
聖女として学んだ「人を安心させる笑顔」は、配信でも大きな武器になった。
やがて高校生になる頃には。
『ベネルディス』
その名前は、日本でも有数の人気配信者として知られる存在になっていた。
登録者数。
同時接続数。
影響力。
どれも国内トップクラス。
けれど陽葵自身は、一度も満足したことがない。
(まだ足りません。)
(もっと頑張らないと。)
(ハルトさんは世界を救った勇者なのですから。)
(私も、それにふさわしい存在にならなくては。)
その思いだけが、彼女を前へ進ませ続けていた。
――――――
中学一年生の冬。
配信者『ベネルディス』は、一つの大きな節目を迎えていた。
「……五百十二万円」
画面に表示された数字を見ても、陽葵の表情はほとんど変わらない。
今月の配信収益。
企業案件や広告収入、投げ銭などを合わせた金額は、月収五百万円を超えていた。
普通の中学生なら驚き、飛び跳ねるような数字だ。
だが陽葵は静かに手を合わせる。
「ありがとうございます。」
誰に向けた感謝なのか。
もちろん視聴者でも運営でもない。
心の中にいる、たった一人へ。
(ハルトさん。ここまで来ることができました。)
すると、あの穏やかな声が返ってくる。
『よく頑張ったね。』
「はい。」
『でも、ここはゴールじゃないよ。』
「分かっています。」
『君が目指している場所は、もっと先だから。』
「はい。」
迷いなくうなずく。
自分が目指す場所は、日本一の配信者でも世界一の人気者でもない。
勇者ハルトの隣。
その一点だけだった。
――――――
だが、その頃から家の空気が少しずつ変わり始めていた。
「陽葵、今月も結構入ったんでしょ?」
父が食卓で何気ない調子を装って尋ねる。
「はい。」
「だったらさ、お父さんの車も買い替えたいんだよな。」
「そうねぇ。」
母も自然に続ける。
「せっかく稼いでるんだから、家族なんだし助け合わないと。」
陽葵は静かに食事を続けた。
怒りはない。
悲しみもない。
ただ、少しだけ考える。
(……助け合い。)
その言葉に違和感を覚えた。
自分は今まで、この家で助けられたことがあっただろうか。
熱を出した時。
配信で失敗した時。
誹謗中傷に苦しんだ時。
いつも相談相手になってくれたのは、心の中のハルトだった。
配信の練習を見守ってくれたのも。
励ましてくれたのも。
全部、あの人だった。
両親ではない。
もちろん虐待されていたわけではない。
衣食住は与えられていた。
学校にも通わせてもらった。
普通の家庭だった。
だからこそ、陽葵は冷静だった。
(ああ。)
(私たちは家族という共同生活を送っていただけなのですね。)
幼い頃から教会で育った彼女は、親子という関係を深く知らない。
母親に甘えた記憶もない。
父親へ相談した記憶もない。
前世でも現世でも。
「親に愛される」という経験そのものが存在しなかった。
だから。
執着もなかった。
――――――
数日後。
陽葵は不動産会社を訪れていた。
「一人暮らしを始めたいのですが。」
担当者が目を丸くする。
「えっ……? 保護者の方は……。」
「後ほど契約に必要な手続きはお願いしています。」
人気配信者『ベネルディス』として活動していることを証明し、顧問弁護士や税理士も既に契約済みであることを説明すると、担当者はようやく事情を理解した。
「なるほど……。」
「それで、ご希望はございますか?」
「防音設備が整っていること。」
「配信部屋を作れること。」
「回線速度が速いこと。」
条件は、それだけだった。
担当者は苦笑する。
「ずいぶん仕事熱心なんですね。」
「仕事ではありません。」
陽葵は首を横に振る。
「未来への準備です。」
担当者には意味が分からなかった。
しかし陽葵の中では、それ以上なく明確だった。
いつか。
必ず。
ハルトと再会する。
その時、自分には活動拠点が必要になる。
仲間たちが集まれる場所。
配信ができる場所。
神のお役に立てる場所。
それが、この家になる。
――――――
新居が決まった日の夜。
陽葵は両親へ静かに告げた。
「私、一人暮らしを始めます。」
二人は固まった。
「……え?」
「どういうこと?」
「来月には引っ越します。」
あまりにも自然な報告だった。
「ま、待ちなさい!」
母が立ち上がる。
「まだ中学生でしょう!?」
「はい。」
「だったら家を出る必要なんてないじゃない!」
父も慌てて口を開く。
「そうだぞ! 家族なんだから!」
陽葵は静かに首をかしげた。
「家族だから、ですか?」
「そ、そうだ!」
「なら、お聞きしてもよろしいでしょうか。」
穏やかな声だった。
責める響きは一切ない。
「お二人は、私が配信を始めてから今日まで、一度でも『無理はしないでね』と言ってくださいましたか?」
「…………。」
「私が体調を崩した時、『今日は休んでもいい』と言ってくださいましたか?」
「…………。」
「初めて収益化した日、『頑張ったね』と褒めてくださいましたか?」
返事はなかった。
思い返しても、そんな日は一度もなかった。
収入が増えるたび。
活動が大きくなるたび。
話題は、お金のことばかりだった。
陽葵は小さく微笑む。
「でしたら、もう十分です。」
「私は、お二人を恨んではいません。」
「育ててくださったことには感謝しています。」
「ですが。」
そこで一拍置き、真っ直ぐに二人を見つめる。
「これ以上一緒に暮らしていく理由が、私にはありません。」
その言葉は冷たいのではない。
ただ、あまりにも淡々とした事実だった。
教国で「聖女」という役割だけを求められ続けた少女は、この世界でもまた「稼ぐ娘」という役割だけを期待され始めた。
だから彼女は迷わない。
自分を役割ではなく、一人の人間として見てくれる場所へ進む。
それが当然だった。
部屋へ戻った陽葵は、窓の外の夜空を見上げる。
「これでよかったのでしょうか。」
すると、優しい声が返ってくる。
『うん。』
『君は誰かの道具になるために、この世界へ来たんじゃない。』
『僕と、また笑い合うために来たんだ。』
その言葉だけで十分だった。
陽葵は胸の前で両手を重ね、小さく笑う。
「はい。」
「私は、その日のために歩き続けます。」
そうして猫宮陽葵は、まだ中学生でありながら、一人で生きる道を選んだ。
その決断に迷いはなかった。
彼女が帰る場所は、生まれ育った家ではない。
いつか再び出会う、一人の勇者の隣なのだから。
――――――
一人暮らしを始めてからも、陽葵の生活が乱れることはなかった。
朝は決まった時間に起きる。
朝食を作り、学校へ向かう。
帰宅すれば洗濯物を取り込み、掃除を済ませ、夕食の準備をする。
そして夜になると配信を始める。
そんな毎日だった。
「今日も一日、お疲れ様でした。」
配信を終えた陽葵は、手際よく食器を洗っていく。
洗濯機は自動で洗濯を終え、食器洗い乾燥機は静かな音を立てている。
ロボット掃除機も部屋を一周して定位置へ戻っていった。
「……現代って、本当にすごいですね。」
思わず感心してしまう。
異世界では、教会の炊事も洗濯も掃除も、すべて人の手で行っていた。
何十人分もの食事を作り、何百枚もの洗濯物を干し、毎日広い礼拝堂を磨き上げる。
聖女だからと特別扱いされることはない。
奉仕とは、自ら率先して働くことだった。
だからこそ。
「これくらいで大変なんて言ったら、シスター長に叱られてしまいます。」
小さく笑う。
家電という文明の利器に囲まれた現代の家事は、あまりにも簡単だった。
生活に困ることはない。
配信にも集中できる。
学校の成績も安定している。
すべてが順調だった。
――――――
ある休日。
陽葵は配信企画の参考になりそうな動画を探していた。
「最近は、こういう企画が流行っているのですね。」
人気動画を眺め、新人配信者の動画も確認する。
成功例だけでなく失敗例も見る。
それも人気配信者としての習慣だった。
その時だった。
「……あれ?」
おすすめ欄の片隅。
再生回数も少ない一本の動画が目に留まる。
『【検証】メントスを何個入れたら一番高くコーラが噴き出すのか試してみた!』
「……。」
どこにでもありそうな企画。
サムネイルも派手ではない。
登録者数もほとんどいない。
けれど。
陽葵の指は、自然とその動画を開いていた。
「こんにちはー!」
画面の中で笑っていたのは、一人の少年だった。
まだ幼さの残る顔立ち。
どこにでもいそうな中学生。
隣には、撮影役らしい少女が立っている。
「今日はメントスコーラに挑戦します!」
「絶対失敗するって!」
「いや、成功する!」
二人の軽快な掛け合い。
コーラが盛大に噴き出し、二人とも全身びしょ濡れになる。
「うわぁぁぁぁ!」
「だから言ったじゃん!」
少女が笑い転げる。
少年も頭からコーラを浴びながら大笑いしていた。
編集技術はまだ拙い。
カメラワークも素人そのもの。
派手な演出もない。
だが。
不思議と最後まで見てしまう。
見ているこちらまで笑顔になる。
「……ふふっ。」
陽葵も思わず笑っていた。
動画が終わる。
画面に表示された投稿者名を見て、彼女は静かに目を閉じた。
「やっぱり……。」
一ノ瀬晴人。
間違いない。
この世界のハルトだった。
「もう、動画投稿を始めていたのですね。」
異世界へ召喚されるより前。
まだ普通の中学生だった頃のハルト。
もちろん魔法など使えない。
異世界の記憶もない。
自分と出会ってもいない。
それでも。
動画から伝わってくる。
人を楽しませたいという純粋な気持ち。
目の前の人を笑顔にしたいという才能。
派手なダンスでもない。
歌でもない。
超人的な技術でもない。
ただ、友達と一緒に全力で遊び、その様子を全力で楽しませようとしている。
だから見ていて心地よい。
「さすがです……。」
陽葵は画面へ向かって小さく頭を下げた。
「まだ勇者ではない頃から、人を笑顔にする才能を持っていらっしゃるのですね。」
動画をもう一度再生する。
二回目。
三回目。
気付けば何度も繰り返し見ていた。
そして。
ふと、ある考えが頭をよぎる。
(……会いたい。)
今すぐ。
この人に。
会いに行きたい。
胸の奥から込み上げる想いは抑えようがなかった。
住所を調べることもできる。
学校を探すこともできる。
今の陽葵なら、その程度は難しくない。
一歩踏み出せば、きっと会える。
その時だった。
『駄目だよ。』
優しい声が響く。
陽葵の動きが止まる。
「……ハルトさん。」
『まだ、その時じゃない。』
「ですが……。」
『君は知っているはずだ。』
『今の僕は、まだ君と出会っていない。』
『まだ異世界へ行ってもいない。』
その一言で、陽葵は息をのんだ。
そうだった。
今ここにいるのは、異世界を救った勇者ではない。
これから勇者になる少年。
もし。
もし自分が接触したことで未来が変わってしまったら。
異世界への召喚が起こらなくなったら。
勇者ハルトが生まれなかったら。
ベネルディスという聖女も、存在しなかったことになる。
「……それだけは。」
絶対に駄目だ。
自分が愛したハルト。
自分を救ってくれた勇者。
その未来を、自分のわがままで消してはいけない。
「申し訳ありません。」
誰へ謝ったのか。
画面の中の少年か。
未来の勇者か。
それとも、自分自身か。
陽葵は動画の概要欄を静かに閉じる。
「会いたいです。」
その言葉だけは、どうしても止められなかった。
「ですが、お待ちします。」
「ハルトさんが勇者となり、私と出会ってくださる、その日まで。」
そう誓うと、陽葵は再び動画を再生した。
今はまだ、一人の視聴者として。
誰よりも熱心に。
誰よりも優しく。
未来の勇者を見守り続けることにした。
――――――
それから数年。
陽葵は高校生になっていた。
配信者『ベネルディス』としての人気はさらに高まり、国内でも指折りの存在として認知されている。
それでも彼女の日課は変わらない。
朝起きると、最初に確認するのは一つだけ。
「ハルトさんのチャンネルは……。」
毎日欠かさず確認している動画投稿サイト。
登録した通知は、どんな仕事よりも優先される。
もちろん理由は一つ。
勇者となる日を、誰よりも早く知るためだった。
そして、その日は突然訪れた。
「……え?」
通知欄に表示されたチャンネル名を見た瞬間、陽葵の呼吸が止まる。
「『炎の勇者チャンネル』……?」
昨日までとは違う。
以前の素朴なチャンネル名ではない。
まるで、自らの正体を宣言するかのような名前。
胸が高鳴る。
震える指で動画を開く。
そこに表示されていたタイトルは――
『【ガチCG】指先だけで火を出す方法、教えます。』
「…………。」
陽葵は言葉を失った。
動画が始まる。
画面の中には、少しだけ大人びたハルト。
そして。
「それじゃあ、やってみます。」
パチン。
指を鳴らす。
次の瞬間。
指先へ、小さな炎が灯った。
「……っ!」
陽葵は勢いよく立ち上がる。
椅子が後ろへ倒れる。
けれど気にも留めない。
画面の中で燃えている炎を、ただ見つめ続ける。
「本物です……。」
間違えるはずがない。
あの炎は。
異世界で何度も見た。
勇者が扱う魔法。
「ハルトさん……!」
涙が溢れた。
「お帰りなさい……!」
ようやく。
ようやく帰ってきた。
世界を救って。
約束通り、この世界へ帰ってきた。
動画の中で笑う姿は、あの頃と何一つ変わっていない。
その笑顔を見ただけで、胸がいっぱいになった。
その瞬間だった。
『陽葵。』
頭の中で響いた声。
いつもの声。
いつものハルト。
けれど。
何かが違う。
その声には、今までにはなかった不思議な重みがあった。
まるで世界そのものが共鳴しているような。
どこまでも澄み切った響き。
「……ハルトさん?」
『帰ってきたよ。』
「はい……!」
『約束を守れた。』
「はい……!」
涙が止まらない。
陽葵自身は気付いていない。
これまで自分の心が生み出していた"イマジナリーハルト"が。
本物の勇者ハルトが現世へ帰還し、魔法という神秘を持ち帰ったその瞬間から、確かに本物の神託としての力を宿していたことを。
本人だけが、それを知らない。
だから。
いつも通りに受け入れる。
「ずっと、お待ちしていました。」
『知ってる。』
「これでもう……。」
陽葵は涙を拭う。
そして笑った。
「会いに行けます。」
今のハルトは違う。
異世界を旅し。
魔王を倒し。
自分と共に戦った勇者。
もう未来が変わる心配はない。
自分のことも知っている。
ベネルディスという名前も、きっと知っている。
だったら。
今すぐ会いに行こう。
この世界で。
もう一度。
「準備しなくては。」
クローゼットを開く。
服を選ぶ。
電車の時刻を調べる。
住所もすぐに分かる。
今なら。
今すぐなら。
『まだだよ。』
その一言で、陽葵の手が止まった。
「……え?」
『今は、まだ会ってはいけない。』
「ですが……。」
『僕を信じて。』
静かで。
優しくて。
絶対に逆らえない声だった。
『もう少しだけ待って。』
『その時は、必ず来るから。』
陽葵は目を閉じる。
胸の中では「会いたい」という想いが溢れている。
一秒でも早く。
一歩でも早く。
駆け寄りたい。
けれど。
神の言葉は絶対だった。
異世界で聖女として生きた彼女にとって、それは理屈ではない。
呼吸と同じくらい自然なこと。
「……分かりました。」
迷いは消えた。
バッグを静かに元の場所へ戻す。
「私は、お待ちします。」
『ありがとう。』
その声は、どこまでも優しかった。
陽葵は再び動画を再生する。
炎を灯して笑う勇者の姿を、何度も、何度も見返す。
会えない寂しさはあった。
それでも悲しくはない。
神が「待て」と言うのなら。
その先には、きっと意味がある。
そう信じて疑わなかった。
――――――
もし、あの時。
陽葵が神託を無視してハルトの元へ向かっていたなら。
その先には、一人の少女が待っていた。
黒沼摩夜。
あるいは、ブラックハッカー『モルガナ』。
異世界では魔女。
現代では、ネットワークという新たな魔術を手にした少女。
彼女は誰よりもハルトを愛し。
だからこそ、誰よりも独占したいと願っていた。
そして。
配信者『ベネルディス』という存在は、摩夜にとって最も邪魔な存在になり得る。
陽葵は影響力を持つ。
人々の支持を集める。
ハルトと共に歩めば、その存在感は計り知れないものになる。
そんな人物を、摩夜が警戒しないはずがなかった。
もちろん。
摩夜はハルトが嫌がることはしない。
配信者生命を終わらせるような極端な手段は選ばないだろう。
けれど。
動画の投稿タイミング。
配信環境。
SNSでの評価。
案件。
炎上。
情報流出。
ネットの世界に生きる者なら、その活動基盤はいくらでも揺さぶれる。
ブラックハッカー・モルガナには、それだけの力があった。
だからこそ。
神は、その未来を許さなかった。
まだ陽葵が、自らを守るだけの準備を終えていない時期に、敵意を持つモルガナの前へ送り出すことはなかった。
それが神の導きだった。
もちろん。
陽葵自身は、そんなことを知る由もない。
――――――
それから数週間。
陽葵はいつものように配信を終え、一人で温かい紅茶を飲んでいた。
『そろそろだよ。』
いつもの声。
「はい?」
『引っ越しの準備を始めよう。』
「……引っ越し、ですか?」
『うん。』
『今なら間に合う。』
『青葉高校へ。』
その一言だけで十分だった。
陽葵は静かにカップを置く。
「……ついに。」
胸が高鳴る。
待ち続けた日々。
何年も我慢してきた時間。
それが、ようやく終わる。
「分かりました。」
神託に迷いはない。
翌日には転入手続きの相談を始め、不動産会社へ連絡を入れ、新居の候補を調べ始めた。
仕事のスケジュールも整理する。
配信部屋の防音設備。
高速回線。
学校までの距離。
放課後すぐ活動できる立地。
条件は、すべて一つの目的のためだった。
「ハルトさんと、一緒に動画を作る。」
その未来だけを見据えて準備を進めていく。
配信機材も新調した。
編集環境も最新へ更新した。
いつ共同撮影になっても困らないよう、カメラも複数台用意した。
それらはすべて、いつか来る今日のためだった。
――――――
そして。
荷物をまとめ終えた夜。
段ボールが積み重なった部屋で、陽葵は静かに窓の外を見つめていた。
「いよいよですね。」
『うん。』
「明日には……。」
自然と笑みがこぼれる。
「ようやく、お会いできます。」
長かった。
本当に長かった。
異世界で別れてから数年。
現代へ生まれ変わってから十数年。
ずっと待ち続けた。
神様に「まだ」と言われるたびに耐え続けた。
だからこそ。
明日は特別な日だった。
「ありがとうございます。」
誰よりも大切な存在へ、小さく頭を下げる。
「ここまで導いてくださって。」
『こちらこそ。』
優しい声が返ってくる。
『よく頑張ったね。』
「はい。」
その一言だけで胸がいっぱいになった。
陽葵は幸せそうに目を閉じる。
――――――
――そして、時は現在へ。
引っ越し初日の夜。
荷解きも終わり、新しい部屋で一人、ベッドへ腰掛ける。
明日から。
自分は青葉高校へ通う。
ハルトと同じ学校で学び。
同じ時間を過ごし。
放課後になれば、一緒に動画を撮影できる。
異世界では勇者と聖女として隣を歩いた。
今度は。
動画投稿者同士として、その隣へ立てる。
「楽しみです……。」
頬が緩む。
「明日からは、毎日ハルトさんとお会いできます。」
「一緒に企画を考えて。」
「一緒に撮影して。」
「一緒に笑って。」
想像するだけで胸がいっぱいになる。
もちろん。
恋人になりたいだなんて、そんな贅沢は望まない。
また隣で笑えれば、それだけで幸せだった。
「おやすみなさい、ハルトさん。」
そう呟き、布団へ潜り込む。
明日は、待ち続けた再会の日。
聖女ベネルディスではなく。
一人の女子高生、猫宮陽葵として。
もう一度、大好きな勇者の隣へ歩き出す日だった。




