第41話 亜人聖女は、神を知らなかった
ベネルディスが生まれ育った国――教国。
そこは世界で最も神を信じる国であり、同時に世界で最も人を選ぶ国でもあった。
教会の鐘が鳴る朝。
白い石で造られた美しい町並みでは、人々が祈りを捧げながら一日を始める。
誰もが神へ感謝を捧げ、神の教えに従い、清く正しく生きることを誓う。
そんな美しい景色の裏側には、一つだけ誰も口にしない常識があった。
「亜人は、人ではない」
それが教国に生きる者たちの共通認識だった。
獣人。
魔人。
竜人。
耳や尻尾、角や翼を持つ者たちは、皆まとめて「神に愛されなかった者」と呼ばれていた。
市場では人間と同じ道を歩くことすら許されず、道の端を歩かなければならない。
井戸も別。
食器も別。
宿屋も別。
人間と同じ席に座ることなど許されない。
教会では祈りを捧げることはできても、最前列へ進む資格はない。
神の前では平等だと教えながら、その神殿の中ですら差別は当たり前だった。
幼いベネルディスは、それが普通なのだと思って育った。
「ほら、ベネルディス。」
母が小さく手を引く。
「道の真ん中を歩いてはだめですよ。」
「……はい。」
まだ五つほどの少女。
猫の耳と、細く揺れる尻尾を持つ小柄な獣人だった。
金色の髪は陽の光を受けると柔らかく輝き、大きな青い瞳は好奇心に満ちている。
けれど、その視線はいつも地面へ向いていた。
そう教えられてきたからだ。
人間の目を見てはいけない。
迷惑をかけてはいけない。
静かに生きなさい。
それが亜人の生き方なのだと。
市場の前を通る。
香ばしい焼きたてのパンの匂いが漂ってくる。
思わず尻尾がぴくりと揺れた。
「あ……。」
無意識に一歩だけ近づく。
すると。
「こらっ!」
店主が大声を上げた。
「亜人が商品に近寄るな!」
パンを持っていた木の板が勢いよく振り上げられる。
ベネルディスはびくりと肩を震わせ、慌てて母の後ろへ隠れた。
「も、申し訳ありません……!」
母は深く頭を下げる。
「子どもですので……。」
「だから何だ。」
店主は吐き捨てるように言う。
「毛でも入ったらどうする。」
その言葉に、周囲の客たちも苦笑した。
「亜人だからな。」
「仕方ない。」
「ちゃんとしつけないと。」
誰一人として止める者はいない。
それが正しいことだから。
ベネルディスは何も言えず、小さく耳を伏せた。
悲しい。
悔しい。
そんな感情より先に浮かぶのは、ただ一つ。
自分が悪かったのだ。
そう思ってしまうほど、この国の常識は深く染みついていた。
その日の夕方。
母は熱を出して倒れた。
父は数年前に鉱山で命を落とし、家には二人しかいない。
「ご、ごめんなさいね……。」
苦しそうに息をする母を見て、幼いベネルディスは必死に手を握る。
「お母さん……。」
何とかしたい。
助けたい。
そう願った、その時だった。
淡い光が少女の手からあふれ出した。
部屋いっぱいに広がる、優しい金色の輝き。
まるで春の日差しのように温かな光は、母の身体を静かに包み込む。
「え……?」
熱で赤く染まっていた顔色が、みるみる元へ戻っていく。
苦しそうだった呼吸も落ち着き、乱れていた鼓動も穏やかになった。
「……治って、いる?」
母は自分の身体を見て息をのんだ。
その時だった。
「今の光は何だ!」
近所の住民たちが家へ駆け込んでくる。
「奇跡だ!」
「神の御業だ!」
「教会へ知らせろ!」
狭い家は一瞬で人に囲まれた。
誰もが驚き、興奮し、ベネルディスを見つめる。
しかし、その視線はすぐに戸惑いへ変わった。
「……猫耳?」
「亜人だぞ。」
「そんな馬鹿な。」
「神が亜人に奇跡を授けるはずが……。」
喜びは一瞬だった。
ざわめきが広がる。
信じたい。
だが信じられない。
教義では、神に最も愛された者こそが聖女となる。
なのに。
目の前にいるのは、神に見放されたはずの亜人だった。
誰も答えを出せないまま時間だけが過ぎる。
やがて、一人の老司祭が静かに前へ出た。
白い法衣をまとった老人は、ベネルディスの前へ膝をつく。
その手には、聖なる力を測る水晶が握られていた。
「……手を。」
幼いベネルディスは怯えながら、小さな手を差し出す。
次の瞬間。
水晶はまばゆい光を放った。
教会中の鐘が、誰も触れていないにもかかわらず、一斉に鳴り響く。
老人の顔から血の気が引いた。
「……間違いない。」
震える声が礼拝堂へ響く。
「この子は……聖女です。」
誰もが息をのんだ。
神に最も愛された証。
それが、最も蔑まれてきた亜人の少女へ宿っていた。
祝福と困惑。
信仰と差別。
二つの価値観が、その場で激しくぶつかり合う。
そして、その日のうちに決定が下された。
「ベネルディス。」
司祭長は穏やかな笑みを浮かべる。
「今日から君は教会で暮らしなさい。」
その言葉だけを聞けば、救いの手にも思えた。
母は涙を流しながら娘を抱き締める。
「よかった……。神様が、あなたを見てくださっていたのね……。」
ベネルディスも小さくうなずいた。
教会へ行けば。
神様の近くへ行けば。
きっと、みんな優しくしてくれる。
幼い少女は、そう信じていた。
まだ知らない。
これから始まる日々が、救いではなく。
神の名の下に行われる、終わりのない「利用」の始まりだったことを。
――――――
教会へ引き取られてからの日々は、幼いベネルディスが思い描いていたものとは少し違っていた。
優しくしてくれる人はいた。
読み書きを教えてくれるシスター。
礼儀作法を教えてくれる神官。
毎日温かい食事も与えられた。
貧しい暮らしをしていた頃より、生活だけを見れば恵まれていた。
けれど、その優しさには必ず条件があった。
「ベネルディス様。本日の祈りのお時間です。」
「はい。」
まだ七歳になったばかりの少女は、誰よりも早く礼拝堂へ向かう。
朝日が差し込む神殿。
白い法衣をまとい、祭壇の前へ静かに膝をつく。
両手を重ね、目を閉じる。
「神よ。今日も皆様へ祝福がありますように。」
祈りを終える頃には、体の奥から温かな光が自然とあふれ出していた。
その光は礼拝堂全体を優しく包み込み、参拝者たちは皆、穏やかな表情を浮かべる。
「ありがたい……。」
「聖なる加護だ。」
「さすが聖女様。」
称賛の声が上がる。
しかし。
「……亜人でさえなければ。」
誰かが小さくつぶやいた。
その一言だけで十分だった。
ベネルディスは笑顔を崩さない。
耳も尻尾も動かさない。
まるで聞こえなかったかのように、深く頭を下げる。
それも修行の一つだった。
感情を表に出してはいけない。
聖女とは、常に穏やかでなければならない。
そう教えられてきたからだ。
その日から、少女の一日は祈りで始まり、祈りで終わるようになった。
礼儀。
歴史。
神話。
聖典の暗唱。
薬草学。
応急処置。
礼拝の作法。
神官として必要な知識を一つずつ学びながら、聖女としての力を正しく扱う訓練も続いていく。
最初は小さな傷を癒やすだけだった奇跡も、年を重ねるごとに力を増していった。
折れた骨を治し。
重い病を癒やし。
呪いすら浄化する。
誰もが認めざるを得ないほど、彼女の力は本物だった。
十歳になった頃には、「聖女見習い」として正式に教国中へ名が知られるようになる。
病に苦しむ村。
魔物に襲われた町。
疫病が広がった集落。
ベネルディスは神官たちと共に各地を巡り、人々を救い続けた。
救われた人々は涙を流して感謝する。
「ありがとうございます!」
「命の恩人です!」
「神の使いだ!」
ベネルディスはそのたびに微笑んだ。
「お力になれて良かったです。」
その笑顔は心からのものだった。
誰かが元気になる姿を見ることが、何より嬉しかった。
だから、どれだけ忙しくても苦にはならなかった。
しかし。
町を出る頃には、必ず聞こえてくる。
「本当に亜人なんだよな。」
「耳を隠せば普通なのに。」
「神様も不思議なことをなさる。」
「力だけ貸してくれれば、それで十分だ。」
感謝はされる。
だが、受け入れられることはない。
握手を求められることもなければ、同じ食卓へ招かれることもなかった。
神官たちは彼女を守るように囲み、そのまま馬車へ乗せる。
まるで人々から守っているようにも見えた。
けれど、本当は違う。
人々から聖女を守っているのではない。
聖女という「教国の宝」を管理しているだけだった。
そして、十五歳。
教国最大の神殿で、正式な聖女任命式が執り行われた。
純白の法衣。
銀糸で刺しゅうされた聖衣。
頭上へ載せられる聖冠。
司祭長が高らかに宣言する。
「本日、この者を教国第七十八代聖女、ベネルディスと認める。」
礼拝堂は歓声に包まれた。
数千人もの信徒が拍手を送る。
花びらが舞う。
鐘が鳴る。
誰もが神の奇跡を称えていた。
その光景だけを見れば、少女は誰よりも祝福されているように映るだろう。
だが、任命式が終わり、人払いされた控室で。
司祭長は静かに表情を変えた。
「明日から北部の疫病地帯へ向かってもらう。」
「はい。」
「戻り次第、西部国境で負傷兵の治療。その翌日は王都の巡礼祭。終われば東部で干ばつへの祈りだ。」
休む予定は一日もない。
「その次は――」
次々と読み上げられる予定表。
数か月先まで空白は存在しなかった。
「何か質問はあるか。」
「……ありません。」
ベネルディスは静かに頭を下げる。
困っている人がいるのなら助けたい。
その気持ちは本物だった。
だから断ろうとは思わない。
だが、司祭長が最後に告げた一言だけは、少し胸に残った。
「教国にとって、お前は替えの利かぬ存在だ。」
一瞬だけ、胸が温かくなる。
必要とされている。
そう思った。
しかし。
「決して壊れるな。」
その続きで、全てを理解した。
「お前は教国の最も重要な『資産』なのだから。」
人ではなく。
少女でもなく。
聖女ですらない。
教国にとってベネルディスとは、国を支えるための道具だった。
それでも彼女は、小さく微笑む。
「……かしこまりました。」
その返事は、従順な聖女として満点だった。
けれど、その笑顔の裏で、猫の耳だけが誰にも気づかれないほど小さく伏せられていた。
――――――
聖女となって三年。
ベネルディスは毎日、誰かを救い続けていた。
今日も教会へ運び込まれてきた負傷者を癒やし、病人へ加護を授け、巡礼者の祈りを受け止める。
笑顔を絶やさず。
弱音を吐かず。
聖女とは、そうあるべき存在だから。
それが当たり前になっていた。
だから、自分が疲れていることにも気づいていなかった。
その日も深夜まで治療が続き、ようやく礼拝堂へ一人残された頃には、窓の外には月が浮かんでいた。
「……今日も、皆さんがお元気になって良かったです。」
誰も聞いていない独り言。
祭壇へ向かって小さく微笑む。
それだけが、少女の心を保つ時間だった。
その時。
礼拝堂の外から、怒鳴り声が響いた。
「侵入者だ!」
「勇者だぞ!」
「止めろ!」
何事かと顔を上げる。
次の瞬間。
礼拝堂の大扉が勢いよく開いた。
「悪い悪い。ちょっと人を探してるだけだから。」
現れたのは、一人の少年だった。
黒髪に黒い瞳。
見慣れない服装。
腰には一本の剣だけを提げている。
その後ろでは、十数人の神殿騎士たちが武器を構えていた。
「勇者ハルト!」
「ここは教国の大聖堂だ! 勝手な行動は許さん!」
「許可なく聖域へ立ち入るとは何事だ!」
しかし、少年は困ったように頭をかくだけだった。
「いや、許可を取ってる時間がもったいなくてさ。」
「何を!」
「魔王軍のスパイが教会に入り込んでるんだろ?」
その一言で、空気が凍りつく。
「急がないと逃げられると思って。」
あまりにも自然な口調だった。
まるで、
「買い物へ行ってくる。」
と言うくらいの軽さである。
「馬鹿な!」
司祭の一人が叫ぶ。
「神に仕える教会へ魔族が入り込めるはずが――」
「いるよ。」
ハルトは即答した。
「三人。」
そして礼拝堂の奥へ視線を向ける。
「柱の影に一人。」
風が吹く。
誰もいなかったはずの場所から、黒い外套の男が飛び出した。
「なっ!」
「はい、一人目。」
何が起きたのか分からない。
ハルトが軽く手を振る。
それだけで男の身体は光の縄に縛られ、そのまま床へ転がった。
「二人目は屋根裏。」
天井へ向けて指を鳴らす。
轟音。
天井板が吹き飛び、隠れていた魔族が真っ逆さまに落ちてくる。
「ぎゃあああっ!」
「最後は地下。」
床へ軽く足を乗せる。
石畳が魔法陣のように輝いた。
地下室から悲鳴が響き、数秒後には別の魔族が地面を突き破って放り出される。
三人とも、一切抵抗できなかった。
礼拝堂は静まり返る。
神殿騎士も、司祭も、誰一人言葉を失っていた。
「ほら、終わった。」
ハルトはぱん、と手を払う。
「尋問すれば他にも色々出てくると思うぞ。」
まるで落ちていた荷物を拾った程度の感覚だった。
ベネルディスは、その少年から目が離せなかった。
(……勇者。)
各国を巡り、魔王軍と戦う救世の英雄。
名前だけは何度も聞いていた。
けれど、実際に見るのは初めてだった。
誰よりも強いのに。
誰よりも偉いはずなのに。
少しも威張っていない。
教会が世界最大の宗教組織であることなど、まるで気にしていない。
相手が司祭長だろうと大神官だろうと、態度は町の人と変わらなかった。
「じゃあ俺は帰る――」
そう言いかけたハルトの視線が、ふとベネルディスで止まる。
「……ん?」
目が合った。
ベネルディスは慌てて頭を下げる。
「せ、聖女ベネルディスです。本日は教国をお救いいただき、ありがとうございます。」
「いや、別に。」
ハルトは首を振る。
「途中だったから寄っただけだし。」
まるで散歩の途中に立ち寄ったかのような言い方だった。
そして。
「……あれ?」
ハルトは少しだけ首をかしげる。
「君。」
「は、はい。」
「何でそんなに不幸そうなんだ?」
その一言に、ベネルディスの思考が止まった。
「え……?」
「笑ってるのに、全然幸せそうじゃない。」
初めてだった。
誰かが自分へ、そんなことを言ったのは。
皆が見ていたのは聖女だけだった。
奇跡だけだった。
教国の象徴だけだった。
目の前の少年だけが。
一人の少女として、自分を見ていた。
「君、ここにいたいの?」
答えられない。
考えたこともなかった。
ここが自分の居場所だと信じてきたから。
「……分かりません。」
ようやく絞り出した声だった。
「そうか。」
ハルトは少し考え込み、
「あ、じゃあさ。」
と、本当に何気ない調子で言った。
「俺の知り合いに獣人だけの集落があるんだけど。」
その言葉だけで、礼拝堂がざわつく。
「みんな獣人だから耳も尻尾も普通だし、子どももたくさんいるぞ。」
ベネルディスは目を見開く。
「……耳を、隠さなくても?」
「何で隠すんだ?」
「え……。」
「獣人なんだから耳があるのは当たり前だろ?」
あまりにも当然の返事だった。
だからこそ。
涙が出そうになった。
「ちょうどこの後そっちにも用事があるし。」
ハルトは本当に「ついで」のような口調で笑う。
「嫌なら無理には言わない。でも、一回見に行くだけでもいいんじゃないか?」
司祭たちが慌てて口を開く。
「ま、待ちなさい勇者!」
「聖女を勝手に連れ出すなど――!」
「教国の許可が必要だ!」
「いや。」
ハルトは不思議そうな顔をした。
「本人が行きたいなら、それでいいだろ?」
その一言だけだった。
国家でも。
宗教でも。
教義でもない。
ベネルディス自身の意思。
それを最初に尊重したのは、世界中でたった一人。
勇者ハルトだけだった。
その日。
教国の聖女ベネルディスは、勇者ハルトと共に教国を後にした。
司祭たちは最後まで引き留めようとした。
「聖女は教国の象徴だ。」
「国民が不安になる。」
「勇者にも勝手は許されない。」
そんな言葉が次々と飛び交った。
しかし、ハルトは最後まで首をかしげていた。
「いや、本人が少し外の世界を見たいって言うなら、それでよくないか?」
その一言で話は終わった。
誰も勇者を止められなかった。
魔王軍と最前線で戦う唯一の存在に、本気で敵対するほど愚かな者はいない。
そして何より、誰もハルトを説得できなかった。
本人には「教国の権威」など最初から存在していなかったからだ。
そうして二人だけの短い旅が始まった。
――――――
旅といっても、長いものではない。
ハルトは目的地まで最短距離を選び、迷うことなく森を進んでいく。
途中で魔物が現れても、
「あ、いた。」
程度の反応だった。
一歩踏み込む。
剣が一閃する。
それだけで巨大な魔物は光となって消えていく。
(……強い。)
何度見ても理解できない。
剣技。
魔法。
判断。
全てが常識の外にあった。
ベネルディスは治療の専門家であり、戦闘には詳しくない。
それでも分かる。
この勇者は、人類最強という言葉ですら足りない。
だからこそ、自分にも何かできることはないかと考えていた。
昼過ぎ。
二人は深い森へ足を踏み入れていた。
木々が生い茂り、昼間だというのに薄暗い。
「もう少しで抜けるかな。」
ハルトは周囲を見回す。
その瞬間だった。
ベネルディスの耳がぴくりと動いた。
「ハルトさん。」
「ん?」
「少し、お待ちください。」
少女は静かに目を閉じる。
耳を澄ませる。
風の音。
木々のざわめき。
その奥に、小さな命の声が聞こえた。
祈るように両手を重ねる。
淡い金色の光が森へ広がっていく。
すると。
茂みの奥から現れたのは、一羽の小鳥だった。
続いて鹿。
リス。
森の動物たちが次々と集まり、ある一点を見つめ始める。
「あっちですね。」
ベネルディスが指差す。
「橋が崩れています。」
「え?」
ハルトが歩いて確認すると、本当に谷へ架かる木橋は半分ほど崩れ落ちていた。
「おぉ、本当だ。」
「このまま進んでいたら遠回りになっていました。」
「助かった。」
ハルトは素直に笑う。
「聖女って、こんなこともできるんだな。」
「森の命は神様の子ですから。少しだけ力を借りられるんです。」
「へぇ、便利だな。」
それだけだった。
世界でも数人しか扱えない奇跡を見ても、大げさに驚くことはない。
便利だから使う。
ハルトにとっては、その程度の認識だった。
けれど。
「ありがとうございます。」
ベネルディスは胸が温かくなる。
初めてだった。
自分の力を、誰かの役に立てられたと思えたのは。
国のためでも。
教会のためでもない。
目の前の一人を助けられた。
その事実だけで嬉しかった。
――――――
その日の夕方。
二人は街道沿いの小さな町へ立ち寄った。
食料を買うためである。
しかし町へ入った途端、広場が騒がしくなった。
「聖女様だ!」
「お戻りください!」
「教会がお待ちです!」
白い法衣をまとった神官たちが何十人も集まっていた。
中央には教会の紋章が描かれた馬車。
どうやら教国から追ってきたらしい。
「ベネルディス様。」
年配の大神官が深々と頭を下げる。
「どうかお戻りください。」
「……。」
「北部で疫病が広がっています。」
「西部では飢きんです。」
「王都でも奇跡を待つ者がおります。」
その言葉だけなら、正しい願いだった。
しかし。
「あなたがお戻りになれば、教国は安泰です。」
その一言に、ベネルディスは静かに目を伏せる。
誰も聞かない。
疲れていないか。
休みたいと思わないか。
戻りたいか。
誰一人として。
彼らが必要としているのは、自分ではない。
奇跡だけだ。
「私は……。」
答えようとした、その時。
「今日は休み。」
ハルトが前へ出た。
「え?」
「旅の途中なんだから、仕事の話は後日にしてくれ。」
大神官が顔をしかめる。
「勇者殿、それは教国の問題――」
「だから?」
ハルトは本気で分からないという顔をした。
「仕事なら休みくらいあるだろ。」
「聖女とは、そのような存在では――」
「いや、人だろ。」
あまりにも当然のように言った。
「飯も食うし、寝るし、疲れる。」
「……。」
「働き続けたら倒れるぞ。」
その言葉に、大神官は何も返せなかった。
結局、神官たちは諦めて引き返していく。
去り際。
「教国は……あなたを必要としているのですよ。」
そう言い残して。
ベネルディスは、その背中を見送った。
教国は必要としている。
でも。
必要としているのは、自分ではなかった。
その瞬間だった。
幼い頃から胸の支えになっていた何かが、音もなく崩れ落ちる。
神を信じていた。
教会を信じていた。
神に仕える人たちなら、人を大切にしてくれると信じていた。
けれど違った。
教会が見ていたのは、信徒でも、聖女でもない。
教国という組織だった。
(……もう。)
少女は静かに思う。
(私が帰る場所では、ないのですね。)
その時、前を歩くハルトが振り返る。
「ベネルディス。」
「はい。」
「腹減ってない?」
「……え?」
「町でパン買ってきた。」
紙袋を差し出す。
「食べながら歩こう。」
何でもない笑顔だった。
だからこそ。
ベネルディスは思わず笑ってしまう。
「……はい。」
神へ祈るより先に。
この人へ「ありがとうございます」と伝えたい。
そんな気持ちが、初めて胸に芽生えた。
――――――
数日後。
二人は獣人族が暮らす大きな集落へたどり着いた。
門をくぐった瞬間。
「お姉ちゃん、耳かわいい!」
「しっぽ、ふわふわ!」
子どもたちが当たり前のように駆け寄ってくる。
誰も耳を見ない。
誰も尻尾を笑わない。
皆、自分と同じ耳を持ち、同じ尻尾を揺らしていた。
それがあまりにも当たり前で。
ベネルディスは、気づけば涙を流していた。
「ここなら気楽に暮らせると思うぞ。」
ハルトは笑う。
「みんな良いやつだから。」
「……はい。」
その返事は涙で震えていた。
「じゃあ俺は行くな。」
魔王軍との戦いは、まだ終わっていない。
勇者には勇者の旅がある。
ここで別れるのは当然だった。
「ハルトさん。」
「ん?」
「……助けてくださって、本当にありがとうございました。」
「気にするなって。」
ハルトはいつものように笑う。
「困ってるやつを助けるのは普通だろ。」
そう言って、何の未練もなく歩き出す。
その背中を。
ベネルディスはいつまでも見送り続けていた。
この時の彼女は、まだ知らない。
自分が今見送っているその背中こそが。
これから先の人生で、唯一信じ続けることになる"救い"そのものだったことを。
――――――
獣人族の集落での暮らしは、穏やかだった。
朝になれば、子どもたちの笑い声で目を覚ます。
畑を耕す者がいて、狩りへ向かう者がいて、広場では母親たちが洗濯をしている。
誰も耳を隠さない。
誰も尻尾を恥じない。
そんな当たり前の光景を見ながら、ベネルディスは何度も思った。
(これが……普通だったのですね。)
教国では、聖女だった。
けれど、この集落では違う。
「ベネルディス姉ちゃん!」
「今日も薬草取り手伝って!」
「もちろんです。」
子どもたちは彼女を聖女ではなく、一人のお姉さんとして慕ってくれた。
けが人が出れば治療し、病人がいれば祈りを捧げる。
時には畑仕事を手伝い、料理も一緒に作る。
そんな何気ない毎日が、何より幸せだった。
そして、その穏やかな日々の中でも。
勇者ハルトは、時折ふらりと集落へ顔を出した。
「お、みんな元気そうだな。」
大量の荷物を抱えながら笑う少年。
「塩を持ってきたぞ。あと種と、新しい農具。」
「勇者様!」
子どもたちが一斉に駆け寄る。
ハルトは一人一人の頭をぽんぽんと撫でながら笑っていた。
「ちゃんと勉強してるか?」
「してるー!」
「よし。」
それだけ言うと、村長と今後の話を始める。
どこの畑を広げるか。
近くに魔物が住み着いていないか。
困っていることはないか。
どれも特別な話ではない。
世界を救う勇者とは思えないほど、自然に村へ溶け込んでいた。
「ハルトさん。」
ベネルディスがお茶を差し出す。
「ありがとうございます。」
「助かる。」
受け取ったハルトは、そのまま木陰へ腰を下ろした。
「ここへ来ると落ち着くな。」
「そうなのですか?」
「ああ。」
空を見上げながら笑う。
「みんな楽しそうだからさ。」
その笑顔を見ているだけで、胸が温かくなる。
教国では何万人から感謝されても埋まらなかった心が。
たった一人の笑顔だけで満たされていく。
いつからだったのだろう。
神へ祈る時間より。
ハルトの無事を祈る時間の方が長くなったのは。
女神へ感謝を捧げるより。
ハルトが笑っていてくれることを願う方が自然になったのは。
気づけば。
彼女にとって「救い」とは宗教ではなく、一人の勇者になっていた。
ある日、子どもが尋ねた。
「ねぇ、ベネルディス姉ちゃん。」
「何でしょう?」
「神様っているの?」
ベネルディスは少しだけ考える。
昔なら迷わず女神の名を答えていただろう。
しかし今は違う。
自然と口から出たのは。
「いますよ。」
穏やかに微笑みながら。
「とても優しくて、困っている人を放っておけない方です。」
「会える?」
「ええ。」
胸へそっと手を当てる。
「きっと、また会えます。」
その時、彼女の心に浮かんでいたのは。
女神ではなく、黒髪の勇者だった。
――――――
そんな穏やかな日々は、永遠には続かなかった。
ある日の夕暮れ。
一人の旅人が集落を訪れる。
その表情は暗かった。
「勇者様が……。」
村人たちが顔を上げる。
「魔王を討伐されたそうだ。」
歓声が上がる。
誰もが喜んだ。
世界は救われた。
長い戦いが終わった。
だが。
「その直後……勇者様は、この世界から姿を消したらしい。」
その一言で、ベネルディスの時間が止まった。
「……え?」
「女神によって、元の世界へ帰されたそうだ。」
帰った。
もう、この世界にはいない。
その意味を理解した瞬間、膝から力が抜けた。
「そんな……。」
村人たちの声も遠く聞こえる。
世界は救われた。
なのに。
自分の世界だけが終わってしまった。
夜。
一人で空を見上げる。
何度祈っても返事はない。
静かな夜空だけが広がっている。
「どうして……。」
涙がこぼれる。
「どうして、ハルトさんだったのですか。」
世界を救った人だから?
使命を果たしたから?
そんな理由で、大切な人を連れていくのなら。
「……あなたは。」
震える声で呟く。
「本当に、私たちの神様なのですか。」
その瞬間だった。
夜空いっぱいに、白い光が降り注いだ。
柔らかな光の中から、一人の女性が姿を現す。
神々しい光をまとった、美しい女神。
異世界の全てを見守る存在だった。
「ベネルディス。」
穏やかな声が響く。
「長い間、ご苦労でした。」
昔なら涙を流してひれ伏していただろう。
だが今は違う。
ベネルディスは立ち上がることすらしなかった。
「……何の、ご用でしょうか。」
その声には、かつての敬意は残っていなかった。
女神は小さく目を閉じる。
「あなたの心は、もう私にはありませんね。」
「はい。」
迷いなく答える。
「私の神様は、ハルトさんです。」
沈黙が流れる。
やがて女神は、小さくため息をついた。
「やはり、そうなりましたか。」
その口調に怒りはない。
どこか諦めたような響きだった。
「聖女とは、本来、神へ信仰を捧げる者。」
静かに告げる。
「ですが、今のあなたは私ではなく、一人の人間へ祈りを捧げている。」
「……。」
「そのような聖女を、この世界へ置いておくことはできません。」
教国のためではない。
女神自身のためでもある。
神への信仰を失った聖女は、この世界の理から外れた存在になってしまった。
「ですから。」
女神は静かに手を差し伸べる。
「あなたへ新たな道を用意しました。」
光の中へ、一つの世界が映し出される。
高い建物。
夜でも輝く街。
見たことのない乗り物。
そして。
一人の少年が、笑っていた。
「ハルトさん……。」
「彼が生まれ育った世界です。」
その言葉を聞いた瞬間。
ベネルディスは迷わなかった。
「行きます。」
即答だった。
「他には何も望みません。」
涙を流しながら微笑む。
「ハルトさんがいる世界なら、それだけで十分です。」
女神はゆっくりとうなずく。
「あなたは、もう聖女ではありません。」
「はい。」
「これからは一人の少女として、生きなさい。」
光が世界を包み込む。
ベネルディスは最後に一度だけ、長く暮らした異世界を振り返った。
教国への未練はない。
この世界への恨みもない。
ただ一つだけ願う。
(どうか……。)
胸へ手を当てる。
(もう一度だけ、あの方に会えますように。)
その祈りと共に。
聖女ベネルディスは、一歩前へ踏み出した。
その先に待っている世界で。
猫宮陽葵という、新しい人生が始まることになる。




