第40話 巡礼者たちの民族大移動
朝食を食べ終えたハルトがスマホを手に取ると、一件のメッセージが届いていた。
『おはようございます、ハルトさん。本日、お引っ越しいたします。どうかよろしくお願いいたします』
送り主は、昨日正式に炎の勇者チャンネルの仲間となった猫宮陽葵だった。
「おっ、今日だったのか!」
ハルトは嬉しそうに声を上げる。
昨日の打ち合わせで日程は聞いていたものの、いよいよ当日となると実感が湧いてくる。
「せっかくだし迎えに行こうかな」
仲間が新しい町へ来る。
それだけで自然と足が動いた。
ハルトはすぐに返信を送る。
『了解! 駅まで迎えに行くよ!』
数秒後。
『ありがとうございます。きっと素敵な一日になります』
「相変わらず丁寧だなぁ」
思わず笑みがこぼれる。
ベネルディス――いや、陽葵は異世界でも礼儀正しい少女だった。
現代でも、その性格は変わっていないらしい。
「よし、行ってくるか」
ハルトは軽く身支度を整えると、自転車に乗って駅へ向かった。
まだ午前中だというのに、空は気持ちよく晴れている。
新しい仲間を迎えるには、ぴったりの日だった。
――――――
「……ん?」
駅前まであと少しというところで、ハルトは違和感を覚えた。
「なんか、人多くないか?」
普段なら休日でもそこそこ人通りがある程度の駅前だ。
しかし今日は違う。
遠くからでも分かるほど、大勢の人が集まっていた。
改札前だけではない。
駅前広場。
歩道。
近くのベンチ。
至る所に人、人、人。
「イベントでもあるのか?」
自転車を止めながら近付くと、さらに異様さが増していく。
若者が多い。
だが年齢層は決して偏っていない。
高校生らしき男女。
大学生。
会社員。
家族連れ。
海外から来たと思われる旅行客までいる。
しかも共通しているのは、全員がスマホを手にして落ち着かない様子で駅の出口を見つめていることだった。
「何待ちなんだ?」
その時だった。
「ねぇ、本当に今日なんだよね?」
「ベネルディス様が投稿したんだから間違いない!」
「奇跡的に休み取れてよかった……!」
「聖地巡礼、成功しますように……」
「……ベネルディス?」
聞き覚えのある名前に、ハルトは首を傾げた。
近くにいた青年へ声を掛ける。
「すみません。何かあるんですか?」
「あれ? 知らないんですか?」
青年は驚いた顔でスマホを見せてきた。
「ほら、この投稿ですよ!」
画面には、陽葵のSNSアカウントが表示されていた。
数十分前に投稿されたばかりらしい。
『本日、神の神へ会いに行きます。新たな土地でも、皆さんに良いご報告ができますように』
その下には、とんでもない数字が並んでいた。
いいね数は、すでに数十万。
コメントは更新されるたびに増え続けている。
『神の神!?』
『ついに会うのか!?』
『どこだ!?』
『駅!?』
『巡礼開始!』
『急げ!!』
『俺も向かう!!』
「……えぇ?」
ハルトは思わず声を漏らした。
「これでこんなに集まるの?」
「当然ですよ!」
青年は真剣な表情で言う。
「ベネルディス様が『会いに行く』って言ったんですよ? 現地へ行けば同じ景色を見られるかもしれないじゃないですか!」
「いや、それだけで?」
「それだけでです!」
力強く断言された。
「配信で場所をぼかしてても、みんな必死に考察しますからね! 今回は駅が映ってましたし!」
「そうなんだ……」
ハルトは苦笑するしかない。
(人気配信者って、本当にすごいんだな……)
炎の勇者チャンネルも登録者はかなり増えてきた。
動画を投稿すればニュースになることもある。
だが、たった一つの投稿だけで、これほど人を動かせるだろうか。
答えは、たぶん違う。
(ライブ配信ってやっぱり影響力あるんだな)
そんな感想しか出てこなかった。
その時だった。
「来たぞ!」
誰かが叫ぶ。
一瞬で空気が変わる。
全員の視線がホームへ続く改札口へ集まった。
電車が到着したらしい。
そして。
人混みの向こうから、一人の少女が姿を現す。
柔らかな茶色の髪。
猫耳を思わせるふわりとした髪型。
白いワンピースに薄手のカーディガン。
大きなキャリーケースを引きながら歩く姿は、昨日会った時と変わらない穏やかな雰囲気をまとっていた。
「ベネルディス様ー!!」
「ようこそー!!」
「応援してます!」
歓声が一斉に上がる。
だが、不思議なことに誰一人として押し寄せようとはしない。
陽葵は立ち止まり、小さく微笑んだ。
「皆さん、本日はお忙しい中ありがとうございます」
その柔らかな声だけで、周囲が静かになる。
「ですが、本日は私生活での移動ですので、どうか静かに見送っていただけますと嬉しいです」
深く頭を下げる。
「そして――」
顔を上げた陽葵は、いつもの穏やかな笑みを浮かべた。
「皆さんのお気持ちは、十分すぎるほど伝わりました。本当にありがとうございます」
その一言だけで、集まっていた人々の表情が一斉に明るくなる。
「それでは皆さん」
陽葵は両手を胸の前で軽く合わせた。
「今日も、良い一日になりますように」
静かに微笑む。
それだけだった。
「ありがとうございましたー!」
「よし、帰ろう!」
「最高だった!」
「今日も癒やされた!」
「また配信見ます!」
驚くべきことに、人の流れが自然と駅前から離れていく。
騒ぐ者はいない。
押し合う者もいない。
写真を撮り続ける者もいない。
まるで最初から決まっていたかのように、整然と解散していく。
「……すご」
ハルトは思わず声を漏らした。
ほんの数分前まで駅前を埋め尽くしていた人混みが、あっという間に減っていく。
「ハルトさん」
陽葵がこちらへ気付き、嬉しそうに駆け寄ってきた。
「お迎えに来てくださったのですね」
「もちろん!」
ハルトは笑顔でキャリーケースを受け取る。
「荷物持つよ」
「ありがとうございます」
陽葵は幸せそうに微笑んだ。
「皆さん、とても優しい方ばかりでした」
「本当に人気なんだな」
「皆さんのおかげで、今の私がありますから」
そう言って駅前を振り返る。
そこには、もう先ほどまでの人混みはほとんど残っていなかった。
ハルトも改めてその光景を見渡し、素直な感想を口にする。
「人気配信者のオフ会って……こんなにすごいんだな」
「じゃあ、行こうか」
ハルトは陽葵から受け取ったキャリーケースを軽々と引きながら歩き出す。
「ありがとうございます。本来でしたら私一人で運ぶ予定だったのですが……」
「遠慮しなくていいって。仲間なんだからさ」
その一言だけで、陽葵は少しだけ目を潤ませた。
「……はい」
小さくうなずき、その隣を歩く。
駅前の喧騒から少し離れるだけで、町はいつもの穏やかな空気を取り戻していた。
さっきまで何百人もの人が集まっていたとは思えないほど静かだ。
「それにしても、本当にびっくりしたよ」
ハルトが苦笑する。
「あんなに人が集まるなんて想像してなかった。」
「申し訳ありません……」
「いやいや、謝ることじゃないって!」
慌てて首を振る。
「人気があるってことだろ? すごいじゃん。」
「皆さんが応援してくださるおかげです。」
陽葵は照れくさそうに微笑む。
「でも、今日は少し驚きました。」
「陽葵も?」
「はい。神託では『少しだけ人が集まります』とのことでしたので。」
「……そうなんだ。」
ハルトは素直に納得した。
(導き手さんも細かいところまでは分からないんだな。)
そんな程度の認識である。
本人は最後まで、その神託そのものがおかしいとは思わない。
「そういえば、新しい家って駅から近いの?」
「歩いて十分ほどです。」
「いい場所じゃん。」
「学校へも通いやすいそうです。」
「それなら安心だな。」
二人は他愛ない話をしながら住宅街へ入っていく。
十分ほど歩いた先に、新築の二階建て住宅が見えてきた。
「ここです。」
「おぉ!」
ハルトは思わず声を上げる。
「結構大きいな!」
「配信部屋も必要でしたので……。」
「そっか。家から配信するもんな。」
玄関前には既に引っ越し業者のトラックが停まっており、大型家具の搬入はほぼ終わっているようだった。
段ボールだけがリビングへ次々と運び込まれていく。
ハルトはその様子を見て腕を組む。
「……これ、一人じゃ結構大変じゃないか?」
「はい。」
陽葵は素直にうなずいた。
「今日は荷解きまで頑張ろうと思っていました。」
「だったら手伝うよ。」
「え?」
「引っ越しって人手あった方が早いだろ?」
あまりにも自然に言われ、陽葵は目を丸くする。
「ですが、お忙しいのでは……」
「今日は特に予定ないし。」
ハルトは笑った。
「仲間なんだから遠慮すんなって。」
その笑顔を見た瞬間。
陽葵は胸の前でそっと両手を重ねる。
(……神様。)
(やはりあなたは、どこまでも優しいお方です。)
心の中だけで静かに感謝を捧げた。
「それに――」
ハルトはスマホを取り出す。
「人数いた方が絶対早いよな。」
画面を開くと、炎の勇者チャンネルのグループチャットへメッセージを送った。
『陽葵の引っ越し手伝ってるんだけど、暇だったらみんな来ない? 人数多い方が早そう!』
送信から数秒。
既読が次々と付いていく。
『行く!!』
一番早かったのは結衣だった。
『もう終わったら連絡してって言おうと思ってたのに! 今向かう!』
「結衣らしいな。」
ハルトが笑う。
続いて。
『勇者様、お任せください。必要と思われる物資も持参いたします。到着予定は三十分後です』
聖奈。
『護衛対象の新居確認も兼ねて向かいます』
凛。
『ネット回線の初期設定もしておく。あと配信用PCも見ておく』
摩夜。
「みんな早っ!」
ハルトは思わず笑ってしまう。
「全員来るって。」
「皆さんまで……。」
陽葵は驚きと嬉しさが入り混じったような表情になる。
「昨日お会いしたばかりなのに……。」
「うちのメンバー、こういう時は行動早いから。」
「素敵な方ばかりですね。」
「だろ?」
ハルトはどこか誇らしげだった。
「このメンバーなら何でも何とかなる気がするんだ。」
その言葉に、陽葵は優しく微笑む。
「はい。私もそう思います。」
それから二人は引っ越し業者が運び込んだ段ボールをリビングへ運び、家具の配置を確認しながら簡単な片付けを進めていく。
生活用品。
食器。
衣類。
そして一室には、防音材やマイク、照明機材など、人気配信者らしい本格的な配信設備がぎっしりと並んでいた。
「すごいなぁ……。」
ハルトは思わず感心する。
「これ全部、配信用?」
「はい。」
陽葵は少し照れながら答えた。
「皆さんに少しでも良い配信を届けたくて、少しずつ集めました。」
「へぇ……。」
炎の勇者チャンネルは動画撮影が中心だ。
ここまで本格的な配信専用部屋を見るのは初めてだった。
「勉強になるな。」
「もしよろしければ、後でご説明いたします。」
「ぜひ!」
そんな会話をしているうちに、玄関のチャイムが鳴る。
「来たみたいだ。」
ハルトが玄関へ向かう。
ドアを開けると、そこには大きな買い物袋を抱えた結衣を先頭に、聖奈、凛、摩夜の三人が並んでいた。
「手伝いに来たよー!」
「勇者様、お待たせいたしました。」
「護衛対象の安全も確認済みです。」
「回線工事の予定も確認してきた。」
一気ににぎやかになる玄関。
陽葵はその光景を見て、自然と笑みを浮かべた。
「皆さん、本日はありがとうございます。」
「まずは片付けちゃおっか!」
結衣の一声で、それぞれが段ボールを抱え始める。
こうして、新しい仲間の新居は、一人ではなく六人で少しずつ「居場所」へと変わっていくのだった。
引っ越しの片付けがひと段落すると、リビングには穏やかな空気が流れていた。
段ボールの山はほとんどなくなり、家具も所定の位置へ収まっている。
結衣が買ってきた紙コップにお茶が注がれ、六人はローテーブルを囲んで腰を下ろした。
「いやー、思ったより早く終わったね!」
結衣が伸びをしながら笑う。
「六人もいるとさすがだな。」
ハルトも満足そうに部屋を見回した。
「最初は夕方まで掛かるかと思ってた。」
「皆さんのおかげです。」
陽葵は深々と頭を下げる。
「一人では、とても今日中には終わりませんでした。」
「そんなの気にしなくていいって。」
ハルトは笑って手を振る。
「困った時はお互い様だろ。」
「はい。」
陽葵は嬉しそうにうなずいた。
その様子を見ていた聖奈も、優しく微笑む。
「新生活の第一日目としては、順調なスタートになりましたね。」
「ネット回線も明日には開通する。」
摩夜がスマホを見ながら報告する。
「配信用の機材も問題なし。今日中に設定だけ済ませれば、夜には配信も可能。」
「ありがとうございます。」
陽葵が頭を下げる。
「本当に至れり尽くせりですね。」
「必要なことをしただけ。」
摩夜は相変わらず淡々としていた。
「炎の勇者チャンネル全体の利益にもなる。」
「相変わらず理屈っぽいなぁ。」
結衣が苦笑すると、摩夜は小さく肩をすくめた。
「事実だから。」
そんなやり取りに、部屋の空気が和む。
しばらく他愛ない話をしたあと、陽葵が少し姿勢を正した。
「あの……皆さん。」
「ん?」
全員の視線が集まる。
「一つ、ご報告があります。」
少しだけ緊張した様子で言葉を続ける。
「予定通り、明日から青葉高校へ編入することになりました。」
「おぉ!」
真っ先に反応したのはハルトだった。
「もう明日なんだ!」
「はい。」
陽葵は微笑む。
「本日までに全ての手続きが終わりましたので。」
「よかったじゃん!」
ハルトは自分のことのように喜ぶ。
「これで学校でも会えるな!」
しかし、陽葵は少し申し訳なさそうに笑った。
「その……実は一つだけ。」
「ん?」
「私は年齢の関係で、一学年下になります。」
一瞬だけ部屋が静かになる。
「あ、そうだった。」
結衣が思い出したように声を上げる。
「編入って年齢で学年決まるんだっけ。」
「はい。」
陽葵はうなずく。
「ですので、ハルトさんたちとは別の教室になります。」
「なるほど。」
ハルトは納得したようにうなずいた。
「じゃあ授業中は会えないか。」
「はい……。」
少しだけ残念そうに目を伏せる陽葵。
異世界では、旅の間ほとんど毎日一緒だった。
だからこそ、同じ学校に通えても教室が別というだけで少し寂しく感じてしまう。
その空気を感じ取ったハルトは、すぐに笑顔になった。
「だったら問題ないじゃん。」
「……え?」
「放課後なら会えるだろ?」
陽葵が顔を上げる。
「明日の放課後、俺が迎えに行くよ。」
「迎えに……ですか?」
「うん。」
ハルトは当然のように続けた。
「そのまま部室に行こう。」
「部室?」
「炎の勇者チャンネルの活動場所。」
結衣が笑顔で補足する。
「学校に部室をもらってるんだよ。」
「撮影の打ち合わせとか編集とか、みんなそこでやってるの。」
「へぇ……。」
陽葵は目を輝かせた。
「学校にそのような場所があるのですね。」
「校長先生がファンだから、いろいろ融通してくれてさ。」
ハルトは照れ笑いを浮かべる。
「せっかくだから、放課後はそこで活動しようぜ。」
「動画の相談もできるし。」
結衣が続ける。
「編集もあるし、みんな自然と集まるから。」
「勇者様と過ごす時間も増えますね。」
聖奈が穏やかに微笑む。
「学校生活と活動を両立するには最適かと。」
「私も放課後は基本的に部室にいます。」
凛も静かにうなずく。
「護衛任務も兼ねていますので。」
「ネット関係の作業も、ほとんど部室。」
摩夜も短く付け加えた。
つまり。
放課後になれば自然と全員が集まる。
そこが、炎の勇者チャンネルのもう一つの居場所だった。
陽葵は皆の顔をゆっくり見渡す。
そして、胸の前でそっと手を重ねた。
「……ありがとうございます。」
その声には、隠しきれない嬉しさがにじんでいた。
「私も、皆さんと一緒に活動したいです。」
「決まりだな!」
ハルトが満面の笑みを浮かべる。
「じゃあ明日の放課後、迎えに行く!」
「はい。」
陽葵も柔らかく笑った。
「お待ちしております、ハルトさん。」
新しい学校。
新しい生活。
そして、新しい仲間との放課後。
明日から始まる日常を思い描きながら、六人は自然と笑顔を交わすのだった。
温かいお茶を飲みながら、六人は新居のリビングでくつろいでいた。
引っ越しを終えたばかりとは思えないほど部屋は片付き、穏やかな空気が流れている。
その静かな時間の中で、不意に摩夜が口を開いた。
「一つ、聞いてもいいかな。」
いつもの冷静な口調だった。
だが、その視線だけは真っすぐ陽葵へ向いている。
「もちろんです。」
陽葵は柔らかく微笑んだ。
「昨日も少し聞いた話だけど。」
摩夜はゆっくりと言葉を選ぶ。
「君が言っていた"導き手"について、もう少し詳しく聞かせてほしい。」
その瞬間。
聖奈と凛も自然と表情を引き締めた。
昨日から二人も気になっていた話題だ。
一方で、ハルトと結衣は特に深く考える様子もなく耳を傾けている。
「導き手……ですか。」
陽葵は少しだけ懐かしそうに目を細めた。
「はい。」
摩夜が静かにうなずく。
「君は前に、『導き手が今なら自然に仲間になれると教えてくれた』と言っていた。」
「ええ。」
「それは、どういう存在なの?」
陽葵は少しだけ考えるように視線を落とした。
しかし、その説明に迷いはなかった。
「私にとっては、とても当たり前のことなのですが……。」
そう前置きしてから、静かに語り始める。
「前世で私は聖女でした。」
「うん。」
ハルトが素直にうなずく。
異世界を知る者にとっては、今さら説明するまでもない事実である。
「聖女は、人々へ神の教えを伝える役目です。」
陽葵は胸の前で手を重ねた。
「ですので、神からお言葉をいただくことは、決して珍しいことではありませんでした。」
「神託、ということか。」
聖奈が静かに確認する。
「はい。」
陽葵は穏やかに微笑む。
「今でも時折、お言葉をいただきます。」
「例えば?」
摩夜が尋ねる。
「『今日は右の道を選びなさい』ですとか。」
「『もう少し待ちなさい』ですとか。」
「『今なら自然に出会えます』ですとか。」
「そういったことを教えてくださいます。」
その説明を聞いた瞬間。
摩夜の眉がわずかに動く。
(未来を示している……。)
しかも、その内容は抽象的な精神論ではない。
極めて具体的な助言だ。
だからこそ、昨日の再会も今日の引っ越しも実現している。
「その神託は……。」
摩夜は慎重に言葉を続ける。
「今まで外れたことは?」
「ありません。」
即答だった。
「一度も、です。」
部屋が静まり返る。
凛も腕を組み、小さく考え込む。
「前世では神託という存在自体はありました。」
「ですが……。」
そこで言葉を切る。
「未来をここまで正確に示す話は聞いたことがありません。」
「私もです。」
聖奈も真剣な表情だった。
「教会の神託は、もっと抽象的なものが大半でした。」
「国の行く末を示したり、災厄の兆しを告げたり……。」
「ここまで個人へ寄り添うものではありません。」
陽葵は首をかしげる。
「そうなのでしょうか?」
「私には昔から普通のことでしたので……。」
本人には、自分だけが特別だという自覚がまるでない。
だからこそ、不思議そうな顔をしている。
「昨日も。」
陽葵は自然に続ける。
「神託で『今なら皆さんは受け入れてくださいます』と教えていただきました。」
「今日も。」
「『引っ越しの日に投稿を一つしなさい』と。」
「それで、あの投稿を?」
結衣が思い出したように聞く。
「はい。」
陽葵はこくりとうなずく。
「私も理由は分かりませんでしたが、きっと意味があることなのだと思いました。」
その結果が、駅前を埋め尽くした巡礼者たちだった。
摩夜は静かに息を吐く。
(理論が合わない。)
異世界から現代へ転生する際、魔法も奇跡も失われる。
それが転生術の絶対条件だった。
だからこそ、自分も聖奈も凛も、前世の能力を失っている。
なのに。
陽葵だけは。
今もなお神託を受け続けている。
(そんなことが……あり得るのか。)
考えれば考えるほど答えは出ない。
隣では聖奈も同じ結論に至っているようだった。
凛も珍しく難しい顔をして黙っている。
そんな三人とは対照的に。
「へぇ。」
ハルトは感心したようにうなずいた。
「さすが聖女だな。」
「ねー。」
結衣もあっさり笑う。
「私たち普通の人とは違うんだし、神様からお告げくらいあっても不思議じゃないよね。」
「そうそう。」
ハルトも納得したように続ける。
「異世界には実際に女神様もいたし。」
「聖女なら神託くらい普通なんじゃないか?」
「うんうん。」
結衣もうなずく。
「聖職者ってそういうイメージあるもん。」
あまりにも自然に受け入れる二人。
その様子を見て、摩夜たちは思わず言葉を失う。
(普通じゃない。)
三人の心の声が、きれいに一致した。
神託そのものではない。
問題なのは、その神託が現代でも機能していることだ。
それが、どれほど異常な現象なのか。
理解しているのは、この場では異世界の理を知る三人だけだった。
一方の陽葵は、そんな空気にも気付かず穏やかに微笑む。
「皆さんにも、いつか神様のご加護がありますように。」
その言葉に、ハルトは気楽に笑った。
「ありがとう。」
「その神様にも、いつかお礼を言わないとな。」
悪意も疑いもない、その一言。
陽葵は嬉しそうに目を細める。
「きっと、お喜びになると思います。」
その言葉だけが、どこか意味深に部屋へ静かに溶けていった。
「それじゃあ、今日はこの辺で帰るか。」
時計の針は、いつの間にか夕方を指していた。
窓の外は茜色に染まり始め、部屋へ柔らかな夕日が差し込んでいる。
「今日は本当にありがとうございました。」
陽葵は玄関まで全員を見送りに来ると、深く頭を下げた。
「新しい生活を、このような形で始められるとは思ってもいませんでした。」
「だから気にしないって。」
ハルトが笑う。
「明日からは学校でもよろしくな。」
「はい。」
陽葵も自然と笑顔になる。
「よろしくお願いいたします。」
「放課後、迎えに行くから!」
ハルトが親指を立てる。
「迷子になるなよ?」
「ふふっ。」
陽葵は口元へ手を添えて笑った。
「もし迷いましたら、その時は神託を頼りにいたします。」
「あ、それなら安心だ。」
ハルトはあっさり納得する。
「神様が案内してくれるんだもんな。」
「ええ。」
陽葵は穏やかにうなずいた。
「きっと。」
そのやり取りを見ていた摩夜は、小さく息を吐く。
(そこは疑わないんだ……。)
今日一日で何度目かになる感想だった。
「じゃあ、また明日!」
「またねー!」
結衣が大きく手を振る。
聖奈も優雅に一礼し、
「明日からの学校生活が実り多きものとなりますよう、お祈りしております。」
凛は短く、
「何かあれば連絡を。」
摩夜も玄関先で振り返る。
「困ったことがあれば、遠慮なく相談して。」
「はい。」
陽葵は一人ひとりへ微笑み返した。
「皆さん、本当にありがとうございました。」
ドアが静かに閉まる。
外から聞こえていた楽しそうな話し声も、少しずつ遠ざかっていった。
静寂が戻る。
まだ家具の匂いが残る新しい家。
リビングの中央へ立ち、陽葵はゆっくりと部屋を見回した。
「……。」
一人になったことで、ようやく実感が湧いてくる。
異世界では幾度となく夢見た光景。
その人と同じ時代を生き、同じ町で暮らし、同じ学校へ通う未来。
それが、ようやく現実になった。
「神様。」
胸の前で静かに手を重ねる。
「ありがとうございます。」
その声は、とても小さかった。
「私は、本当に幸せです。」
優しく目を閉じる。
瞼の裏へ浮かぶのは、今日の出来事ではない。
もっとずっと昔。
遥か昔の記憶。
まだ自分が猫宮陽葵ではなく。
聖女ベネルディスとして生きていた頃。
初めて神託を授かった日。
誰もいない聖堂で、たった一人、神へ祈りを捧げていた幼い少女へ届いた、最初のお言葉。
『恐れることはありません。』
『あなたは、いずれ世界を救う勇者と出会います。』
あの日から。
自分の人生は少しずつ変わり始めた。
神託はいつも静かだった。
多くを語ることはない。
けれど、一度たりとも間違えたことはなかった。
迷った時。
苦しかった時。
勇者と旅をしていた三年間も。
そして、別れの日も。
神は、ずっと隣にいてくださった。
だから信じられた。
『また会えます。』
その一言だけを。
どれだけ長い年月が流れても。
どれだけ世界が変わっても。
神様のお言葉だけは、決して疑わなかった。
そして今。
その約束は果たされた。
神が示した場所には、確かに勇者がいた。
前世と変わらない優しい笑顔で、自分を迎えに来てくれた。
「……でも。」
陽葵はゆっくりと目を開く。
明日から始まるのは、勇者と共に戦う旅ではない。
高校生活という、誰も経験したことのない新しい日常だ。
同じ学校。
けれど学年は違う。
初めての教室。
初めての制服。
初めてのクラスメイト。
少しだけ、不安もある。
それでも。
放課後になれば、勇者は迎えに来てくれると言ってくれた。
部室には、仲間たちが待っている。
異世界では決して見ることのできなかった、平和な時間が。
これから、自分にも始まるのだ。
陽葵は小さく微笑んだ。
「……楽しみです。」
その言葉とともに、記憶はゆっくりと過去へ沈んでいく。
あの日。
まだ聖女見習いだった少女が、初めて神託を授かった日の記憶へ――。




