第38話 深海は勇者の撮影スタジオ
海の上に浮かぶ巨大な人工プラットフォーム。
その全景を目にした結衣は、しばらく何も言えなかった。
「…………」
ようやく絞り出した第一声は、感想ですらなかった。
「ねぇ。」
「ん?」
「これ、本当に動画一本撮るだけなのよね?」
隣に立つハルトは当然という顔でうなずく。
「そうだけど?」
「そうだけどじゃないわよ!」
結衣は思わず両手を広げた。
「何よこれぇぇぇぇぇっ!!」
目の前に広がるのは、もはや撮影現場ではない。
一つの研究都市だった。
全長数百メートルはある海上プラットフォーム。
大型ヘリが離着陸できる甲板。
潜水艇格納庫。
大型クレーン。
海中エレベーター。
減圧設備。
医療区画。
撮影スタジオ。
編集室。
休憩ラウンジ。
さらには海洋研究者まで待機している。
「いや、海洋研究所じゃないのよこれ!」
結衣の悲鳴が青空へ響いた。
その隣では、聖奈が優雅に微笑んでいる。
「勇者様が安全に撮影を行える環境としては、最低限かと。」
「最低限の基準がおかしい!」
「深海は危険ですので。」
「普通は行かないの!」
「ですが今回は行きますので。」
「だからって施設ごと建てる人いる!?」
聖奈は首をかしげる。
「既存施設を借りる案もございました。」
「うん。」
「ですが勇者様専用ではありませんでしたので。」
「そこを妥協しなさいよ!」
「勇者様専用施設を新設いたしました。」
「そういう発想になる!?」
聖奈は不思議そうに瞬きをした。
「費用は大したことありませんでした。」
「その台詞、一生言ってみたいわ!」
横では凛が真剣な顔で施設を観察している。
「防御能力も十分です。」
「そっちは何を評価してるの?」
「万が一、海中から大型魔獣が出現しても問題ありません。」
「出ないから!」
「潜水艇も三機あります。」
「何で三機もあるの!?」
「予備です。」
「一機でいいのよ!」
凛は首を横に振る。
「予備の予備まで必要です。」
「どこの軍隊よ!」
結衣は頭を抱えた。
もうツッコミ疲れである。
そんな三人をよそに、ハルトだけは目を輝かせていた。
「すげぇ!」
「これなら絶対いい映像撮れるな!」
「勇者様のお役に立てて幸いです。」
聖奈は本当に嬉しそうだった。
結衣はそんな二人を見比べ、小さくため息をつく。
(この二人が揃うと、お金と魔法で常識が消えるのよね……)
今回の企画は、深海探索。
光すら届かない海底へ潜り、人類未踏の景色を撮影する。
もちろん普通なら不可能だ。
だが。
「結界張れば水圧なんて関係ないし。」
ハルトは軽く言う。
「空気も魔法で作れるし。」
「その時点で普通じゃないから。」
「寒かったら暖めればいいし。」
「そういう問題じゃないの。」
「暗かったら光魔法。」
「うん。」
「迷ったら探知魔法。」
「うん。」
「危なかったら転移。」
「……。」
「完璧じゃない?」
「あなたが完璧なのよ!」
結衣はもう笑うしかなかった。
だからこそ。
こんな企画が実現してしまう。
世界中の誰にも真似できない動画。
それが炎の勇者チャンネル最大の武器だった。
その時。
一人のスタッフが近づいてくる。
「西園寺様、準備が整いました。」
「ありがとうございます。」
聖奈は小さくうなずく。
「勇者様。」
「お。」
「いつでも撮影を開始できます。」
「よーし!」
ハルトは満面の笑みを浮かべた。
「じゃあ一本目いこう!」
「了解!」
結衣はすぐに撮影用カメラを肩へ担ぐ。
凛は周囲の安全確認へ。
スタッフたちは一斉に配置へ散っていく。
その動きは映画撮影以上だった。
「カメラ回すよー!」
「いつでも!」
結衣の声に合わせて赤いランプが点灯する。
ハルトは海を背に立った。
雲一つない青空。
穏やかな水平線。
その中心で、少年はいつもの笑顔を浮かべる。
「どうも!」
右手を勢いよく振る。
「炎の勇者チャンネルです!」
決めポーズ。
おなじみの挨拶。
それだけで画面が明るくなる。
「今日はですね。」
ハルトは後ろを親指で指した。
「深海へ行ってきます!」
数秒の間。
海風だけが吹き抜けた。
「普通の潜水艇じゃ届かない場所まで行って、人類が見たことない景色を撮ってこようと思います!」
笑顔のまま続ける。
「もちろん今回も安全第一!」
結衣が思わず小声でつぶやく。
「あなた以外には危険すぎる企画だけどね……」
その声はマイクには入らない。
「それじゃ!」
ハルトは拳を握る。
「人類未踏の海へ――出発!」
そこで結衣は親指を立てた。
「オッケー!」
モニターを確認する。
「いい感じ!」
「掴みは完璧!」
ハルトは満足そうに笑う。
「よし!」
「じゃあ本番の深海探索、始めよう!」
誰も知らない。
この一本の動画が。
また新たな運命を動かし始めることを。
――――――
「それでは、潜航を開始します。」
操縦席から落ち着いた声が響く。
ゆっくりと。
ほとんど揺れを感じさせないまま、潜水艇は海面からその姿を沈め始めた。
窓の外では、太陽の光を受けた海面がきらきらと輝いている。
「おぉ……。」
ハルトは子どものように目を輝かせた。
「すげぇ。」
「これ、本当に潜ってるんだよな?」
「はい。」
操縦士が笑顔で答える。
「現在、水深十メートルです。」
結衣は大型のカメラをハルトへ向けたまま、自分も思わず窓の外を見つめる。
「海の中って、こんな感じなんだ……。」
海面越しに差し込む光。
ゆらゆらと揺れる波紋。
まるで水そのものが空気になったような、不思議な世界が広がっていた。
「カメラ回ってるよー。」
「了解。」
ハルトはすぐに撮影用の笑顔へ切り替える。
「みんな見てくれ!」
窓の外を指差す。
「これ、まだ全然浅い場所なんだけどさ!」
そこへ、小さな魚の群れが横切った。
「おぉぉ!」
「魚だ!」
何百匹もの銀色の魚が、一斉に向きを変えながら潜水艇の周囲を泳いでいく。
「すごっ!」
「近い近い!」
ハルトは窓に顔を寄せる。
「こんな近くまで来るんだ!」
結衣も思わず笑ってしまう。
「なんか水族館みたい。」
「いや、水族館より近いぞ!」
「確かに。」
凛も窓を見つめていた。
「敵影……ではありませんね。」
「魚を敵影扱いしないの。」
「失礼しました。」
真顔で答える凛に、結衣は苦笑する。
その隣では聖奈が穏やかに微笑んでいた。
「勇者様が楽しそうで何よりです。」
「聖奈も見てみろよ!」
「うわ、本当だ!」
ハルトは子どものようにはしゃぎながら窓を指差す。
「ほら!」
「でっかい魚!」
「勇者様。」
「ん?」
「あれはマダイです。」
「え?」
「今回の海域でよく見られる魚です。」
「詳しいな!」
「今回の撮影に合わせ、海洋生物について一通り学びましたので。」
さらりと言う。
結衣はすぐさま反応した。
「え?」
「一通り?」
「はい。」
「図鑑三百二十七冊ほどですが。」
「何でそんなに読んだの!?」
「勇者様をご案内する以上、当然です。」
「当然じゃないのよ!」
ハルトは感心したようにうなずく。
「すげぇ。」
「頼りになるなぁ。」
その一言だけで。
聖奈の頬がわずかに赤く染まる。
「お、お役に立てて光栄です……。」
結衣はその様子を横目で見て、小さくため息をついた。
(本当にチョロいなぁ、このお嬢様……。)
「現在、水深五十メートル。」
操縦士が静かに告げる。
海の色が変わり始める。
先ほどまで明るい水色だった世界は、少しずつ濃い青へ。
太陽の光も柔らかくなってきた。
「なんか急に雰囲気変わったな。」
ハルトもその違いに気付く。
「光が届きにくくなっています。」
操縦士がモニターを見ながら説明する。
「ここから先は徐々に暗くなっていきます。」
「へぇ。」
「これだけでも面白いな。」
結衣はカメラを窓へ向ける。
「映像映えしそう。」
「そうだな。」
ハルトもうなずく。
「海って、深さでこんなに景色変わるんだ。」
その言葉に、結衣は少しだけ感心する。
(ちゃんと感動するところは普通の高校生なんだよね。)
だから余計に忘れそうになる。
この少年が世界最強の勇者であることを。
「現在、水深百五十メートル。」
窓の外はさらに青く染まる。
魚の種類も変わっていく。
大型の魚影。
ゆっくり漂うクラゲ。
岩場に身を隠す見慣れない生き物。
「すげぇ……。」
ハルトは思わず声を漏らした。
「テレビでしか見たことなかった景色だ。」
カメラへ向き直る。
「みんな、これ全部本物だからな!」
「CGじゃないぞ!」
「まあ。」
結衣がぼそりとつぶやく。
「その台詞を一番信用されてないチャンネルなんだけどね。」
「確かに。」
ハルトも苦笑した。
「コメント欄、絶対また『CG乙』で埋まるな。」
「もう恒例行事ね。」
二人は笑い合う。
そんな自然なやり取りも、しっかりカメラへ収められていた。
これもまた、炎の勇者チャンネルらしさだった。
潜水艇はなおも静かに海底を目指していく。
船体は驚くほど安定している。
耳が少し詰まるような感覚こそあるものの、不安を覚えるほどではない。
それだけ最新技術が詰め込まれた潜水艇なのだろう。
そして。
窓の外は、いよいよ昼と夜の境界線へ近づき始めていた。
光はまだ残っている。
だが、その先には人類でも限られた者しか見たことのない、深く静かな青黒い世界が口を開けて待っている。
ハルトはその景色を見つめ、期待に満ちた笑みを浮かべた。
「ここから先が、本番だな。」
潜水艇は静かに海底付近へ到達した。
操縦席のモニターには現在の情報が表示されている。
『水深 約六千八百メートル』
『外部水圧 約六百八十気圧』
操縦士が静かに息を吐いた。
「ここまでです。」
ハルトは首を傾げる。
「ここまで?」
「はい。」
操縦士は振り返り、窓の外へ視線を向けた。
「現在、人類が到達できる深海探査技術は世界最高峰です。」
「うん。」
「ですが、人間が活動できるのは潜水艇という殻の中だけです。」
その言葉に、カメラを回す結衣も真剣な表情になる。
「深海が人類未踏と呼ばれる理由は単純です。」
操縦士はモニターを指差した。
「この水圧です。」
「約六百八十気圧。」
「一平方センチメートルあたり約六百八十キログラムもの力が常にかかっています。」
結衣は思わず顔をしかめた。
「想像できないわね……。」
「人体であれば、一瞬で押し潰されます。」
さらに説明は続く。
「もちろん酸素もありません。」
「気温は一~二度前後。」
「太陽光は完全に届かず、視界はゼロ。」
「通信も制限されます。」
「救助もほぼ不可能。」
「つまり。」
操縦士は静かに締めくくる。
「人類は深海を探索できるようになったのではありません。」
「頑丈な機械の中から覗けるようになっただけなのです。」
その一言に。
潜水艇の中は少しだけ静まり返った。
窓の外は漆黒。
ライトが照らす範囲だけがぼんやりと浮かび上がる。
それ以外は何もない。
底知れぬ闇。
まさに未知の世界だった。
「なるほどなぁ。」
ハルトは納得したようにうなずく。
「だから人類未踏なのか。」
「はい。」
「仮に扉を開ければ。」
操縦士は苦笑した。
「数秒どころか、一瞬です。」
「我々は即死します。」
結衣は思わずハルトを見る。
「……だから普通はここで終わりなのよ。」
「ここから先は映像も潜水艇越し。」
「生身で外へ出るなんて。」
「あり得ない。」
ハルトは少しだけ笑った。
「普通ならな。」
そう言って一歩前へ出る。
「じゃあ。」
「そろそろ魔法の出番だ。」
右手を軽く掲げる。
莫大な魔力が静かに放たれた。
青白い光が潜水艇内部へ広がっていく。
「──《聖域結界》。」
光が全員を包み込む。
暖かい。
優しい。
それでいて圧倒的な安心感。
結衣は自分の体を見回した。
「なんか……膜みたいなのに包まれてる?」
「そう。」
ハルトは笑顔で答える。
「この結界が水圧も、水温も、酸素も全部どうにかしてくれる。」
「全部って……。」
「全部。」
「便利すぎない?」
「勇者だから。」
「その一言で済ませるのね。」
凛は静かに自分の手を握る。
「異常ありません。」
「身体機能、正常。」
「呼吸も問題なし。」
聖奈もゆっくりとうなずいた。
「圧迫感もございません。」
「さすが勇者様です。」
操縦士をはじめ、乗員全員が呆然としていた。
測定器は異常値を示している。
本来ならあり得ない環境。
それなのに。
目の前の四人は普段通り立っている。
「……信じられない。」
誰かが小さくつぶやいた。
「勇者様。」
聖奈が尋ねる。
「準備は整いました。」
「うん。」
ハルトは潜水艇後部のハッチへ歩く。
「みんな。」
「行こうか。」
結衣は思わず苦笑した。
「人生で『深海へ歩いて行こう』なんて言う人、あなただけよ。」
「ははっ。」
「確かに。」
ハッチ前へ並ぶ四人。
スタッフは全員、固唾を飲んで見守っている。
「では。」
ハルトが親指を立てる。
「開けてください。」
「……本当によろしいのですね?」
「もちろん。」
「俺がいるから。」
その一言だけで。
誰もが覚悟を決めた。
「ハッチ、開放。」
重々しい音が響く。
通常なら絶対に開くことのない深海の扉。
ゆっくりと。
ゆっくりと開いていく。
だが。
海水は一滴たりとも流れ込まない。
結界が見えない境界線となり、潜水艇内部と深海を完全に隔てていた。
「うわぁ……。」
結衣は思わず息を呑む。
扉の向こうには。
ただ闇だけが広がっている。
ライトが照らす範囲だけが存在し、それより先は世界そのものが消えてしまったかのような漆黒。
生命の気配すら感じない。
人類が一度も立ったことのない世界。
「撮影開始。」
結衣はカメラを構える。
「もちろん。」
ハルトは笑った。
「歴史的瞬間だからな。」
そして。
世界最強の勇者は。
まるで散歩へ出かけるような気軽さで。
人類史上初めて、生身のまま深海へ足を踏み出した。
人類史上、誰も踏み入れたことのない海底。
その第一歩は、あまりにも静かだった。
コツ。
ハルトの靴底が海底へ触れる。
砂がふわりと舞い上がる。
しかし、その砂煙も結界の外側でゆっくりと漂うだけで、ハルトたちの周囲には一切入り込んでこない。
「……。」
誰も言葉を発しなかった。
あまりにも非現実的な光景に、思考が追いつかない。
潜水艇のライトが届く範囲から一歩踏み出すと、世界は完全な闇に包まれた。
本当に、何も見えない。
上も。
下も。
左右も。
どこまでが海で、どこまでが空間なのかさえ判別できない。
「これが……深海。」
結衣がぽつりとつぶやく。
「何も見えないね。」
「うん。」
ハルトも周囲を見渡す。
「せっかく外に出たのに、このままじゃ動画にならないな。」
そう言って軽く右手を上げた。
「じゃあ。」
「照らすか。」
パチン、と指を鳴らす。
「──《聖光球》。」
その瞬間だった。
ハルトたちの頭上へ、小さな光球が生まれる。
一つ。
二つ。
三つ。
十。
二十。
百。
夜空へ星が現れるように、無数の光球が周囲へ浮かび始めた。
柔らかな白い光。
まぶしすぎず、それでいて昼間のように周囲を照らしていく。
漆黒だった世界が、ゆっくりと色を取り戻した。
「うわぁ……。」
最初に声を漏らしたのは結衣だった。
海底一面に広がる白い砂。
黒くそびえる岩山。
巨大な海底谷。
岩肌には色鮮やかな海綿やサンゴにも似た生物が張り付き、ところどころには淡く青白く光る未知の生命が揺れている。
静かだ。
音がない。
ただ、世界だけがそこに存在している。
「すごい……。」
結衣は思わずカメラを構え直す。
「綺麗……。」
テレビで見る深海は暗く、ぼんやりとライトが照らすだけの世界だった。
だが。
十分な光があれば。
そこには誰も知らなかった景色が広がっていた。
まるで異世界だった。
ハルトも感嘆の息を漏らす。
「これは……。」
「想像してたよりずっと綺麗だ。」
足元には真っ白な砂紋。
岩陰からはガラス細工のように透き通ったエビが姿を現し、ゆっくりと歩いていく。
遠くには真っ赤な巨大カニ。
花のように広がるウミユリ。
半透明のクラゲが空を飛ぶ鳥のように海中を漂っていた。
「ゲームの世界みたい。」
結衣は思わず本音を漏らす。
「CGって言われても信じちゃう。」
「コメント欄が見えるな。」
ハルトが苦笑する。
『こんなの作り物。』
『CG班頑張りすぎ。』
『勇者チャンネルだからまた合成だろ。』
「絶対こう言われる。」
二人は思わず笑ってしまう。
その時だった。
光に気付いた生き物たちが一斉に反応した。
岩陰に隠れていた魚が驚いて飛び出す。
細長い体をした深海魚が急旋回する。
巨大なタコが墨を吐きながら岩陰へ逃げ込んだ。
「おぉ!」
ハルトが目を丸くする。
「びっくりしてる!」
さらに。
暗闇の向こうから、小さな青白い光がいくつも浮かび始める。
「……あれ。」
結衣がカメラを向ける。
「何?」
最初は星空だと思った。
しかし。
その光はゆっくりと近付いてくる。
一つ。
二つ。
十。
二十。
数え切れないほど。
「魚……?」
近付くにつれ、その正体が見えてくる。
身体の一部を発光させた小魚たち。
光を見つけたことで興味を持ったのか、ハルトたちの周囲へ集まり始めたのだ。
「うわぁぁ!」
ハルトの目が輝く。
「見て見て!」
「イルミネーションみたい!」
光球の周囲を、青や緑の小さな光が舞う。
まるで夜空の蛍。
幻想的という言葉だけでは足りない光景だった。
結衣はカメラ越しにその様子を見つめながら、小さく笑う。
「これ……。」
「私、一生忘れないかも。」
聖奈も静かにその光景を眺めていた。
「まるで星空が海へ沈んだようです。」
「うん。」
ハルトも自然とうなずく。
「空を歩いてるみたいだ。」
凛だけは少し違うものへ注目していた。
「勇者様。」
「ん?」
「あちら。」
指差した先。
巨大な岩陰から、ゆっくりと何かが姿を現す。
長さは数メートル。
白く半透明の巨大な深海魚。
見たこともない姿をしている。
だが。
逃げない。
警戒しながらも、光を放つハルトたちをじっと見つめていた。
「珍しいな。」
ハルトは静かにしゃがみ込む。
「向こうも俺たちが気になるのかな。」
その魚はゆっくりと近付いてくる。
人類が見たことのない距離まで。
そして。
ハルトの差し出した手の前で止まった。
互いに触れることはない。
ただ。
人類と深海生物。
何億年もの進化を経た二つの生命が、初めて互いを見つめ合う。
結衣はその瞬間を逃さず撮影していた。
レンズ越しに見える光景へ、小さく息を呑む。
(これ……。)
(絶対、歴史に残る映像だ。)
誰も見たことがない。
誰も想像できなかった。
深海は恐ろしいだけの世界ではなかった。
静寂と神秘に満ちた、もう一つの大自然がそこには広がっていたのである。
それから数時間。
ハルトたちは深海の各所を巡りながら撮影を続けた。
巨大な海底渓谷。
人の背丈を超える色鮮やかな海綿。
群れを成して泳ぐ発光生物。
ゆっくりと海底を歩く巨大なカニ。
人類が一度も目にしたことのない景色の数々。
そして何より。
生身の人間が深海を歩くという、世界中の常識を根底から覆す映像。
カメラの記録容量が惜しくなるほど、次々と歴史的瞬間が収められていった。
「よし!」
最後の撮影場所を終えたハルトは、大きく伸びをする。
「こんなもんかな!」
結衣はカメラを確認しながら笑う。
「こんなもんじゃないわよ。」
「これ一本で何本分の再生数稼ぐつもりなの。」
「え?」
「何千万再生くらい?」
「その感覚がおかしいのよ。」
聖奈も満足そうに微笑む。
「勇者様。」
「本日も素晴らしい映像になりました。」
「そうかな?」
「はい。」
「これほど価値のある映像は世界中探しても存在しません。」
「そう言われると照れるな。」
凛もうなずいた。
「前例なし。」
「再現不能。」
「唯一。」
「つまり。」
「炎上しても『CG』で片付けられます。」
「そこなの?」
結衣が思わず吹き出した。
「ある意味、一番平和かもしれないわね。」
四人は笑い合う。
そして。
ハルトは最後のカメラへ向き直った。
「それじゃあ!」
深海を背景に、いつもの笑顔を浮かべる。
「今回は人類未踏の深海を探索してきました!」
後ろでは無数の発光生物が幻想的に漂っている。
まるで宇宙のような景色だ。
「動画でどこまで伝わるかわからないけど!」
「実際に見ると、本当にすごかった!」
「暗くて怖い場所だと思ってたけど。」
「そこにはちゃんと命があって、俺たちの知らない世界が広がってた。」
少しだけ真面目な表情になる。
「世界って、まだまだ知らないことだらけなんだな。」
そしてすぐに、いつもの笑顔へ戻った。
「また面白い場所を見つけたら紹介するから!」
「チャンネル登録と高評価!」
「よろしくお願いします!」
お決まりのポーズ。
結衣が親指を立てる。
「オッケー!」
「カット!」
撮影終了。
深海探索は無事成功した。
全員が潜水艇へ戻ると、後部ハッチが静かに閉じられる。
結界を解除すると同時に、再び彼らは"人類の常識"の中へ戻ってきた。
「浮上を開始します。」
操縦士の声と共に、潜水艇はゆっくりと上昇を始める。
モニターの水深表示が少しずつ減っていく。
六千メートル。
五千メートル。
四千メートル。
誰もが興奮冷めやらぬ様子だった。
「編集楽しみだなぁ。」
ハルトは撮影データを眺めながら笑う。
「絶対いい動画になる。」
「コメント欄、大荒れでしょうね。」
結衣は苦笑する。
「『CG乙』が九割。」
「『合成お疲れ様です』が一割。」
「でも。」
ハルトは楽しそうに笑った。
「実際に本物だからな。」
「それが一番面白い。」
窓の外を見る。
深い闇は少しずつ青へ変わり。
やがて。
眩しい太陽の光が差し込んできた。
「帰ってきたな。」
そうつぶやきながら、ハルトは小さく息を吐く。
今日もまた、誰にも真似できない動画が一本完成した。
これが、炎の勇者チャンネル。
俺たちらしい一本だ。
――――――
夜。
一室の配信部屋。
部屋全体を包む淡い間接照明。
壁には神秘的な装飾が施され、机の上には水晶球や古びた書物、星を象った小物が並んでいる。
まるで本物の神託を授かる巫女の部屋。
その中央で、一人の少女が静かに目を閉じていた。
長い栗色の髪。
どこか幼さの残る整った横顔。
しかし、その表情には不思議な神聖さが宿っている。
配信者名――
『ベネルディス』
彼女はゆっくりと両手を胸の前で組み、小さく祈る。
「我が導き手よ……。」
「今日も、お言葉をお授けください。」
静寂。
数秒後。
少女はゆっくりと顔を上げた。
まるで誰かの声が聞こえたかのように。
「……そうですか。」
その瞳が優しく細められる。
「今、ですか。」
誰もいない部屋。
それでも彼女は、目の前に誰かがいるように微笑んだ。
「はい。」
「わかりました。」
彼女の耳に届くのは。
誰にも聞こえない神託。
どこか気の抜けた、それでいて世界の理を知り尽くしているような、不思議な声。
『うん、大丈夫。』
『そろそろ行ってみようか。』
『今なら、きっと間に合う。』
『縁っていうのはさ、早すぎても遅すぎても駄目なんだ。』
『でも今日はちょうどいい日だよ。』
『だから安心して進んでおいで。』
『俺が繋いだ道だから。』
少女はその言葉を胸に刻むように深くうなずく。
「はい。」
「私は、その御導きに従います。」
静かに立ち上がる。
迷いはない。
彼女はコートを羽織り、部屋の明かりを落とした。
「……もうすぐ、お会いできるのですね。」
その言葉が誰へ向けられたものなのか。
まだ誰も知らない。
夜の街へ踏み出した少女の瞳には、確かな期待が宿っていた。
新たな出会いは、すぐそこまで迫っている。
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投稿した動画のコメント
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【動画タイトル】
『【人類初】生身で深海6800mを歩いてみた。』
【再生数:1億3,847万回】
【高評価:892万】
【コメント:41万件】
『いやタイトルから意味が分からんwww』
『また勇者チャンネルがやらかした』
『CG班が過労死するぞ』
『今回はさすがに合成だろ』
『サムネからして嘘で草』
『毎回「今回はCG」って思うのに結局最後まで見ちゃう』
『海底を歩く高校生とは』
『深海散歩とかいうパワーワード』
『潜水艇の設備だけで映画一本撮れそう』
『聖奈さん「最低限です」は今年一番笑った』
『最低限(数十億円)』
『結衣ちゃんのツッコミだけが唯一の常識』
『凛さんが毎回物騒で好き』
『魚を敵認定するなwww』
『勇者だけ常識がおかしいシリーズ最新作』
『深海で「暗いから明るくするか」は意味不明すぎる』
『ライトじゃなくて太陽作ってて草』
『あの光魔法っぽい演出どうやって撮ってるんだ』
『CGだとしても制作費どうなってんの』
『西園寺グループ本気出しすぎ』
『西園寺グループの広報「弊社は撮影協力しました」←いや協力のレベルじゃない』
『企業案件のスケールがおかしい』
『専門家だけど潜水艇の内装がガチすぎる』
『海洋工学やってるけどあの潜水艇だけでも国家プロジェクト級』
『深海研究者です。潜水艇の描写が妙にリアルで困る』
『いやでも途中から全部リアルじゃなくなるんですが』
『深海生物の動きが自然すぎる』
『あんな映像CGで作ったら制作会社が倒産する』
『発光生物の群れ綺麗すぎて泣いた』
『途中から普通に感動してた』
『深海って怖い場所だと思ってたけど神秘的なんだな』
『最後の魚と見つめ合うシーン好き』
『あそこ映画だった』
『BGMなしなのが逆に良かった』
『「世界ってまだまだ知らないことだらけなんだな」でちょっと泣いた』
『コメント欄「CG乙」→本人「本物だからな」好きすぎる』
『CG派だけど勇者なら本当にやりそうで困る』
『最近「本物説」を完全には否定できなくなってきた』
『↑病院行けw』
『↑でもこのチャンネルだけは毎回説明つかないんだよな』
『海外から来ました。字幕ありがとう』
『This is impossible... but amazing.』
『What did I just watch??』
『海外ニキ「Anime became reality」』
『Netflixより金かかってそう』
『いや国が予算出しても無理だろ』
『次回予告ないの逆に怖い』
『嫌な予感しかしない』
『絶対また常識壊しに来る』
『次回も楽しみにしてます!』




