第37話 三つ巴の愛、それぞれの誓い
黒沼摩夜は、自室の窓から差し込む朝日をぼんやりと眺めていた。
昨日まで慌ただしく動き続けていた情報霊脈――インターネットの流れは、今では驚くほど静かだ。
あれほど各方面へ飛び交っていた通信。
あれほど危険な速度で拡散していた情報。
そして、警察内部で密かに進んでいた調査。
その全てが、不自然なほど綺麗に止まっていた。
「……おかしい」
小さく呟く。
術式演算器――ノートパソコンの画面には、昨夜から収集し続けた膨大な情報が並んでいる。
摩夜は何度もログを確認した。
通信履歴。
内部記録。
削除された痕跡。
警察関係者の動き。
どれを見ても同じ結論へ辿り着く。
「私じゃない」
今回、自分は確かに動いた。
ハルトへ繋がる情報を消し、証拠を改ざんし、関係者の端末にも侵入した。
だが――。
「遅かった」
警察上層部まで話が届き始めていた。
あのままなら、自分だけでは完全には止め切れなかった。
だから覚悟していた。
いずれ、勇者様の存在へ近付く者が現れるかもしれないと。
しかし。
結果だけ見れば。
全てが途中で止まっていた。
命令系統そのものが遮断されたように。
誰かが、さらに上から蓋をしたように。
「権力……」
摩夜は静かに目を閉じる。
「情報じゃない。」
「もっと現実的な力。」
自分は情報戦なら負けない。
世界最高峰の防御結界でも五秒あれば侵入できる。
国家機関だろうと企業だろうと、術式の穴は必ず存在する。
だが。
今回動いた誰かは違う。
侵入したのではない。
最初から中にいた。
権限そのものを持っていた。
「……なるほど。」
自然と、一人の少女の顔が浮かぶ。
西園寺聖奈。
西園寺グループ令嬢。
異世界では王女。
そして現代では、日本でも指折りの巨大財閥を背負う存在。
「君なら……出来る。」
いや。
正確には。
「君しか出来ない。」
そこまで考えたところで、摩夜はもう一人の姿を思い浮かべた。
剣崎凛。
あの真面目な騎士なら。
聖奈が命じれば迷わず動く。
護衛。
連絡。
証拠回収。
現場対応。
足となって動く役目なら、誰よりも適任だった。
「……確認する。」
独り言のように呟き、摩夜は立ち上がった。
知りたい。
なぜ自分まで助けたのか。
ハルトを守るためだけなら理解できる。
だが。
今回、自分の痕跡まで綺麗に隠されていた。
あれは明らかに意図的だった。
「私を助ける理由なんて……」
そこまで口にして、言葉が止まる。
すぐに首を横へ振った。
「いや。」
「考えても分からない。」
「本人に聞く。」
コートを羽織り、部屋を出る。
向かう先は決まっていた。
青葉高校近く。
炎の勇者チャンネルが打ち合わせにも利用している、西園寺グループ所有のラウンジだった。
――――――
高級ホテルを思わせる静かなラウンジ。
磨き上げられた大理石の床。
柔らかな日差しが大きな窓から差し込み、落ち着いた空気を作り出している。
受付を通されると、案内された個室には既に二人の少女が座っていた。
「いらっしゃい、摩夜さん。」
穏やかな笑みを浮かべる聖奈。
隣には背筋を真っ直ぐ伸ばした凛が座っている。
「来ると思っていました。」
「……そう。」
摩夜は二人を見比べた。
警戒も敵意もない。
むしろ、最初から待っていたような表情だった。
「こんにちは、摩夜さん。」
凛が静かに頭を下げる。
「久しぶり。」
摩夜も短く返した。
以前なら、この二人と向かい合うだけで胸の奥がざわついていた。
勇者様の隣を当然のように歩く恋敵。
財力も。
武力も。
自分にはないものを持つ存在。
そう思っていた。
だが今日は違う。
二人を見る視線の中に、以前ほどの棘はない。
それでも、確かめなければならないことがある。
聖奈は紅茶を勧めるように手を差し出した。
「立ったままでは話しづらいでしょう。」
「どうぞ、お掛けください。」
「……ありがとう。」
摩夜は静かに腰を下ろした。
三人の間に、一瞬だけ静寂が流れる。
誰も焦らない。
誰も先を急がない。
それでも。
この場に集まった理由は、三人とも同じだった。
摩夜は紅茶へ手を伸ばすことなく、真っ直ぐ聖奈を見つめる。
「一つだけ聞きたい。」
その一言に、聖奈は穏やかに微笑み返した。
「ええ。」
「私も、その質問を受けるためにお呼びしました。」
その返答だけで十分だった。
摩夜は静かに息を吐く。
やはり――相手も全て分かった上で待っていたのだ。
摩夜の問いを受けても、聖奈は慌てる様子を見せなかった。
まるで、この場面が来ることを最初から分かっていたかのように、ゆっくりと紅茶のカップを置く。
「どこからお話ししましょうか。」
「最初から。」
摩夜は即答した。
「どうやって気付いたの。」
「……そうですね。」
聖奈は少しだけ視線を伏せ、静かに言葉を選び始めた。
「最初は、ほんの小さな違和感でした。」
「違和感?」
「ええ。」
「勇者様が動画を投稿されてから、私どもの法務部門や広報部門には、毎日のように様々な問い合わせが届きます。」
「企業からのものもあれば、報道関係、行政機関、海外組織……本当に様々です。」
「ですから、ある程度は流れを把握しています。」
摩夜は静かに耳を傾ける。
確かに、それなら情報は自然と集まる。
自分のように違法な侵入など必要ない。
正規の窓口へ、向こうから情報が集まってくる立場なのだ。
「ですが今回は少し違いました。」
聖奈の声色が少しだけ真剣になる。
「問い合わせの内容が変わったのです。」
「映像制作についてではなく。」
「動画の安全性でもなく。」
「勇者様ご本人について調べるような問い合わせが増え始めました。」
摩夜の瞳が細くなる。
「……個人情報。」
「ええ。」
「最初は学校。」
「その次は住所。」
「交友関係。」
「ご家族。」
「過去の経歴。」
「そして。」
一拍置く。
「動画とは無関係な情報まで調査が始まりました。」
「その時点で私は、誰かが勇者様そのものへ興味を持ち始めたのだと判断しました。」
摩夜は小さく頷く。
そこまでは、自分も把握していた流れだ。
問題は、その先だった。
「だから調べた。」
「はい。」
「もちろん違法なことはしていません。」
そう言って聖奈は少しだけ苦笑する。
「私には、そうする必要がありませんから。」
財閥令嬢らしい言葉だった。
必要な情報は、専門部署が集めてくる。
それが西園寺グループという巨大組織なのだ。
「報告を受けた結果、一部の警察関係者が動いていることが分かりました。」
「それで確信しました。」
「これは企業対応では終わらない、と。」
部屋の空気が少しだけ張り詰める。
凛も静かに表情を引き締めていた。
「勇者様は……。」
聖奈は穏やかな笑みを浮かべる。
「悪いことは何一つしていません。」
「ですが。」
「理解できない力を持つ人間は、それだけで調べられる理由になります。」
「私は、それが嫌でした。」
その一言には、王女だった頃の面影が滲んでいた。
国を守る者として。
民を守る者として。
そして今は、一人の少女として。
最愛の相手を守りたいという、揺るがない意思。
「勇者様は目立ちたがりです。」
「けれど。」
「望まない形で追われることまでは、きっと望んでいません。」
摩夜は黙って聞き続ける。
その考えは、自分と全く同じだった。
「だから私は、お祖父様へ相談しました。」
「西園寺グループ総帥。」
「ええ。」
聖奈はあっさりと認める。
「もちろん、勇者様が魔法を使うなどという話はしていません。」
「ただ。」
「大切な友人が、不当な形で調査対象になりそうだと。」
「それだけを。」
「……信じたの?」
「信じてくださいました。」
聖奈は少しだけ誇らしげに微笑む。
「お祖父様は私を甘やかす方ではありません。」
「ですが、人を見る目は確かです。」
「私がそこまで言う以上、理由があるのだろう、と。」
摩夜は心の中で納得する。
なるほど。
だから動きが早かった。
巨大組織の頂点に立つ人間が一度動けば、その影響は警察上層部にまで及ぶ。
自分がどれほど情報を書き換えても届かない場所へ、最初から手が届く。
「それで。」
摩夜は静かに尋ねた。
「何をしたの。」
聖奈は迷うことなく答える。
「正式なルートで、お話ししただけです。」
「この件は慎重に扱っていただきたい、と。」
「憶測だけで学生の将来を左右するような調査は望ましくない、と。」
「西園寺グループとして意見を申し上げました。」
その言葉は柔らかい。
だが、その一言が持つ重みは計り知れない。
巨大財閥の総帥から届けられた"お願い"が、実質的には命令に近い影響力を持つことくらい、摩夜にも理解できた。
「もちろん。」
聖奈は続ける。
「全てが思い通りになるとは考えていません。」
「今回止まっても、また別の誰かが動くかもしれない。」
「だから。」
そこで初めて、聖奈は凛へ優しく視線を向けた。
凛は静かに頷くだけだった。
「私一人では足りませんでした。」
「だから凛さんにも協力をお願いしたのです。」
「うん。」
凛は短く返事をした。
「私は、聖奈さんに言われた通り動いただけ。」
それだけ言って、再び静かに口を閉じる。
まるで、自分の役目はまだ先だと言わんばかりに。
凛の短い返答を受け、聖奈は穏やかな表情のまま話を続けた。
「私には一つだけ、はっきりしていたことがありました。」
「私一人では現場を動けない、ということです。」
摩夜は黙って頷く。
西園寺聖奈という存在は、あまりにも目立ちすぎる。
どこへ行っても人目につく。
だからこそ、最終的な判断や指示は出せても、自ら現場を駆け回ることは難しい。
「私が動けば、それだけ周囲も動きます。」
「秘書も、護衛も、運転手も。」
「それでは逆に目立ってしまいますから。」
「……だから凛。」
「はい。」
聖奈は自然に頷いた。
「私が最も信頼できて、勇者様を第一に考えられる人。」
「そして、状況に応じて柔軟に動ける人。」
「それが凛さんでした。」
凛は少し照れくさそうに視線を逸らす。
「そんなに大したことは……。」
「あります。」
聖奈は柔らかく微笑んだ。
「凛さんだからお願いしたのです。」
その言葉に、凛はそれ以上何も言わなかった。
代わりに背筋を伸ばし、静かに座り直す。
その姿は、まるで王女から任務を受ける騎士そのものだった。
「最初にお願いしたのは。」
聖奈は指を軽く組みながら説明する。
「勇者様の周囲を確認していただくことでした。」
「周囲?」
「ええ。」
「学校。」
「通学路。」
「動画撮影で利用した場所。」
「そして、勇者様へ接触しようとしている人物。」
摩夜は僅かに目を見開く。
「……監視。」
「護衛です。」
聖奈は即座に訂正した。
「勇者様は、ご自分では危険を危険だと認識されません。」
「ですから、近くで見ていてくれる人が必要でした。」
「それに……。」
少しだけ苦笑する。
「私が直接見に行けば、勇者様に気付かれてしまいますから。」
その光景を想像したのか、凛が小さく笑った。
「ハルトは勘がいいから。」
「うっかり会ったら、すぐ理由を聞かれる。」
「ええ。」
聖奈も笑みを返す。
「ですので、凛さんには自然な形で動いていただきました。」
摩夜は静かに凛へ視線を向けた。
「具体的には?」
突然話を振られた凛は、一瞬だけ戸惑ったように瞬きをした。
「えっと……。」
「そんなに特別なことはしてないよ。」
「学校では普段通り。」
「でも、下校するときは少し周りを見ながら歩いたり。」
「知らない人が校門の近くで待ってないか確認したり。」
「動画を撮った場所にも何回か行ったかな。」
「変な人が聞き込みしてないかとか。」
話しながらも、まるで当然のことを口にしているような表情だった。
「あと。」
少し考えてから続ける。
「知り合いにも、それとなく聞いた。」
「最近変わったことなかった? って。」
「それで、小さな情報でも全部聖奈さんへ。」
「私は報告を受けて整理し、必要なものだけお祖父様へお伝えしました。」
聖奈が自然に言葉を引き継ぐ。
摩夜は心の中で舌を巻いていた。
無駄がない。
聖奈は全体を見渡す指揮官。
凛は現場を走る実働部隊。
情報を集める者と、それを判断する者。
役割が綺麗に噛み合っている。
「それから。」
聖奈は少しだけ表情を引き締めた。
「凛さんには、もう一つお願いしました。」
「……私。」
その一言で、摩夜は察した。
「そう。」
聖奈は摩夜を真っ直ぐ見つめる。
「あなたのことです。」
部屋の空気が静かに張り詰める。
「私?」
「ええ。」
「私は最初から思っていました。」
「今回、勇者様を守るために動いているのは、私たちだけではないと。」
摩夜の胸が、小さく波打つ。
「あなたなら、必ず動く。」
「勇者様のためなら、誰よりも早く。」
「そう信じていました。」
聖奈は微笑む。
「ですから凛さんには。」
「もし摩夜さんと遭遇しても、決して邪魔をしないようお願いしました。」
「むしろ。」
「困っているようなら力になってあげてほしい、と。」
凛は静かに頷く。
「実際には、直接手伝う場面はなかったけど。」
「でも、摩夜が動いてる場所には近付かないようにしてた。」
「邪魔になったら意味ないから。」
その言葉を聞いた瞬間。
摩夜は全てが繋がった気がした。
だから自分の行動は、最後まで不自然な妨害を受けなかった。
だから現場で余計な混乱も起きなかった。
自分が見えていなかっただけで、別の場所では凛が道を整え、聖奈がそのさらに後ろから盤面全体を支えていたのだ。
まるで、それぞれが違う役割を持つ一つの部隊のように。
摩夜は静かに目を閉じた。
今まで胸の奥に引っ掛かっていた違和感が、ゆっくりとほどけていく。
聖奈は財力で支えた。
凛は現場で支えた。
そして自分は情報で支えた。
三人は互いに連絡を取り合っていたわけでもない。
それでも、目指した先は同じだった。
勇者を守ること。
ただ、それだけ。
「……なるほど。」
摩夜は小さく息を吐いた。
「最初から、敵じゃなかった。」
その言葉に、凛が少しだけ目を丸くする。
「摩夜……。」
「勘違いしてた。」
摩夜は自嘲するように小さく笑った。
「私はずっと、あなたたちを恋敵としてしか見てなかった。」
「勇者様の隣を奪い合う相手。」
「だから警戒してた。」
一拍置く。
「でも。」
「今回分かった。」
静かな声だった。
「あなたたちは、勇者様のためなら私まで助ける。」
「そんな人たちだった。」
部屋に穏やかな空気が流れる。
聖奈は優しく微笑み、凛もどこか安心したように肩の力を抜いた。
「ええ。」
聖奈はゆっくり頷く。
「私たちは恋敵です。」
「その事実は変わりません。」
「ですが、それよりも先に。」
真っ直ぐ摩夜を見る。
「勇者様を支える仲間です。」
その言葉には迷いがなかった。
「私にとって一番大切なのは、勇者様が笑っていてくださること。」
「勇者様が安心して学校へ通い、動画を撮影し、毎日を楽しめること。」
「そのためなら。」
「私は誰とでも手を取り合います。」
摩夜は黙って聞いていた。
王女らしい答えだった。
個人の感情よりも、守るべきものを優先する。
異世界で何度も見てきた、あの頃と変わらない姿だった。
聖奈は静かに紅茶を一口飲み、再び口を開く。
「ですから。」
「ここで一つ、ご提案があります。」
「提案?」
「はい。」
聖奈の表情が少しだけ引き締まる。
「私たちは、この先も勇者様の周囲で様々な問題に直面するでしょう。」
「今回のようなことも、きっと一度では終わりません。」
「情報。」
「社会。」
「企業。」
「あるいは、私たちと同じように前世の記憶を持つ方々。」
「何が起きても、おかしくありません。」
摩夜も否定しなかった。
むしろ、自分が一番よく理解している。
今回ですら警察が動いた。
勇者の力が世界へ広がれば、今後は国家や海外組織さえ無関係ではいられない。
「だから。」
聖奈は穏やかな笑みを浮かべる。
「正式に同盟を結びませんか。」
その一言に、部屋が静まり返った。
恋敵同士。
それも全員が本気でハルトを愛している者同士。
普通なら決して成立しない提案だった。
しかし、不思議と誰も笑わなかった。
聖奈は静かに続ける。
「もちろん。」
「条件は一つだけです。」
「一つ?」
「ええ。」
聖奈は迷いなく言い切る。
「勇者様のことを、誰よりも第一に考えて行動すること。」
摩夜も凛も、自然と表情が真剣になる。
「私たちは皆、勇者様をお慕いしています。」
「だからこそ、ときには自分の願いを優先したくなることもあるでしょう。」
「もっと一緒にいたい。」
「自分だけを見てほしい。」
「隣に立ちたい。」
「そう思う気持ちは、私にもあります。」
聖奈は少しだけ照れたように微笑んだ。
「ですが。」
「その願いが勇者様を困らせるのであれば。」
「勇者様の負担になるのであれば。」
「その時は、自分の気持ちを抑えましょう。」
その言葉は、自分自身にも向けられていた。
「勇者様が笑っていてくださるなら。」
「それが私たちにとって、一番大切なこと。」
「それだけは、誰も譲らない。」
凛は迷うことなく頷いた。
「賛成。」
「私は主のためなら、自分の気持ちは後でいい。」
「主が困るくらいなら、何でも我慢できる。」
あまりにも即答だった。
その真っ直ぐさに、聖奈は苦笑しながらも優しく微笑む。
「ただし。」
聖奈は少しだけ声を和らげる。
「誤解しないでくださいね。」
「恋を諦めましょう、という話ではありません。」
「勇者様にご迷惑をお掛けしない範囲であれば。」
「ご自分が望む形で勇者様と結ばれるために努力することまで止めるつもりはありません。」
「私も。」
少しだけ頬を赤く染めながら続ける。
「勇者様のお隣に立ちたいと思っていますから。」
凛も真面目な顔のまま頷いた。
「私も。」
「できれば、お仕えするだけじゃなくて……その。」
珍しく言葉に詰まり、小さく視線をそらす。
「夫婦、にも……なれたら、嬉しい。」
最後は消え入りそうな声だった。
聖奈は思わず口元を押さえて微笑む。
摩夜も一瞬だけ目を丸くしたあと、小さく息を漏らした。
「……正直。」
「そういうところは嫌いじゃない。」
凛は首を傾げる。
「嫌いじゃない?」
「隠さないところ。」
「分かりやすい。」
「私はもっと面倒。」
摩夜は少しだけ目を伏せる。
「独占したい。」
「本当は、君たちに譲る気なんてなかった。」
「勇者様は私だけを選べばいいと思ってた。」
静かな告白だった。
誰も否定しない。
それが摩夜という少女なのだから。
「でも。」
摩夜はゆっくりと顔を上げた。
「今回だけは認める。」
「あなたたちは勇者様を守る仲間。」
「仲間なら。」
「私も守る。」
「勇者様のためなら。」
「あなたたちにも協力する。」
聖奈は柔らかく微笑んだ。
凛も嬉しそうに笑みを浮かべる。
恋敵。
けれど仲間。
互いに譲れない想いを抱えたまま、それでも同じ人を支える者たち。
奇妙で、けれど誰よりも強い同盟が、この瞬間に静かに結ばれたのだった。
――――――
「……というわけで。」
ハルトは自室の机へ資料を広げながら、大きく伸びをした。
「ようやく一段落だな。」
「だねぇ。」
ベッドへ腰掛けていた結衣も、ほっとしたように笑う。
ここ最近は動画撮影どころではなかった。
炎上騒動。
警察の動き。
学校での対応。
企業とのやり取り。
表から見える問題もあれば、ハルトの知らないところで仲間たちが動いていた出来事もある。
そんな慌ただしい日々が続いていた。
だからこそ。
こうして二人だけで、いつものようにハルトの部屋へ集まる時間が、どこか懐かしく感じられた。
「久しぶりだな。」
「こうやって次の動画の相談するの。」
「ほんとだよ。」
結衣はくすりと笑う。
「最近は会うたびにトラブルの話ばっかりだったもん。」
「学校でもそんな感じだったし。」
「確かに。」
ハルトも苦笑する。
「せっかく動画活動始めたのに、撮影より対応してる時間の方が長かった気がする。」
「でも。」
結衣は優しく笑った。
「ちゃんと乗り越えられたじゃん。」
「みんなのおかげだよ。」
「そうだな。」
ハルトは素直に頷いた。
聖奈。
凛。
摩夜。
そして結衣。
仲間たちがいてくれたから、今こうしてまた動画の話ができる。
それだけで十分だった。
「じゃあ!」
結衣はぱんっと両手を合わせる。
「今日から気持ち切り替えて!」
「次の動画会議だー!」
「おー。」
ハルトも笑いながら拳を軽く上げる。
その反応だけで、結衣は満足そうに頷いた。
「で!」
「次は予定通り、あれで行くんだよね?」
「ああ。」
ハルトは机の上に置いてあった一枚のメモを手に取る。
そこには、以前から考えていた企画がいくつも書き込まれていた。
火山。
宇宙。
雷雲。
超高層大気。
そして、その中の一つへ丸が付いている。
「次は深海。」
「おお!」
結衣の目がきらきらと輝いた。
「ついに!」
「ずっとやろうって言ってたもんね!」
「前から候補には入れてたからな。」
ハルトはメモを見ながら頷く。
「炎上とかで予定が後ろにずれただけで、本当はもう少し早く撮るつもりだった。」
「だよねぇ。」
結衣も思い出したように頷く。
「前に海の話してるとき、『深海は絶対面白い』って言ってたもん。」
「あれだけ未知の世界だからな。」
ハルトは自然と熱が入っていく。
「地上より行けてない場所が多いし。」
「水圧も桁違い。」
「光も届かない。」
「変わった生き物も山ほどいる。」
「普通じゃ絶対見られない景色ばかりだ。」
「絶対人気出るよ!」
結衣も身を乗り出す。
「コメント欄も盛り上がりそう!」
「『また宇宙行って!』とか言われそう!」
「その前に深海を見せないとな。」
ハルトは笑いながら資料をめくる。
「今回はただ潜るだけじゃない。」
「せっかくなら、普段誰も見られない場所まで行きたい。」
「もちろん、安全第一だけど。」
「そこはハルトだから大丈夫でしょ。」
「まあな。」
異世界で魔王軍と戦い続けた勇者にとって、水圧程度は問題にならない。
むしろ重要なのは。
「どう撮れば面白く見えるか、だな。」
「うんうん。」
「視聴者さんが『こんなの初めて見た!』って思える映像がいい。」
「そこは編集も頑張る!」
結衣は胸を張る。
「任せて!」
「撮るのはハルト!」
「編集は私!」
「最高の動画にしよう!」
「了解。」
二人は顔を見合わせ、自然と笑った。
久しぶりに感じる、この空気。
何も考えず、純粋に面白い動画を作ることだけを考える時間。
それこそが、炎の勇者チャンネルの原点だった。
「よし。」
ハルトは立ち上がる。
「準備だけは今日のうちに済ませておくか。」
「おっけー!」
結衣も元気よく立ち上がる。
「久しぶりの撮影!」
「気合い入れていこー!」
こうして。
炎の勇者チャンネル、久々の本格撮影が始まろうとしていた。
次なる舞台は――人類がいまだその全てを知り得ない、深く青い海の底。
光さえ届かない未知の世界で、勇者は一体どんな景色を視聴者へ届けるのか。
その冒険は、もうすぐ始まる。




