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『承認欲求強めの最強勇者、魔法動画でバズって前世のヒロインたちを召喚してしまう~今世の幼馴染が管理しきれないほど愛が重すぎる~』  作者: 悪癖


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第36話 電脳の魔女、警察網を焼き尽くす

 警視庁サイバー犯罪対策課。


 深夜が近づき、人の気配も少なくなった執務室には、キーボードを叩く音だけが静かに響いていた。


 佐伯はコーヒーを一口飲みながら、自席へ腰を下ろす。


 その向かいでは相馬がノートパソコンを開き、先ほどまで現場で集めた情報を整理していた。


「……やっぱり報告書、今日中に上げますか」


「ああ。時間を置くほど危険だ」


 佐伯は短く答える。


「相手はモルガナだ。考える時間を与えたら負ける」


 その言葉に相馬は苦笑した。


「ですよね」


 二人とも疲れていた。


 だが、それ以上に緊張していた。


 相手は世界最高峰クラスのブラックハッカー。


 しかも今回はこちらの動きを完全に把握している可能性が高い。


 だからこそ。


「ネットワーク接続前にバックアップ確認」


「完了」


「オフライン媒体への複製」


「完了」


「通信開始」


「了解」


 手順を一つも省かない。


 日頃から訓練している流れだった。


 相馬が警察内部ネットワークへ接続した、その瞬間だった。


 ピコン。


 軽い通知音。


 画面が一瞬だけ黒く染まる。


「……来た」


 相馬が息を飲む。


 次の瞬間。


 警察支給スマートフォンの画面が白く点滅した。


 そして。


『初期化しています』


 無機質な文字が表示される。


「スマホが飛んだ!」


 ほぼ同時だった。


 執務室中から、次々と電子音が鳴り響く。


 ピピッ。


 ピコン。


 ブブッ。


「おい、俺のも!」


「こっちもだ!」


「何だこれ!」


 机に置かれた警察支給スマートフォン。


 タブレット。


 ノートパソコン。


 デスクトップ端末。


 ネットワークへ接続されていた機器が、一斉に同じ画面へ切り替わる。


『初期化しています』


 その表示だけを残して。


 データが消えていく。


「始まったか」


 佐伯は立ち上がると、表情一つ変えずに机の引き出しを開けた。


「覚悟していたけど……なりふり構わずって感じだな」


 その口調に焦りはない。


 想定内。


 最悪の想定、その範囲内だった。


「相馬!」


「はい!」


「ネットワーク遮断!」


「実施!」


 相馬が即座に物理スイッチを押す。


 警察内部ネットワークとの接続が切断される。


 しかし。


「止まりません!」


「当然だ」


 佐伯は即答した。


「侵入された時点で術式……いや、プログラムは走ってる」


 思わず異世界じみた表現を使い、自分で苦笑する。


「ハッカー相手に毒されたか」


「笑ってる場合ですか!」


「笑うしかないだろ」


 デスクトップ画面が暗転する。


 再起動。


 メーカーのロゴ。


 そして。


『ようこそ』


「工場出荷状態……!」


 相馬は思わず声を上げた。


「完全初期化です!」


「容赦ねぇな」


 佐伯は腕を組む。


 モルガナ。


 これがあの女の返答か。


 証拠を消す。


 調査能力を奪う。


 それだけではない。


 こちらへ向けた警告でもある。


『ここから先へ踏み込むな』


 そんな無言の意思表示だった。


 しかし。


「甘い」


 佐伯は静かに呟く。


「……え?」


「俺たちが相手にしてきたのは、こういう連中だ」


 相馬もすぐ理解した。


 だからこそ。


 サイバー犯罪対策課には、通常部署には存在しない手順がある。


「第三保管庫を開けます!」


「ああ」


 相馬が部屋を飛び出す。


 数分後。


 両手いっぱいに銀色のケースを抱えて戻ってきた。


 ケースには封印シール。


 開封日時を書く欄。


 そして。


『ネットワーク接続禁止』


 赤い文字。


 佐伯はそのケースを受け取り、小さく笑う。


「現代じゃ珍しい代物だろ」


 ケースを開く。


 中から現れたのは。


 古いノートパソコン。


 無線機能を物理的に取り外された特殊端末だった。


「完全オフライン機……」


「モルガナが相手なら、これくらいは準備しておく」


 さらに。


 封筒。


 紙。


 ボールペン。


「最後に信用できるのは紙だ」


「ですよね」


 二人は頷いた。


 電子機器は裏切る。


 ネットワークは奪われる。


 ならば。


 人の手で書く。


 人の足で運ぶ。


 それが最後の砦だった。


 佐伯は白紙へペンを走らせる。


『一ノ瀬晴人』


 その名前を書いた瞬間。


 執務室の蛍光灯が一瞬だけ明滅した。


 パチッ。


 パチッ。


 相馬が天井を見上げる。


「……まだいる」


「ああ」


 佐伯も視線を上げた。


「見られてるな」


 モルガナは諦めていない。


 報告を止めようとしている。


 それでも。


 佐伯はペンを止めなかった。


「なら見てろ」


 静かな声だった。


「俺たちも、ここで止まる気はない」


 紙へ刻まれる文字だけが、静まり返った執務室に乾いた音を響かせ続けていた。



――――――



 都内、高層マンション最上階。


 部屋の照明は落とされたまま。


 何枚ものモニターだけが青白い光を放っていた。


 その中央で、黒沼摩夜は静かに画面を見つめている。


「……なるほど。」


 小さく呟く。


「そこまで想定してた。」


 モニターには警視庁内部の監視情報が映し出されていた。


 正確には。


 監視しているのは警察そのものではない。


 警察庁舎周辺で観測できる膨大な情報だった。


 通信量。


 電力消費。


 施設内ネットワークの状態。


 警察車両の位置。


 建物へ出入りする職員証の認証記録。


 直接侵入できなくても。


 周辺情報を積み重ねれば、内部で何が起きているかはある程度推測できる。


 そして今。


「内部回線が全部落ちた。」


「でも人の動きは止まってない。」


「つまり……代替手段。」


 モニターへ新たな情報が重なる。


 警察署内の防犯カメラ。


 周辺道路。


 駐車場。


 職員用出入口。


「紙。」


 即答だった。


「現代でも最後は紙。」


 前世でもそうだった。


 魔法通信が妨害された時代。


 最後まで頼れたのは人間の足だった。


 世界が違っても、本質は変わらない。


「非合理的。」


 だが。


「だから強い。」


 摩夜は椅子へ深く座り直した。


「なら。」


「人を止める。」


 キーボードを叩く。


 次々と新しい画面が開く。


 交通情報。


 道路監視。


 鉄道運行。


 タクシー配車。


 信号制御。


「運ぶなら道路。」


「もしくは鉄道。」


「徒歩は最後。」


 解析は数秒。


 彼女の指が止まることはない。


「……見つけた。」


 警察署地下駐車場。


 普段使われない公用車が一台。


 エンジン始動。


 行き先未登録。


「それ。」


 摩夜は小さく呟く。


「報告書。」


 画面がさらに切り替わる。


 その車両に搭載された通信機器。


 カーナビ。


 車載回線。


 整備履歴。


「古い。」


「防御結界……じゃない。」


「暗号化も弱い。」


 指先が踊る。


 数万行にも及ぶコードが流れ始める。


 侵入。


 ではない。


 摩夜は画面を見つめながら首を横へ振った。


「壊すだけなら簡単。」


「でも。」


「事故は駄目。」


「人も傷付けない。」


 勇者なら。


 絶対にそう言う。


 だから。


 彼女もそうする。


「止まればいい。」


 目的は一つ。


 目的地へ着かなければいい。


 送信。


 数秒後。


 地下駐車場。


 エンジンが突然停止した。


「何だ?」


「また故障か!」


 整備員が駆け寄る。


 セルモーターは回る。


 しかし始動しない。


 警告灯だけが点滅を繰り返していた。


 その間にも。


 摩夜は次を見ていた。


「代車。」


 当然。


 警察も一台では終わらない。


 二台目。


 三台目。


 四台目。


 それぞれ別系統。


 別メーカー。


 別管理。


 しかし。


「全部。」


「情報霊脈には繋がってる。」


 次々と故障表示が現れる。


 ナビ異常。


 電子キー認証失敗。


 燃料センサー異常。


 ブレーキ警告。


 どれも致命的ではない。


 だが。


 警察が運用を止めるには十分だった。


 摩夜は静かに息を吐く。


「十分。」


「これで時間は稼げる。」


 だが。


 次の瞬間。


 彼女の表情が初めてわずかに動いた。


「……?」


 モニターへ映る映像。


 地下駐車場。


 佐伯。


 相馬。


 二人が車から離れていく。


「乗らない?」


 そのまま。


 倉庫へ向かう。


 そして。


 古びた段ボール箱を抱えて戻ってきた。


 中から現れたのは。


 折り畳み自転車だった。


 摩夜は数秒。


 画面を見つめたまま動かなかった。


「…………。」


 静寂。


 やがて。


「本気。」


 ぽつりと漏らす。


「そこまでやる。」


 自転車には通信機器がない。


 電子制御もない。


 侵入する対象そのものが存在しない。


「合理的。」


 皮肉にも。


 それは摩夜自身が最も高く評価する判断だった。


 だからこそ。


 その瞳が細くなる。


「なら。」


「私も本気。」


 モニターがさらに増える。


 道路監視。


 交通カメラ。


 気象情報。


 物流。


 宅配。


 警備会社。


 街全体を盤面に見立てるように。


 黒沼摩夜は静かにキーボードへ指を置いた。


「人は止めない。」


「でも。」


「道は作れる。」


 その口元に。


 ほんのわずか。


 誰にも気付かれないほど小さな笑みが浮かんだ。



 夜の東京。


 二台の折り畳み自転車が、街灯に照らされた歩道を駆け抜けていた。


 先頭を走るのは佐伯。


 その後ろを相馬が続く。


「あと十分!」


「十分あれば着く!」


 息を切らしながらも速度は落とさない。


 電子機器は信用できない。


 ならば自分たちの足で運ぶ。


 そんな覚悟だけを胸に、二人はペダルを踏み続けていた。


 一方――。


 高層マンション最上階。


 摩夜の指は止まらない。


「車は駄目。」


「通信も駄目。」


「なら人。」


 モニターには東京都全域の交通情報が映し出されている。


 彼女は街そのものを一つの巨大な術式として見ていた。


「目的地まで最短七分。」


「だったら。」


 新たな画面を開く。


 道路工事情報。


 配送管理。


 タクシー会社。


 信号制御。


「流れを変える。」


 数秒後。


 都内各地で、小さな異変が起き始めた。


 宅配トラックが配送経路を変更する。


 タクシー配車システムが誤作動を起こし、一帯へ車両が集中する。


 工事用車両へ、誤った誘導通知が届く。


 どれも事故ではない。


 誰も怪我はしない。


 だが。


 一本の道路へ車が集まり始める。


「渋滞……!」


 佐伯が舌打ちした。


 歩道まで人があふれ、自転車では進めない。


「右だ!」


「了解!」


 二人は迷わず裏路地へ飛び込む。


 その様子を見た摩夜が小さく呟く。


「……読んだ。」


 すぐさま次の手を打つ。


 シェアサイクル。


 レンタル電動キックボード。


 近隣施設の警備システム。


 電子看板。


 ネットワークへ繋がるもの全てを利用して、街の人流を書き換えていく。


 イベント案内が一時的に誤表示される。


 人気店の整理券通知が早まる。


 駅前広場へ人が集まる。


 街全体が、生き物のように形を変えていく。


「そこまでやるか!」


 相馬は人混みを縫うように走る。


 押し寄せる通行人。


 止まれば終わる。


「階段!」


「行くぞ!」


 二人は自転車を担ぎ上げ、歩道橋を駆け上がった。


 摩夜の瞳が細くなる。


「……経験。」


 普通の刑事ではない。


 サイバー犯罪対策課。


 ネットが塞がれた時の動きまで訓練されている。


「面倒。」


 そう呟きながらも、指の速度はさらに増した。


 モニターには無数のウィンドウ。


 まるで魔法陣が幾重にも重なっているようだった。


「なら。」


「次。」


 目的地周辺のビル。


 入館管理。


 空調設備。


 エレベーター。


 受付システム。


 侵入。


 改ざん。


 偽装。


 だが。


「……?」


 摩夜の動きが止まる。


 目的地の建物だけ。


 ネットワーク情報が極端に少ない。


「閉域網。」


 さらに解析。


「違う。」


「物理分離……。」


 インターネットから切り離された独立ネットワーク。


 外から触れる場所がほとんど存在しない。


「そう。」


 摩夜は静かに息を吐く。


「最初から。」


「ここだった。」


 ようやく理解する。


 佐伯たちが向かっている場所は、通常の警察施設ではない。


 警察幹部が集まる重要会議。


 当然、情報保全も最高水準だった。


「……面倒。」


 その声は、これまでより少しだけ小さかった。


 そして。


 初めて。


 焦りが生まれる。


「時間がない。」


 ハルト。


 君まで辿り着かれる。


 その未来だけは避けなければならない。


 摩夜は唇を噛んだ。


「まだ。」


「止められる。」


 最後の手段。


 街中の監視カメラ映像を一斉に解析する。


 人の流れ。


 服装。


 歩幅。


 視線。


 佐伯と相馬の未来位置を予測し続ける。


 あと五百メートル。


 あと三百。


 あと百。


「……!」


 摩夜の目が大きく開かれた。


 予測から消えた。


「いない。」


 画面を切り替える。


 周辺カメラ。


 道路。


 歩道。


 交差点。


「どこ。」


 さらに切り替える。


「どこ……!」


 その瞬間だった。


 相馬が笑う。


「引っかかったな。」


 古いビルの裏口。


 監視カメラの死角。


 そこへ自転車を乗り捨てた二人は、徒歩で建物へ入り込んでいた。


 その建物こそ。


 今夜、警察上層部が集まる臨時会議会場だった。


 受付では既に身分確認が終わっている。


「佐伯警部補、相馬巡査部長。」


「待っていました。」


 職員が静かに扉を開ける。


 佐伯は胸ポケットへ手を入れた。


 折れないよう何重にも保護された紙の報告書。


 まだ無事だった。


「届けるぞ。」


「ああ。」


 二人は頷き合う。


 その頃。


 高層マンションの一室では。


 摩夜の画面が、ようやくその建物を映し出した。


「…………。」


 遅かった。


 数秒。


 本当に数秒だけ。


 彼女はモニターを見つめたまま動かなかった。


 やがて。


 静かに目を閉じる。


「……まだ。」


「終わってない。」


 そう言い聞かせるように呟く。


 しかし胸の奥では。


 これまで一度も感じたことのない焦燥が、確かに広がり始めていた。



 重厚な防火扉が静かに閉まる。


 その瞬間、外の喧騒は完全に遮断された。


 建物内部には独特の緊張感が漂っている。


 廊下を行き交う職員たちは皆足早で、誰一人として無駄話をしていない。


 普段の警察庁とは明らかに空気が違っていた。


「やっぱり何かあったな……」


 相馬が小声で呟く。


 佐伯も周囲へ視線を巡らせ、小さく頷いた。


「ああ。」


「この雰囲気は、本件とは別件だ。」


 廊下には全国各地の警察本部から集められた資料箱が積まれ、スーツ姿の幹部たちが慌ただしく出入りしている。


 壁際では大型モニターが稼働し、日本地図や時系列表が映し出されていた。


 内容までは見えない。


 だが一目で分かる。


 全国規模の重大事件。


 だからこそ、警察組織の上層部が一堂に会しているのだ。


「俺たちには関係ない。」


 佐伯は視線を切る。


「余計なことは見るな。」


「了解。」


 二人は案内役の職員に導かれ、会議室の前まで歩く。


 入口には制服警察官が二名。


 さらに私服警護員が数名配置され、厳重な警備体制が敷かれていた。


「失礼します。」


 案内役が扉をノックする。


 内側から短く返事が返ってきた。


「入れ。」


 重い扉が開く。


 室内には長机が幾重にも並び、その奥には警察組織の幹部たちが着席していた。


 会議はちょうど一区切りついたところだったらしく、資料をめくる音だけが静かに響いている。


 案内役が一歩前へ出た。


「失礼いたします。」


「サイバー犯罪対策課の佐伯警部補、相馬巡査部長です。」


「至急報告すべき案件があるとのことで、お時間をいただきました。」


 その言葉に、数人の幹部が顔を上げる。


 疲労の色は濃い。


 それでも一人の初老の男性が静かに口を開いた。


「五分だ。」


「要件だけ聞こう。」


 佐伯は一礼する。


「ありがとうございます。」


 胸ポケットへ手を入れる。


 そこから取り出したのは、何重にも透明な防水袋で保護された封筒だった。


 ここへ来るまで、決して手放さなかったもの。


 ネットワークを一切介さず運び続けた紙の報告書。


 佐伯はゆっくりと封を切る。


「本件は、電子媒体による提出が不可能と判断した案件です。」


「そのため、紙媒体で直接お持ちしました。」


 室内の空気がわずかに変わる。


 電子データ全盛の時代に、紙でしか持ち込めない報告。


 それだけで異常性が伝わる。


 佐伯は両手で資料を持ち、一番奥に座る議長席の人物の前まで歩み寄った。


「失礼します。」


 そう言って、静かに差し出す。


 初老の幹部は無言で報告書を受け取り、表紙へ目を落とした。


 そこには赤字で、大きく一行だけ記されている。


『極秘 緊急報告書』


 そして、その下には今回の調査対象を示す名前。


『一ノ瀬晴人に関する調査報告』


 会議室の空気が、一瞬だけ静まり返った。



 会議室には静寂だけが流れていた。


 ページをめくる音だけが、規則正しく響く。


 誰も口を開かない。


 佐伯と相馬も、ただ黙って報告書が読み進められるのを見守っていた。


 一枚。


 また一枚。


 やがて最後のページへ辿り着くと、議長席に座る初老の幹部は静かに報告書を閉じた。


「……なるほど。」


 短い一言。


 しかし、その声音に疑いはなかった。


 隣に座る幹部が口を開く。


「映像解析。」


「通信履歴。」


「証言。」


「現場検証。」


「どれも裏付けは取れているな。」


「ええ。」


 別の幹部も静かに頷く。


「憶測だけでまとめられた報告ではない。」


「君たちは、よくここまで調べ上げた。」


 その言葉に相馬の表情がわずかに緩む。


 理解してもらえた。


 そう思った。


 しかし。


 議長席の男は報告書を机へ置くと、佐伯たちを真っ直ぐ見据えた。


「佐伯警部補。」


「相馬巡査部長。」


 二人は背筋を伸ばす。


「はい。」


 男は静かな声で告げた。


「この件は、ここで終わりだ。」


 一瞬。


 意味が理解できなかった。


「……はい?」


 相馬が思わず聞き返す。


 男は表情一つ変えない。


「本件については、今後一切の捜査、調査を禁止する。」


「君たちは元の業務へ戻りなさい。」


 その場の空気が凍り付く。


「お、お待ちください!」


 相馬が思わず一歩前へ出る。


「内容をご理解いただけたんですよね!?」


「一ノ瀬晴人という人物は明らかに普通ではありません!」


「ネットワークへ残る痕跡が人為的に消され続けています!」


「今回だって警察の機器が――」


「理解している。」


 短く遮られた。


 それだけだった。


「だからこそだ。」


 議長席の男は静かに言う。


「これ以上、この件へ踏み込む必要はない。」


 佐伯の眉がぴくりと動く。


「必要が……ない?」


「失礼ですが、それは捜査を放棄しろという命令ですか。」


「そう受け取って構わない。」


 あまりにも迷いのない返答だった。


 佐伯は拳を握り締める。


「納得できません。」


「我々は警察官です。」


「犯罪の可能性がある以上、調べる義務があります。」


「もし今回の件が国家規模のサイバー犯罪だった場合――」


「佐伯君。」


 初老の男は静かに言った。


「君は優秀だ。」


「だからこそ、この命令の意味を考えなさい。」


 その一言だけだった。


 だが。


 佐伯は悟る。


 この男は理解している。


 理解した上で止めている。


 命令ではなく。


 意志を持って。


「……何を知っているんです。」


 低い声だった。


「何故止める。」


「何故、この件だけ例外なんです。」


 返事はない。


 沈黙。


 それが答えだった。


「教えてください!」


 今度は相馬だった。


「俺たちはここまで命懸けで――!」


「以上だ。」


 議長席の男が小さく言う。


 その瞬間。


 壁際で待機していた一人の男性が静かに歩み出た。


 黒いスーツ。


 年齢は五十代半ば。


 警察官というより秘書官のような雰囲気を纏っている。


「失礼します。」


 穏やかな口調だった。


 だが有無を言わせない圧力があった。


「お二人とも、こちらへ。」


「まだ話は――」


「申し訳ありません。」


「会議は再開いたします。」


 男は佐伯と相馬の間へ自然に入り、そのまま出口へ促す。


 佐伯は動かない。


「答えてください。」


「あなた方は何を知っている。」


 それでも。


 誰一人として口を開かなかった。


 会議室にいる幹部たちは資料へ視線を落とし、まるで最初から二人など存在しなかったかのように次の議題へ移ろうとしている。


「佐伯さん……。」


 相馬が小さく呼ぶ。


 これ以上は無理だ。


 佐伯も理解していた。


 ここで食い下がっても、答えは得られない。


 奥歯を強く噛み締めながら、踵を返す。


 重い扉が閉まる直前。


 佐伯は最後に一度だけ振り返った。


 議長席の男は、既に別の資料へ目を通している。


 まるで先ほどのやり取りなど最初から存在しなかったかのように。


 鈍い音を立てて扉が閉まる。


 廊下へ出た相馬は、悔しさを隠せず壁を拳で叩いた。


「くそっ……!」


 佐伯は何も言わない。


 ただ閉ざされた扉を見つめ続ける。


 あの反応は、理解できなかったからではない。


 理解した上で、止めた。


 それだけは、はっきりと分かってしまっていた。



――――――



 都内某所。


 窓の外には夜景が広がっている。


 高層ビルの一室。


 重厚な机を挟み、二人の少女が静かに向かい合っていた。


「これで、一応は片付いたみたいね。」


 西園寺聖奈は湯気の立つ紅茶へ口をつけながら、小さく息を吐く。


 その向かいでは、剣崎凛が窓の外を眺めていた。


「……ええ。」


 短い返事。


 しかし、その表情から緊張はまだ消えていない。


「まさか警察がここまで辿り着くとは思わなかったわ。」


 聖奈は苦笑する。


「予想より少し早かったわね。」


「でも。」


 凛がゆっくり振り返る。


「止まった。」


「そうね。」


 二人の間に静かな沈黙が流れる。


 しばらくして聖奈がティーカップを置いた。


「さすがに、あれ以上は見過ごせなかったもの。」


「こちらが動かなければ、もっと面倒なことになっていたでしょうし。」


 凛は何も答えない。


 否定もしない。


 ただ静かに目を伏せるだけだった。


「……あまり好きじゃない。」


 ぽつりと漏らす。


「こういうやり方。」


「私もよ。」


 聖奈は苦笑した。


「できれば実力だけで全部片付けたい。」


「でも、立場って便利なだけじゃないの。」


「時々、責任まで付いてくる。」


 その言葉に凛は小さく頷く。


「ハルト様は。」


 一拍置く。


「きっと怒る。」


「ええ。」


 聖奈は即答した。


「知られたら、間違いなくね。」


「だから。」


 凛は静かに言う。


「知られないように。」


「それが一番。」


 聖奈は小さく笑う。


「そういうところ、本当に変わらないわね。」


 凛は照れたように視線を逸らした。


「……当然。」


「ハルト様には、余計な心配をしてほしくない。」


 その言葉に聖奈は優しく目を細める。


「私も同じ。」


「だから今回は、少しだけ大人の力を借りた。」


 その一言だけで十分だった。


 具体的な名前は出ない。


 誰へ連絡したのかも。


 何を頼んだのかも。


 それでも、凛は納得したように静かに息を吐く。


「終わった?」


 聖奈は首を横へ振った。


「いいえ。」


「終わってはいないわ。」


「今回止まっただけ。」


「また何かあれば、きっと誰かが気付く。」


「その時は……。」


 そこで言葉を切る。


 二人の脳裏には、同じ女性の姿が浮かんでいた。


 黒沼摩夜。


 あの少女なら、今回の件を決して黙って見ているだけでは終わらない。


 聖奈は窓の外へ視線を向け、小さく微笑んだ。


「さて。」


「そろそろ、あの子にも説明してあげないとね。」


 凛も静かに頷く。


「うん。」


 夜景の向こうでは、無数の明かりが静かに瞬いていた。


 誰も知らない場所で交わされた小さな会話は、そのまま夜の静寂へ溶けていった。

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