第35話 勇者、警察を自宅に招く
インターホン越しに名乗られた肩書きが、普通の高校生なら一瞬で身構えてしまうものであることは間違いなかった。
警視庁サイバー犯罪対策課。
だが、当の一ノ瀬ハルトだけは「ああ、そうなんだ」程度の反応しか見せていない。
「えっと……立ち話も何ですし、中へどうぞ」
そう言って玄関の扉を大きく開けた。
佐伯と相馬は一瞬だけ目を合わせる。
「……失礼します」
「お邪魔します」
二人は靴を脱ぎ、静かに室内へ入った。
リビングはごく普通の家庭そのものだった。
木目調のテーブルに四人掛けのソファ。
壁には家族写真が飾られ、本棚には教科書や参考書、漫画が並んでいる。
世界中で話題となっている『炎の勇者チャンネル』の運営者が暮らす家とは思えないほど、生活感にあふれていた。
(本当に普通の高校生の家だな……)
佐伯は内心でそう思う。
もっと撮影機材が山積みになっていたり、高価な設備が並んでいたりする光景を想像していたが、その予想は見事に外れた。
「適当に座ってください」
ハルトは気軽に声を掛ける。
二人がソファへ腰を下ろすと、ハルトはそのまま台所へ向かった。
「すみません、お構いなく」
相馬が慌てて声を掛ける。
「いやいや、お客さんなんですから」
そんな返事だけが返ってきた。
冷蔵庫を開ける音。
食器棚からグラスを取り出す音。
氷がぶつかり合う軽やかな音がリビングまで聞こえてくる。
その何気ない生活音に、二人の警察官は妙な安心感を覚えていた。
「……緊張感、ありませんね」
相馬が小声でつぶやく。
佐伯も苦笑するしかない。
「まあ、こちらとしては助かる」
「警戒されるよりは話しやすい」
もっとも、それだけではない。
目の前の少年は、本当に事情が分かっていない様子だった。
もし自分が警察から訪問を受けた高校生なら、多少は顔色を変えるだろう。
しかしハルトには、それがまるでない。
演技には見えなかった。
やがてハルトがトレーを持って戻ってくる。
「どうぞ」
三つのグラスがテーブルへ並べられた。
よく冷えた麦茶だった。
氷が小さく音を立てる。
「ありがとうございます」
「いただきます」
二人は軽く頭を下げる。
ハルト自身も向かいへ座り、自分のグラスを手に取った。
「それで、サイバー犯罪対策課ってことは……ネット関係ですよね?」
「俺、動画投稿してるから、その関係ですか?」
佐伯は一度だけ相馬へ視線を送る。
相馬も小さくうなずいた。
ここまでは予定通りだ。
威圧する必要はない。
取り調べでもなければ、事情聴取というほど堅苦しいものでもない。
目の前の少年は、彼らにとって情報提供をお願いしたい協力者だった。
少なくとも現時点では。
佐伯は麦茶を一口飲み、静かにグラスを置く。
「はい。今日は、その件でお伺いしました」
「まず先に申し上げますが、一ノ瀬さんを疑っているわけではありません」
「むしろ、ご協力をお願いしたくて来ました」
「協力ですか?」
ハルトは不思議そうに首をかしげる。
その反応を見ながら、佐伯は慎重に言葉を選ぶ。
「ここ数週間、あなたの動画や関係者を狙ったサイバー攻撃が相次いでいます」
「動画投稿サイトへの不正アクセス。匿名掲示板の情報操作。発信元の偽装。そして、攻撃者の痕跡を完全に消し去る異常な技術」
相馬が静かに言葉を引き継ぐ。
「私たちは現在、それら一連の事案が、同一人物によるものではないかと考えています」
リビングの空気が、ほんの少しだけ引き締まる。
ハルトは真面目な表情で話を聞いていた。
だが、その表情に恐怖はない。
純粋に話の続きを待っているだけだった。
佐伯は少年の目をまっすぐ見つめ、静かに切り出す。
「その人物は、ネット上で一つの名前で呼ばれています」
一拍置く。
「――『モルガナ』です」
その名がリビングへ落ちた瞬間。
ハルトの表情には、驚きではなく「ああ」という納得の色が浮かんだ。
「モルガナ、ですか」
ハルトはその名前を聞くと、少しだけ考え込むように視線を上へ向けた。
「知っているんですね」
佐伯が静かに問い掛ける。
「はい。知り合いです」
あまりにもあっさりと返ってきた答えに、佐伯と相馬の表情がわずかに固まる。
「……知り合い、ですか」
「そうです」
ハルトは悪びれる様子もなくうなずいた。
「昔から知ってる人で、最近また連絡を取るようになったんですよ」
もちろん、その「昔」が異世界での出来事であるとは誰にも分からない。
警察官二人は自然とメモを取り始めた。
「差し支えなければ、その方のお名前を教えていただけますか」
「ああ、本名なら黒沼摩夜さんです」
さらりと口にされた実名。
相馬のペン先がぴたりと止まる。
佐伯も表情こそ変えなかったが、内心では大きく息をのんでいた。
(やはり実在する人物……)
ネット上の伝説と化していたブラックハッカー。
その正体へ初めて手が届きかけている。
しかし焦りは禁物だった。
「黒沼さんとは、どういったご関係で?」
「うーん……友達、かな?」
ハルトは少し考えてから答える。
「昔、一緒に色々やってた仲で。」
「久しぶりに再会してからも、俺が困ってると結構助けてくれるんですよ」
「助けてくれる……とは?」
「ネットのアンチとかですね」
ハルトは麦茶を一口飲みながら、何でもないことのように話し始めた。
「動画が炎上した時とか、コメント欄が荒れたり、変な人がいっぱい来たりしてたんですけど。」
「そのあと急に静かになったんですよ。」
「摩夜さんが『片付けておいた』って言ってました」
佐伯と相馬は同時に顔を見合わせる。
その一言だけで十分だった。
彼らが追っている事案の特徴と、完全に一致する。
「『片付けた』とは、具体的にはどのような意味でしょうか」
「え?」
ハルトは逆に不思議そうな顔をする。
「だから、アンチですよ。」
「嫌がらせしてた人とか、デマ流してた人とか。」
「そういう人たちが急にいなくなって。」
「アカウントも消えてましたし。」
「本人は『もう大丈夫』って。」
あまりにも自然な説明だった。
まるで掃除機を掛けた程度の話である。
「それについて、不自然だとは思いませんでしたか?」
相馬が慎重に尋ねる。
「うーん?」
ハルトは首をひねる。
「そんなに変ですか?」
「ネットって詳しくないですけど、詳しい人ならそういうの出来るのかなって。」
「摩夜さん、パソコンめちゃくちゃ得意ですし。」
「それに俺のために動いてくれたんです。」
「助かったなって思いました。」
そこに罪悪感は一切ない。
純粋な感謝だけだった。
異世界では仲間が敵を排除することは、ごく当たり前の日常だった。
ハルトの感覚では、悪意を向けてくる相手を仲間が止めてくれた。
ただ、それだけの出来事である。
佐伯は慎重に言葉を選んだ。
「一ノ瀬さん。」
「現代日本では、たとえ相手が嫌がらせをしていたとしても、その対処方法によっては法律に触れる場合があります。」
「え、そうなんですか?」
ハルトは目を丸くした。
「はい。」
「例えば、不正に他人のアカウントへ侵入したり、データを消したり、通信へ介入したり。」
「そういった行為は重大な犯罪になります。」
「へぇ……。」
ハルトは素直に感心したように声を漏らす。
「知らなかった。」
「異世界だと盗賊団とか山賊が襲ってきたら普通に倒してたんで。」
「……あ。」
思わず口を滑らせたハルトは、一瞬だけ「あ、また変なたとえ話しちゃったな」という表情を浮かべる。
「ゲームの話です。」
「ゲームとか漫画だと、そういう感じじゃないですか。」
苦笑しながら慌てて言い直す。
佐伯たちは特に追及しなかった。
今の発言よりも、もっと重要な情報が目の前にあったからだ。
「黒沼さんは、その法律についてご存じでしたか?」
「どうだろう。」
ハルトは少しだけ考える。
「でも摩夜さんって、『君に迷惑を掛けるものは消しておく』って昔からそういう人だったし。」
「悪い人じゃないですよ。」
「むしろ、すごく面倒見がいい人です。」
「俺が頼んだわけでもないのに、勝手に助けてくれるというか。」
「本人は『当然だから』って言うんですけど。」
その言葉を聞いた佐伯は、小さく息を吐いた。
目の前の少年は、本当に何も知らない。
利用されているわけでも、共犯でもない。
ただ、自分を助けてくれた知人を信じ切っているだけなのだ。
だからこそ、この少年の周囲にいる"モルガナ"という存在は、ますます危険に思えた。
事情聴取は、その後もしばらく穏やかな雰囲気のまま続いた。
佐伯が質問を投げかけ、ハルトが思い出せる範囲で答える。
相馬は横で淡々とメモを取り続けていた。
「黒沼さんとは、最近はどれくらいの頻度で会われていますか?」
「学校で会いますよ。」
「同じ高校なんで。」
「なるほど。」
「放課後に話すことも?」
「ありますね。」
「動画の相談とかもします。」
返答に迷いはない。
知っていることは隠さない。
隠しているのは、結衣から『異世界と魔法のことだけは絶対に話しちゃダメだからね』と何度も念押しされている、その一点だけだった。
だからハルト自身は、この場に何の緊張感も抱いていない。
相手が警察官であることも、特別な意味を持たなかった。
異世界では王も皇帝も教皇も、立場が違うだけの人間だった。
必要なら話し、必要なら頼み、必要なら反論する。
それだけのことだ。
目の前にいる二人も同じ。
制服が違うだけで、少し話を聞きに来た大人くらいの認識である。
「一ノ瀬さん。」
「はい?」
「黒沼さんから、何か特殊な機材を見せられたりしたことは?」
「機材?」
ハルトは少し考える。
「いや、そういうのはないですね。」
「ノートパソコン使ってるところくらいしか。」
「では、ご自宅へ来られたことは?」
「ありますよ。」
「その時に何かパソコンを操作していたとか。」
「うーん……」
考え込んだハルトは、無意識に空になったグラスへ視線を向けた。
「あ、麦茶なくなってる。」
独り言のようにつぶやく。
「すみません、おかわり持ってきますね。」
「いえ、お気遣いなく。」
佐伯が遠慮する。
「そういうわけにもいかないですよ。」
ハルトは笑いながら立ち上がった。
グラスを三つまとめて持ち上げる。
そして台所へ向かおうとして――
「あ。」
ふと思い出したように立ち止まる。
「別に歩かなくてもいいか。」
その一言は、あまりにも自然だった。
右手を軽く持ち上げる。
指先を台所の方向へ向けた。
「《テレキネシス》」
ぽつり、と。
まるで「よいしょ」とでも言うような気軽さだった。
次の瞬間。
ハルトの手から淡い光がふわりと広がる。
テーブルの上に置かれた三つのグラスが、誰にも触れられていないにもかかわらず、ゆっくりと宙へ浮かび上がった。
「……」
「……」
佐伯と相馬の思考が、一瞬で停止する。
三つのグラスは空中を滑るように移動し、そのまま台所へ。
シンクの前まで飛んでいくと、水道の蛇口がひとりでに回り、水が流れ始めた。
グラスが順番に洗われていく。
まるで見えない誰かが家事をしているかのようだった。
ハルトはその様子を見届けながら、
「便利なんですよね、これ。」
と、満足そうにうなずいた。
生活の一部。
毎日の習慣。
本人にとっては、それ以上でもそれ以下でもない。
一方。
リビングでは時間が止まっていた。
相馬の手からボールペンが転げ落ちる。
コトン、と乾いた音だけが響いた。
「…………」
「…………」
二人とも、瞬きすら忘れている。
目の前で起きた現象を、脳が理解することを拒否していた。
ワイヤーはない。
ドローンでもない。
CGでも、映像でもない。
現実だ。
しかも、それを起こした本人は何事もなかったような顔をしている。
「……あれ?」
そこでようやくハルトは振り返った。
二人の様子がおかしいことに気付く。
「どうかしました?」
問い掛けても返事はない。
二人とも、口を半開きにしたまま固まっている。
「えっと……」
ハルトは少し考え、
「あ。」
ようやく思い当たった。
「……結衣に言われてたんだった。」
ぽん、と手を打つ。
「魔法は人前で使うなって。」
しまった、という表情を浮かべるハルト。
しかし、その「しまった」は秘密を守れなかったことへの反省であって、魔法そのものを使ったことへの危機感ではない。
だから次に出てきた言葉も、どこかずれていた。
「すみません。」
「つい癖で使っちゃいました。」
その一言が、佐伯と相馬の理解を完全に置き去りにした。
「……つい癖で使っちゃいました。」
その一言が、リビングに静かに落ちる。
しかし、その静けさとは裏腹に。
佐伯と相馬の脳内では、今まさに警報が鳴り響いていた。
(…………は?)
最初に思考を取り戻したのは佐伯だった。
だが、取り戻したというよりは、混乱の渦へ放り込まれたと言う方が正しい。
(今……何が起きた?)
グラスが浮いた。
誰も触れていない。
ワイヤーもない。
モーター音もない。
ドローンでもない。
超小型ロボット?
違う。
そんなものがグラス一つ一つをあれほど滑らかに制御できるはずがない。
しかも――
(蛇口が勝手に……)
誰も触れていない蛇口が回り、水が流れた。
グラスは自分で洗われている。
あり得ない。
あり得ない。
あり得ない。
刑事として二十年以上積み重ねてきた常識が、目の前で粉々に砕け散っていた。
一方、相馬はもっと酷かった。
(魔法って言った。)
(今、自分で魔法って言った。)
(しかも「癖で」って言った。)
(癖って何だ。)
(日常生活で使うものなのか?)
(いや待て待て待て。)
(魔法って存在するのか?)
(存在したとして何で高校生が使える?)
(え、世界ってそういう世界だった?)
頭の中で疑問だけが雪崩のように増えていく。
答えは一つもない。
目の前の少年だけが、その答えを知っているようだった。
だが当の本人は、
「あー……。」
頭をかきながら困ったように笑っている。
「本当にごめんなさい。」
「結衣にも気を付けろって言われてたんですけど。」
「完全に忘れてました。」
反省はしている。
しかしその反省は、
(魔法を見せてしまった。)
ではなく、
(秘密をうっかり漏らした。)
程度の軽さだった。
その温度差が、余計に二人を混乱させる。
(待て。)
佐伯は必死に思考を立て直す。
(今、この場で聞くべきか?)
――あなたは何者ですか。
――その力は何ですか。
――どうやって浮かせたんですか。
聞きたいことはいくらでもある。
だが。
(駄目だ。)
直感が告げていた。
この案件は、自分たち二人の手には余る。
サイバー犯罪対策課の管轄ですらない。
もはや犯罪捜査という枠組みで扱っていい話ではなかった。
報告。
相談。
上層部への共有。
まずはそれだ。
(余計なことを聞くな。)
(刺激するな。)
(情報だけ持ち帰れ。)
長年の経験が、そう判断していた。
相馬も同じ結論に至っていた。
(落ち着け。)
(平静を装え。)
(まず帰ろう。)
(帰ってから考えよう。)
脳は完全にパニックだ。
それでも表情だけは刑事として保たなければならない。
相馬は震えそうになる手を膝の上でぎゅっと握り締めた。
「……そ、そうですか。」
ようやく絞り出した声は、少しだけ上擦っていた。
ハルトは申し訳なさそうに笑う。
「本当にすみません。」
「その……見なかったことにしてもらえると助かるんですけど。」
「…………。」
(無理だ。)
佐伯は心の中だけで即答した。
(見なかったことに出来るわけがない。)
グラスが空を飛んだ。
魔法と言った。
しかも本人は隠す気が薄い。
いや、隠そうとはしているのだろう。
ただ、その危機感があまりにも薄すぎる。
それが逆に恐ろしかった。
佐伯は深く息を吸い、努めて普段通りの声を作る。
「……本日お伺いした内容については、こちらで整理させていただきます。」
「また必要があれば、ご連絡するかもしれません。」
「はい。」
「分かりました。」
ハルトは何事もなかったかのように笑顔でうなずいた。
「俺で答えられることなら協力します。」
「ありがとうございます。」
予定していた確認事項を形式的に終えると、佐伯は静かに立ち上がる。
相馬も続いた。
「本日はありがとうございました。」
「こちらこそ。」
「何か役に立てたならよかったです。」
玄関まで見送るハルトの表情は、最後まで穏やかなままだった。
「お気を付けて。」
「はい。失礼します。」
玄関の扉が閉まる。
カチャリ、と鍵の掛かる音が聞こえた。
その瞬間。
佐伯と相馬は顔を見合わせる。
二人とも口を開きかけ――
何も言えなかった。
言葉に出来る情報量を、とっくに超えていたからだ。
しばらく無言のまま玄関先を離れる。
住宅街を歩き、自宅が見えなくなるところまで来て。
ようやく相馬が、小さくつぶやいた。
「……佐伯さん。」
「何だ。」
「今の……夢じゃ、ないですよね。」
佐伯は数秒黙ったあと、重く息を吐いた。
「ああ。」
「残念ながら、現実だ。」
「……報告書、どう書きます?」
「……知らん。」
刑事人生で初めてだった。
事実を書けば荒唐無稽。
書かなければ重大な虚偽。
どちらを選んでも、自分たちの常識が壊れる。
それでも一つだけ、二人の認識は一致していた。
一ノ瀬ハルト。
彼は事件の容疑者ではない。
だが――
決して『普通の高校生』でもなかった。
――――――
一方、その頃。
黒沼摩夜は自室でノートパソコンを前に静かに息を吐いていた。
画面には複数のウィンドウ。
監視ログ。
通信履歴。
SNSのリアルタイム解析。
そして――一ノ瀬ハルトを中心に構築した、膨大な情報監視網。
「……遅かった。」
ぽつりと漏れた声には、珍しく悔しさが滲んでいた。
数秒前。
監視網が拾い上げた情報が一つ。
警視庁サイバー犯罪対策課所属。
佐伯。
相馬。
その二名が、一ノ瀬家を訪問。
そして現在、住宅街を離脱。
そのログを確認した瞬間。
摩夜は全てを理解した。
「私の、ミスだ。」
椅子へ深く身を預ける。
その銀色の瞳が静かに閉じられた。
本来なら。
彼女の監視網は、あの二人が接近した時点で機能するはずだった。
近隣の監視カメラ。
交通情報。
公開・非公開を問わない各種ネットワーク。
あらゆる情報を組み合わせ、一ノ瀬ハルトへ近付く存在を検知する。
そして危険度を判定し、必要ならば進路変更、足止め、あるいは接触そのものを成立させない。
今まで何度も。
本人が気付かないうちに。
その防衛網はハルトを守り続けてきた。
しかし今回は。
偶然が重なった。
「聖奈。」
「凛。」
二人の名前を静かに口にする。
ここ数日。
ハルトを中心とした人間関係は大きく変化した。
敵対していた西園寺聖奈。
複雑な立場にあった剣崎凛。
その二人と最低限ながら友好的な関係を築くことができた。
だからこそ。
摩夜自身も、ほんの少しだけ肩の力を抜いてしまっていた。
ハルトの周囲にいる危険人物が減った。
そう判断した。
だから監視の優先順位を、ほんの少しだけ落とした。
ほんの少しだけ。
それだけだった。
だが、その僅かな綻びを。
偶然にも警察官二人が通り抜けてしまった。
「……油断した。」
その言葉には、自分自身への怒りしかない。
誰の責任でもない。
完全に、自分の失態だった。
摩夜は新たなログを開く。
住宅街の監視映像。
車載カメラ。
周辺通信。
様々な断片を組み合わせる。
玄関へ入る二人。
滞在時間。
退出。
そこまでは把握できる。
しかし。
室内だけは見えない。
「……中で、何があった。」
それだけが分からない。
だが。
彼女はハルトを知っている。
誰よりも。
「……ハルト様。」
苦笑にも似たため息が漏れる。
「隠せ、と言ったでしょう。」
異世界でもそうだった。
彼は隠し事が苦手だ。
嘘が苦手だ。
悪意を持って秘密を守るという発想がない。
必要だから隠す。
それだけ。
だから日常生活では、つい普段通りに行動してしまう。
魔法も。
身体能力も。
常識も。
全部。
「……使いましたね。」
確信だった。
室内で何があったかは分からない。
だが、何かが起きたことだけは分かる。
だから警察官二人は、予定より三分以上長く滞在した。
退出後もしばらく住宅街で立ち止まり、会話もほとんどしていない。
歩行速度まで乱れている。
あれは事情聴取を終えた警察官の動きではない。
予想外の何かを見た者の反応だった。
「……魔法。」
「でしょうね。」
その結論へ至るまで、一秒も掛からなかった。
そして、それは同時に。
「私も、ばれましたか。」
静かにつぶやく。
ブラックハッカー・モルガナ。
その存在を追っていたサイバー犯罪対策課。
ハルトは隠し事が苦手だ。
知っていることを聞かれれば、基本的には答えてしまう。
悪意がないからこそ。
きっと。
自分の名前も。
自分との関係も。
話したのだろう。
「……困りました。」
言葉とは裏腹に。
摩夜の表情から焦りは徐々に消えていく。
代わりに現れるのは、異世界で幾度となく窮地を切り抜けてきた軍師の顔。
「失敗は認めます。」
「ですが。」
ノートパソコンへ手を伸ばく。
キーボードへ指が置かれる。
その瞬間から。
ブラックハッカー・モルガナへと表情が変わった。
「ここから先は。」
「私の仕事です。」
モニターへ次々と新しいウィンドウが開く。
警視庁内部ネットワーク。
通信経路。
監視対象。
佐伯。
相馬。
二人の行動履歴。
報告ルート。
関係部署。
分析は一瞬。
対策はその先。
ハルトが安心して眠れる明日のために。
たった一つ開いてしまった穴を。
黒沼摩夜は、自らの手で塞ぎに掛かるのだった。




