第2話 幼馴染は隠蔽工作に忙しい
「ほら、歩く!」
「いや待ってくれ結衣。俺、今日たった今異世界から帰還したばっかなんだけど?」
「だから何」
「普通もっとこう……休暇とかあるだろ!? 勇者凱旋パレードとか!」
「日本の高校にそんな制度ないのよ!」
朝の住宅街に、如月結衣の怒声が響いた。
その隣では、一ノ瀬晴人が心底納得いっていない顔をしている。
制服姿。
通学カバン。
どう見ても普通の男子高校生。
だが中身だけは、つい数時間前まで異世界で魔王と殺し合いをしていた歴代最強勇者だった。
「いやでもさぁ……!」
ハルトは振り返る。
住宅街。
電柱。
朝日。
ゴミ捨て場のネット。
犬の散歩をしている老人。
どこまでも平和な日本の朝。
その景色を見ただけで、ハルトはやたら感動した顔になった。
「平和だ……」
「さっきから五回目よそれ」
「だって道に死体ないんだぞ?」
「それが普通なの!」
「魔物の警戒もしなくていいし!」
「だから声が大きい!」
結衣は頭を抱えた。
数時間前。
突然、ハルトから送られてきた動画。
指先から青白い炎を出している、意味不明な映像。
最初は悪質なCGだと思った。
だがその直後、本人が窓の外から二階へ跳んできた。
物理法則を完全に無視して。
そこからは地獄だった。
『俺、異世界行ってた』
『魔王倒して帰ってきた』
『魔法も使える』
そんな頭のおかしい話を、この幼馴染はあまりにも自然に言ってきたのだ。
しかも実演付きで。
火を出し。
風を起こし。
壊れた棚を一瞬で修復し。
最後には「掃除便利なんだよな」と言いながら、部屋に小規模な嵐を発生させた。
窓ガラスが二枚割れた。
結衣は頭を抱えた。
だがもっと最悪だったのは、その直後。
ハルトがノリノリで動画投稿を始めたことだ。
『異世界帰還直後のガチ魔法、絶対伸びるだろこれ!』
そう言って投稿されたのが、あの動画だった。
『【ガチCG】指先だけで火を出す方法、教えます。』
そして現在。
大バズり中である。
「アンタねぇ……!」
結衣はスマホ画面を見ながら呻く。
「もう登録者三万人超えてるんだけど!?」
「おっ、マジ?」
「マジじゃないわよ!」
コメント欄は大騒ぎだった。
『炎の揺れ方おかしくね?』
『編集痕なくない?』
『映画会社の新人?』
『これ本物じゃね?』
『海外勢が騒ぎ始めてる』
結衣は胃が痛かった。
「だから言ったでしょ!? 魔法動画なんて上げるなって!」
「いやでも、異世界でずっと思ってたんだよ」
ハルトは空を見上げる。
その目が少しだけ遠くなる。
「せっかく世界救ったのに、誰も見てねぇのもったいねぇなって」
「……」
「魔王倒しても、“すげぇぇぇ!”ってコメント欄ないし。配信もないし。切り抜きもないし」
「発想が配信者なのよ」
「だから帰ってきた瞬間思った。今ならバズれるって」
真顔だった。
結衣は深いため息を吐く。
だが少しだけ、理解もしてしまう。
この男は昔から、“見てもらう”のが好きだった。
運動会でも。
文化祭でも。
誰かが見ていると、やたら張り切る。
それが異世界で最強勇者になった結果、とんでもない方向へ進化してしまったのだ。
「……で?」
「ん?」
「なんで帰還初日に学校行かなきゃいけないのか納得いってない顔してるけど」
「そりゃするだろ」
ハルトは即答した。
「俺、ついさっきまで魔王城いたんだぞ?」
「でも日本時間だと朝よ」
「理不尽じゃない?」
「異世界転移の仕様に文句言いなさい」
結衣はハルトの背中を押す。
「ほら行く。今日は平日。アンタは高校生。現代日本では学校に行くの」
「くっ……現代社会のルール、厳しい……!」
「あと魔法禁止」
「えぇー」
「“えぇー”じゃない!」
ハルトは不満そうに歩き出す。
だがその視線は忙しい。
コンビニを見る。
「うわ、コンビニだ……」
「普通の反応して」
「二十四時間食料補給施設とか神か?」
「だから異世界基準で語るな!」
自販機を見る。
「冷えてる飲み物が百円台で!?」
「昨日も感動してたでしょ!」
「いや感動するだろこれ!」
ハルトは本気だった。
コーンスープを買い、しみじみ缶を握る。
「温かい……」
「ただの自販機よ」
「異世界だったら貴族が独占してるレベル」
「知らないわよそんな世界事情!」
周囲の学生たちがちらちら見ている。
だが二人とも気付かない。
いや、結衣は気付いているが、それどころではなかった。
「はぁ……」
結衣はスマホを操作する。
「何してんの?」
「火消し」
「おぉ、ネットリテラシー担当」
「誰のせいだと思ってんの」
結衣は高速で文字を打ち込む。
動画編集ソフトの使用履歴を捏造。
海外掲示板へ“高品質VFX作品”として投稿。
コメント欄にも複数アカウントで書き込みを行う。
『最近のCG技術すごいな』
『海外の映像学校の作品らしい』
『AI補正じゃね?』
世論誘導である。
女子高生のやることではない。
「アンタ、なんでそんな慣れてんの……?」
「アンタの動画編集ずっとやってるからよ」
「あー、確かに」
ハルトは妙に納得した。
昔から結衣は、ハルトの後始末役だった。
中学時代、屋上から飛び降りチャレンジ動画を撮ろうとした時も。
変なドッキリ企画で教師に怒られた時も。
全部、結衣がなんとかしてきた。
だから今回も、結衣は反射で動いてしまっている。
「……ほんと、なんでこんなの放っとけないかな私」
「ん?」
「なんでもない」
結衣は前を向く。
するとハルトが、ふと立ち止まった。
「……?」
「今度は何」
ハルトは目を細める。
風が吹く。
桜の葉が揺れる。
朝日が住宅街を照らしていた。
「……帰ってきたんだなぁ」
ぽつりと漏れた声。
今度のそれは、さっきまでと少し違った。
軽くない。
三年間、生きるか死ぬかの世界にいた少年の声だった。
結衣は少しだけ目を丸くする。
その横顔は、知らない顔だった。
けれど次の瞬間。
「よし! この感動、ショート動画にするか!」
「しない!!」
一瞬で台無しになった。
結衣は即座にスマホを没収する。
「はい取り上げ!」
「えぇぇぇ!?」
「学校着くまでネット禁止!!」
「横暴だ!」
「アンタを野放しにする方が危険なのよ!!」
朝の通学路に、二人の騒がしい声が響き続けていた。
――――――
校門が見えてきた瞬間。
ハルトが、足を止めた。
「おぉ……」
「今度は何よ」
「学校だ……」
感動していた。
まるで長い旅を終えて故郷へ帰ってきた冒険者みたいな顔で、見慣れた校舎を見上げている。
白い外壁。
ガラス窓。
朝日に照らされた四階建ての校舎。
グラウンドからは運動部の掛け声が聞こえる。
どこにでもある県立高校。
だがハルトにとっては、三年ぶりの“日常”だった。
「懐かし〜……」
「日本時間だと半日ぶりだけどね」
「俺の中では三年ぶりなんだって」
ハルトは校門をくぐりながら、やたらしみじみしていた。
「異世界の城ってもっとこう……石! って感じだったし」
「比較対象が意味分かんないのよ」
「あと教師が魔導士長とかだった」
「その話、絶対クラスでするなよ?」
「えっ、鉄板ネタでは?」
「アンタの場合、妙にリアルだからダメなの!」
結衣は即座に釘を刺す。
ハルトの厄介なところは、“嘘が下手”なことだ。
正確には、本人が本当のことしか言っていないので、変な説得力が出る。
昨日もそうだった。
『異世界で竜殺してた』
普通なら笑い話だ。
だがハルトが言うと、なぜかシャレにならない空気になる。
目が笑っていないからだ。
結衣はちらりと隣を見る。
今は呑気に購買の新商品ポスターを見ている。
「焼きそばパン進化してる……」
「感動ポイントそこ?」
「異世界で炭水化物は貴重だったんだぞ」
「知らないわよ」
その時。
「おーい、一ノ瀬ぇ!」
後ろから男子生徒が声をかけてきた。
同じクラスの田辺だった。
サッカー部。
軽いノリの陽キャである。
「昨日、急に帰ったけど大丈夫だったかー?」
「あー、ちょっと異世界帰ってた」
「は?」
結衣は即座にハルトの脇腹を肘打ちした。
「ぐぇっ」
「こいつ徹夜で変なゲームしてたのよ」
「あー、またかよ」
田辺は笑う。
「お前そういう設定好きだよなー」
「設定じゃないんだけどな」
「はい黙る」
結衣は即座に口を塞いだ。
危ない。
この男、本当にノータイムで喋る。
しかも表情が真顔だから怖い。
「てか見たぞ、一ノ瀬の動画!」
「あ?」
ハルトの目が輝いた。
一瞬で食いつく。
「マジ!? どうだった!?」
「いや普通にすげぇわ。あれどうやって作ったん?」
「魔法」
「CGな?」
「いや魔法」
「はいはい」
田辺は笑いながら教室へ向かっていく。
だがハルトは納得いっていない顔だった。
「なんでみんなCGだと思うんだ?」
「思ってくれないと困るのよ!!」
「でも“CGじゃない”って方向で売った方が伸びない?」
「それ以上言うとスマホ真っ二つにするわよ」
「ごめんなさい」
ハルトは即座に謝った。
結衣は朝からずっと胃が痛い。
しかも問題は動画だけではない。
今朝からずっと感じていた。
ハルトの“違和感”。
歩き方。
視線。
無意識の警戒。
今もそうだ。
すれ違った運動部員が大声を上げた瞬間、ハルトの肩がわずかに動いた。
反応速度が異常に速い。
本人も気付いていない。
戦場の癖が染み付いているのだ。
(……ほんとに戦ってたんだ)
結衣は小さく唇を噛む。
昨日からずっと現実感がない。
幼馴染が異世界帰りの勇者でした。
普通なら頭がおかしくなりそうな話だ。
だが結衣は、もう疑っていなかった。
実際に見たからだ。
炎。
風。
身体強化。
そして――。
帰ってきた直後の、ハルトの目。
あれは本当に、死線を越えてきた人間の目だった。
「結衣?」
「……え?」
「なんか顔怖いぞ」
「アンタのせいよ」
「ひどくね?」
ハルトはケロッとしている。
本当に深刻感がない。
だから余計にタチが悪い。
その時。
ハルトのスマホが震えた。
「ん?」
「ちょっ、待ちなさい!」
結衣が止めるより早く、ハルトは画面を見る。
次の瞬間。
「うおっ!?」
ハルトが声を上げた。
「なんだこれ!」
「え、何!?」
結衣も画面を覗き込む。
そこに表示されていたのは。
『急上昇ランキング 3位』
『【ガチCG】指先だけで火を出す方法、教えます。』
「…………」
二人とも固まった。
数秒後。
「よっしゃああああああ!!」
ハルトが校門前でガッツポーズした。
「時代来たぁぁぁぁぁ!!」
「声がでかい!!」
周囲の生徒たちがざわつく。
だがハルトは止まらない。
「見ろ結衣! 三十万再生超えてる!」
「増えるの早すぎでしょ!?」
「コメントもやばい!」
ハルトは興奮しながら読み上げる。
『炎の質感どうなってんだ』
『海外映画よりリアル』
『新人クリエイター発掘したかもしれん』
『本物じゃね?』
「ほら! 本物説来てる!」
「来なくていいのよ!!」
結衣は頭を抱えた。
最悪だ。
完全に拡散フェーズへ入っている。
しかもハルトが調子に乗り始めている。
それが一番危険だった。
「これは次の動画急いだ方がいいな……」
「やめなさい」
「バズは勢いが命なんだよ」
「魔法をコンテンツ扱いするな!」
「いやでも絶対いける。今なら百万再生狙える」
ハルトの目が完全に配信者だった。
異世界を救った勇者の目ではない。
バズを追う動画投稿者の目である。
結衣は嫌な予感しかしなかった。
「……ちなみに次、何する気なの」
「んー?」
ハルトは少し考える。
そして、とんでもないことを言った。
「火炎魔法で炒飯作る」
「やめなさい」
「絶対映えるって」
「やめなさい!!」
だがハルトは、もう完全にやる気だった。
その顔を見た瞬間。
結衣は悟った。
(この男、絶対止まらない……!)
幼馴染の胃痛は、まだ始まったばかりだった。
――――――
昼休み。
屋上。
金網越しに、春の風が吹き抜けていた。
青空。
遠くに見える住宅街。
グラウンドから聞こえる運動部の声。
平和そのものの昼休み。
だが、その空気の中で。
「登録者五万人いった」
「だからなんで増えてるのよ!!」
如月結衣の悲鳴が響いていた。
ベンチに座るハルトは、完全にご機嫌だった。
スマホを握りしめ、ニヤニヤしている。
「いやー、やっぱ時代来てるわ俺」
「来なくていい時代なのよ」
「コメント欄も盛り上がってる」
「見せないで」
「“CG業界の革命”だって」
「だから見せないでって言ってるでしょ!」
結衣は頭を抱えた。
昼休みになった現在。
動画はさらに拡散していた。
ショート動画サイト。
SNS。
海外掲示板。
あちこちに転載され始めている。
問題なのは、ハルトの動画が“妙にリアル”なことだ。
CGとして見ても異常な完成度。
だからこそ逆に、“本物説”が消えない。
「はぁ……」
結衣はため息を吐きながら弁当箱を開ける。
「ほら、食べるわよ」
「おっ、今日ハンバーグじゃん」
「昨日の残りよ」
「最高」
ハルトは嬉しそうだった。
その顔は昔と変わらない。
だからこそ結衣は少し安心する。
つい数時間前まで、異世界で魔王と戦っていたなんて信じられないくらい、いつものハルトだった。
ただし。
「……なあ結衣」
「何」
「この唐揚げ、魔法で温めていい?」
「ダメ」
「一瞬で済む」
「ダメ」
「冷めてるぞ」
「レンジ使え」
即答だった。
ハルトは不満そうに口を尖らせる。
「現代って便利なくせに、妙なとこ不便だよな」
「アンタが便利すぎるの」
結衣は箸で卵焼きをつまむ。
その横で、ハルトは空を見上げていた。
「……平和だなぁ」
「また言ってる」
「いや、マジで」
風が吹く。
フェンスが小さく鳴る。
ハルトは目を細めた。
「屋上で飯食えるんだもんな」
「普通でしょ」
「異世界だと高所は大体、狙撃か飛行魔物警戒区域」
「物騒すぎるわ」
「あと毒対策」
「食事環境終わってるのよ」
結衣は呆れながらも、少しだけ横目でハルトを見る。
この男は笑っている。
だが時々、本当に何でもない瞬間に、“帰ってきた実感”を噛み締めるみたいな顔をする。
三年間。
たった一人で。
想像もできない世界にいた。
その事実が、今さらじわじわ怖くなってくる。
「……ねえ」
「ん?」
「本当に死にかけたりしたの」
ぽつりと。
結衣は聞いていた。
ハルトは少しだけ考える。
「あー、まあ割と」
「割と、で済ますな」
「腕吹っ飛んだこともあるし」
「は?」
「毒で心臓止まったこともある」
「はぁ!?」
「あと一回、頭――」
「待って待って待って!!」
結衣は慌てて止めた。
顔色が悪くなる。
「……アンタ、よく帰ってこれたわね」
「最終的には何とかなった」
「軽っ……」
ハルトは本当に軽い。
だがその軽さが逆にリアルだった。
きっと、何度も死にかけたのだ。
だから感覚がおかしくなっている。
「でもまあ」
ハルトは笑った。
「今こうしてハンバーグ食ってるし、結果オーライだろ」
「……」
「やっぱ現代最高だわ。飯うまいし」
「アンタねぇ……」
結衣はため息を吐く。
だが、その時。
屋上の扉が開いた。
「いたいたー!」
クラスメイトの女子二人組が顔を出す。
「やっぱここかー!」
「一ノ瀬、動画見たよー!」
「おっ」
ハルトの目が輝いた。
完全に“配信者モード”である。
「どう!? 感想は!?」
「普通にやばかった!」
「え、あれどうやったの?」
「CG?」
「魔法」
「はいはい」
流された。
ハルトは少し不満そうだった。
一方、女子たちは結衣へ顔を寄せる。
「如月さん編集したの?」
「え?」
「めっちゃ本格的じゃん!」
「あー……まあ……」
結衣は曖昧に笑う。
するとハルトが胸を張った。
「結衣、編集うまいからな」
「……」
その言葉に、結衣は少しだけ目を瞬かせる。
昔からそうだ。
ハルトは、妙なところで真っ直ぐだった。
人の努力をちゃんと見ている。
だから自然に褒める。
本人に下心ゼロだから余計にタチが悪い。
「次の動画も楽しみにしてるねー!」
「おう!」
女子たちは手を振って去っていく。
扉が閉まる。
そして数秒後。
「……次の動画?」
結衣はゆっくり振り返った。
ハルトは視線を逸らした。
「いやー……」
「何をやる気なの」
「……炒飯?」
「疑問形で言うな」
ハルトは真顔になった。
「聞いてくれ結衣。火炎魔法って、中華と相性いいと思うんだ」
「聞きたくない」
「動画映えもする」
「しなくていい」
「絶対バズる」
「その発想から離れろ!!」
だがハルトは止まらない。
むしろどんどん乗ってきていた。
「タイトルは……」
ハルトは空中に指で文字を書く。
「『【検証】炎魔法(物理)で炒飯作ってみた』」
「やめなさい」
「“中華鍋が耐えられませんでした”とかサムネに入れるか」
「やめなさい!!」
結衣の悲鳴が、春空へ響き渡った。
「だから、なんでそこで動画撮影に繋がるのよ……」
昼休み終了後。
五時間目の現代文。
結衣は教科書を開きながら、心底疲れた顔をしていた。
その隣。
ハルトは窓際の席で、やたら真剣な顔をしている。
一見すると授業に集中している優等生。
だが実際は違った。
(炎の色、青白い方が映えるか……? いや、中華なら赤寄りか?)
炒飯動画の演出を考えていた。
完全にダメだった。
「一ノ瀬ー」
教師が教科書を片手に指す。
「この一文、読んでみろ」
「はい」
ハルトは立ち上がる。
その動作が、妙に静かだった。
無駄がない。
音がしない。
まるで訓練された兵士みたいな立ち方。
結衣はそれを見るたび、少しだけ胸がざわつく。
だが本人は気付いていない。
「――人は時に、日常の中にこそ幸福を見出すのである」
ハルトは教科書を読みながら、しみじみ頷いた。
「分かる」
「感想はいいから続けろ」
クラスが笑う。
ハルトは真顔だった。
「いやでもマジで分かるんですよ先生。平和な日常って、失って初めて価値が――」
「一ノ瀬、作文は後でな」
「はい」
席へ座る。
だがその顔は、少しだけ穏やかだった。
結衣はちらりと横を見る。
ハルトは窓の外を見ていた。
校庭。
体育の授業。
笑い声。
それを眺める目が、ほんの少しだけ優しい。
(……ほんとに帰ってきたんだ)
結衣は小さく息を吐く。
だが次の瞬間。
ブブッ。
机の中でスマホが震えた。
「!」
結衣の顔が引きつる。
嫌な予感しかしない。
こっそり画面を見る。
『動画再生数 78万回』
「は?」
思わず声が漏れた。
前の席の女子が振り返る。
「如月さん?」
「な、なんでもない」
結衣は引きつった笑みを浮かべた。
おかしい。
伸び方がおかしい。
昼休みから数時間で一気に加速している。
しかも通知欄が止まらない。
『有名VFXクリエイターが反応しました』
『海外インフルエンサーが動画を共有しました』
『おすすめ急上昇入り』
「終わった……」
結衣は机に突っ伏した。
隣のハルトが小声で聞いてくる。
「どうした?」
「どうしたじゃないわよ……!」
結衣はスマホ画面を見せる。
ハルトの目が輝いた。
「うおぉ!?」
完全にテンションが上がった。
「海外行ってる!? やばっ!」
「やばいのはアンタよ!!」
「世界デビューじゃん!」
「嬉しそうな顔するな!!」
教師が咳払いする。
「そこ、静かに」
「「すみません」」
二人同時に頭を下げた。
だがハルトはニヤニヤが止まらない。
完全に承認欲求モンスターだった。
「結衣」
「何」
「これ、百万再生いけるんじゃね?」
「やめてその目」
「次の動画、今日中に出したい」
「だからやめなさいって!」
ハルトは机に頬杖をつく。
「いやでもバズってる時って、勢い切らしたら終わるんだよ」
「配信論を語るな」
「ここで連投できる奴が勝つ」
「その勝負に参加するな!」
結衣は頭を抱えた。
この男、本当に危機感がない。
いや、正確には“バズ欲”が危機感に勝っている。
その時。
窓の外から、グラウンドの歓声が聞こえた。
体育のサッカーで誰かがシュートを決めたらしい。
ハルトがちらりと視線を向ける。
「……平和だなぁ」
「また?」
「いや、ほんとに」
ぽつりと漏れる声。
「向こうだと、ああいう歓声の次って大体爆発だから」
「どんな世界だったのよ……」
「あと悲鳴」
「聞きたくない」
結衣は即答した。
だがハルトは、少しだけ笑う。
「でも今は違うだろ?」
「……」
「学校で授業受けて、昼飯食って、放課後に動画撮ること考えてる」
「最後だけおかしいのよ」
「最高じゃん」
その笑顔は、少し眩しかった。
結衣は一瞬だけ言葉に詰まる。
この男は、本当に嬉しいのだ。
帰ってこられたことが。
日常に戻れたことが。
だからこそ、あんなバカみたいに騒いでいる。
その時だった。
教師が黒板へ向き直った瞬間。
教室後方で、男子生徒が消しゴムを落とした。
コトン。
小さな音。
だが次の瞬間。
ハルトの右手が、反射的に腰へ伸びた。
何かを抜こうとする動き。
剣を。
「――っ」
ハルト自身が、途中で止まる。
教室が静かになる。
誰も気付いていない。
だが結衣だけは見ていた。
ハルトの表情が、一瞬だけ強張ったのを。
「……ハルト」
「ん?」
次の瞬間には、いつもの顔へ戻っていた。
「どした?」
「……なんでもない」
結衣は前を向く。
胸が少しだけ苦しかった。
本当に帰ってきたのだ。
だけど。
この男の中にはまだ、“戦場”が残っている。
そんなことを考えていると。
ハルトがこっそりメモ帳を見せてきた。
『炒飯、学校で撮影できないかな』
「できない」
『火力足りない』
「足りなくていい」
『屋上で鍋振れば映えそう』
「校舎燃えるわ!!」
結局。
しんみりした空気は、一秒しか続かなかった。
――――――
放課後。
夕暮れ色に染まった通学路を、ハルトと結衣は並んで歩いていた。
オレンジ色の空。
部活帰りの生徒たち。
自転車のベル。
どこかの家から漂ってくる夕飯の匂い。
平和そのものの帰り道。
だが。
「よし」
ハルトが拳を握る。
「帰ったら炒飯撮るか」
「まだ諦めてなかったの!?」
結衣は即座にツッコんだ。
今日一日で何回目か分からない。
だがハルトは本気だった。
「いや、今しかないって」
「何がよ」
「バズの波」
真顔で言う。
「動画ってな、勢いが命なんだよ結衣」
「その情熱を勉強に向けなさい」
「今、視聴者が俺を待ってる」
「待ってない」
「“次はどんな神CG出すんだ!?”って期待してる」
「だから神CGじゃなくて本物なんでしょそれ!」
結衣は頭を抱えた。
放課後になった今。
動画はついに百万再生目前だった。
通知が止まらない。
SNSでは切り抜きが量産され、考察動画まで出始めている。
『本当に火を出してるようにしか見えない』
『これ個人制作なの意味分からん』
『ハリウッド超えてる』
『CGだとしても頭おかしい』
結衣からすれば、“頭おかしい”の部分だけ正解だった。
「はぁ……」
結衣は深いため息を吐く。
「アンタねぇ……」
「ん?」
「少しは危機感持ちなさいよ」
「持ってるぞ?」
「どこが」
「次の動画コケたらどうしようって」
「そっちじゃない!!」
夕暮れの住宅街に叫び声が響いた。
ハルトは不思議そうな顔をする。
「いやでもさぁ、結衣」
「何」
「俺、せっかく魔法使えるんだぞ?」
「うん」
「しかも現代で唯一」
「うん」
「だったらバズらせたくならね?」
「ならないのが普通なのよ」
ハルトは納得いっていない顔だった。
「異世界だと、“勇者すげぇ!”って言われても、その場だけなんだよ」
「……」
「でもネットって残るじゃん」
ハルトはスマホを見ながら笑う。
「世界中の人が見てくれる」
「……」
「それ、なんか嬉しくてさ」
その声だけは、少しだけ静かだった。
結衣は言葉に詰まる。
ハルトは昔から、誰かに見てもらうのが好きだった。
運動会。
文化祭。
体育祭。
誰かが見ていると、やたら張り切る。
褒められると、嬉しそうに笑う。
その延長線上に、“異世界最強勇者”が乗ってしまった結果。
今の化け物が完成したのだ。
「……はぁ」
結衣は空を見上げる。
夕日がまぶしい。
そして隣には、“国を消せる高校生”がいる。
意味が分からない。
「なあ結衣」
「何」
「炒飯動画、絶対伸びる」
「まだ言ってる」
「火炎魔法って、中華鍋と相性いいと思うんだ」
「知らないわよ」
「あと演出で軽く火柱――」
「軽くで済まないでしょアンタの場合!」
結衣は即座に否定する。
だがハルトは止まらない。
「しかもただ料理するだけじゃ弱いんだよ」
「もう聞きたくない」
「“映え”が必要」
「その単語を魔法と組み合わせるな」
「最後に炎龍っぽく火を巻き上げて――」
「近所が通報するわ!!」
完全に危険人物だった。
だがハルトは、本当に楽しそうだった。
異世界で命を懸けて戦っていた男が。
今は“動画のサムネどうする?”で悩んでいる。
そのギャップが、妙におかしくて。
結衣は思わず吹き出した。
「……ふふっ」
「お、笑った」
「誰のせいだと思ってんのよ……」
結衣は肩を落とす。
もう疲れた。
朝からずっと振り回されっぱなしだ。
異世界帰還。
魔法。
バズ動画。
百万再生。
情報量が多すぎる。
なのに。
この男は昔と変わらない顔で笑っている。
「……ねえハルト」
「ん?」
「一個だけ約束」
「おう」
「絶対、加減しなさいよ」
「分かってるって」
「アンタの“分かってる”信用ならないのよ」
「今回は料理だし大丈夫」
「国消せる奴の“大丈夫”が一番怖いわ」
結衣は深いため息を吐いた。
そして数秒、悩む。
悩んで。
諦めたように言った。
「……編集は私がやる」
「え?」
「だから、魔法を使うならちゃんとCGっぽく加工する。火力も抑える。撮影場所も考える」
ハルトが目を丸くする。
「え、手伝ってくれんの?」
「アンタ一人でやらせたら絶対ニュースになるからよ」
「結衣〜!」
ハルトが感動した顔になる。
「やっぱお前、最高のマネージャー――」
「保護者よ」
即答だった。
だがハルトは嬉しそうだった。
「よっしゃあ! じゃあ今日は本気で撮るぞ!」
「……ちなみに、どこで?」
結衣が嫌な予感を覚えながら聞く。
するとハルトは、キラキラした顔で答えた。
「俺ん家の庭!」
「近所迷惑確定じゃない!!」
「大丈夫大丈夫。結界張れるし」
「その“結界”がもう普通じゃないのよ!」
ハルトは笑いながら歩き出す。
夕日を背に。
まるで遠足前の子供みたいな顔で。
「タイトルどうするかなー」
「まだやるのね……」
「『【検証】炎魔法(物理)で炒飯作ってみた』は確定として――」
「確定するな」
「サムネは爆炎系がいいか」
「料理動画で爆炎って何よ」
「いや、視聴維持率は大事――」
夕暮れの住宅街に、二人の声が響いていく。
そしてこの時。
如月結衣はまだ知らなかった。
この“炒飯動画”が。
日本中を巻き込む、さらなる大騒動の始まりになることを。




