第16話 剣聖が勇者を追う理由
リーゼロッテは、生まれながらの天才ではなかった。
王侯貴族でもなければ、名門騎士の家系でもない。
王都から数日離れた小さな農村。
そこで生まれ育った、ごく普通の平民の少女だった。
ただ一つだけ。
普通ではないものがあった。
剣への執着である。
幼い頃からリーゼロッテは木の枝を振っていた。
畑仕事を終えた父の鍬を見て真似をする。
旅人の剣を見て真似をする。
兵士の訓練を見て真似をする。
誰かに教わったわけではない。
ただ見た。
そして覚えた。
それだけだった。
「またやってるのか、リーゼ」
村の大人たちは苦笑した。
「女の子なんだから、もっと別の遊びをしなさい」
「嫁の貰い手がなくなるぞ」
だが少女は聞かない。
朝も。
昼も。
夜も。
剣を振った。
雨の日も。
雪の日も。
熱を出した日でさえ。
木の枝を握っていた。
やがて村へ流れの冒険者がやって来た。
熊を狩るために立ち寄った剣士だった。
酒場の裏で剣を振る姿を、リーゼロッテは食い入るように見つめた。
その日の夜。
誰もいない森の中。
少女はその剣を再現していた。
「違うな……こうか」
振る。
振る。
振る。
何百回も。
何千回も。
そして翌日。
冒険者本人が驚いた。
「おい嬢ちゃん」
「はい」
「なんで俺の剣が使えるんだ?」
リーゼロッテは首を傾げた。
「見たので」
「見ただけだろ!?」
「はい」
冒険者は頭を抱えた。
だが、それが始まりだった。
村を訪れる剣士。
傭兵。
兵士。
冒険者。
リーゼロッテは全員の技を盗んだ。
見て。
覚えて。
再現して。
さらに自分なりに改良する。
誰も教えていないのに。
誰よりも上手く使ってしまう。
十五歳になる頃には、近隣では有名人になっていた。
化け物がいる。
剣の天才がいる。
そんな噂が広がっていた。
そしてある日。
人生が変わる。
盗賊団が村を襲ったのだ。
十数人規模。
武装した大人たち。
村人たちは絶望した。
兵士が来るまで耐えるしかない。
そう思っていた。
しかし。
その日の夕方。
盗賊たちは全員縛られて転がっていた。
中央に立つのは一人の少女。
血の付いていない木剣を肩に担ぎながら、リーゼロッテは首を傾げていた。
「弱かったですね」
村人たちは静まり返った。
盗賊団長は泣いていた。
「なんなんだこの娘ぇぇぇぇぇ!」
その事件は王都まで伝わった。
そして王国騎士団がやって来た。
「王都へ来ないか」
騎士団長は言った。
「お前ほどの才能を田舎で腐らせるのは惜しい」
リーゼロッテは即答した。
「行きます」
迷いはなかった。
もっと強い剣が見たい。
もっと強い相手と戦いたい。
それだけだった。
王都。
王国騎士団。
普通なら平民出身の少女が入れる場所ではない。
だが誰も反対できなかった。
実力が違いすぎたからだ。
入団試験。
三日で主席。
新人訓練。
一週間で終了。
模擬戦。
三か月で教官を撃破。
一年後。
王国最強。
二年後。
周辺諸国でも有名。
三年後。
王国騎士団副団長。
五年後。
王国騎士団長。
異例。
前代未聞。
常識外れ。
そんな言葉ばかりが並んだ。
だがリーゼロッテ本人には実感がなかった。
ただ剣を振っていただけだったからだ。
気付けば周囲に勝てる者がいなくなっていた。
気付けば王国最強と呼ばれていた。
気付けば人々が畏怖の目で見ていた。
そして気付けば。
退屈していた。
「……弱い」
訓練場で木剣を振る。
相手は倒れる。
また相手が来る。
倒れる。
来る。
倒れる。
それの繰り返し。
誰も自分に届かない。
誰も自分を超えない。
王国最強。
その称号は栄誉だった。
だが同時に孤独でもあった。
そんなある日。
王城へ呼び出された。
魔王軍の侵攻。
世界規模の戦争。
勇者召喚計画。
国の上層部が慌ただしく動いていた。
リーゼロッテは騎士団長として会議へ参加する。
そこで王女セラフィアーナとも再会した。
護衛任務で何度も顔を合わせている相手だった。
美しく聡明で。
誰よりも国を愛する王女。
「リーゼロッテ」
「はっ」
「勇者召喚が成功した場合、護衛役はあなたに任せます」
「御意」
短く答える。
その時のリーゼロッテは何も期待していなかった。
勇者だろうが英雄だろうが同じだ。
どうせ自分より弱い。
守る対象が一人増えるだけ。
そう思っていた。
――その考えが。
数日後。
根底から覆されることになる。
異世界から召喚された一人の少年によって。
勇者召喚は初めてではなかった。
人類と魔族の戦争は長い。
魔王が現れれば勇者を呼ぶ。
世界の危機が訪れれば異界へ助けを求める。
それはこの世界で何度も繰り返されてきた歴史だった。
ハルトが召喚された時点で、勇者召喚は三度目。
そしてリーゼロッテは、その三度すべてに関わることになる。
もっとも。
一度目と二度目の勇者について、彼女が抱いた感想はほとんど同じだった。
「弱い」
である。
もちろん一般人と比べれば圧倒的だった。
勇者には成長補正がある。
才能もある。
常人を超える力も持つ。
だが。
剣だけで言えば話は別だった。
十年以上剣だけに人生を捧げてきたリーゼロッテに敵うはずもない。
勇者たちは強くなった。
確かに強くなった。
だが最終的にも、
「剣なら私の方が上ですね」
と言える程度には差が残っていた。
だから今回も同じだと思っていた。
勇者召喚の儀が成功した日。
王城の訓練場。
リーゼロッテは腕を組みながら、新たな勇者を見ていた。
「…………」
「…………」
沈黙。
少年もこちらを見ている。
黒髪。
黒い瞳。
どこか場違いな制服。
そして。
驚くほど普通だった。
筋肉はない。
体格も普通。
威圧感もない。
歴代勇者たちが最初から放っていた独特の雰囲気すら感じられない。
むしろ。
少し頼りない。
「彼が勇者ですか?」
隣にいたセラフィアーナへ尋ねる。
「はい」
「そうですか」
内心では首を傾げていた。
王国は本当に大丈夫なのだろうか。
そんな不安すら覚える。
すると少年が近付いてきた。
「えーと」
人懐っこい笑み。
「よろしくな」
いきなりだった。
普通なら王国最強騎士を前に緊張する。
それが自然だ。
だが少年はまるで友達へ話しかけるような口調だった。
リーゼロッテは少し眉をひそめる。
「私は王国騎士団長リーゼロッテ」
「おう」
「本日より剣術指南役を務めます」
「助かる」
軽い。
あまりにも軽い。
これが世界を救う勇者なのだろうか。
不安が増した。
その日のうちに訓練が始まった。
まずは基本確認。
木剣を持たせる。
「構えてください」
「こうか?」
リーゼロッテは絶句した。
酷い。
本当に酷い。
素人だ。
完全な素人だった。
重心。
握り方。
足運び。
視線。
呼吸。
全てが滅茶苦茶。
村の子供でももう少しまともに構える。
歴代勇者の中でも最低。
断言できた。
「……これは」
「ん?」
「かなり時間が掛かりそうですね」
「そうか?」
「そうです」
断言した。
才能以前の問題だった。
基礎がない。
何もない。
白紙。
完全な初心者。
リーゼロッテは心の中でため息を吐いた。
まあ仕方ない。
勇者育成も仕事の一つだ。
今までだってやってきた。
今回も同じ。
数年掛けて育てればいい。
そう思っていた。
――一時間後。
「……は?」
リーゼロッテは固まっていた。
目の前ではハルトが木剣を振っている。
先ほど教えた動きを。
寸分違わず再現して。
いや。
再現どころではない。
改善していた。
「もう一度お願いします」
「こうだ」
振る。
美しい軌道。
無駄のない体重移動。
理想的な剣筋。
教本に載せたいほど完成されている。
リーゼロッテの顔から表情が消えた。
おかしい。
一時間前まで素人だった。
間違いなく素人だった。
それがなぜ。
「何か変か?」
「……いえ」
変なのはお前だ。
思わず言いそうになった。
だが。
それでもまだ理解できる範囲だった。
天才なのだろう。
そう思えば説明できる。
本当の異常は。
三日後に起きた。
模擬戦。
木剣同士。
軽い打ち込み。
それだけの予定だった。
「来い」
「おう」
ハルトが踏み込む。
リーゼロッテは受ける。
受ける。
受ける。
そして。
「――っ!?」
気付いた時には木剣が宙を舞っていた。
自分の手から離れて。
空高く。
回転していた。
訓練場が静まり返る。
誰も動かない。
リーゼロッテも。
周囲の騎士たちも。
そして当のハルト本人も。
「……あ」
間抜けな声を出していた。
「すまん」
謝っていた。
謝るな。
問題はそこじゃない。
リーゼロッテは震える手を見下ろした。
負けた。
今。
たった今。
自分は負けた。
三日前まで剣を握ったこともない少年に。
王国最強が。
敗北した。
「…………」
理解が追い付かない。
いや。
理解したくなかった。
だが事実は変わらない。
リーゼロッテは知っていた。
今まで何人もの天才を見てきた。
英雄も見た。
剣豪も見た。
だが。
こんな存在は知らない。
剣を覚える。
ではない。
剣そのものを理解している。
そんな感覚だった。
まるで。
生まれる前から剣を知っていたかのように。
理不尽だった。
圧倒的だった。
そして。
どうしようもなく美しかった。
敗北した悔しさよりも。
嫉妬よりも。
恐怖よりも。
先に胸へ込み上げてきた感情があった。
もっと見たい。
この人がどこまで強くなるのか。
見届けたい。
気付けば視線が追っていた。
気付けば訓練時間を増やしていた。
気付けば次の技を教えていた。
王命だからではない。
騎士団長の義務だからでもない。
純粋に。
目の前の少年から目が離せなくなっていた。
後に歴代最強の勇者と呼ばれる少年は。
その時まだ。
自分がどれほど常識外れなのかすら理解していなかった。
ハルトの成長速度は異常だった。
いや。
成長という表現すら正しくないのかもしれない。
教えれば覚える。
見れば盗む。
一度経験すれば二度と忘れない。
そして気付けば教えた側を追い抜いている。
そんなことの繰り返しだった。
王国上層部は歓喜した。
歴代最強。
誰もがそう確信した。
だからこそ。
王国は勇者へ最大限の支援を行うことを決定する。
「リーゼロッテ」
謁見の間。
国王の声が響く。
「はっ」
「勇者ハルトの道先案内人を命じる」
周囲の貴族たちがざわついた。
王国騎士団長。
国防の要。
その人物を一個人へ付ける。
異例中の異例だった。
だが誰も反対しなかった。
今のハルトにはそれだけの価値があった。
「勇者が国内で活動する限り、お前が同行せよ」
「御意」
リーゼロッテは迷わず頭を下げた。
王命だった。
そして。
少しだけ嬉しかった。
ハルトの隣にいられる。
その事実が。
――――――
一つ目。
魔狼討伐。
王都近郊の森。
数十匹規模の群れ。
本来なら騎士団が出動する案件だった。
「じゃあ行ってくる」
ハルトが歩き出す。
「待て」
「ん?」
「作戦は」
「必要か?」
数分後。
群れは壊滅していた。
リーゼロッテは黙った。
作戦など必要なかった。
勇者が強すぎた。
――――――
二つ目。
山賊討伐。
街道を封鎖する大規模盗賊団。
千人規模。
普通なら軍が出る。
「人数多いな」
「そうですね」
「よし」
ハルトは山へ向かった。
そして夕方。
山賊団は壊滅していた。
捕縛された山賊たちが泣いていた。
「化け物だぁぁぁ!」
「勇者じゃねぇ!」
「災害だ!」
リーゼロッテは少し同情した。
――――――
三つ目。
辺境都市。
宿屋。
長旅の途中だった。
ハルトは食堂で食事をしている。
周囲の冒険者たちは勇者だと知らない。
「兄ちゃん強そうだな」
「そうか?」
「腕相撲やろうぜ」
「いいぞ」
結果。
椅子ごと吹き飛んだ。
挑んだ冒険者が。
宿屋の壁を突き破って。
「……加減してください」
「難しいんだよな」
本気で困った顔をしていた。
リーゼロッテは頭を抱えた。
――――――
四つ目。
訓練。
野営地。
夜。
焚火の前。
「剣を貸してください」
「おう」
リーゼロッテは技を見せる。
一度だけ。
それだけだった。
翌朝。
ハルトは完璧に再現していた。
しかも改良版だった。
「どうだ?」
「……意味がわかりません」
本音だった。
もはや理解を諦め始めていた。
――――――
五つ目。
魔王軍との初遭遇。
前線。
大地を埋め尽くす魔族軍。
数万。
歴代勇者でも苦戦した規模。
騎士たちは緊張していた。
リーゼロッテも剣を抜く。
だが。
「下がってていいぞ」
ハルトが前へ出た。
「勇者様?」
「すぐ終わる」
その直後。
空が割れた。
山が消えた。
大地が裂けた。
魔族軍が蒸発した。
文字通り。
跡形もなく。
消えた。
リーゼロッテは黙っていた。
騎士たちも黙っていた。
誰も言葉が出なかった。
常識が死んだからだ。
――――――
旅は続いた。
勇者は強くなり続けた。
昨日より今日。
今日より明日。
止まることなく。
際限なく。
そしてリーゼロッテは気付く。
自分は置いていかれている。
王国最強。
そう呼ばれた自分ですら。
今や背中すら見えない。
悔しかった。
情けなかった。
だが。
同時に誇らしかった。
自分が教えた勇者だから。
そんな矛盾した感情を抱いていた。
そして。
別れの日が来る。
王国西部国境。
巨大な関所。
ここから先は他国領。
王国の管轄外だった。
「ここまでですね」
リーゼロッテが言う。
「ああ」
ハルトは頷いた。
「世話になったな」
「いえ」
短い返事。
本当はもっと話したかった。
もっと一緒にいたかった。
だが王命はここまで。
同行任務は終了だった。
ハルトは振り返る。
「またな」
それだけ言って歩き出す。
止まらない。
迷わない。
世界を救うために。
前だけを見て進んでいく。
その背中が。
少しずつ小さくなる。
やがて見えなくなる。
「…………」
リーゼロッテは立ち尽くしていた。
胸の奥が痛かった。
喪失感。
寂しさ。
そして。
圧倒的な無力感。
自分は弱い。
王国最強など笑わせる。
あの人の隣に立てない。
肩を並べられない。
同じ景色を見られない。
今のままでは。
永遠に。
その事実が悔しかった。
だから決めた。
「武者修行へ出ます」
帰国後。
リーゼロッテは騎士団長職を一時離れる願いを提出した。
周囲は驚いた。
反対もされた。
だが決意は揺らがない。
世界を回る。
強者と戦う。
技を学ぶ。
もっと強くなる。
もっと高みへ行く。
その先に。
あの人がいる。
旅立ちの日。
リーゼロッテは一人空を見上げた。
遠い異国の空。
きっと今もハルトは戦っている。
誰よりも前で。
誰よりも強く。
「待っていてください」
小さく呟く。
誰にも聞こえない声で。
「いつか必ず」
剣を握る。
強く。
強く。
決意を刻み込むように。
「あなたの隣に立つに相応しい実力を手に入れてみせます」
それは誓いだった。
一人の剣士として。
そして。
まだ自覚すらしていない恋心を抱いた、一人の女性としての。
帰国したリーゼロッテは、まず最初に決断を下した。
騎士を辞める。
それも一時的な休職ではない。
正式な返上だった。
王国騎士団長。
王国最強の騎士。
数え切れないほどの栄誉。
誰もが羨む地位。
だが今の彼女には価値がなかった。
欲しいものは別にある。
もっと強くなること。
ただそれだけだった。
王城。
謁見の間。
国王は長い沈黙の末にため息を吐いた。
「本当に行くのだな」
「はい」
「惜しい」
「光栄です」
「だが止めても無駄なのだろう」
「恐らくは」
国王は苦笑した。
昔からそうだった。
一度決めたリーゼロッテは止まらない。
「ならば好きにせよ」
「ありがとうございます」
こうして。
王国最強騎士リーゼロッテは表舞台から姿を消した。
――――――
旅立ちの日。
別れを告げる者は多かった。
騎士団員。
部下たち。
旧友。
訓練仲間。
世話になった人々。
多くの者が引き留めた。
多くの者が応援した。
そして。
最後に訪れたのは王女の私室だった。
――――――
「本当に行ってしまうのですね」
セラフィアーナが寂しそうに笑う。
「はい」
「戻ってきますか?」
「分かりません」
正直な答えだった。
強くなる。
その目的を果たすまでは帰るつもりがない。
「リーゼロッテ」
「はい」
「あなたは変わりましたね」
その言葉にリーゼロッテは僅かに目を細めた。
「そうでしょうか」
「ええ」
セラフィアーナは窓の外を見る。
「以前のあなたは剣しか見ていませんでした」
「今も同じです」
「違います」
即座に否定された。
「今のあなたは誰かを見ています」
「…………」
言葉に詰まる。
否定できなかった。
セラフィアーナは微笑む。
全て見透かしているような笑みだった。
「勇者様ですね」
「……そうかもしれません」
小さく認める。
セラフィアーナは少しだけ嬉しそうだった。
「良かった」
「何がですか?」
「あなたにもようやく人間らしい感情が生まれたことです」
失礼な言葉だった。
だが反論できなかった。
昔の自分は確かに剣しか見ていなかったから。
「リーゼロッテ」
「はい」
「行ってらっしゃい」
王女は優しく言った。
「今度会う時は、勇者様のお話を聞かせてください」
「……ええ」
リーゼロッテは初めて柔らかく笑った。
「必ず」
それが最後の挨拶だった。
――――――
そして。
旅が始まる。
武者修行の旅。
終わりの見えない旅路。
最初に向かったのは魔王軍との最前線だった。
そこには強者がいる。
生き残った猛者がいる。
戦場こそが最良の修練場だった。
魔族を斬る。
魔物を斬る。
戦う。
戦う。
ひたすら戦う。
血と鉄の匂いに包まれながら。
リーゼロッテは強くなっていった。
――――――
二年目。
北方の雪原。
そこで一つの伝承を耳にする。
勇者の聖剣。
かつて初代勇者が使用した武器。
魔王との決戦後に失われた伝説の剣。
誰も本気にはしていなかった。
おとぎ話だと思っていた。
だが。
リーゼロッテは見つけた。
氷河の最深部。
古代遺跡。
凍り付いた祭壇。
そこに。
一振りの剣が眠っていた。
「これは……」
手を伸ばす。
瞬間。
眩い光が走った。
剣が応える。
まるで待ち続けていたかのように。
長い眠りから目覚めるように。
白銀の刀身が輝いた。
伝説は本当だった。
失われた勇者の聖剣。
それがリーゼロッテの新たな相棒となった。
――――――
三年目。
東方の剣聖。
四年目。
獣人国の戦鬼。
五年目。
竜殺しの英雄。
世界中を巡った。
名だたる強者と剣を交えた。
勝つこともあった。
負けることもあった。
血を流した。
骨も折れた。
何度も死にかけた。
だが。
その全てが糧となる。
技となる。
経験となる。
力となる。
リーゼロッテは進み続けた。
――――――
そして。
六年目。
ある国で一人の老剣士と出会う。
名はグラン。
無名。
称号もない。
だが。
強かった。
恐ろしく。
異常なほどに。
「若いな」
老人は笑った。
「だが剣が見えておらん」
「何を」
「お前は勝つことしか見ていない」
木剣が動く。
見えなかった。
気付けば首元に切っ先がある。
完敗だった。
「なっ……」
「強さとは力ではない」
老人は静かに語った。
「剣とは人を映す鏡じゃ」
その日から半年。
リーゼロッテは老人の下で学んだ。
技術だけではない。
心。
在り方。
剣士としての本質。
初めて学ぶ領域だった。
そして。
別れの日。
老人は満足そうに頷いた。
「もう教えることはない」
「ありがとうございます」
「行くがよい」
リーゼロッテは深く礼をした。
そして歩き出す。
以前より強く。
以前より速く。
以前より遥か高みへ。
だが。
それでも。
心の奥には一つの背中があった。
どれだけ強くなっても。
どれだけ成長しても。
追い付けない背中。
異世界から来た少年。
歴代最強の勇者。
ハルト。
「まだです」
リーゼロッテは聖剣の柄を握る。
かつてより遥かに強くなった今でも。
満足などできない。
「もっと強くなれる」
あの人の隣に立つために。
胸を張って再会するために。
リーゼロッテは再び歩き出した。
遥か遠い未来に待つ。
運命の再会へ向かって。
どれほど旅を続けただろう。
何度国境を越えただろう。
何度強者と剣を交えただろう。
気付けばリーゼロッテ自身も伝説となっていた。
聖剣を携えた女剣士。
世界を巡る剣聖。
魔族ですらその名を恐れる存在。
だが。
本人にはどうでもよかった。
目的は一つ。
ただ一人。
ハルトだけだった。
――――――
その知らせが届いたのは、ある辺境国家だった。
酒場。
冒険者たちの喧騒。
酔っ払いの笑い声。
その中で。
「聞いたか?」
「ああ」
「ついに終わったらしいな」
「魔王討伐だろ?」
リーゼロッテの手が止まった。
耳を疑った。
「勇者ハルト」
「歴代最強だってよ」
「魔王軍を壊滅させたらしい」
「人類の勝利だな」
世界が歓喜していた。
当然だ。
長き戦争が終わった。
平和が訪れた。
誰もが勇者を称えていた。
だが。
リーゼロッテの胸に浮かんだ感情は違った。
嬉しい。
誇らしい。
当然だった。
あの人ならやると思っていた。
だが。
同時に。
嫌な予感がした。
勇者は異世界人だ。
使命を終えた勇者はどうなる?
歴代勇者はどうなった?
答えは決まっている。
元の世界へ帰る。
それが当然だった。
「まさか……」
リーゼロッテは立ち上がった。
その足で情報を集める。
王都へ向かう。
各地を巡る。
確認する。
そして。
最悪の事実を知った。
「勇者様なら帰還されました」
神官は言った。
「数年前に」
数年前。
その言葉が胸を貫いた。
「……数年?」
「はい」
「もう……いないのですか」
「勇者召喚の儀式を逆転させ、故郷へ戻られたと聞いています」
終わった。
リーゼロッテは理解した。
自分は遅かった。
強くなることばかり考えていた。
追い付こうとしていた。
隣に立とうとしていた。
その間に。
あの人は帰ってしまった。
もう会えない。
永遠に。
その可能性が脳裏をよぎる。
胸が苦しかった。
呼吸が浅くなる。
剣を握る手が震える。
初めてだった。
魔王と対峙した時ですら感じなかった恐怖。
ハルトと二度と会えない。
それだけが。
何より恐ろしかった。
――――――
だが。
リーゼロッテは立ち止まらなかった。
「追います」
即答だった。
迷いは一秒もない。
神官たちが驚いた顔をする。
「し、しかし勇者様は異世界へ」
「知っています」
「次元を超えるなど」
「方法ならあります」
リーゼロッテは腰の聖剣へ視線を向けた。
長い旅の中で手に入れた勇者の遺産。
伝説の聖剣。
この剣には不思議な力が宿っていた。
空間。
次元。
世界そのものへ干渉する力。
勇者のために造られた神代の武器。
もしかしたら。
いや。
きっと。
このために自分の手へ渡ったのだ。
そんな気がした。
――――――
世界の果て。
誰もいない断崖。
リーゼロッテは立っていた。
空を見上げる。
風が吹く。
故郷の景色。
慣れ親しんだ世界。
もう戻れないかもしれない。
全てを失うかもしれない。
それでも。
後悔はなかった。
「さようなら」
王国。
仲間たち。
騎士団。
王女。
故郷。
全てに別れを告げる。
そして。
剣を抜いた。
聖剣が輝く。
世界が震える。
空間が悲鳴を上げる。
「――はああああああああっ!!」
一閃。
世界が裂けた。
空が割れる。
次元が裂ける。
漆黒の裂け目が生まれる。
向こう側には何も見えない。
未知。
異界。
異世界。
だが。
恐怖はなかった。
その先に。
あの人がいる。
ただそれだけで十分だった。
「待っていてください」
リーゼロッテは微笑む。
昔より強くなった。
昔より成長した。
だから今度こそ。
胸を張って隣に立てる。
そう信じて。
彼女は裂け目へ飛び込んだ。
――――――
そして。
目を覚ました時。
リーゼロッテはリーゼロッテではなくなっていた。
記憶を失っていた。
力も失っていた。
過去も失っていた。
なぜここにいるのか。
何を目指していたのか。
何も分からなかった。
長い時間が流れた。
十数年。
異世界で生きた。
別の人生を歩いた。
別の名前を与えられた。
別の常識の中で暮らした。
そして。
運命の日が訪れる。
――――――
「――主」
その瞬間。
全てが蘇った。
記憶。
感情。
誓い。
旅路。
願い。
失ったはずの全て。
何より。
目の前にいた。
ずっと追い続けた人。
何年経っても忘れられなかった人。
勇者ハルト。
異世界を救った英雄。
自分の人生を変えた人。
その姿を見た瞬間。
リーゼロッテは理解した。
ああ。
来てよかった。
故郷を捨てても。
記憶を失っても。
十数年を失っても。
何一つ後悔はない。
この再会一つで。
全て報われた。
そう思えた。
――――――
窓の外には現代日本の夜景。
かつて見たこともない世界。
だが不思議と嫌ではない。
むしろ。
少し楽しみだった。
これから何が起こるのか。
どんな日々が待っているのか。
どんな時間を過ごせるのか。
隣にはハルトがいる。
それだけで十分だった。
リーゼロッテは静かに目を閉じる。
そして小さく微笑んだ。
今度こそ。
離れない。
もう二度と。
追い掛けるだけではなく。
隣で歩くために。
彼女の新しい物語は。
ようやくここから始まるのだから。




