第14話 剣聖は再会と共に斬りかかる
校門前。
放課後の喧騒に包まれていたはずの空間が、妙な静寂に支配されていた。
誰もが息を呑んでいる。
全国三連覇。
女子剣道界の伝説。
テレビでも何度も特集された天才剣士。
剣崎凛。
そんな有名人が、なぜか私立青葉高校の校門前に立っている。
しかも。
その視線は一直線に――ハルトへ向けられていた。
「……?」
ハルトは首を傾げた。
「なんか見られてるな」
「いや見られてるどころじゃないでしょ」
結衣が即座にツッコむ。
「あの人、完全にあんたしか見てないから」
「炎の勇者チャンネルの視聴者かな?」
「その発想になるのが怖いんだけど」
結衣は頭を抱えた。
その隣では聖奈も凛を観察していた。
美しい姿勢。
隙のない立ち方。
まるで一振りの剣。
そして何より。
どこか見覚えのある気配。
「……」
聖奈の瞳が細くなる。
だが確信には至らない。
あまりにも信じ難かったからだ。
一方。
凛の世界にはもう何も映っていなかった。
人混みも。
校舎も。
夕日も。
何もかもが消えている。
いるのは一人だけ。
目の前に立つ少年。
異世界を救った勇者。
自らが命を捧げると誓った主。
一ノ瀬晴人。
いや――。
ハルト。
「……主」
震える声が漏れた。
十年。
探した。
探し続けた。
どれだけ探しても見つからなかった。
この世界のどこにいるのかも分からなかった。
それでも諦めなかった。
主が生きていると信じていたから。
そして今。
ようやく。
ようやく再会できた。
「……っ」
胸が苦しい。
呼吸が乱れる。
涙が出そうになる。
戦場では何度も死線を越えた。
魔王軍の将軍とも戦った。
だが今の方が遥かに緊張していた。
目の前にいる。
本当にいる。
夢ではない。
幻ではない。
あの頃と何一つ変わらない笑顔で。
そこにいる。
凛の唇が震えた。
「主……」
一歩。
前へ出る。
ざわっ。
周囲がざわめいた。
「あ、動いた」
「剣崎先輩だ」
「誰のところ行くんだ?」
「え?」
「まさかあの男子?」
人垣が割れていく。
凛は歩く。
一歩。
また一歩。
まるで運命に導かれるように。
そして。
ハルトの目の前まで来た。
距離三メートル。
互いの顔がはっきり見える距離。
「おー」
ハルトは素直に感心した。
「近くで見るとすげぇな」
「感想それ?」
結衣が呆れる。
「テレビとか出てる人なんだろ?」
「そうだけど!」
だが凛は二人の会話など聞こえていなかった。
視界には主しかいない。
あの日と同じ。
圧倒的な存在感。
底知れぬ力。
何も変わらない。
変わっていない。
その事実だけで胸がいっぱいだった。
だが。
同時に。
リーゼロッテという女は騎士だった。
感動の再会で泣き崩れるような女ではない。
まず確認しなければならない。
本当に主なのか。
もし偽物なら。
そんな可能性は万に一つもないが。
それでも。
騎士として。
剣士として。
確かめなければならない。
凛の瞳が鋭く細まる。
「……失礼」
ぽつりと呟いた。
誰にも聞こえないほど小さな声。
だが。
その瞬間だった。
凛の右手が動く。
背中に背負っていた竹刀袋。
普通の剣道選手なら竹刀が入っているはずのそれへ手を伸ばす。
「ん?」
ハルトが首を傾げる。
次の瞬間。
凛は袋の口を開いた。
中から現れたのは竹刀ではない。
木刀だった。
だが。
普通の木刀ではない。
厚い。
異常なほど厚い。
まるで鈍器。
いや。
巨大な鉄塊を木で覆ったような代物だった。
実際、その内部には重合金が仕込まれている。
かつてリーゼロッテが振るっていた両刃の大剣。
人間なら持ち上げることすら不可能だった怪物剣。
その重量に少しでも近付けるため、現代技術で特注した木刀だった。
重量は数十キロ。
常人なら振ることすらできない。
だが凛はそれを片手で抜き放つ。
まるで羽根のように。
周囲の空気が変わった。
「……え?」
「な、何あれ」
「木刀?」
「いや待て重さおかしくないか?」
生徒たちがざわめく。
結衣が嫌な予感を覚えた。
聖奈は目を見開く。
その構え。
その姿勢。
その殺気。
忘れるはずがない。
「まさか……」
凛の長い黒髪が夕風に揺れた。
目の前には主。
確かめる。
確認する。
そして――。
再会の挨拶をする。
騎士らしく。
剣士らしく。
何よりリーゼロッテらしく。
凛は腰を落とした。
重心が沈む。
地面が小さく軋む。
その瞬間。
長年鍛え上げた肉体が解放された。
「主――」
涙を滲ませながら。
凛は笑った。
懐かしさと歓喜と狂おしいほどの忠誠を込めて。
「――御免!!」
轟音。
空気が裂ける。
数十キロの特注木刀が夕空を叩き割るような勢いで振り下ろされた。
もし普通の人間なら。
反応することすらできない。
見えた時には頭蓋ごと地面へ叩き込まれている。
それほどの一撃だった。
「きゃっ!?」
「危なっ!!」
「逃げろ!!」
周囲の生徒たちが悲鳴を上げる。
教師たちの顔色も変わった。
誰もが事故を確信した。
だが。
その中で一人だけ。
ハルトだけが。
「あぶね」
いつもの調子で呟いた。
まるで飛んできた紙飛行機を避けるような気軽さだった。
右手が動く。
ポケットへ。
そして。
取り出した。
「え?」
結衣が目を瞬かせる。
ハルトが掴んだのは。
コンビニでもらった割り箸だった。
昼休みに買った肉まんの残骸である。
まだ袋ごと制服のポケットへ突っ込んでいた。
次の瞬間。
カン。
澄んだ音が鳴った。
あまりにも軽い音だった。
まるで箸と箸をぶつけたような。
そんな気の抜けた音。
しかし。
振り下ろされた木刀は。
いつの間にか軌道を逸らされていた。
凛の全力の一撃が。
ハルトの頭上を通り過ぎる。
木刀は地面へ激突した。
ドゴォン!!
コンクリートが砕ける。
校門前の地面に大きな亀裂が走った。
砂埃が舞う。
周囲が静まり返る。
「……」
「……」
「……は?」
誰かが呟いた。
無理もない。
今起きた現象が理解できなかった。
凛の一撃は見えた。
だが。
ハルトが何をしたのかは誰も見えなかった。
ただ。
気付いた時には。
ハルトが割り箸を持ったまま立っていて。
凛の木刀だけが逸れていた。
それだけだった。
「おー」
ハルトは感心したように地面を見た。
「すげぇなこの演出」
演出ではない。
「地面割れてるじゃん」
演出ではない。
「最近のドッキリって金かかるんだな」
演出ではない。
結衣は心の中で三回ツッコんだ。
だが声が出なかった。
「いや待って」
結衣が震える声を出す。
「今なにしたの?」
「ん?」
「いやだから!」
指を差す。
「なんで割り箸で受けられるの!?」
「いや普通だろ?」
「どこの普通!?」
ハルトは首を傾げた。
「剣って真っ直ぐ受けると衝撃で持ってかれるじゃん」
「そういう問題じゃないから!」
「だから横からちょいって流しただけだぞ?」
言いながら。
実演するように割り箸を振る。
結衣は頭を抱えた。
この男は。
本当に。
昔からこうだった。
異世界へ行く前から運動神経がおかしかった。
異世界から帰ってきたらさらにおかしくなった。
本人だけがそれを自覚していない。
一方。
聖奈は固まっていた。
「……」
今の剣筋。
今の受け流し。
間違いない。
王城の訓練場で何度も見た。
歴代最強勇者の剣。
魔法ではない。
純粋な技量。
リーゼロッテですら絶句した怪物。
あの剣だ。
そして。
木刀を振り抜いた凛もまた。
固まっていた。
木刀を握る手が震えている。
違う。
怒りではない。
恐怖でもない。
歓喜だ。
「……ああ」
声が漏れる。
「やはり」
木刀を持つ手に力が入る。
涙が滲む。
「やはり……主だ」
あの日。
王国騎士団長に就任したばかりの頃。
勇者へ剣術指導を任された。
最初は自信があった。
自分は王国最強。
勇者といえど剣では負けない。
そう思っていた。
三日後。
負けた。
五日後。
完敗した。
一週間後には。
『リーゼ、その技こうした方が強くないか?』
などと言われ始めた。
十年積み上げた技術を。
数日で吸収され。
さらに改良され。
あっさり追い越された。
理不尽だった。
絶望的だった。
そして。
あまりにも眩しかった。
だからこそ。
彼女は忠誠を誓った。
この人こそ本物の英雄だと。
この人に仕えたいと。
今の受け流し。
あの頃と何一つ変わらない。
いや。
むしろ洗練されている。
割り箸一本で。
数十キロの木刀を。
当然のようにいなしてみせた。
常識外れ。
理不尽。
意味不明。
そして。
間違いなく。
勇者ハルトだった。
「……っ」
凛の肩が震える。
笑みがこぼれる。
涙もこぼれる。
周囲の生徒たちはそんな彼女を見て困惑していた。
「え?」
「なんで泣いてるんだ?」
「ていうか何だったんだ今」
「剣崎先輩が攻撃したよな?」
「一ノ瀬もなんかしたよな?」
「いや見えなかったんだけど」
「俺も見えなかった」
「割り箸じゃなかった?」
「割り箸だったらもっと意味分からんわ」
ざわざわ。
ざわざわ。
騒ぎが広がる。
教師たちも完全に混乱していた。
だが。
そんな周囲など見えていないように。
凛はただ一人。
懐かしい主を見つめ続けていた。
そして次の瞬間。
彼女は木刀を手放した。
ごとり。
重い音を立てて地面へ落ちる。
まるで。
騎士が武器を捨てるかのように。
その瞳には。
もう戦意など一欠片も残っていなかった。
校門前は静まり返っている。
誰も状況を理解できていなかった。
全国三連覇の天才剣士が。
突然男子生徒へ斬りかかり。
その男子生徒は割り箸で受け流し。
さらに今度は剣士の方が泣きそうな顔をしている。
意味が分からない。
理解できる人間など一人もいなかった。
――本人たちを除けば。
「……」
凛は震えていた。
涙が頬を伝う。
だがその表情は悲しみではない。
救われた者の顔だった。
長い旅の果てにようやく帰る場所を見つけたような。
そんな顔。
「主……」
再び呟く。
周囲の生徒たちは当然聞き取れない。
だが。
ハルトだけは聞こえていた。
「んー?」
ハルトは顎に手を当てる。
どこか引っかかる。
さっきの剣。
そして今の呼び方。
主。
マスター。
聞き覚えがある。
だが決定打がない。
「どっかで会ったことあるか?」
そう呟く。
普通なら失礼な発言だ。
だがハルトは本気で考えていた。
記憶を掘り返している。
異世界時代。
数え切れない人々と出会った。
王族。
騎士。
冒険者。
魔法使い。
将軍。
英雄。
その中の誰か。
そんな感覚があった。
特に。
あの剣筋。
「いやでもなぁ……」
ハルトは首を傾げる。
似ている。
すごく似ている。
だが微妙に違う。
昔知っていた剣と少しだけ変わっている。
その違和感が判断を鈍らせていた。
リーゼロッテ。
かつて王国最強と呼ばれた女騎士。
勇者となったハルトの剣術指南役。
そして数少ない旅の仲間。
だが。
リーゼロッテは途中で別れた。
ハルトが各地を巡りながら魔王軍と戦っていた頃。
彼女はさらに強くなるため武者修行の旅へ出た。
再会した時には。
毎回剣が進化していた。
『主、今度はこうしてみました』
『おお、前より強くなってるじゃん』
『主ほどではありません』
そんなやり取りを何度もした。
だから。
剣筋が変化していても不思議ではない。
むしろ。
リーゼロッテなら変わっていて当然だった。
「うーん……」
ハルトはまだ考えていた。
一方。
聖奈も固まっていた。
「……まさか」
ぽつりと漏れる。
脳裏に浮かぶのは一人の騎士。
銀の鎧を纏い。
王国最強と謳われた女性。
リーゼロッテ。
自分がセラフィアーナだった頃。
護衛として傍に控えていたこともある。
顔も知っている。
声も知っている。
人柄も知っている。
だからこそ。
逆に確信できない。
「でも……」
聖奈は眉を寄せた。
剣士ではない。
だから剣筋なんて分からない。
そもそもリーゼロッテの剣は速すぎた。
護衛についていた頃も。
何をしているのか見えなかった。
気付いたら敵が倒れている。
そんなレベルだった。
だから今も。
見覚えはある。
だが自信がない。
声も似ている。
雰囲気も似ている。
しかし。
十年。
いや。
前世を含めればもっと長い年月が経っている。
確信できる材料が足りなかった。
「リーゼ……?」
小さく呟く。
すると。
凛の肩がぴくりと震えた。
その反応に聖奈の瞳が大きく見開かれる。
「え?」
凛もまた驚いていた。
今の声。
今の呼び方。
聞き覚えがある。
忘れるはずがない。
かつての主君。
王国第一王女。
セラフィアーナ。
「まさか……」
凛の視線がゆっくり移動する。
そして。
聖奈を見る。
目が合った。
「……」
「……」
二人が固まる。
数秒。
完全な沈黙。
そして。
「え?」
「え?」
同時だった。
周囲の生徒たちはますます混乱する。
「何?」
「なんなの?」
「なんで全員知り合いみたいになってるんだ?」
「いや知らん」
「俺に聞くな」
ざわざわざわざわ。
騒ぎは広がるばかり。
教師たちもどう介入していいか分からない。
そもそも誰も状況を説明できない。
一方。
結衣だけは別方向で混乱していた。
「待って」
額を押さえる。
「ちょっと待って」
誰も待たない。
「全国トップクラスの女子剣士が突然ハルトに斬りかかりました」
指を一本立てる。
「ハルトが割り箸で受けました」
二本目。
「その後なんか泣いてます」
三本目。
「聖奈まで知り合いっぽい反応してます」
四本目。
「私だけ何も分かってないんだけど!?」
叫んだ。
当然である。
異世界事情を知らない結衣からすれば意味不明だった。
「説明して!」
「俺もよく分からん」
ハルトが答える。
「お前が一番説明する側だからね!?」
「いやなんか昔の知り合いっぽい?」
「疑問形で言うな!」
結衣のツッコミが校門前に響いた。
だが。
その瞬間。
凛が再びハルトを見た。
涙で潤んだ瞳。
抑えきれない感情。
長年積み重ねてきた想い。
そして。
確信。
もう間違えようがない。
目の前にいるのは。
自分が探し続けた主。
勇者ハルトその人だった。
凛は唇を震わせる。
今にも何かを叫びそうになる。
だが。
ここは校門前。
周囲には何百人もの生徒がいる。
話をする場所ではない。
そのことだけは騎士として理解していた。
だから必死に感情を押さえ込む。
押さえ込む。
押さえ込む。
……押さえ込めていない。
肩が震えている。
涙も止まっていない。
どう見ても限界だった。
そしてハルトはそんな彼女を見ながら。
「あー」
ようやく何かに気付いたように手を打った。
「とりあえず立ち話する雰囲気じゃないな」
正論だった。
校門前は完全に見世物状態である。
「せっかくだし、どっか落ち着いた場所で話すか?」
その言葉を聞いた瞬間。
凛の表情がぱあっと明るくなった。
まるで忠犬だった。
周囲の生徒たちがさらにざわつく。
そして結衣は確信する。
(あ、また増えた)
ヤバい女が。
確実に増えた。
幼馴染の長年の勘が、そう告げていた。
「は、はい!」
即答だった。
返事の速度がおかしい。
むしろ食い気味だった。
「ぜひ!」
声まで弾んでいる。
ついさっきまで涙を流していた少女とは思えない。
その様子を見た周囲の生徒たちはますます混乱した。
「え?」
「知り合いだったの?」
「いやでも斬りかかってたぞ?」
「知り合いに斬りかかるか普通」
「しかも木刀で」
「地面割れてたぞ」
「それは俺も見た」
ざわざわ。
ざわざわ。
騒ぎは大きくなる一方だった。
教師たちもようやく我に返り始める。
「ちょ、ちょっと待ちなさい!」
体育教師らしき男性が前へ出た。
「今のはどういうことだ!?」
当然の反応だった。
どう見ても傷害事件である。
全国レベルの剣士が男子生徒へ武器で襲いかかったのだ。
説明を求められて当然だった。
しかし。
「え?」
ハルトは本気で不思議そうな顔をした。
「どういうことって?」
「いや、だから!」
教師が地面を指差す。
砕けたコンクリート。
亀裂。
木刀。
どう見ても大惨事である。
「剣崎さんが君に攻撃を――」
「挨拶だろ?」
ハルトが即答した。
教師が固まった。
「……はい?」
「いやだから挨拶」
当然のように言う。
「久しぶりに会った知り合いだし」
「その挨拶で地面割れる!?」
「元気そうで何よりって感じのやつじゃないですか?」
「そんな文化は存在しない!」
教師が叫んだ。
周囲の生徒たちも一斉に頷く。
存在しない。
少なくとも現代日本には存在しない。
だがハルトは本気だった。
異世界では割と普通だった。
強者同士の再会でいきなり剣を交えることなど珍しくもない。
だから本人は何も問題視していない。
結衣は頭痛を覚えた。
(ダメだ)
この二人に説明させてはいけない。
絶対に話がこじれる。
ここは自分が何とかするしかない。
「はいはいはい!」
結衣が前へ出た。
両手を叩く。
注目を集める。
「皆さん落ち着いてください!」
クラス委員長のような笑顔だった。
内心は全く笑っていない。
「今のは事故じゃありません!」
「事故じゃないのか!?」
「はい!」
結衣は断言した。
そして。
勢いで押し切ることを決意した。
「知り合い同士の特殊な挨拶です!」
沈黙。
一秒。
二秒。
三秒。
「…………は?」
全員が同じ顔をした。
結衣は続ける。
「ほら、海外だとハグとかあるじゃないですか」
「あるな」
「握手とかもありますよね」
「あるな」
「それと同じです」
「同じじゃない!」
教師と生徒たちの総ツッコミが炸裂した。
だが結衣は負けない。
「剣道界ではよくあるんです!」
「ないです」
凛が真顔で否定した。
「否定しないで!?」
結衣が叫ぶ。
凛は首を傾げた。
「剣道界ではありません」
「じゃあ何なの!?」
「騎士界隈です」
「存在しない界隈を作るな!」
結衣のツッコミが止まらない。
周囲はもう完全に混乱していた。
だが。
当事者であるハルトが平然としている以上。
教師も強くは言えない。
被害者が被害を訴えていないのだ。
「と、とにかく!」
結衣が強引に締めに入る。
「問題ありません!」
「本当に?」
「本当にです!」
「大丈夫なの?」
「大丈夫です!」
「地面割れてるけど」
「業者さん呼びます!」
何も解決していない。
だが勢いだけで押し切った。
教師たちも頭を抱えながら後退する。
正直関わりたくない。
そんな空気が漂っていた。
そして。
その隙を逃さず。
「ではハルト様」
聖奈が一歩前へ出た。
いつもの優雅な笑み。
「ひとまず場所を移しましょう」
「そうだな」
ハルトも頷く。
「どこで話す?」
「その前にまずこの場を離れるべきかと」
聖奈の言葉はもっともだった。
周囲にはまだ大量の野次馬がいる。
スマホを向けている生徒もいる。
これ以上ここにいるのは得策ではない。
「よし、撤収!」
ハルトが言った。
すると。
校門前の道路脇へ停車していた黒塗りの高級車のドアが開く。
運転手が恭しく頭を下げた。
いつもの聖奈専用車である。
高級感が溢れすぎていて、学校の風景から完全に浮いている。
「ではどうぞ」
「おー」
ハルトは慣れた様子で乗り込む。
結衣も続く。
「もう疲れた……」
本日の被害者である。
精神的な意味で。
そして。
ハルトは振り返った。
校門前に立ち尽くす凛を見る。
「あれ?」
凛はまだ遠慮していた。
乗っていいのか分からないのだろう。
騎士らしい律儀さだった。
「凛も来いよ」
その一言。
たったそれだけだった。
だが。
凛の世界が輝いた。
「……え?」
目を見開く。
「いいのか?」
「なんでダメなんだ?」
ハルトは不思議そうだった。
「話するんだろ?」
「……っ!」
凛の胸が締め付けられる。
主が。
自分を。
当然のように誘ってくれている。
あの日と同じだった。
『リーゼ、一緒に来るか?』
そう言われた日のことを思い出す。
王国最強の騎士としてではなく。
一人の仲間として。
隣へ招いてくれた勇者。
だから。
凛は深く頭を下げた。
「ありがたき幸せ」
「そんな大げさな」
ハルトは笑う。
だが凛は本気だった。
そして彼女も車へ乗り込む。
その様子を見ていた聖奈の目が細くなる。
「……」
確信が深まっていく。
この反応。
この忠誠。
この距離感。
間違いなく。
かつての騎士。
リーゼロッテだ。
一方。
凛もまた聖奈を見ていた。
そして同じ結論へ辿り着いている。
この女性は。
間違いなく。
セラフィアーナ。
前世の主君。
かつて仕えた王女。
二人の視線がぶつかる。
火花が散った気がした。
まだ言葉はない。
だが。
長年の因縁を知る者同士だから分かる。
嵐の予感しかしなかった。
そして。
何も知らないハルトだけが。
「で、どこ行く?」
とのんきに尋ねるのだった。
黒塗りの高級車が静かに発進した。
校門前に残されたのは、砕けたコンクリートと混乱しきった生徒たちだけだった。
「……今の何だったんだ?」
「知らん」
「俺も知らん」
「とりあえず一ノ瀬と剣崎先輩がヤバいのは分かった」
「あと如月さんが一番苦労してそう」
だいたい合っている。
車内。
しばし沈黙が続いた。
エンジン音だけが静かに響く。
ハルトは窓の外を眺めている。
結衣は深いため息をついた。
聖奈と凛は互いを意識しながらも口を開かない。
妙な空気だった。
「で」
最初に沈黙を破ったのはハルトだった。
「どこ行く?」
軽い。
さっきまで校門前で大騒ぎしていた人間の態度ではない。
だがそれがハルトである。
「話する場所ならどこでもいいぞ」
「どこでもいいって……」
結衣が呆れた。
「カフェとか?」
「人が多すぎます」
聖奈が即答した。
「今日の件を考えると、目立たない場所の方がよろしいかと」
「確かに」
結衣も頷く。
今やハルトは世界的インフルエンサーである。
普通の店へ入れば騒ぎになる可能性が高い。
さらに今日は全国的有名人である剣崎凛まで一緒だ。
組み合わせが強すぎる。
「では、私の管理するラウンジはいかがでしょう」
聖奈が提案した。
「会員制で、外部の視線も入りません。個室も確保できます」
「おー、いいじゃん」
ハルトは即賛成した。
深く考えていない。
「場所どこ?」
「市街地の高層ビルです。車ならすぐですわ」
「じゃあそこで!」
決定が早い。
だが結衣としても異論はなかった。
むしろ安全で助かる。
問題は。
そこにいる二人だった。
「……」
「……」
聖奈と凛。
微妙な空気。
互いに何かを確信しかけている。
だがまだ決定打がない。
だから探るような視線だけが交わされる。
結衣はそんな二人を見て、さらに頭痛を覚えた。
(絶対なんかある)
直感がそう告げている。
しかもかなり面倒なやつだ。
一方。
凛は内心で必死に平静を保っていた。
主の隣。
それだけで心臓がうるさい。
十年ぶりの再会。
本当なら今すぐ膝をついて忠誠を誓いたい。
だがここは現代日本。
しかも車内。
落ち着け。
落ち着けリーゼロッテ。
そう自分に言い聞かせる。
しかし。
視線がどうしてもハルトへ向かう。
隣で普通にスマホをいじっている勇者。
異世界を救った英雄が、現代では動画のコメント欄を見てニヤニヤしている。
「お、登録者また増えてる」
平和すぎる。
そのギャップに凛は軽く眩暈を覚えた。
一方。
聖奈も同じようなことを思っていた。
(ハルト様は本当に変わりませんわね……)
世界を救った後も。
現代へ帰還した後も。
根本的な部分は何も変わらない。
そこが好きなのだが。
そこが一番危険でもある。
そんなことを考えているうちに。
車は市街地へ入った。
夕暮れの街。
高層ビル群。
ネオンが灯り始めている。
その中でも一際目立つ高級ビルへ車は滑り込んだ。
完全予約制の会員制ラウンジ。
一般人は入れない場所だ。
「到着いたしました」
運転手が告げる。
車が地下駐車場へ停車した。
ハルトが伸びをする。
「よし、じゃあ話すか」
凛の肩がぴくりと震えた。
ついに。
ようやく。
本当に。
主と話ができる。
長い旅の終着点。
そして。
ここから新しい騒動が始まる予感しかしなかった。
結衣はそれを本能的に察し、静かに額を押さえた。
「……帰りたい」
誰にも聞こえないほど小さな声だった。




