明里編:1話 過去のこと(前編)
3年生が始まって1週間が経ったある日の昼休み、私は同じクラスで仲のいい沙月に数学の問題を教えてもらっていた。
「ここの問題はね、xにこれを代入して、分配するとできるよ。」
沙月が熱心に教えてくれたことをノートに書いている途中、私はふとこんなことを思ったので、沙月に聞いてみた。
「そういえば、沙月って誰かと一緒の班になりたいとかあるの?」
今日は席替えがある。私は沙月と同じ班になって修学旅行を一緒に回りたかった。
「え〜そうだね〜。明里と一緒になりたいかな!」
「私も。男子で一緒になりたい子っている?」
「そうだね、凪音くんがちょっと気になるかも。」
え…
私は凪音くんという名前が出てきて驚きと戸惑いがあった。
「凪音くんかぁ〜。なんで?」
「うーん。なんか凪音くんのこと知りたいって感じかな…」
………
凪音くんか…
もしかして沙月は凪音くんのことが好きなのかな?
………
あのことは私の中では忘れられない。〈凪音〉という名前を聞いたら思い出してしまう。そう…去年の秋のことを…
あの頃、私は、2月の合唱発表会に向けてピアノの練習をしていた。毎日、毎日ピアノを弾き続けた。だけど一向に上達することはなくスランプに陥ってしまった。
私の中でピアノを弾くことは、人生でもあった。それなのに最近はどれだけ練習をしても上達しない。そんな日々が続いていくうちに私はピアノを弾くことをやめていた。ずっと、小さい時から続けてきたことなのに…何度もコンクールで優勝して、小学校から何度も合唱発表会のピアノ伴奏者に選ばれて、人生の中の希望だったのに…
そうして私はその年の合唱発表会のピアノ伴奏者を辞退した。担任の先生やクラスの期待を裏切ってしまったことに対してすごく申し訳なく思った。1週間泣き続けた。そうして学校にもあまり行けなくなった。
ある日、玄関のチャイムが鳴った。
ピンポーン、ピンポーン
今日はお母さんもお父さんも仕事だから誰もいない。自室にずっと閉じこもっていた私は玄関まで向かった。
ガチャ
「あ、三上さん…」
そこには同じクラスの凪音くんが立っていた。
「えっと…凪音くんだっけ?」
「うん。先生に頼まれて。ほら、家が近いからプリントとか届けに行ってくれって。」
「あ、ありがとう。その、よかったらあがってよ。」
「え、いいよ、そんなの。迷惑でしょ?」
「いいよ。だって外じゃ寒いし、最近の学校のことだって聞きたいし…」
「じゃあ、うん。お邪魔します。」
私は凪音くんをリビングに入れ、あったかい紅茶を淹れた。
「最近のクラスの様子はどう?」
「まあ、うん。みんなぼちぼちやってるよ。あ、でも定期テストが近いから、ちょっとピリピリしてるかも。」
「そう…」
「その、三上さんは学校来れそうなの?」
「ちょっと今は難しいかな…」
「あ…そうなの…あの、えと、何があったの?」
「え?」
「何があって学校に来れなくなっちゃったの?」
「それは…」
「僕でよかったら話して欲しいかも。」
「うん…」
私は一連のことを凪音くんに話した。
「そっか…それは辛いね。」
「私、どうしたらいいのかな?」
「えっと、こんなこと言うのもあれかもしれないけど…案外クラスの子は気にしてないと思うよ。」
「え?」
「だって僕だって気にしてないし…それに、みんなは早く三上さんが学校に来れるようになって欲しいと思ってるよ。」
「なんで…」
「だって、三上さんがいないとクラスが明るくないんだもん。」
「それは…」
「だから三上さん、教室に行ってみない?」
「そんな簡単に言わないで!!!」
「っ…ごめん。無責任すぎた…」
「こっちこそ、ごめん。急に大きな声出して…私、ピアノだけが生きてる希望だったの…それなのに…」
「あの…三上さんは、ピアノのためだけに生きているの?」
「え…」
「三上さんの中では、生きる希望はピアノだけなのかもしれない。だけど、それ以外にも、生きる希望ってある気がするんだ。」
「………、たとえば…?」
「うーん。僕は、毎日友達と話していて楽しいし、家に帰ってゲームしたり、寝たりすることだって楽しい。それ以外にもいっぱい楽しいことがある。楽しさが僕にとっては生きる希望でもあり、生きている意味なんだよ。」
「………」
「三上さんもピアノ以外に、何か楽しかったこととかあるでしょ?」
私はピアノ以外の楽しいことを考えたことがなかった。
けど、今考えてみたら、学校に行って友達と話したり、1人で本や漫画を読んだりすることも楽しかった。そう思うと、私はピアノだけが生きる希望じゃなかったのかもしれない。なんで私はピアノばかりに目を向けてきたのだろう。学校生活やピアノ以外の時間も十分楽しかったのに…
「うん。私、1番大切なことに気づいてなかった。ありがとう。凪音くん。」
「三上さんに少しでも元気になってもらえたなら、それだけで僕は嬉しいよ。あ、じゃあ、僕は塾があるからそろそろ帰るね。じゃあまた学校で!」
そういい、凪音くんは私の家を後にした。
私は大切なことに気づけていなかった。今まで抱えていたモヤモヤが少し晴れてきた。明日は、学校に行ってみよう。そう思った。
(後編へ続く)




