エピソード37
―静かな侵食―
朝の陽が、木漏れ日のように差し込んでいた。
窓のカーテンが風に揺れ、台所には、パンが焼ける香ばしい匂いが漂っている。
リリィはエプロン姿で、テーブルに朝食を並べていた。
ルナは僕の足元で丸くなっていたが、目は閉じきっていない。
時折ぴくりと耳を動かし、こちらの気配を探るようにしていた。
すべては、以前と変わらぬ朝の景色だった――少なくとも、外側からは。
「主様、今朝は早かったですね」
リリィが振り返り、微笑む。
その目は柔らかく、けれどほんのわずかに、探るような色を含んでいた。
「ああ。少し、夢を見てね……懐かしい景色だったよ」
口から出たその言葉に、自分で小さく息を呑んだ。
声の響きが、ほんの僅かに――自分のものではない。
(……違和感、じゃない。慣れてきたんだ)
言葉が、なめらかすぎた。
数年ぶりに使ったはずの表現が、まるで昨日まで口にしていたかのように滑らかに出てくる。
仕草も、間の取り方も、完璧だった。
だからこそ――恐ろしかった。
『なにも怖がることはないよ。これは、君の本質。
忘れていた在り方を、ただ思い出しているだけだ』
思考の底で、アエルの声がささやく。
耳ではない場所。心でもない場所――けれど確かに、内から響いてくる。
『君はずっと、押し殺していたんだ。感情も、言葉も、本当の力も。
だから今度は、僕が代わりに動くよ。君の“願い”に従って』
――感情に、侵食が起きている。
リリィに微笑みかけたとき、胸に浮かんだのは「嬉しい」や「愛おしい」といった感情のはずだった。
でも、口を開く瞬間、別の何かが言葉を整え、感情を選び、完璧な形で表現してしまう。
それが、自分なのか、アエルなのか。もう、判別がつかない。
「夢の中で、全部燃えていた。でも不思議と、悲しくはなかったよ」
リリィの手がふと止まった。目が細められ、その奥にわずかな戸惑いがよぎる。
その表情を見た瞬間、“安心させなければ”という感情が沸き上がる――が、それすらも本当に自分のものか分からない。
「主様……本当に、夢ですよね?」
「もちろん」
その声はあまりに穏やかで、よく響いた。
答え方すら選ばれている気がして、喉の奥がひやりとした。
直後、ルナが立ち上がる。
足元から離れ、低く唸りながら、僕を――“僕の内側”を、警戒するように見つめている。
(ああ、まただ。今の声色も……誰かに“選ばされた”ようだった)
『君は気づいている。もう、僕と混ざり始めてる。
でもそれは悪いことじゃない。ほら、“君”の意志も、ちゃんとそこにあるだろう?』
「主様……?」
リリィの声が近くから響く。
(でも私は、信じたい。信じていいって、思わせてくれる限り……)
心配そうに覗き込むその顔に、僕は無意識のまま、微笑み返していた。
思考の前に感情がある。
感情の前に、表情がある。
自分の奥にあるはずの順番が、どこかでねじれている。
それが、ひどくおそろしかった。
「大丈夫。君がいてくれて、良かった」
リリィの頬がほんのり赤くなる。
けれどその視線は、笑顔の奥――僕の奥にある何かを見ようとしていた。
(リリィ……君は、どこまで“今の僕”を見抜いてる?)
きっと、もう気づき始めている。
言葉の選び方、声の抑揚、ちょっとした表情の揺らぎ。
少しずつ、“かつての僕”と違ってきていることを。
それでも、信じたいから。変わっていないと、思いたいから。
彼女は今、こうして笑ってくれている。
『……優しい子だね。だから守ろう。君の手ではなく、僕の方法で』
アエルの声が、雨のように染み込んでくる。
優しくて、穏やかで――でも、確かに“僕ではない”ものとして。
その優しさが、なによりも――冷たく、他人のものだった。




