エピソード38
―揺らぎの兆し―
昼下がり。雲ひとつない、穏やかな晴天。
洗濯物が風に揺れ、リリィがその傍らで、小さく鼻歌を口ずさんでいた。
僕は縁側に座り、静かに本をめくっていた。
日常。過ぎるほど平和で、静かな時間――そのはずだった。
けれど、ふとページをめくる瞬間、指先の動きが“僕”のものではなかった。
「……?」
力の入れ方が、ほんのわずかに違う。
仕草が、あまりにも滑らかで、流れるようだった。
『……気づいた?』
ぞくり、と背中を冷たいものが這う。
アエルの声が、また思考の奥から染み出す。
『君がぼんやりしていたから、少しだけ――貸してもらったよ』
「やめろ……勝手に……!」
(違う……言いたいことがある。でも……口が、動かない)
『言いたいなら、言えばいい。僕の声で、ね』
声を上げたいのに、喉は動かない。
目の前の文字が急に意味を失い、ただの形に見え始める。
(……俺は今、読んでる? それとも、読まされてる……?)
足元でルナがこちらを見上げた。
尻尾を低く振りながら、じっと様子を窺っている。
その目に、わずかな警戒の色があった。
「主様?」
リリィの声が届く。洗濯物の手を止め、僕を見つめている。
笑顔。でも、目の奥には――探るような光が潜んでいた。
「何か、変ですよ。ここ数日……主様の言葉や動きが、少しずつ、違う気がして」
僕はゆっくりと本を閉じる。
「リリィ。僕は……そんなに変わって見える?」
自分の声が、妙に落ち着いていた。
音の響きが低く、言葉に隙がない。
まるで、封印する前の“あの頃”に戻ったような――いや、もっと洗練された何かに近づいているような感覚。
「……はい」
リリィはほんの少し俯いて、それでもまっすぐに答えた。
「でも……悪いことじゃないのかもしれません。人は、変わっていくものだと思うから。
ただ、私……不安なんです。
今の主様が、“全部”主様じゃない気がして……」
(でも、“変わる”ってこんなに静かで、怖いものだったかな……)
その言葉は優しかった。けれど、それゆえに鋭かった。
柔らかな布で心を撫でられるような感触の中に、冷えた刃が紛れていた。
―変質―
少しずつ――思考の感触が変わってきている気がする。
考えが自然に口をついて出ることが増えた。
昔のことを思い出すつもりがないのに、記憶の断片がふと浮かんでくる。
それも、感情と結びついた、あたたかいのか、冷たいのか分からない記憶ばかりだ。
“彼”が目覚めたせいだろうか。
それとも――僕が“昔の自分”に戻り始めているのかもしれない。
それは懐かしさと、恐ろしさが入り混じった感覚だった。
失くしたと思っていた部分が、皮膚の下から滲み出すように、じわじわと戻ってくる。
けれど、これは“回復”ではない。
“今の僕”が、静かに変質しているだけだ。
気づかないふりをすればできる。
でも、リリィの前に立つと、ふと喉が詰まる瞬間がある。
あの頃のような言葉が、自然と出てきてしまいそうになる。
けれど、それはもう、今の僕ではなかったはずなのに。
(ああ……俺は、もう“昔の俺”に近づいてる)
感情が鈍くなっている。
本来なら胸を締めつけられているはずの言葉に、どこか距離があった。
まるで音が遠ざかるように、心が――自分から離れていく。
『……それは成長とも言えるよ。
君の力、視点、判断――全部が今、あるべき場所に戻っているだけだ』
(違う。それは、“俺”じゃない)
そう強く否定したつもりだったのに、その声すら、どこか曖昧だった。
「主様……大丈夫ですよね?」
今なら、言えたはずだった。
「大丈夫だよ、リリィ」
言葉は、なめらかに出た。
それは――アエルが選んだ、理想的な言葉だった。
その日から、僕の中で“何か”が、確かに変わりはじめていた。
あの空の青さすら、もう少しも自分のものとは思えなかった。




