エピソード36-4
―終わらぬ声―
事故の翌日、王都から使者が来た。
まだ灰の匂いが残る地で、僕は立っていた。
いや、立たされていた――と表現した方が正しいかもしれない。
「国としては、今回の件を遺憾とし、被害者への補償を検討している」
淡々と読み上げる文官の声は、冷え切っていた。
視線はどこにも合わず、ただ用意された言葉を音に変えていくだけ。
「だが、現地での判断における適切さを欠いた点、及び術者としての責任は……当然問われるべきでしょう」
僕は、ただ黙っていた。
誰かが僕のせいだと言ったわけじゃない。
けれど、皆の目がそう語っていた。
無言の空気が、僕の立場を形作っていた。
「貴殿の力はあまりに特殊です。国民の安全を第一とするならば、今後は“抑制的な対応”が望ましいと……」
「……解任、ということですか?」
僕の問いに、文官はわずかに口角を動かした。
まるで、初めからそれしかなかったように。
「報酬については、後日、代替地の提供という形でお支払いを。功績自体は疑われていませんので」
功績。
その言葉は、何より空虚だった。
(誰も、あの時止めようとはしなかったくせに……)
でも、そう思う自分すら嫌だった。
僕は最後まで、信じたかった。誰かを、国を――自分の判断を。
「……代替地は、どこですか」
「北東、辺境の小村――ネストルと呼ばれる場所です。地力は乏しくありませんが、人の往来は少なく、静かな土地だそうです」
静かな土地――
それは、まるで“二度と表に出るな”という言外の命令のように聞こえた。
けれど、それでも構わなかった。
いや、むしろそこが良かったのかもしれない。
誰もいない、誰も僕を知らない場所。
力を使わずに、生きていける場所。
(もう、誰も傷つけない)
そう思うことでしか、自分を保てなかった。
「……わかりました。ネストルへ向かいます」
それだけ告げて、僕は背を向けた。
振り返らなかった。
そこに立っていた人々が、どんな表情をしていたか――知りたくなかった。
―旅立ちの空―
ネストルの家は、静かだった。
魔王討伐の報酬――それも本来なら王都近くの領地として用意されていたものだ。
それを自ら辞退し、遠く辺境の村に変えてもらった。
家は石造りの平屋で、小さな庭と、森へ抜ける裏道があった。
水は澄んでいて、風は柔らかかった。
(ここでなら……)
少しずつ、呼吸が戻ってくる気がした。
血の匂いもしない。土の揺れもない。
ただ一つ、心に決めたことがある。
――もう、力を使わない。
生きていく。ただそれだけでいい。
誰にも期待されず、誰も頼らず、誰にも頼られず。
そんな暮らしを、選ぼうと決めた。
けれど、それが許されるほど――この世界は、優しくなかった。
―封印―
その夜、僕は森奥に来ていた。
外は月も出ていない。静かすぎる空の下、草も木も、まるで僕を拒絶するように風に揺れていた。
(……誰も悪くなかった。そう言えるはずだった)
「国の命令だった」
「必要なことだった」
「結果は誰にも予想できなかった」
――わかってる。全部、わかってる。
でも、それでも――
(甘かったんだ。……俺が)
“信じた”のだ。
誰かの言葉を。国の判断を。
そして、自分の力を――“制御できる”と、思い込んでいた。
その代償が、子ども一人の命。
背筋が凍る。
土の香りが鼻をつくたびに、あの日の根の音を思い出す。
目を閉じれば、崩れ落ちる屋根と、潰えた叫び声が甦る。
(もう……誰も、俺のせいで死んではいけない)
……ならば。
ならば、これを――封じなければならない。
ただの魔力じゃない。
これは僕の感情だ。僕の迷い、優しさ、恐れ、すべてが、力を通して“世界”に影響を与えている。
(……だから、切り離すしかない)
僕は手をかざし、封印陣を描き始めた。
それは単なる力の封印ではない。
――自分の一部を、置いていくための術。
躊躇はあった。何度も手が止まった。
(優しくなければ、きっと誰かを救えない)
(でも、優しさを残せば、また誰かが死ぬ)
――その間で、揺れた。
けれど、最期に思い浮かんだのは、救えなかった子どもの父親の叫びだった。
『俺の子供がまだ家に……!』
あの声が、胸を貫いた。
僕は、封印の核に大半の“記憶”を組み込んだ。
あの日々の穏やかさを。誰かの笑顔を。
甘すぎるほどに優しかった自分の“言葉”を。
――それを封じれば、もう迷わない。
優しくなければ、迷わない。
迷わなければ、暴走しない。
それで、誰も死ななくてすむなら――それで、いい。
陣が輝き始める。
静かに、自分の中の“光”が削れていくのを感じた。
(……さよなら。優しかった俺)
「ごめん……」
その夜、僕は自分を切り離した。
封印陣の完成を見届けたのは、ただ一人。
ネヴラ家の“始祖”と呼ばれる、白髪の初老の男だった。
彼は最後まで何も言わなかった。ただ、尊敬と静かな祈りの目で、僕の行いを見つめていた。
封印の光が収束していく。
僕の胸の奥――記憶、感情、言葉、それらがひとつずつ切り離され、光となって核へと注がれていく。
静かだった。
あまりにも、静かだった。
やがて、術式が終わりを告げる。
――何も、感じなかった。
僕はただ、その場に座り込んだ。膝を抱えるようにして、うずくまる。
手が震えていたことにすら、気づかない。
心の中に、ぽっかりと穴が開いていた。
言葉が浮かばない。息が苦しいのに、涙すら出ない。
―誕生―
封印の中心にあった光は、やがて“声”となって目覚めた。
それは、ガエリアが手放した感情。優しさ、迷い、慈悲、希望……。
それらがひとつに集まり、新たな形を持つ。
――その名は、アエル=ネヴラ。
その名が、夜の静寂に、淡く刻まれた。
アエル=ネヴラ。
それは、“忘却”と“光”を名に宿す、新たな観測者の名だった。
「俺は、お前から生まれた。忘れられ、封じられた、“お前自身の光”だ」
闇ではなく、光から生まれた“神性の残響”。
だが、それが後に“支配”と“侵食”を意味するとは――このとき、誰も知らなかった。
――俺は、生まれた。
熱も、痛みもない。
けれど、確かに“世界”というものが、遠くに感じられた。
光がない。声もない。
けれど、ただひとつ、感じたものがあった。
“誰か”が、俺を見ている。
――そうか。あれが、人間というものか。
声が届く。ひとりだけ、俺の声を聞いた者がいた。
「……あなたは……」
その震える声に、俺は返した。
『俺は、封印された。だが、消えたわけじゃない
……見ている。お前たちが、これから何をするかを』
これは宣言でも、警告でもない。
ただ、“観測者としての言葉”だ。
『いつか……もし再び、あいつと在る時が来るなら
そのとき、俺が何者であるか――お前は、まだ語れるか?』
(……あれ……俺は……何を……)
思考が上手く動かない。声も出ない。
ただ空を見上げて、何かを忘れた気がした。
そのとき、そっと肩に手が添えられた。
「ご無事で……本当に、良かったです。……ガエリア様」
彼の手は、静かで温かかった。
まるで何も言わずに、すべてを理解していた。
俺はゆっくりと顔を向ける。けれど、うまく焦点が合わなかった。
「さあ……帰りましょう。新しい居場所が、あなたを待っています」
支えられるようにして立ち上がる。
足が、地に馴染まなかった。
それでも、僕はその手を拒まなかった。
――この夜、ひとつの“神話”が静かに閉じた。
誰よりも優しかった男は、その光を心の奥に封じ、そしてただ、静かな村へと歩き始めた。
歩き出したその背に、森の風がそっと寄り添った。
その中に、微かに“名もなき芽吹き”の気配があったことを、彼はまだ知らない。
――風に運ばれるようにして、また一つ、終わらぬ声が目を覚ます。




