エピソード36-3
朝、空は異様なほど澄んでいた。
昨日まで風に揺れていた木々は動かず、鳥の声も消えていた。静寂が、何かを飲み込むように広がっていた。
それでも、人々の顔に緊張はなかった。むしろ、どこか浮き立ってさえ見える。
「今日も恵みの循環を……ガエリア様がいれば安心です!」
笑顔でそう言った女性は、農民の代表だった。
その手には、昨年の収穫物を象った飾りがあり、どこか“祝祭”めいた空気さえあった。
(何も……起こらなければいい。今回も)
僕は装具を身につけ、静かに森の入口へと向かう。儀式のための術陣は、すでに準備されていた。周囲には作業員や文官、補佐の者たちが立ち会っていた。
「流れは大丈夫そうですか?」
問いかけられた僕は、周囲の自然の脈を確かめる。木の幹、土の感触、空気の重さ。
――不穏だ。
それは、はっきりと違う感覚だった。
「流れが……鈍い。内圧が高すぎる。放出が間に合ってない。……これ以上、押せば――」
「問題ありませんよ。昨日も同じ反応でしたが、収束していきました」
文官が微笑んで言った。背後の誰かが「例年と違っても、最終的に恵みが得られている」と補足した。
(だから、いつもと同じだと? “例外”は、起きないと?)
僕の胸が軋んだ。けれど、ここで「中止」を宣言することは、もうできなかった。
皆が見ていた。
「ガエリア様、お願いします」
無言の圧が、空気に溶けていた。
「……制御を最優先で進める。外側の環境圧はこれ以上上げるな。万が一の際は全系統遮断で」
いくつかの指示を出し、僕は中央へ歩を進めた。
式が始まる。
自然の脈を流れる力に、僕の魔力が接続されていく。
最初は、うまくいっているように見えた。
地が緩み、土中の循環がなめらかになる。花の種子が一斉に発芽し、草原が光を帯びた。
補佐の者たちが、「成功です」と言いかけた、そのときだった。
それは音もなく、空気の底から這い上がってきた。――“何か”が、逆流した。
「っ……待て……!」
僕の声が響いた刹那、地中の根が暴れた。
木々の幹が不自然に伸び、地表を裂くように太い根が飛び出した。家屋の土台が揺れる。悲鳴が上がる。
「制御を……遮断をっ!!」
叫ぶが、遅い。
術陣は反応しない。循環が飽和し、力の流れが暴走を始めた。
――これが、僕の力の“反動”。
地中から伸びた根が、家屋を飲み込んだ。
何棟もの家の壁が砕け、屋根が崩れる。
「誰かっ、誰かっ! まだ家の中に……!」
「俺の子供が――ッ!」
地が裂ける音、叫び声、土煙。
僕は、術を収束しようと両手を組んだ。全身が焼けるような痛みと共に、暴走を押さえ込む。
(止まれ、止まれ……っ……お願いだ……!)
根の暴走をなんとか押さえ込んだ。しかし人々の混乱は広がるばかりだ。
僕はその場に崩れ落ちるように、地面へと膝をついた。座り込み、胸を押さえる。息が、吸えない。
「……は、っ……ぅ、ぐ……ッ……!」
喉の奥が焼ける。何度も短く息を吸うが、肺の奥にまで届かない。呼吸が浅く、早く、全身に酸素が足りない。
「いや……やだ……っ、これ、もう……!」
力を注いだ腕が痺れ、手指が震える。指先が白くなり、爪の裏が痛む。視界が滲んだ。頭が割れそうに熱くて、それでも中心だけが冷えていた。
「止まれ、……もう、やめてって……っ!」
地面に指を食い込ませる。冷たい土が爪の間に入り込み、感覚がない。けれど、それでも掴んでいなければ、意識がどこかへ飛んでいってしまいそうだった。
「っ……ぁ、っ……ぐ……!」
ひときわ大きな痙攣が胸を貫いた瞬間――僕は、口元を覆って、咳き込んだ。
ドロ、と音を立てて、濃い紅が手のひらに落ちた。
血だった。温かくて、鉄の匂いがして、吐き出すたびに命が削られていく気がした。
「……やだ、な……これ……」
言葉が震える。声にならない独り言。喉がひりつき、何も言えなくなる。
――誰にも見せたくない。
そんな姿だった。無様で、余裕もなくて、何かを守るどころか、自分すら保てない。
そのまま、うずくまった。力の残滓が、まだ体内を渦巻いている。抜けきらない力が、脈動のたびに奥から這い上がってくる。
「……もう、やめてくれ……っ」
その願いは、風にすら聞こえなかったかもしれない。
時間の感覚が、狂っていた。
膝を抱えて、うずくまりながら、僕はただ息をしていた。――いや、息を“しようとしていた”。
喉が焼ける。肺がきしむ。血の味が口内に広がって、何も飲み込めない。
耳がじんじんと熱を持ち、遠くで何かが鳴っているような、鳴っていないような――そんな音がずっと続いていた。
喉が焼け、肺は笛のように鳴っている。
過呼吸の波に揺さぶられながら、僕は、ただ苦しみに身を任せるしかなかった。
手を広げようとしても、指が思うように動かない。痺れたまま、ただ震えている。
「……どこ……ここ……?」
世界が、ぼやけて見えた。目の前にあったはずの土も、花も、崩れた屋根の輪郭も、どこか遠い。まるで、何も目に見えないのに――すべてが見えているような感覚。
風の流れが見えた。大地の脈動が聞こえた。草の根が伸びる音すら、胸の奥に届いた。
「きれい……だな……」
ぽつりと、そう漏らしていた。思考が、どこか遠くに浮かび上がっていた。
(こんなに綺麗で、優しいのに……どうして、こんなにも――気持ち悪いんだろう)
全身が重いのに、浮いているようだった。痛いのに、心地いい。苦しいのに、泣けなかった。目を閉じても、頭の中に“世界”が広がっていて、何も消えてくれなかった。
「これが……僕の……せい、か……?」
歯がかみ合わず、言葉が音にならなかった。
流れ込んでくる。世界のざわめきが、やわらかく、優しく、甘やかすように僕の中に入り込んでくる。幸福感に近いものが、ゆっくりと全身を支配していく。
(違う、こんなのは違う……)
理性が叫ぶ。けれど、その声はどんどん遠のいていった。
――抗えない。
光が差し込んでいた。さっきまで曇っていたはずの空が、静かに明るくなっていた。世界は、祝福されているように――皮肉なほど、完璧に。
僕の中で何かが囁く。
「これは正しい」と。
「これは救いだ」と。
「……いやだ……違う……」
苦し紛れに吐き出した声は、風にかき消された。腕が、脚が、指先が、すでに自分のものではないようだった。
それでも、必死で地面を握っていた。何かに、しがみついていないと、自分がどこかに溶けてしまいそうだった。
どれくらい、そうしていたのか。
ほんの数分だったのかもしれない。 けれど――僕には、それが、何時間にも思えた。
時間の流れが止まり、引き延ばされ、何もかもが壊れたまま動いていた。
ただ、遠くで誰かの母親の声が響いていた。それすらも、別の世界の出来事のように思えた――
手が、冷たかった。なのに、汗がにじんでいた。
指先が土に触れたまま動かない。何度も握りしめていたはずの地面が、今ではただの重さに感じられる。
呼吸は、まだ整わない。
「……っ、は……はぁ、ぁ……」
苦しい。苦しいのに、声が出せない。
咳の合間に――喉の奥が熱くなる。鉄の味がした。
「あ……っ、ぐ……!」
また、せり上がるように口を衝いて出たのは、深く濃い赤だった。ごぼりと血を吐き出す。唇をつたって、胸元まで赤黒く染まっていく。
けれど、誰もいなかった。助けに来る者は、いなかった。周囲は――暴走した自然の制圧と被害の確認に追われ、誰も僕を見ていない。
頭の中で、世界が遠のく。人の気配、光、声、色、すべてが薄れていく。
「怖い……」
言葉にならなかった。けど心が呟いていた。
怖い。取り返しのつかないものを壊してしまった気がする。怖い。自分がもう、どこにも戻れない気がする。
それでも、誰も聞こうとしなかった。声も、祈りも、届くことはなかった。
指が震えていた。もう、力が残っていない。何かを掴むことも、拒むこともできなかった。
(僕は、もう……)
視界が揺れる。濁った空に、うっすらと陽が差す。
それが、祝福のようにすら見えた。 赦しのように、罰のように――
そのとき。
遠くから、誰かの叫ぶ声が聞こえた。
女性の声。悲鳴ではない。怒りでもない。ただ、あまりにも真っ直ぐで、あまりにも、哀しい声だった。
「……私の子を……返して……」
その一言が、すべてを打ち砕いた。
僕の中で、何かが崩れ落ちた。
血が、涙のように口元からこぼれ落ちる。目を開いても、もう涙すら出てこなかった。
崩れた地面に、膝をついたまま。誰も振り返らないその片隅で――僕は、音もなく震えていた。
声が、何重にも木霊していた。
「返して」
「返して」
「返して……」
何度も、同じ言葉が響いていた。けれど、それは外からではなく、僕の頭の中からだった。
さっきまで聞こえていた世界の音は、いつの間にか消えていた。
誰かの足音も、森のざわめきも、被害を叫ぶ声も、もう聞こえない。
代わりに――
僕の中だけが、騒いでいた。
(壊した。壊したんだ。僕が……)
わかっていた。
わかっていたのに、止められなかった。
もう一度だけなら大丈夫だと、信じたかっただけなのに。
「……俺が……俺が、したんだ……」
言葉が漏れるたび、胸の奥に熱い針が刺さる。
目の前の地面が、じわじわと波打つように揺れて見えた。
視界の端に、光の筋がちらつく。
耳鳴りの中で、自分の心音がやけに大きく響いていた。
「……っ、……誰か……やめて、もう、……やめてくれ……っ……!」
誰に言っているのかもわからなかった。
ただ口が勝手に、言葉を吐き出していた。
心が黙っていられなかった。
「助けて……誰か……」
その声は小さくて、掠れていて、かつて“神の力”と呼ばれた僕とは思えないほど――
子どものように、頼りなく震えていた。
ああ、そうだ。
(僕は、壊れてる)
血を吐き、指も痺れ、息はまともにできない。
けれど一番壊れていたのは
心だった。
信じた人に裏切られたわけじゃない。
責任を押しつけられたからでもない。
“自分を信じて、選んだこと”が、誰かの命を奪った。
その事実が
ゆっくりと、心を殺していく。
自分の意志で、選んでしまった。
取り返しのつかない、その一歩を。
(……もう、僕は……)
見上げた空は、あの日と同じ色をしていた。――ただ、誰も、それを覚えていないだけで。
何かを思いかけたその瞬間、視界がふわりと傾いた。
地面が遠のき、頭の中の景色だけが、鮮明に浮かび上がっていく。
――花が咲いている。
光が降り注いでいる。
風が優しい。
そして、血の味がする。
ああ、こんなにも綺麗なのに。
(……なんで、こんなに……悲しいんだろう)
この空の下で、誰もが僕を見ていたはずなのに。
誰も、僕の心が壊れていく音だけは、聞いていなかった。
―ひとり残された声―
あと少し、気づいていれば。あと一歩、強く否を突きつけていれば。
けれど僕は、「信じたかった」
国を、周囲を、人の判断を――
(……違う。僕は“選ぶ責任”から、逃げていただけなんだ)
ただ、誰かを信じたかった。独りで立つことが、怖かった。




