エピソード35
―温度の記憶―
朝の光が差し込む台所で、リリィは湯を沸かしていた。
湯気が立ち昇るその隙間に、かすかに彼の声が響く。
「……リリィ」
その声は穏やかだった。
まるで冬の日差しのように、やさしく、けれどどこか遠い。
「君の手の温度に、彼は反応していた。
僕も、同じようにするよ。……彼と同じように」
手が止まった。
握っていたポットが、ほんの少し、カタリと揺れた。
彼の言葉。
優しくて、あたたかくて、なのに――冷たい。
(……“彼”?)
主様は、自分のことをそんなふうに呼んだことはなかった。
僕でも、俺でもなく、まるで、他人のように。
「……あの、主様。お茶、淹れますね」
平静を装って、声を出す。
出したのに、喉の奥がこそばゆい。
彼は頷き、椅子に腰かけた。
その仕草も、タイミングも、完璧だった――
けれど、完璧すぎた。
(その角度も、その微笑みも……前と同じ。でも……)
何かが違う。
確かに“主様”なのに、違う。
湯を注ぐ手が震えた。けれど、それは誰にも見えないように隠した。
この空間を、壊したくなかった。
カップを差し出すと、彼は指先を添えてきた。
その手が、リリィの指に触れる。
「……温かいね。うん、きっとこれで合ってる」
合ってる?
何に? 誰に?
言葉が喉の奥に詰まった。
「ありがとう、リリィ。君のしてくれることは、いつだって正しい」
その瞬間、リリィはふと思った。
“誰かに合わせること”が、ずっと正しいままでいいのだろうかと。
でも、それを言葉にする勇気は、まだなかった。
笑顔をつくる。
涙がにじまないように、静かに。
「……はい、主様」
そう言って、彼のそばに膝を折った。
温度だけが、たしかにそこにあった。けれど――
心だけが、どこにもなかった。
―微笑みの檻―
夜、雨が降った。
ざあざあと静かに、庭の花を打つ雨音。
その音に耳を澄ませながら、私は小さく息を吐いた。
主様は、窓際に座っていた。肩に布をかけ、熱い茶を両手で包むように持っている。
静かな時間。まるで、すべてが穏やかに流れているような空間。
なのに――胸の奥が、かすかに軋んでいた。
「……リリィ?」
声がする。いつも通り、優しく、柔らかく。
でも、振り返った主様の目を見た瞬間――私は、答えを失った。
あの目は、温かかった。
けれど、どこか底が見えなかった。黒く澄みきっていて、奥に何かが潜んでいるように見えた。
「すみません、ぼんやりしてしまって……」
咄嗟に微笑んでごまかす。
けれど、胸の奥はひりついていた。
――どうしてだろう。優しくされているはずなのに、どこか苦しい。
「リリィは変わらないね。ずっと可愛らしくて、真っ直ぐで……守りたくなる」
また、言葉が甘すぎる。
でも、それが嫌ではない。むしろ心がざわつくのは、言葉の内容ではなく、言葉の“温度”だった。
その優しさが、どこか他人行儀に感じるのだ。
まるで、記憶の中の主様を完璧に再現した“誰か”が、私の望む言葉を選んでいるような――そんな感覚。
「主様、最近……何か、考え事を?」
勇気を出して訊いた。
けれど返ってきたのは、いつもより少しだけ、静かな笑みだった。
「うん、君のことを考えていた」
「……え?」
「君のこと。君がこの世界で、どれだけ孤独だったのか。
どれだけ、僕を信じて、支えようとしてくれていたのか……考えていたよ」
言葉は、胸にしみた。けれど――遅れて寒気がきた。
言葉の温度と、目の温度が一致していない。
笑顔の裏に、なにか別の“視線”が見えている気がする。ひやりとした、鋭い爪のような感覚。
息が止まりそうになる。でも、逃げる理由なんてどこにもない。
――だって、主様は優しい。そうでなければ、私は……
「……そんなふうに言ってくださるなんて、嬉しいです。私、主様のこと……」
彼は、少しだけ首を傾げて私を見た。
「……彼は、本当に君に“全部”を見せてたのかな?」
その言葉に、鼓動が跳ねた。
「え……?」
「ガエリアは、君に優しかった。けれど、すべてを伝えていたかな?
迷っていた。怯えていた。揺れていた。
君に見せないようにしていた。……それでも、本当に“理解していた”って言えるのかな?」
声は静かだった。低く、囁くように。
それなのに、その言葉は私の胸を突き刺した。
……違う、そんなわけない。
でも、否定の言葉が出ない。頭のどこかで、「たしかに、私は何も知らなかった」と囁く声があった。
「僕なら、迷わない。怖がらない。
そして、君を……この家を……この世界を、壊さない。
だから……安心して。僕に任せておけば、すべてうまくいくよ」
その目が、笑っていた。微笑んでいた。
でも私は、その目を見て、言葉を失った。
――この人は、主様じゃない。
身体がほんの少し、震えた。彼の手が私の手に触れる。温かい。だけど、怖い。
「……リリィ、君は気づいたんだね」
囁くような声。
それは、責めていなかった。怒ってもいなかった。むしろ、どこか“寂しそう”だった。
「でも大丈夫。君が何も言わなければ、誰も傷つかない。
だから……黙っていてくれるよね?」
(命令じゃないのに、逆らえない。
笑顔の奥に、拒絶を許さない圧力があった)
(どうして、そんな顔をするの……まるで、私が裏切ったみたいに――
でも……それも“演じている”気がして、背筋が凍った。)
(違う。主様は、そんな人じゃ――……でも、この声は、目は……どうして、主様と同じなのに、違って見えるの……?)
私は、ただ小さく頷くことしかできなかった。
(私が今、ここで「あなたは主様じゃない」と言ったら――
この穏やかな世界が壊れてしまう。
……それが怖い)
(……でも、本当は叫びたかった。
“あなたは誰?”って。
それでも、私は口を閉ざす。
――誰も傷つかないように。私が、壊れないように)
彼はずっと笑っている。
おかしいのは、きっと私の方だ。
でも、あの微笑みの奥にあるものが、
私を――“檻の中”に閉じ込めていく気がした。




