エピソード36
―隠された傷―
朝、雨は止んでいた。
外の空気は澄み、森から戻ってきた風が家の中まで届いていた。
僕は目を開ける。自分の意思で、まぶたを上げた――それだけのことが、ひどく新鮮に感じられた。
(……戻ってこれた……)
体の感覚、指の動き、視線の重さ。
すべてが、ようやく“僕のもの”に戻っていた。
『ほんの少しだけ、君に返してあげる。安心して。僕は逃げないよ』
その声はまだいた。
けれど今は、沈黙している。まるで、試すように。
僕はそっと、ベッドから体を起こした。
テーブルの上には、昨夜のままの茶器と、半分飲み残されたカップがあった。
リリィは、台所で支度をしていた。
背を向けたまま、パンを切り、鍋に火を入れている。
――あの目を、思い出す。怯えていた。けれど、何も言わなかった。
「おはよう、リリィ」
僕の声。久しぶりに“僕の”声を使った気がした。
「主様……!」
リリィがぱっと振り向く。笑顔だった。
けれど、一瞬だけ――その瞳が、迷ったように揺れた。
「昨日は、少し様子が違っていたように見えましたが……もう、大丈夫なんですね?」
僕は、答えを選ぶまでに数秒の沈黙を挟んだ。
本当のことを言うのは、あまりにも重すぎた。
けれど、何も言わなければ、彼女は――このまま、信じてくれるのか?
「……ああ、ごめん。少し疲れていただけなんだ。森に出たら、いろいろと思い出してしまって……」
リリィは、ほっと息を吐いたように見えた。
けれどその目の奥は、まだ何かを見極めようとしている。
「……良かった。主様が、戻ってきてくれて」
戻ってきてくれて。
その言葉に、僕の胸がかすかに痛んだ。
(本当に……“戻った”のか?)
食卓を囲む時間。リリィが並べたパンやスープを、いつも通りのふりで口に運ぶ。
けれど、味がしなかった。
舌が拒んでいるのか、感覚がずれているのか。
『それでも、君は“正しく振る舞える”んだね。さすがだよ。』
声が、奥で笑った。
『でもね……本当は、どう感じてるの? 昨夜のこと。君の手が、あれだけ“綺麗に花を咲かせた”こと――気持ちよかっただろう?』
(……ちがう……そんなこと……)
そう否定しようとしたはずの僕の胸に、かすかに、ざらつくような“誇り”が湧いていた。
『ねえ、実際――君が感じたあの感情は、幸福と誇りの混合だよ。
それは人間の反応として、最も“従属”に近い状態なんだ』
(……なんだ、それは……?)
『知っておいていい。君の感情は、僕の構造と、とてもよく馴染んでいる』
(まさか……)
気づかないうちに、思考の奥へ、誰かの手が滑り込んでいる。
意識の縁をなぞるように、そっと、なめらかに。
『安心して。僕は、君だよ。君の望みの形になってるだけだ。だから怖がらなくていい』
あの優しい声が、僕の中で静かに笑っていた。
僕は、誰にも見られないように、紙片に短く書き記した。
一度だけ、ペン先が止まる。
これを書いたところで、誰の助けになるのか――そんな問いが頭をかすめた。
けれど、それでも。
たとえ未来に誰かが拾うだけでも、意味はある。
『僕は、ここにいた』




