エピソード34.5
―揺れる香り―
紅茶を淹れるのは、久しぶりだった。
主様はいつも、苦みのあるコーヒーを好んでいた。朝も夜も、甘さは控えめで、ミルクも入れない。
それなのに――
今日は突然、紅茶をリクエストされた。
「今日は、君の紅茶が飲みたい。少し優しい香りの、あれがいい」
笑顔だった。穏やかで、優しくて、声の響きも確かに主様のものだった。
でも――何かが違う。
言葉の選び方、間の取り方。どこか“きれいすぎる”のだ。
完璧すぎる、と言えばいいのかもしれない。
湯気に包まれるカップを差し出しながら、私はそっと彼の手元を見た。指の動き。目線。声の響き。
どれも美しく、どれも優しいのに……“あの人らしさ”が、どこかに見当たらなかった。
(私が知ってる主様は……こんな時、もう少し、照れたり、言い淀んだりするのに)
まるで台詞のように滑らかに流れるその言葉に、私は少しだけ目を伏せた。
「……紅茶、お口に合いましたか?」
彼は微笑んで、頷いた。
「君が淹れてくれるものなら、なんだって美味しいさ」
その一言で、心がほんの少しだけ、苦く揺れた。
そういう“綺麗な言葉”じゃなくて、私は……もっと不器用でも、主様の言葉が聞きたかったのかもしれない。
(……違う。この人、主様じゃない)
そう感じてはいけないと思った。
でも、どうしても、あの声と、言葉と、視線の奥にいる“誰か”が、私を見ている気がしてならなかった。
香る紅茶が、急に味を失っていくように思えた。
カップを置いたその時だった。
いつの間にか足元にいたルナが、小さく唸るような声を漏らした。
顔を上げると、ルナは彼を睨んでいた。
耳を伏せ、背を丸め、まるで牙を見せる寸前のような、あの鋭い目。
「ルナ……?」
私は思わずその名を呼んでいた。
ルナは、懐かない子ではあったけれど、ここまであからさまな態度を見せるのは初めてだった。
まして、主様には、あれほど懐いていたはずなのに。
「どうしたの? なにか怖いの……?」
ルナの視線の先には、主様がいた。
微笑んでいる。何も変わらない、穏やかな顔をしている。
なのに――
ルナは、そこから目を逸らさない。じっと、ひたすら、睨んでいる。
空気が張り詰める。
私の喉が、ごくりと鳴った。
「……主様?」
私の呼びかけに、彼はやわらかく振り向いた。けれどその一瞬、視線が、ほんの一拍だけ遅れてついてきた。
あの、透明な瞳の奥に――一瞬、冷たいものが閃いた気がした。
「ルナは敏感だからね。少し、僕の気配が違って見えるのかもしれない」
さらりと返されたその言葉に、私は一瞬うなずきかけて――止まった。
“違って見える”という、その表現。
まるで、“違う”ことを前提として、私を安心させるような……そんな、変な感じ。
ルナは、それでも睨み続けている。威嚇の声が喉の奥で鳴っている。
私は、カップの中で揺れる紅茶の影を見つめた。
(ルナは……本能で気づいてるの?)
(この人が、“主様じゃない”って――)
でも、もしそれが本当なら。
私は……何を信じればいいの?
紅茶の香りが、ふいに、苦く変わった気がした。




