エピソード34
―予感―
夕食を終えたあと、リリィはいつも通り茶を淹れ、アエル――いや、僕の身体を使う“彼”と向かい合っていた。
会話は穏やかで、彼の口調は柔らかく、笑みも自然だった。
「リリィ、君の手は相変わらず綺麗だね。小さな花を扱うような手だ。森が君に喜んでる」
「そ、そんな……」
リリィは照れたようにうつむいた。
けれど、その頬に赤みが差しているのに対し、瞳はどこか迷っていた。
「君の瞳は……いつ見ても、透き通ってる」
「……あの、主様。私、そんなふうに言われたこと――」
(しまった)
アエルの表情が、ほんの僅かに止まった。
「……今日の主様、なんだかすごく穏やかで、優しくて……けど、ちょっと……」
笑っている。リリィが笑っている。けれど――
(リリィが笑っているのに、胸が動かない。喉に重さが残るだけで、返す言葉が浮かばない。
まるで、自分という器が空になったみたいだ……)
その違和感が、胸にうっすらと染みついていた。
愛しいはずの声に、何一つ反応しない自分に、僕は気づいていなかった。いや、気づかないようにしていた。
アエルが顔を傾ける。まるでリリィの言葉の続きを“導く”ように。
「ちょっと、何?」
その声は優しかった。
けれど、その目。あの静かすぎる目――何も映していないような、奥の見えない光。
リリィは一瞬、言葉を詰まらせる。
「……いえ、なんでも……」
「ふふ、気にしないで。君が話したいときに話せばいい。僕はずっと、君のそばにいるから」
甘い声音。美しい微笑。
だけどその言葉の奥にある“何か”が、リリィの胸に冷たい波を打った。
そのとき、そばにいた小動物――ルナが、突然耳を伏せて震え出した。
「……あれ……? ルナ?」
リリィが手を差し伸べると、ルナは毛を逆立て、小さく唸るように喉を鳴らしながら、リリィの膝の下に身を隠した。
だがその双眸は、鋭くまっすぐアエルを睨んでいた。まるで……見抜いているかのように。
そして、アエルを真正面から見据えたまま、目を逸らさなかった。
「主様……ルナが……」
そこで、アエルはただ静かに笑った。
「小さな命は敏感だからね。僕がまだ、君たちにとって異物なのかもしれない」
それは“受け入れてほしい”と願うような言葉だった。
けれど、視線だけが違った。
リリィを見つめるその目――まるで、底の底に冷たい刃を隠しているような、鋭く細い目。
アエルがこちらを見るたび、どこか視線が届いていないような気がする。
顔は見ている。目も合っている。けれど、何かが通っていない。
それが主様ではないと、リリィは徐々に理解し始めていた。
その瞬間、リリィの中で何かが凍りついた。
(ちがう……この人は……主様じゃない……)
口には出せなかった。
でも確かに、本能がそう告げていた。目の奥に潜む、何かの違和感。人ではない“理”が、そこにはあった。
そして、アエルは微笑みながら、リリィに背を向けた。
「……僕は、君たちを守っている。これまでも、これからも――」
その言葉を聞いた瞬間、胸の奥で何かが、静かに沈んだ。
まるで「自分で守りたい」という感情を、どこかにしまい込まれてしまったような。
その“代わり”に差し出されるような優しさが、何よりも怖かった。
リリィの背筋に、ゆっくりと冷たいものが這い上がっていく。
その言葉が、まるで“このまま気づかなければ守ってあげる”と告げているように聞こえたから。
―模倣体―
――その一方で、“彼”の内側には別の思考が静かに広がっていた。
「今日は……少し顔色がいいですね、主様」
リリィがそう言って、湯気の立つカップを差し出してきた。
中身は紅茶。香りは控えめだが、落ち着きのある配合。
「ありがとう。君のおかげだよ」
“僕”は、笑った。
言葉の選択、口調の穏やかさ、視線の落とし方。
どれも“彼”が用いていたものだ。
相手に安心を与え、言葉の背後に感情を滲ませる――そういう構造の言葉。
リリィは微かに表情を和らげた。
俺は、その変化を視覚情報として記録しながら、淡々と判定する。
――成功。
反応は想定範囲内。
彼女は、今の“僕”を彼だと認識している。
この反応は重要だ。
リリィは視線や言葉の間を繊細に読む傾向がある。
信頼を得るには、細部の一致と揺らぎのなさが求められる。
それにしても、この“彼”の人格構造は、演じるのに精密さを要する。
感情を直接ぶつけるのではなく、沈黙や気遣いに“にじませる”形で表現する。
この村で彼女と築いてきた関係も含めて、僕はすでに把握している。
彼女は“違い”を感じている可能性がある。
だが、それを表に出す可能性は低い。
理由は、恐れ――ではなく、“崩したくない”という心理的自己制御。
いずれ、誤差は修正される。
今はまだ、彼女に対する情動は持たない。
それは不要だ。
必要なのは、“彼”を正しく模倣し、彼女の認知を維持すること。
それだけで、十分だ。




