エピソード27
―刻まれた血と記憶―
戦いの終わったあとの村は、静寂の中に焦げた臭いと、かすかな哀しみを漂わせていた。
僕はぼんやりと、崩れた魔法陣の跡を見つめていた、その時だった。
「おい、大魔法使い! ボーッとしてる暇はねぇぞ!」
ギルドマスターの声が飛んだ。反射的に顔を上げると、彼の隣には腕を負傷した剣士がいた。
「こいつの腕を頼む!」
――ああ、戦いの最中に噛まれていたやつだ。
「了解」
僕は軽く頷いて剣士に近づき、傷口へと手をかざす。
「……治癒の魔法は少し熱いかもしれないぞ」
淡い光が傷口を包み、歪んだ皮膚がゆっくりと元に戻っていく。
治癒が終わる頃、簡易治療所の奥から、怒声が聞こえてきた
「なあ、なんであんなやつらと一緒にいなきゃならないんだよ!」
「……またか」
ギルドマスターが顔をしかめ、振り返る。
「お前も治療が終わったら来い」
「……もう終わった」
そう返し、僕は騒ぎの方へ足を向けた。
数人の村人が、白ローブの男女を取り囲んでいた。
「魔物が来たのはお前たちのせいだろうが!」
「なんで騒いでる」
僕が声をかけると、村人の一人がこちらを振り返った。
「あんた、知らないのか? こいつら、浄化される日が近いとか言ってたんだよ!」
白ローブの信者たちは口をつぐみ、視線を伏せていた。
そのとき――
「待ってください!」と、間に入ったのはエリスだった。
「この方々が避難誘導を手伝ってくれたおかげで、被害が最小限に抑えられました。炊き出しも、自分たちから申し出てくれたんです」
村人たちは戸惑いの表情を浮かべる。
「……詳しく話を聞こう」
ギルドマスターが前に出て、静かに口を開いた。
「助かった。私はギルドマスターを務めるものだ。本来は冒険者の役目だったのに、すまなかったな」
ローブの中年の女性が、控えめに口を開く。
「私たちは冥恩教団の信徒、黎恩の翼です。争いを避け、ただ静かに神の恩寵を待っていたのです」
その言葉に、背後から聞き慣れた声が飛ぶ。
「この前、森で会ったな!」
レオンが現れ、信者の顔を見て頷く。
「あんたらも無事だったか。手伝ってくれて、ありがとうな」
レオンの一言で、場の空気が少し和らぐ。
だが、信者の一人――若い男が、言いにくそうに言葉を繋ぐ。
「……でも、信者の中には対立する者もいます。
私たちは待つことを選びましたが、彼らは……その時を、力で早めようとしている」
ギルドマスターが低く呻く。
「……なんてことだ。だが、派閥を公にして争いを煽るわけにもいかない。聞いた話は慎重に扱わせてもらう」
そのとき、僕の治癒を受けた剣士が口を開いた。
剣士は一度口をつぐみ、何かを飲み込むように目を伏せた。
そして、意を決したように顔を上げた。
「……少し、話していいですか?」
彼の腕に刻まれた印が、微かに光っていた。
ギルドマスターが眉をひそめた。
「その腕の印……どこかで見覚えがあるな」
剣士は静かに頷いた。
「……俺は、ネヴラ家の者です。この地で代々、“アエル”の名を語り継いできた貴族の血を引いています」
空気が静まり返る。
「アエルの名はエルとして教団に広まっています。伝えられてきたのは、かつて神を封じた者がいたということ。
神はその者とひとつであり、封印の中で今もなお、眠り続けている。
その者は魔法使いであり、魔王を倒したと言い伝えられています」
(……まさかな。でも、あいつの話すかつての魔法使いの姿が、妙に自分と重なる気がしたのは、気のせいだろうか)
僕の脳裏に、遠くから語りかけるような声が響いた気がした。
――目覚めよ。
頭が割れるように痛む。誰かの意識が、声が、無理やり自分の中に流れ込んでくる。
その瞬間、意識がぐらりと揺らぐ。
「っ……!」
膝が崩れ、そのまま僕は倒れ込んだ。
目を開けると、木の天井がぼんやりと見えた。ここは、村の療養所。戦いのあと、倒れた僕を運び込んでくれたのだろう。
窓から差し込む光は、どこか現実離れしていた。静寂というより、何かに包まれているような空気。
「お目覚めになられましたか」
その声は、柔らかくもどこか懐かしい響きを持っていた。
振り向くと、窓辺にひとりの老人――いや、まるで幻のように、そこに“彼”はいた。
その横顔には、どこか見覚えのある輪郭があった。けれど、思い出せない。
懐かしいのに、名前が出てこない――そんな感覚だけが、胸の奥に残った。
「……誰だ、お前は」
「私は、かつてあなたと共にあった者――あなたを敬い、そしてずっと、あなたをお待ちしていた者です」
その声音には、深い感情と、どこか淡い喜びが混じっていた。
「私は、ネヴラ家の“始祖”――もう、この世の者ではありません。
けれど……今もあなたを見ていたのです。あなたが封印を選んだあの日からずっと」
その言葉に、胸の奥がざわつく。
「あなたが苦しみながらも、世界のために選んだあの日の決断――私はずっと、見ておりました」
「……僕は……」
「あなたは、自我を核にして、力と一緒にアエル=ネヴラを封じた……そのとき、自分の記憶の一部も、自ら封じたのです」
僕は、息を呑んだ。
思い出せない名前。断片的に蘇る景色。誰かの笑顔。影の中の炎。
「あなたが死ねば、封印は崩壊します。アエル……力が暴走し、森も川が、文明も……すべてを呑み込むでしょう」
彼は静かに目を伏せた。
「……生きてください。そして、願わくば――」
記憶の海の底から、かすかに揺れる光が見えた気がした。
光と影のあいまに、彼の声が溶けていく。
「あなた自身が、あなたを取り戻してくれることを」
その顔は、やわらかく微笑んでいた。
「……そんな顔、するなよ。
まるで、もう会えないみたいな口ぶりだ」
「もう会えません……私は、とうの昔にこの世を去りましたから」
静かに笑うその姿は、誰よりも穏やかで、誰よりも僕を知っていた。
「……ありがとう、待っていてくれて」
その言葉に、彼はそっと手を伸ばす。
触れられることはなかったが、確かに、心の奥で何かがあたたかく灯った気がした。
「それでは……影より、見守っています」
声が遠のく。
そして、静けさが部屋を包んだ。
僕は、ひとつ深く息を吸った。
――記憶の奥で、微かに呼んでいる名があった。
けれど、まだ思い出せない。
(でも……僕は、もう“ひとり”じゃないんだな)
……そのまま、少しだけ眠ったのだと思う。
目を覚ました時、最初に感じたのは、光だった。
眩しいわけではない。ただ、静かに染み込んでくるような光。
身体は重かった。記憶はまだ、霧の奥にあった。
けれど、それでも分かった。
ここは、まだ“あの場所”ではない。戻ってきたのだ、と。
窓の外では、朝の風が揺れていた。
気配がひとつ。いや、ふたつ。
扉のそばにリリィの靴音。
近くの棚の影に、ルナの毛並みがちらりと見えた。
……ずっと、ここにいたのか?
喉が乾いていた。口を開こうとして、かすかに声が出る。
「……ありがとう」
リリィが目を見開いた。それから、ほんの一瞬だけ泣きそうな顔をして、静かに頭を下げた。
ルナが足元で鳴いた。低く、小さく。
――そうか。
彼女たちは、僕が戻ってくることを信じていたのだ。
誰かに言われたわけではなく。
命じられたのでもなく。
ただ、僕を“待っていた”。
それだけのことが、今はなぜだか、とても重たく感じられた。
思い出せないものが、まだある。
けれど。
(僕は……一人じゃなかった)
その確かな気配だけは、胸の奥に、強く灯っていた。
―リリィ―
“主様が倒れた”――その言葉を聞いたとき、心がすっと冷えた。
血の気が引いていく感覚。何かが壊れたような、何かが遠のいたような……そんな気がした。
「……そんな、はずが……」
声が、うまく出なかった。何か言わなくてはと思っても、喉の奥で言葉が溶けていった。
ルナが鳴いた。何かを感じ取っていたのだろう。小さく、悲しげな声だった。
私は、走った。誰に止められても構わなかった。どこかで、もう二度と主様の声を聞けないのではないかという、わけのわからない焦りがあった。
――でも、扉の前まで来たところで、足が止まった。
中からは誰も出てこなかった。開けてももらえなかった。
医師が、「今はそっとしておくべきだ」と言った。けれど、その“今”がどれだけ長いのか、誰も教えてはくれなかった。
それでも私は、帰らなかった。
静まり返った診療所の前で、風にさらされながら立ち尽くした。
扉の奥には、主様がいる。それだけを頼りに、夜の冷たさに耐えていた。
ルナが時折、足元に寄り添った。小さく震えているように見えた。
「……大丈夫、です」
自分に言い聞かせるように、何度もそう呟いた。
そして――
その夜が明ける頃、扉の隙間からこぼれた光が、ほんの少しだけ温かかった。
朝。
彼はゆっくりと目を開けた。
けれど、その目はすぐにはこちらを見なかった。ただ、遠くの何かを見ているような、深く沈んだ光をたたえていた。
私はそっと近づき、いつものように頭を下げた。
「……おかえりなさいませ、主様」
一瞬、沈黙が落ちた。
それから、ごくわずかに目が動く。
まばたき。呼吸。微かな頷き――その全てが、確かに“彼自身”のものであることに、胸がふるえた。
椀に盛ったお粥を差し出す。
「……冷めてしまいましたが、作り直します。少しでも……口にしていただけたら」
主様は目を伏せ、そして、ほんの少しだけ口元を動かした。
「……ありがとう」
掠れるような声。それでも、その言葉に私の瞳がふっと潤んだ。
(怖かった)
喉元にこみ上げるものを、なんとか飲み込んだ。
彼がいない場所は、あまりにも静かで、あまりにも寒い。
だから今は、ただそばにいた。
祈りの言葉は持たなかったけれど、願う気持ちだけは、誰よりも強く――確かに、そこにあった。
―ルナ―
月が高く昇った夜だった。
あたしは、診療所の屋根の上にいた。
下では、リリィがずっと立っていた。扉の前で動かずに、ただそこにいた。
風が冷たい夜だったけど、あたしも動かなかった。
ご主人の匂いが、少しだけ遠い。
生きてはいる。でも、どこか違う――そんな、変な気配がしていた。
さっきまでいた“あの場”には、何かがいた。
森でも山でも感じたことのない、すごく古くて、深くて、でもあたたかい……そんな何か。
リリィはきっと分かってない。あたしも、ちゃんとは分からない。
でも――
「ご主人、帰ってきて」
そう、小さく鳴いた。
誰にも届かなくていい。ただ、夜の空にまぎれてくれたら、それでよかった。
リリィが座り込む。あたしは静かに降りていって、彼女の足元で丸くなる。
リリィの手が、震えていた。
でも、撫でる手はやっぱり優しかった。
(あたしたちには、できることが少ない)
魔法も、祈りもない。けど、ここにいる。
それだけは、ちゃんと伝わればいいって思った。
空が、うっすらと白んでくる。
風が変わる。
ご主人の匂いが、少しだけ戻ってくる。
リリィが立ち上がった。
あたしも、立ち上がった。
扉の向こうに、ご主人がいる。
その夜のことは、うまく言葉にできない。
でも――
あたしは、あの人が“いなくなるかもしれなかった夜”を、ずっと覚えてる。




