寵愛される飼い犬
ネオ・トーキョーの夜空は、腐った果実のように爛れていた。GF社が垂れ流す星条旗カラーのホログラム広告、中国系企業の極太レーザー・ネオン、そして地表を埋め尽くす有象無象の欲望の光。それらが大気汚染物質に乱反射し、視界の全てを安っぽい原色で塗り潰している。
「……相変わらず趣味の悪い空ですこと」
サカイ・タワーの屋上ヘリポート。鮮烈な深紅のジャケットと長髪をなびかせながら、犬噛蛍は眼下に広がる混沌を冷ややかな瞳で見下ろした。
境一族と、許可された特殊資産のみが搭乗可能である超高級 AC――『天鳥船』が漆黒の猛禽類のように静かに駐機している。窓が一切ない、黒曜石を削り出したかのような鋭利な流線型。その表面は『電磁漆』によって濡れたような艶を放ち、周囲の喧騒を無言で拒絶していた。
蛍が歩み寄ると、機体側面が無音でスライドし、和の香を含んだ清浄な空気が漏れ出した。
彼女は肩に担いでいた総重量450キログラムの超重鉄塊――破砕槌『凄乃王』を、慣れた手つきで機内の専用ウェポンラックへと収める。ガゴン、という重厚なロック音が響き、磁力クランプが彼女の牙を固定した。
『……お帰りなさいませ、蛍様』
機内に入った蛍を、車載AIの恭しい合成音声が出迎える。
外見の無骨さとは裏腹に、機内は「走る茶室」とでも呼ぶべき静寂と優雅さに満ちていた。西陣織のソファに深く身を沈めると、蛍の小柄な体躯に合わせて衝撃吸収ゲルが形状を変化させ、優しく包み込む。
「ただいま、ヤタガラス……トーキョーの空は肌に合いませんわ。早く『八雲』へ戻りたくてよ」
『承知いたしました。これより本機は八雲メトロポリス、境本社タワーへ向けて離陸します。飛行プランA、高度三万フィートの成層圏巡航ルートを推奨。最短時間での帰還が可能ですが?』
AIの問いかけに、蛍はサイドテーブルに置かれた冷たい緑茶を一口啜る。喉を潤す冷たさと共に思考を巡らせ、ふわりと微笑んだ。
「いいえ。プランBに変更なさい。高度は五千……いえ、三千フィートを維持して」
『高度三千ですか? その高度では気流の乱れや、他企業の航空路と交差するリスクがありますが』
「構いませんわ。今日は……そう、地上の『変わり目』を見たい気分ですのよ」
蛍が指先で空中にサインを描くと、機内の壁面と床が『消失』した。全天周囲モニターの起動。360度すべてが外部カメラの映像と同期し、蛍はまるで夜空に椅子一つで浮いているかのような浮遊感に包まれる。
「……ふふっ。では参りましょうか」
音もなく、重力が消える。『天鳥船』は反重力プレートを唸らせ、ネオ・トーキョーの汚れた空へと滑るように舞い上がった。
眼下を流れるのは、光の暴力だ。ギャラクティック・フロンティア社が支配する港区エリアからは、傲慢なサーチライトが天を突き刺し、スラム街からは違法電波のノイズが視覚化された汚泥のように渦巻いている。
「見なさいヤタガラス。一昨日わたくしが壊滅させたGF社の倉庫が見えますわよ」
蛍は床越しに、黒煙を上げている一角を指差した。高度三千フィート。地上の人間が豆粒のように見える高さだが、蛍の強化された視覚と『天鳥船』のズーム機能ならば、バラバラに解体されたサイボーグたちの恐怖に歪んだ表情さえ読み取れる。
『素晴らしい戦果です蛍様。イサナ様もさぞお喜びになるでしょう』
「ええ、ええ! もちろんですわ! この首輪にかけて、不様な報告はできませんもの」
主君の名が出た瞬間、蛍の声色が弾んだ。彼女は自分の細い首に巻かれた黒曜石のチョーカーを、愛おしそうに指で撫でる。それは拘束の証であり、同時に彼女が「ただの兵器」ではなく「愛される忠犬」であることの証明だ。
機体は西へ進む。関東平野の煌びやかな光の海が、徐々に疎らになっていく。山岳地帯に差し掛かると、窓外の景色は一変した。それまでの人工的なネオンの輝きが消え、深い闇と、森の木々が吐き出す冷たい空気が、モニター越しにも伝わってくるようだ。
「……来ましたわね」
蛍が身を乗り出す。空の色が変わる。ネオ・トーキョーの上空にはびこっていた、ピンクや緑の毒々しいスモッグが消え去り、代わりに重く、分厚い鉛色の雲が垂れ込め始めた。
『八雲メトロポリス』――境インダストリアルが支配する、山陰の空だ。
ポツリ、ポツリと、モニターに雨粒が走る。最初は優しく、やがて叩きつけるような豪雨へ。
「雨……ええ、やはりこうでなくては」
蛍はうっとりとした表情で、雨に煙る眼下の景色を眺めた。晴れ渡るネオ・トーキョーの空虚な明るさよりも、この湿り気を帯びた重苦しい闇の方が心地よい。山間を縫うように走るパイプライン。山肌にへばりつくように建設された巨大なデータセンターの排気塔から、紫色の蒸気が立ち上っている。
ここは妖怪の都。あるいは、黄泉の国への入り口。
「気象センサー、エリア『出雲』上空にて豪雨を確認。湿度98%、視界不良」
「構いませんわ。そのまま突っ切りなさい……ああ、見えてきましたわ」
雨雲の切れ間から、巨大な光の柱が見えた。境インダストリアル本社。『高天原』と呼ばれる中枢エリアだ。その周囲には、無数の警備ドローン『天狗』が赤い目を光らせて旋回し、地上では多脚戦車『ガシャドクロ』が重々しい足取りで巡回している。その光景は、東京のような無秩序なカオスではない。規律と、静謐な狂気に支配されたディストピア。
「イサナ様……今、戻りますわ」
蛍はソファの上で、ぺたんと安楽座をかいた。東京では張り詰めていた「狂犬」の糸が、ふつりと解ける。ここには、彼女を撫でてくれる手が、彼女を縛り付けてくれる鎖がある。
冷たく湿った山陰の雨が、『天鳥船』を優しく打ち据えていた。
*
イサナ・サカイの私室は、古式ゆかしい和の美学で統一されていた。防弾仕様の巨大なガラス壁の向こうでは、酸性雨がネオンの光を滲ませながら降り注いでいる。ほのかに甘い白檀の香りと、冷却水が循環する微かな駆動音だけが部屋の中で漂っていた。
部屋の中央、一段高い場所に設えられた豪奢な椅子に、その女性――境 鯨は座っていた。漆黒の長髪が、まるで深海の海藻のように背もたれから流れ落ち、床にまで達している。深緋色の軍用マントの下、ボンテージ風の戦闘礼装に包まれた豊満な肢体は、見る者を畏怖させると同時に、抗いがたい魅力を放っていた。イサナは豪奢な椅子に深く腰掛け、足元に跪く『至宝』を見下ろしていた。
そこには『凄乃王』を振るい、『火具土』で敵を灰燼に帰した強者の面影は微塵もなかった。
犬噛蛍は、主人の前では一匹の小動物のようだった。彼女は畳に額がつくほど深く平伏し、主の言葉を待っていた。
「……顔をお上げなさい、蛍」
イサナの涼やかな声が静寂を破った。蛍は弾かれたように顔を上げ、濡れた瞳で主を見上げた。
「イサナ様……この度は、イルカ様のペントハウスを少々……いえ、かなり派手に汚してしまい誠に申し訳ございませんでした。わたくしの未熟さが招いた不始末……どのような罰も受ける覚悟でございます」
蛍の声は僅かに震えていた。イルカの別邸とはいえ、サカイの資産を損壊させたことへの畏れ。
だがそれ以上に、イサナを失望させたのではないかという不安が彼女の小さな胸を押しつぶそうとしていた。
イサナはふう、と小さく吐息を漏らし、手に持っていた扇子をゆっくりと閉じた。
「イルカの部屋のことなど、どうでもよいのです。物は直せば済むこと。ペントハウスの一つや二つ、サカイにとっては塵にも等しい」
「は、はい……!」
「私が聞きたいのは、結果です……害虫は駆除できましたか?」
その問いに、蛍の表情がパッと明るくなった。彼女は背筋を伸ばし、誇らしげに報告した。
「はい! 完璧に処理いたしましたわ! 侵入者の名はヴィンセント。サカイの裏切り者でございました。生意気にもわたくしの前に立ちはだかりましたが、最後はわたくしの『火具土』で、その汚らわしい心臓を焼き尽くして差し上げました!」
蛍は戦闘の興奮を思い出すように、頬を紅潮させて語った。
「あのような野良犬、イサナ様の御威光の前では無力でしたわ。奴のデータも、お母様……明部長が回収いたしました。必ずやサカイのお役に立つことでしょう」
イサナは満足そうに頷いた。
「ヴィンセント……ええ、覚えがあります。お父様のお気に入りだった男。しかし、所詮は飼い主から逃げ出した野良犬《旧式》。私の『蛍《最新》』には敵わなかったようですね」
イサナは椅子から立ち上がる。音もなく畳の上を歩み、蛍の目の前で立ち止まった。そして、ゆっくりと右手を差し出した。
「よくやりました、蛍。お前は私の期待に応え、私の敵を排除し、私の名誉を守った……褒めてあげましょう」
その言葉は、蛍にとってどんな宝石よりも価値のある報酬だった。
「イサナ様……っ!」
蛍は感極まったように瞳を潤ませ、差し出されたイサナの手へと、無意識に頬を擦り寄せようとした。
イサナはその様子を愛おしそうに見下ろしながら、蛍の顎先に白く細い指を添えた。そして、最愛のペットを可愛がるように、指先で蛍の顎の下を撫で始めた。
「んっ……ぁ……♡」
蛍の喉から甘く蕩けた声が漏れた。
イサナの指が顎の下を優しく掻き、首筋を撫で下ろす。そのたびに蛍の身体から力が抜け、陶酔の色が瞳に満ちていく。
彼女の首にはめられた黒曜石の首輪が、イサナの指に触れてカチリと小さな音を立てた。それは、所有者《主人》と所有物の絶対的な絆の音だった。
「お前は強い。そして美しい。私の自慢の『犬』ですよ」
イサナは顎から手を離すと、今度は蛍の深紅の髪に指を滑り込ませた。耳の後ろの敏感な部分を、爪先で優しく、リズミカルに掻いてやる。
「ふあぁ……っ、イサナ、さま……そこ……うれしい、です……♡」
蛍は恍惚の表情で目を細め、イサナの手に頭を押し付けた。まるで、もっと撫でて欲しいとねだる子犬そのものだ。生意気な『狂犬』の面影はどこにもない。そこにあるのは、主人の指先一つで快楽と幸福の絶頂に達する、従順な雌犬の姿だけだった。イサナの冷たい指の感触が、火照った蛍の肌に心地よく染み渡る。
「イルカがお前を欲しがったそうですね?」
イサナは髪を梳きながら、悪戯っぽく問いかけた。
蛍はハッとして目を開け、必死に首を振った。イサナの手に頬を擦り付けながら、懇願するように言う。
「わたくしはイサナ様だけのものです! 他の誰かの犬になるなんて考えられません! わたくしの首輪を握っていいのは、イサナ様だけ……わたくしの頭を撫でてくださるのも、イサナ様だけでいいのです……!」
その必死な告白に、イサナは愉悦の笑みを浮かべた。彼女は両手で蛍の顔を包み込み、親指でその柔らかい唇をなぞった。
「ええ、知っていますよ。お前は私のもの。髪の一筋、爪の先、流れる血の一滴に至るまで……すべてがサカイの、そして私の至宝なのですから」
イサナは蛍の額に、音を立てて口づけを落とした。
「いい子よ、蛍……さあ、もっとお寄りなさい。今夜は私が、お前の疲れを癒してあげましょう」
「はい……っ! ありがとうございます、イサナ様!……大好きですイサナ様ぁぁ!」
蛍は涙を流しながら、主人の膝に縋り付いた。イサナはその頭を優しく撫で続け、その指が深紅の髪に絡まる感触を楽しんでいた。
静寂な部屋に、蛍の幸せそうな吐息と衣擦れの音だけが響く。サカイで最も凶暴な狂犬は今、最も幸福な忠犬として、主人の足元で安らぎの時を貪っていた。




