メディカルチェック 〜シャワー〜
犬噛蛍は、サカイ・タワー最上層にある自身のペントハウスへと帰還した。リビングを無言で通り過ぎ、バスルームへと直行する。
そこは一切の汚れを許さない純白のタイルと、曇りひとつないガラスで構成された、無機質な清潔さに満ちた空間だった。
硝煙とオイル、そして微かな血の臭い。蛍には馴染みのある臭いだが、イサナに会うには相応しくない。一刻も早くこの汚れを落とし、完璧な『忠犬』の姿に戻らなければならない。
蛍は真紅のジャケットを脱ぎ捨て、黒いホットパンツをラフに脱ぎ落とした。
『警告。衣服の脱衣プロセスにおける動作加速度が推奨値を上回っています。生地へのダメージ及び、センサーへのノイズ発生のリスクがあります。より緩慢な動作を推奨します』
バスルームの空間に、無機質な管理AIの音声が響く。
「……相変わらず口煩いですわね。服なんて、脱げればよろしいのですわ」
蛍は鬱陶しそうに鼻を鳴らすと、インナーウェアの留め具を外し、最後の一枚を床に落とした。
蒸気が充満し始めたバスルームの中央、スキャニング・プレートの上に彼女は裸身で立つ。
『メディカルチェック・シーケンス起動。生体スキャンを開始します』
青白いレーザー光のグリッドが、蛍の頭上から爪先へとゆっくりと降りていく。
特殊資産である彼女にとって、入浴は単なる洗浄ではない。次回の任務、そして何より主君であるイサナに万全の状態で謁見するための、重要なメンテナンスである。
光の中に浮かび上がったのは、殺戮兵器とは到底思えない、華奢で未成熟な少女の肢体だった。
身長150センチにも満たない小柄な体躯。雪のように白い肌は、最新鋭の『ミミック・スキン』技術と皮下バイオ・ジェルによって維持されており、生身の人間と寸分違わぬ弾力と体温を再現している。当然傷一つ痣一つない。長く艶やかな赤髪は腰まで届き、そのキューティクルは損なわれていない。
あどけなさを色濃く残した童顔。濡れた睫毛に縁取られた瞳は、宝石のアメジストのように神秘的な紫光を湛えている。
AIの視線が、彼女の身体的特徴を数値として冷徹に読み上げていく。
『身長、147センチメートル』
成長期前の少女のような高さ。敵を見上げるには丁度よく、懐に潜り込むには最適なサイズ。
『体重、110キログラム』
その数値が表示された瞬間、もしここに常人がいれば目を疑ったことだろう。見た目の体積からは物理的にあり得ない質量だ。
『スリーサイズ計測…… バスト72 、ウエスト54、ヒップ77』
AIは淡々と、しかし残酷なまでに正確に数値を告げる。成熟した女性の曲線美とは対極にある、直線的で硬質な幼児体型だと。
くびれこそあるものの、女性的な丸みよりは少女特有の直線的な美しさを残す腰回り。
豊満な肉体を持つ水母や早苗。母である明とは対照的に、蛍の胸元は慎ましやかだ。膨らみと呼ぶにはあまりに儚いそのラインは、少女特有の未成熟さを象徴している。
「Aカップ……ふふ、素晴らしい響きですわ」
世の女性たちがその文字に劣等感を抱く中、蛍だけは違った。彼女にとって『A』とは、アルファベットの始まりにして頂点。軍事ランクでも学業評価でも、『A』こそが最上位の証である。
無駄な脂肪など不要。機能美こそが正義。
そう確信している彼女は恥じらうどころか、水滴の滴るその慎ましい胸を、これ以上ないほど誇らしげにグイと張ってみせた。
「BやCといった二流、三流の評価など、わたくしには必要ありませんもの」
『……身長、体重、変動なし。バスト・ウエスト・ヒップ、全サイズにおいて変化なし――続いて、サイバーウェアの診断を実行』
レーザーの焦点が蛍の背中へと移動する。白く滑らかな背中の皮膚の下、脊椎に沿って埋め込まれたシステムが微かに青く発光した。
『脊髄直結型・神速機関 『月読』……神経摩耗率、0.02%。許容範囲内。冷却システム『変若水・月光』、循環正常。次期戦闘における稼働回路、最大出力での連続稼働12秒を保証します』
「問題ありませんわ。12秒もあれば、国の一つくらい落とせますもの」
この背中の機械こそが、彼女を『絶対的な捕食者』へと昇華する神の翼。イサナが与えた最強の力だ。
『脚部駆動系、チェック移行』
光が太ももから足首にかけてを走る。
一見すると滑らかな少女の脚だが、その内部では複雑怪奇な油圧シリンダーと電磁コイルが唸りを上げている。
『電磁反発式・運動増強腱 『建御雷』。サスペンション圧力、正常。チャージジャンプ用コンデンサ、蓄電率100%。着地衝撃分散ジェル、劣化なし。総重量500キログラム超の装備負荷において、機動性の低下は見られません』
「この脚は地を這うためではなく、イサナ様のためにあるのですから」
蛍は自身の脚を愛おしそうに撫でた。
『内部装甲および擬態表皮、損傷率ゼロ。内部骨格『経津主』、歪みなし。右腕『火具土』、左腕『天照』、共に臨界接続正常判定。以前と変わらない状態です』
「当たり前ですわ」
蛍は鏡に映る自分を見つめ、満足げに微笑んだ。
この姿こそが、主君・境鯨が望んだ形なのだ。
アカデミーで初めて出会ったあの日。イサナは蛍のこの容姿を『至宝』と呼び、深く寵愛した。 だからこそ、蛍の身体を機械化するにあたり、イサナは絶対の条件を技医に課したのだ――どれほど強力な兵器を埋め込もうとも、この「生まれ持った美」だけはミリ単位たりとも損なうことのないようにと。
本来なら、『夜行』部隊のような異形の姿にならなければ収まらないほどのスペックだ。それを境インダストリアルの超技術と莫大なコストによって、この小さな少女の枠に無理やり、しかし美しく押し込めている。
(強く、美しくあること。それこそが、イサナ様の愛に報いる唯一の道ですわ)
この身体に不満はない。むしろ、この変わらない姿で敵を蹂躙し続けることこそが、彼女の誇りだった。
『洗浄プロセスへ移行します』
降り注ぐのは、単なる湯ではない。微量のナノマシン洗浄剤と、疲労回復を促す薬剤が混合された、境インダストリアル製の特別配合シャワーだ。
「ふぅ……」
蛍は目を閉じ、熱いシャワーを頭から浴びた。お湯が顔を伝い、鎖骨の窪みを流れ、華奢な身体のラインを滑り落ちていく。穢れが落ちていく。ただの『兵器』から、イサナ様の『愛玩動物』へと還っていく時間。
戦果報告の時間は迫っている。早く会いたい。早く褒めてもらいたい。早く頭を撫でてもらいたい。逸る気持ちが心拍数を上げそうになるのを、蛍は深呼吸で抑え込んだ。主人の前に出るには、完璧に身を清めておくのが犬の義務だ。焦って洗い残しがあっては、折角の寵愛が台無しになってしまう。
その時、AIが無粋な警告を発した。
『警告。戦闘中の興奮状態に伴う神経伝達物質の残留値が高いです。精神分析及び、メンタルケア・プロトコルの実行を推奨し――』
「後になさい」
蛍は冷たく言い放ち、濡れた髪をかき上げた。水滴の滴るその瞳には、狂気と紙一重の、純粋すぎる忠誠心が宿っている。
「メンタルケアなど不要ですわ。イサナ様のお顔を拝見すれば、どんな薬よりも効きますもの……あの方を待たせるわけにはいきませんわ」
蛍はシャワーの出力を最大にし、自身の精神の揺らぎさえも洗い流すように、熱い湯の中に身を委ねた。




