後始末
イルカ・サカイの登場に、犬噛蛍の纏う空気は一変した。
先ほどまでの戦場を支配する捕食者の獰猛さは影を潜め、代わりに躾けられた忠犬の恭順さがその全身に満ち溢れた。
彼女はイルカに向き直ると、その場で深々と、まるで舞台女優のように優雅に頭を下げた。
「これはイルカ様。ご無事でしたか。わたくしの不手際で、このような下賤な野良犬の侵入を許してしまい、大変申し訳ございません」
その声は、ヴィンセントに向けていたものとは全く違う、謙遜に満ちたものだった。
「この者は、イルカ様に害を齎そうと企てた、どこぞの愚かな勢力の尖兵でございます。ですがご安心くださいまし。この通り、わたくしが『処理』いたしましたゆえ」
イルカは「そっそうですか!」とだけ短く答え、その垂れ目で床に転がるヴィンセントの亡骸を一瞥した。
胸に穿たれた、常人ならば即死を免れないであろう凄惨な風穴。尋常な戦闘の結果でないことは明らかだった。
彼女はその惨状をまじまじと見、慌てて視線を蛍へと戻した。
「あっあなたこそ! お怪我などをされていないですかっ!蛍さん!」
その問いは純粋な気遣いと、隠しきれない何らかの熱を帯びていた。
その言葉に、蛍は楽しそうにクスクスと笑った。
「まあ、イルカ様。あなた様が、わたくしのような『道具』の身を案じてくださるなど……光栄の極みですわ」
彼女はくるりとその場で一回転し、赤いジャケットの裾をひらりと翻してみせた。その動作は、まるで舞踏会で踊る令嬢のようだ。
「ご覧の通り、傷一つございませんわ。あの程度の野良犬、わたくしの髪一筋に触れることすら叶いませんでしたもの」
イルカの喉がゴクリと微かに鳴った。
蛍の完璧なまでの美しさと、その内に秘められた圧倒的な暴力性のアンバランスな魅力に、完全に心を奪われているようだった。
その瞳には、羨望と、所有欲と、そして焦燥が入り混じった複雑な光が揺らめいている。
「……あの、先日お話しした件ですが……」
イルカが何かを切り出そうとした、その時だった。
「イルカ様」
蛍はイルカの言葉を遮るように、しかしあくまで丁寧な口調で言った。
「今は長話をしている場合ではございませんわ。第二、第三の刺客が来ないとも限りません。ここは危険です。さあ、わたくしがイルカ様のペントハウスまで、安全にお連れいたします」
彼女は有無を言わせぬ口調でそう言うと、イルカの手を取り、エレベーターへと導き始めた。その手つきはどこまでも優雅で、しかし逆らうことを許さない力強さを秘めていた。
イルカは抵抗せず、蛍に導かれるままに歩き出した。二人が乗り込んだエレベーターは、イルカのペントハウスがある、さらに上層階へと上昇を始める。ガラスの向こうの夜景が、再び静かに流れ始めた。
しばらくの沈黙の後、先に口を開いたのはイルカだった。
「……ほっ蛍さん! 私の専属ボディガードになるつもりはありませんか!?」
その声は真剣だった。
「あっあなたほどの能力があれば、私はもっと自由に出歩けるし……じゃなくて! 報酬はあなたが望む以上を約束します。地位も、名誉も、サカイの中で望むもの全てを……」
しかし、蛍の答えは揺るがなかった。彼女は夜景に視線を向けたまま、きっぱりと答えた。
「お言葉は大変光栄ですが、お断りいたします。わたくしはイサナ様一筋ですので」
その返答にイルカは食い下がった。彼女は蛍の前に回り込み、その両肩を掴む。その瞳は必死だった。
「イサナ叔母様よりっ私の方がっあなたを思ってる! 叔母様は……あなたを美しい『玩具』としか見ていないかもしれない。けれど私は違う! 私はあなたの力も、その知性も、あなたの全てを正しく評価し、誰よりも大切にすると誓います!」
感情の昂ぶりのままに、イルカは蛍の華奢な身体を強く抱きしめた。服越しに伝わる、鍛え上げられたしなやかな生身同然の感触。そして、ほのかに香る硝煙と血の匂い。
抱きしめられたまま、蛍は表情一つ変えなかった。彼女はただ、ふう……と小さなため息を一つ吐く。そして諭すような、あるいは諦めたような声で言った。
「……イルカ様、お気持ちは嬉しいのですが、困りますわ」
彼女はイルカを突き放すでもなく、受け入れるでもなく、ただ静かに続けた。
「先ほども申し上げた通り、わたくしはイサナ様の『所有物』ですの。わたくし自身の意志で、主を変えることはできません。ですが……」
蛍はそこで一度言葉を切り、イルカの瞳を真っ直ぐに見つめた。
「もし、イサナ様がそれを許可なさるのであれば。イサナ様が、わたくしをイルカ様にお貸しするとお決めになるのであれば……その時はイルカ様の忠実なボディガードとなることも、やぶさかではございませんわ」
「そっそれならっ」
イルカの言葉がそこで途切れる。
ペントハウスへと続くエレベーターの扉が、重々しい音を立てて開いた。
そこから流れ込んできた空気は、硝煙と血の匂いが充満する廊下の空気を一瞬で塗り替えるほどの、『圧』と『冷気』を帯びていた。
現れたのは二人の女性。
一人は、深紅の長髪を三つ編みにして後ろに垂らし、黄金色の瞳を冷徹に輝かせる。境インダストリアルの特殊資産管理部部長、犬噛明。
黒のロングコートに身を包んでいるが、その内側からは隠しきれない豊満な肢体が主張している。特に純白のワイシャツを内側から押し広げんばかりの豊かな双丘は、彼女が持つ権力と同じくらいに圧倒的な質量と存在感を放っていた。数個のボタンが外されているが、決して下品には見せない絶妙な開き具合だ。
そしてもう一人は、淡いブルーシルバーの髪と、感情の一切を排したポーカーフェイスを持つ美少女。鷹空早苗。
160センチの小柄な体躯でありながら、その胸元には物理法則を無視したかのような暴力的な質量が備わっている。華奢な肩や細いウエストとはあまりに不釣り合いなその二つの果実は、彼女が動くたびにたぷん、と重々しく揺れ、そのアンバランスさがかえって背徳的な魅力を醸し出していた。純白のハイレグ・ボディスーツがその存在感を殊更強調する。半透明の淡いシアンブルーのコートでは双銃は隠せても、この二つの山を隠すことなど不可能だった。
「……おや、少々騒がしいと思えば。随分と派手に散らかしたようですね、蛍」
明の声は穏やかだが威圧感がある。
「お母様……」
蛍が僅かな緊張を顔に浮かべる。
しかし、明の視線はすぐにイルカへと移った。
彼女は優雅に、しかし決して立ち止まることなくイルカの前へと歩み寄ると、恭しく、それでいて有無を言わせぬ態度で一礼した。
「ご無事で何よりです、イルカ様。ですが、少々困ります。私の可愛い部下を許可なく勧誘されては」
「明部長……かっ勧誘だなんて人聞きの悪い。わ、私はただ、彼女の能力を正当に評価しようと」
イルカが反論しようとするが、明は黄金色の瞳を細め、柔らかな笑みを浮かべたまま遮った。
「犬噛蛍は、サカイの『特殊資産』でございます。彼女の運用、管理、そして貸与に至るまで、全ては私の管轄下にあります。もし蛍をご利用されたいのでしたら、まずは正規の手続きを経てこの私に言ってください」
その言葉は提案ではなく通告だった。
「イルカ様の警護につきましても、これより先は私が引き継ぎます。特殊資産管理部部長自らが、責任を持ってお守りいたしますゆえ」
ここまで言われれば、イルカといえども引き下がるしかなかった。相手は境インダストリアル最強格の一人であり、社内の暗部を握る実力者だ。
「……わかりました。あなたの顔に免じて、今回は引き下がります」
イルカは名残惜しそうに蛍を一度だけ振り返ると、明に促されるままエレベーターからでて行った。
重厚な扉が閉まり、明とイルカの姿が見えなくなる。
その場に残されたのは、対照的な二人の「娘」たちだけだった。
静寂が戻った廊下で、蛍はつまらなそうに鼻を鳴らした。そして、部屋の隅で彫像のように佇んでいる鷹空早苗へと視線を投げかけた。
「それで? あなたはついていかなくてよろしいのかしら? お母様の可愛い『雛鳥』さんは」
蛍の言葉には明らかな嘲笑と、隠しきれない苛立ちが含まれていた。
明に心酔し、常にその影のように付き従う早苗に対する蛍なりの皮肉だった。
しかし、早苗はその挑発に眉一つ動かさなかった。その淡い青紫色の瞳は、ただ冷淡に蛍を見据えている。
「明部長が警護されるとおっしゃられた。あの御方の能力に疑いの余地はない。なら、ボクがついていく必要はない」
早苗の声は湧き水のように澄んでいるが、抑揚がない。
彼女はコツ、コツ、とヒールの音を響かせて歩み寄った。
「ボクのするべきことは、あなたがこれ以上無駄なことをしないか見張ることだ」
その言葉に蛍の瞳が剣呑に細められた。
「……無駄なこと? わたくしがいつ無駄なことをしましたの?」
「全てがそうだ」
早苗は指を鳴らすとホログラムを表示させる。蛍とヴィンセントの戦闘による残状だ。
壁にこびりついた煤、破壊された高価な美術品、そしてヴィンセントの胸に開けられた巨大な風穴。
「侵入者一名の排除。それだけのタスクに、これだけの損害とリソースを費やす必要はなかった。ヴィンセントを倒すのに、ここまで派手に暴れる必要性が見当たらない。非効率極まりない」
「あら……」
蛍は口元に冷たい笑みを浮かべ、ゆらりと早苗に近づいた。その背中から、目に見えない殺気が陽炎のように立ち上る。
「まるで、あなたならもっと上手く制圧できたかのような言い方ですわね?」
「肯定する」
早苗は即答した。一瞬の躊躇いもない、事実を述べるだけの淡々とした口調。
「ボクなら、ペントハウスの資産を損なうことなく敵の脳神経だけを焼き切って終了していた。あなたのやり方は、ただの力任せな破壊だ。美しくない」
「……言わせておけば」
パチッ、と音がして、蛍の周囲で空気が弾けた。彼女の体内のサイバーウェアが唸りを上げ、戦闘モードへと移行しかける。瞳孔のサカイの紋章が赤色に発光した。
「わたくしの『凄乃王』と『火具土』への冒涜、聞き捨てなりませんわね。その減らず口、二度と利けないようにして差し上げましょうか?」
対する早苗も、表情一つ変えずに腰のホルスターにある双銃に手をかけた。その瞳の奥で、ニューロ・リグが高速で戦闘プロトコルを展開していく。
「やってみるがいい。非効率な獣が、理知的な狩人に勝てる道理はない」
「決まりですわね。地下最深部でしませんこと? あそこなら無様を晒しても演習扱いですもの」
赤と青。
熱と冷。
機能美と肉感。
蛍の空気抵抗を極限まで廃した平坦な胸部とは対照的に、早苗のそれは呼吸をするたびに大きく上下し、その存在を誇示している。蛍の視線が、早苗の豊かな胸元へ忌々しげに突き刺さる。『無駄な脂肪』と蔑む蛍と、『余裕の象徴』として携える早苗。
二つの殺意が正面から衝突し、一触即発の空気が張り詰めた、その時だった。
『警告。戦闘行為は推奨されません』
天井のスピーカーから無機質な神奈備《AI》音声が響き渡り、二人の間に割って入った。
『犬噛蛍様。イサナ・サカイ様への、本件に関する完了報告のお時間が迫っております。イサナ様は、あなたの報告を心待ちにしておられます』
その言葉は、魔法の呪文のように劇的な効果をもたらした。
「えっ……?」
蛍の身体から殺気が嘘のように霧散した。先ほどまで般若のような形相で早苗を睨みつけていた彼女の顔が、瞬時にして花が咲いたような満面の笑みへと変わる。
「イ、イサナ様が……! わたくしの報告を待っていらっしゃる……!?」
彼女は両手で頬を包み、その場でぴょんぴょんと跳ねた。
「いけませんわ! こんなところで油を売っている場合ではございません! ああ、早く行かなくては! イサナ様~! この蛍、今すぐ参りますわ~!」
蛍は早苗のことなど、もはや道端の石ころ程度にしか認識していないようだった。彼女は鼻歌交じりにスキップしながらペントハウスの出口へと駆け出した。
「ごきげんよう、陰気な雛鳥さん! そこらへんの掃除は任せましてよ!」
嵐のように去っていった蛍の背中を、早苗は無表情のまま見送った。彼女は一度だけ短くため息をつくとホルスターから手を離し、乱れた前髪を指先で直した。
「……単純な構造だ。理解に苦しむ」
そう呟きながらも早苗の視線は、明が去っていったエレベーターの方角へと静かに向けられていた。




