野良犬の絶滅・後編
ヴィンセントの不遜な宣言を聞いて、犬噛蛍はそれまでの冷たい表情を崩し、鈴が鳴るような声でくすくすと笑い始めた。その笑い声は静謐な空間に不気味に響き渡った。
「ふふっ……あはははっ! 面白い! 実に面白い方ですわね、あなたは!」
彼女は心底楽しそうに、紫水晶の瞳を爛々と輝かせた。
「旧式が最高傑作をスクラップに? いいですわ。近頃の相手は、わたくしを見ただけで泣いて命乞いをするような腑抜けた虫ばかりでしたから。あなたのように、まだ牙を剥こうとする元気の良い方は久しぶりですわ」
蛍は鉄槌を床に置き、優雅な仕草でヴィンセントに歩み寄った。その無防備な姿は、絶対的な自信の現れだ。
「気に入りましたわ、ヴィンセント。どうです? 今からでも遅くはございませんわ。サカイに就職なさい。そして、わたくし専属のサンドバッグ……いえ、トレーニングパートナーになるというのは? 才能ある旧式を、最新技術でアップグレードして差し上げますわ。そうすれば、あなたももう少しは……わたくしを楽しませることができるようになるかもしれませんわよ?」
その言葉は、ヴィンセントにとって最大の侮辱だった。誰かのペットになるなど、死んでも御免だった。
「断る。俺はもう誰の犬にもなるつもりはない」
「あら、残念ですわ。せっかく生かして差し上げようと思ったのに」
蛍は心底残念そうに肩をすくめた。その一瞬の隙を、ヴィンセントは見逃さなかった。
床を蹴り、最短距離を駆ける。過剰駆動は排熱中で使えない。純粋な筋力と反射神経による、渾身の一撃。赤熱した『斬火』を頭上から振り下ろし、今度こそ目の前の小生意気な少女を脳天から叩き割る!
刃が、蛍の額に触れる寸前でピタリと止まった。
信じられない光景が、ヴィンセントの目の前で繰り広げられていた。
振り下ろされた『斬火の刃』を、蛍の華奢な右手の人差し指と中指の二本で、いともたやすく挟み込んでいたのだ。
「なっ…!?」
ヴィンセントが驚愕に目を見開く。刃に込められた彼の全パワーと体重が、彼女のたった二本の指によって完全に殺されている。びくともしない。まるで、巨大な油圧プレス機に挟まれたかのようだ。
「お話の途中でしたのに、性急な方ですわね」
蛍は悪戯っぽく微笑むと、ヴィンセントの腹部を軽く蹴り上げた。
「ぐっ……!」
軽い蹴りに見えたそれは、攻城槌で打ち抜かれたかのような凄まじい衝撃を伴っていた。ヴィンセントの身体は「く」の字に折れ曲がり、数メートル後方まで吹き飛ばされて畳の上を転がった。手から力が抜け、『斬火』が蛍の手に残される。
「ほう……これはなかなかの業物ですわね」
蛍は、奪い取った『斬火』をうっとりと眺めた。赤熱した刃の輝きが、彼女の紫水晶の瞳に映り込んでいる。
「この美しさ、この力強さ……イサナ様に献上するのに相応しい逸品ですわ。きっとお喜びになるでしょう」
彼女は恍惚とした表情で、刀身にそっと頬を寄せた。
「……イサナの犬は、随分と金がかかっているらしいな」
畳に手をつき、ゆっくりと身体を起こしながら、ヴィンセントは吐き捨てた。全身が軋み、内臓が揺さぶられたような感覚が残っている。
その言葉を聞いた瞬間、蛍の表情からうっとりとした色が消え、むっとした不機嫌さが浮かんだ。
「……今、何と仰いました?」
「聞こえなかったか? イサナの高価なペットだな、と言ったんだ」
「……イサナ様を呼び捨てに……」
蛍の纏う空気が、殺意が、先ほどとは比較にならないほど密度を増して空間を満たしていく。だが、蛍は怒りをすぐに収め、ふっと息を吐くと傲然と胸を張った。
「ええ、その通りですわ。わたくしはイサナ・サカイ様が所有する、最も高価で、最も美しく、最も忠実な犬ですわ。あなたのような野良犬には、その素晴らしさが万分の一も理解できないでしょうね」
彼女はヴィンセントを見下し、憐れむような目で語り始めた。
「絶対的な主人から与えられる寵愛。その御心一つで生殺与奪のすべてを委ねるという、至上の悦び。主人を守るためだけに牙を剥き、その足元で喉を鳴らす幸福……わたくしはそのために生まれ、そのために生きていますの。あなたのような目的もなくただ彷徨い、誰にも繋がれていない孤独な野良犬とは、存在の次元が違いますのよ」
蛍は『斬火』を鞘に納め、腰に差した。まるで最初から自分の物だったかのように。
「ご存じないようですから教えて差し上げますわ。この世界に、野良犬の居場所なんてありませんのよ」
「……ここにいるさ」
ヴィンセントはよろめきながらも、再び両足で立った。その姿は満身創痍。だが、その瞳の光は少しも衰えていなかった。
「野良犬は、群れず、媚びず、飼いならされず……己の牙だけを信じて生きる。企業の鎖に繋がれたお前のような番犬には、一生理解できんだろうな」
その言葉が、最後の引き金となった。
「……そうですか。では、その汚らわしい野良犬も」
彼女はゆっくりと右腕を掲げた。
「今日、この場で絶滅させて差し上げますわ」
彼女がそう宣言した瞬間、その華奢な右腕が変貌を遂げる。
腕全体に赤い回路パターンが血管のように浮かび上がり、偽装皮膚が再構築され、瞬時に肥大化・硬質化していく。腕は元の二倍以上に膨れ上がり、指先は鋭利な鉤爪へと変形する。黒光りする耐熱セラミック装甲に覆われた、無骨で巨大なサイバーアームへと姿を変えた。関節の隙間から地獄の窯のような赤橙色の光が漏れ出し、周囲の空気を歪ませる。
「火具土展開完了。さあ、覚悟はよろしいかしら? これがわたくしからの『敬意』と『殺意』ですわ」
『敬意』と『殺意』その言葉の意味を、ヴィンセントは全身で理解していた。目の前で変貌を遂げた黒鉄の腕《火具土》。一見すると最高級の『金剛腕』シリーズである『鬼手』に似ている。しかしその実態は月とスッポンよりもかけ離れていた。純粋な破壊のためだけに存在する、死の具現だ。脳に直結されたサイバーウェアが、危険信号をけたたましく鳴らし続ける。生存確率は限りなくゼロに近い。
いや、ゼロであってもだ。
(野良犬はな……死ぬと分かっていても、牙を剥くもんだぜ)
ヴィンセントは、残された最後のカードに全てを賭けた。右腕は焼かれ、刀は奪われた。だがまだ左腕が残っている。
左腕の『手筒』が起動する。通常であれば単発式のこの兵器を、ヴィンセントは己の技術の粋を集めて改造していた。オーバーチャージと連続発射機構。一度の戦闘で一度きり、自壊のリスクすら伴う彼の奥の手。
「喰らいやがれッ!!」
咆哮と共に、五つの太陽が連続して撃ち出された。砲身が悲鳴を上げ、腕の装甲に亀裂が走る。一発一発が小型の爆弾に等しい熱エネルギー弾が、犬噛蛍へと殺到する。
もはや回避する空間も時間もない、絶対必中の飽和攻撃。
しかし、犬噛蛍はヴィンセントの予測を嘲笑った。
彼女はその場から消えた。否、真上に「跳んだ」のだ。
凄まじい轟音と共に、彼女の足元の畳が爆ぜるように砕け散る。彼女の身体は、垂直に打ち上げられたロケットのように天井へと到達し、蜘蛛のようにその四肢で天井に張り付いていた。
ヴィンセントが放った五連の熱弾は、彼女がいた空間を虚しく通り過ぎ、背後の壁に着弾。ペントハウスを揺るがすほどの爆発と熱波を巻き起こした。
「……中々楽しめましたわよ」
天井から、少女の楽しげな声が降ってきた。逆さまになった彼女の赤い髪が、重力に逆らうように揺れている。
紫水晶の瞳は冷たくヴィンセントを捉えていた。
「あなたのそのしぶとさ、嫌いではございませんでしたわ。最後の花火も綺麗でしたし」
それが、最後の言葉だった。
蛍は天井を蹴った。それは落下ではない。隕石の如き、意志を持った突撃だった。空気の壁を突き破る甲高い音と共に、彼女は一直線にヴィンセントへと向かってくる。巨大な右腕を槍のように突き出して。
ヴィンセントは、迫り来る死を真正面から見据えていた。もはや避ける術はない。『阿修羅』は排熱中。身体は満身創痍。彼はバイザーの奥の瞳で、自分を殺す最高傑作の姿を焼き付けようとしていた。
次の瞬間、彼の世界は灼熱と衝撃に支配された。
ズドン、という肉を抉る鈍い音。黒光りする巨大な鉄の拳が、ヴィンセントの胸部を、低赤外線放出ベストも、その下のキチン皮下シェルも、チタン骨格さえも紙のように貫いていた。
「ぐ……あ……」
口から、血の塊がごぼりと溢れた。胸に巨大な杭を打ち込まれたかのような衝撃。
だが、本当の地獄はそこからだった。
貫いた拳の内部から、超圧縮されたプラズマの熱エネルギーが体内に直接叩き込まれる。内側から焼かれる。肺が、心臓が、内臓が、一瞬にして沸騰し、蒸発していく感覚。痛みさえも焼き尽くす、絶対的な破壊。
ヴィンセントの耳元で、蛍が囁いた。
「光栄に思いなさい、野良犬。あなたの戦闘データは、イサナ様とサカイの礎となるのですから。あなたは無駄死にするのではなくてよ……もっとも、あなた自身がそれを知ることは永遠にございませんが」
ヴィンセントの視界が急速に白んでいく。
ヴィンセントの身体から力が抜け、蛍の腕に貫かれたまま崩れ落ちていった。
『……抹殺対象、ヴィンセントの生命バイタル停止を確認。これより、対象の戦闘データを回収します。至急、解析班によるデータの確保を』
天井のスピーカーから、神奈備の無機質な声が響いた。
蛍は、ヴィンセントの亡骸を貫いたままの火具土をゆっくりと引き抜いた。胸に巨大な風穴が空き煙を上げる身体が、糸の切れた人形のように畳の上に崩れ落ちる。
『犬噛蛍。素晴らしい手際です。完璧な任務遂行能力。そして……脳をほぼ無傷で残していただけるとは。感謝します。彼の戦闘経験と反射パターンは、極めて貴重なサンプルとなります』
AIの賞賛に、蛍は興味なさそうに鼻を鳴らした。
肥大化した火具土は元のしなやかな腕に戻り、彼女はヴィンセントの亡骸を一瞥もせずに背を向けた。
「別に、あなたのために残してあげたわけではございませんわ」
彼女は奪った『斬火』の柄を撫でながら、冷たく言い放った。
「この男の動き、少しは歯応えがありましたから。このデータを使って、わたくし専用の、もっと手強いトレーニング用ロボットが一体欲しいと思った……ただそれだけですわ」
その時だった。
戦いの熱も、血の匂いも、まだ生々しく残るその部屋に静かな足音が響いた。庭園の奥、居住区へと続く襖がゆっくりと開かれる。
そこに立っていたのは、ノースリーブのショートジャケットにホットパンツというラフな格好で、ダークブラウンのショートボブに毛先がアクアブルーの女性。サイバーウェアの痕跡がほとんど見られない、親しみある顔立ち。その大きな垂れ目は、目の前の惨状―――無残に転がるヴィンセントの死体と、その傍らに立つ犬噛蛍の姿を静かに見つめていた。
「……えっと……これは一体どういうことなのかな? 蛍さん」
イルカ・境がそこにいた。




