野良犬の絶滅・前編
エレベーターの扉が滑るように閉まり、ヴィンセントを外界から完全に隔離した。上昇を開始した箱の中は、不気味なほど静かだった。
壁面に埋め込まれたタッチパネルには、境の紋章である円の中に引かれた境界線のホログラムが静かに浮かび上がっている。
床から天井まで続く強化ガラスの向こうには、ネオ・トーキョーの夜景がゆっくりと下へ流れていく。まるで、ネオンの川を遡上する孤独な船のようだ。
その静寂を破ったのは、エレベーター内に直接響く、無機質な女の声だった。タワーの管理AI神奈備だ。
『ヴィンセント。認識コード、アルファ・ブラボー・セブン・スリー・ナイン。元境インダストリアル社重装甲強襲部隊所属。2072年、任務放棄及び社有資産である『阿修羅』及び『斬火』の窃盗により不名誉除隊。以降、抹殺対象リストに登録……お帰りなさい、裏切り者』
声には感情がない。だが、その言葉の端々にはシステムが学習したであろう人間の侮蔑が色濃く滲んでいた。
「ただいま、クソ女。留守の間にずいぶんと口が悪くなったじゃないか。俺がいた頃は、もっと愛想が良かったはずだがな」
ヴィンセントはガラスに映る自分の姿を見ながら笑う。アポクロマートバイザーの奥で、彼の目は鋭く周囲を警戒している。
『あなたの行動は、すべて予測の範囲内です。あなたの反抗的な性格、自己顕示欲の強さ、そして最強への執着。すべて我々のデータに記録されています。この先にあなたを待つのは、栄光ではなく、無意味な死だけです』
「予測、データ、記録……それしか言えんのか。人間ってのはな、お前らの計算をぶっ壊すような馬鹿をやる生き物なんだよ。俺が、今からそれを証明してやる」
『無駄です。あなたは境インダストリアルが生み出した最高傑作の一人でした。しかし、今はただの欠陥品。我々は、欠陥品を処分する義務があります』
AIとの不毛な会話は、ヴィンセントの神経を少しも逆撫でしなかった。むしろ、心地よいBGMのようにすら感じられた。かつて自分がその一部であった巨大なシステムが、今や全力で自分を排除しようとしている。その事実が、彼の闘争本能を最高に昂らせていた。
チン、という軽い電子音と共に、エレベーターは最上階に到着した。目の前の扉は、黒曜石を削り出したかのように滑らかで、継ぎ目一つない。その向こうに、今回の目的地がある。
『最後の警告です、ヴィンセント。その扉を開ければ、もう引き返すことはできません』
「最初から引き返す気なんてねえよ」
ヴィンセントが呟くと同時に、重厚な扉が音もなく左右に開いた。
息を呑むような静寂が、彼を出迎えた。
そこは、ヴィンセントが知る企業役員のけばけばしいペントハウスとは全く異なっていた。床には畳が敷き詰められ、壁は簡素な土壁。中央には鹿おどしが微かな音を立てる日本庭園が設えられ、淡い月明かりのような光が空間全体を柔らかく照らしている。伝統的な日本の美学が色濃く反映された、神秘さすら感じる場所だった。
だが、ヴィンセントはその静謐な美しさに違和感を覚えた。
あまりにも静かすぎる。警備の気配がまったくない。エントランスであれだけの騒ぎを起こしたのだ。このフロアは、すでに臨戦態勢に入っているはずだった。それなのに、人の気配どころか機械の作動音一つ聞こえない。
(罠……か? いや、それにしては無防備すぎる)
ヴィンセントは『斬火』の柄に手をかけたまま、一歩、また一歩と畳の上を進んでいく。彼の軍用ブーツが、上質な畳をわずかに軋ませる音だけが空間に響いた。庭園を抜け、奥にあるであろう居住区へと続く襖の前に立った時だった。
「──そこにいるのは、どこの下賤な虫ですの?」
鈴を転がすような少女の声が襖の向こうから聞こえた。ヴィンセントは驚かなかった。むしろ、ようやく現れた気配に口の端を吊り上げた。
「客だ。少しばかり、ここのお嬢さんに用があってな?」
「お客様? ふふっ……ここは鯨様と、その縁者の方々以外は立ち入ることのできない神聖な場所ですわ。あなたのような汚れた野良犬が入ってきていい場所ではございませんのよ」
声と共に、襖がスッと静かに開いた。
そこに立っていたのは、ヴィンセントの予想をあらゆる意味で裏切る存在だった。
燃えるような深紅の長髪。雪のように白い肌。あどけなさを残す童顔に、不釣り合いなほど挑戦的な光を宿した紫水晶の瞳。身長は150センチにも満たないだろうか。赤いライダースジャケットと、大胆なホットパンツという出で立ちが、彼女の華奢な身体のラインを強調している。
その姿は、ネオ・トーキョーの裏通りで粋がっている小娘にしか見えない。
だが、ヴィンセントのアポクロマートバイザーが目の前の少女がただの小娘でないと主張する。
赤いライダースジャケットは防弾繊維を編み込んだ特殊生地で肩や肘、背中といった重要な部分に非ニュートン流体を利用した衝撃吸収ゲルが薄く内蔵されている。
ジャケットの下には、彼女の身体のラインをありのままに映し出すぴっちりとした黒のインナーウェア。大胆なホットパンツと同じ材質だ。
靴は赤と黒のコンバットブーツで形状は、陸上競技用のスパイクシューズのようにスマートで流線型。しかし、そのソールには強力な電磁吸着機能と衝撃吸収機構が内蔵されており、壁走りや高所からの着地を容易にするだろう。つま先と踵の部分は『神武鋼』で補強されており、蹴りそのものが強力な武器となりえる。
これらの服装だけでもストリートの小娘には無理な装備だ。そしてもっとも少女を危険視する対象へと目を向ける。
少女はハンマーを担いでいた。見た目は洗練とは程遠い。それは『無骨』という言葉を具現化したような、暴力的なまでの存在感を放つ鉄塊だ。
ヘッドは、黒曜石のように鈍く黒光りする、巨大な長方形のブロック。その大きさは小型のエンジンブロックに匹敵するだろう。素材は、境インダストリアルが秘密裏に開発したタングステン・カーバイドと合成ダイヤモンド繊維を織り交ぜた超高密度複合材『神武鋼』が用いられている。この素材は、戦車の主装甲に匹敵する硬度と、驚異的な衝撃吸収・伝達能力を併せ持つ。ヘッドの打撃面はフラットではなく、微細な凹凸加工が施されており、インパクトの瞬間に目標の装甲を点と線で捉え、応力を集中させることで亀裂を生じさせやすくしているのだろう。側面には、漢字で『凄乃王』と荒々しい書体で刻印されている。
総重量は推定で400kgを優に超えるだろう。これは並のサイボーグなら筋力増強サイバーウェアを最大出力にしても持ち上げることすら叶わない重さだ。全身義体ですら、これを武器として振るえる者は少ない。外部情報のスキャンだけでこの性能。内部機構に至っては解析することすらできない。
それを赤髪の少女は片手で軽々と肩に担ぎ、指先でクルクルと回してみせた。
これほどの芸当を可能にするためにはどれだけのサイバーウェアを搭載しているのか。ヴィンセントのスキャンはありえない結果を表示する。
生身。
それは天地がひっくり返ってもありえない結果だった。バイオウェアであっても搭載された痕跡は残る。それを検知できないとするならば、生身と判定してしまうほどの超ハイグレード品を全身に置換していることになる。
少女はヴィンセントの姿を頭のてっぺんからつま先まで、品定めするように眺めた。そして、心底軽蔑したように鼻を鳴らした。
「まあ、なんて醜悪な……趣味の悪いデカブツですわね。どこの企業の狗ですの? それとも、ただの金に目が眩んだ愚かな傭兵? どちらにせよ、イサナ様が愛でるこの庭を汚した罪は万死に値しますわ」
その首には、艶やかな黒曜石の首輪が嵌められている。境の紋章が刻まれた所有の証。ヴィンセントの脳裏に、一つの噂が閃光のように過った。イサナ・サカイが溺愛する生ける兵器。異名は──『狂犬』
直感が告げている。こいつだ。タンクの重戦車を紙屑のように握り潰し、リズの脳を一瞬で焼き切った怪物は。
「お前が、タンクとリズを殺した怪物か?」
ヴィンセントは『斬火』の切っ先を少女に向けた。少女はきょとんと目を丸くし、やがて呆れたようにため息をついた。
「どうやら、囮作戦の生き残りのようですわね。……水母と早苗も、詰めが甘いですわ」
ヴィンセントは思考する。タンクとリズを殺したのは、この少女ではない? タンクを潰した怪力女と、リズを焼いた凄腕ハッカー。その二人が囮の護衛に回っていたということは、本命であるイルカ・サカイの側に配置されたこの少女は──
「……なるほどな。囮の二人よりも格上ってわけか」
ヴィンセントは結論づけた。最強の護衛を最も重要な場所に置く。当然の理屈だ。
つまり、目の前のちんちくりんは二人を従えるリーダー格。境インダストリアルが誇る最強のカードだ。
「どうやら、お前さんが『当たり』だったようだな」
ヴィンセントは笑い、全身のウェポンシステムのセーフティを解除する。
少女は、ふふんと得意げに胸を張ると巨大なハンマーを片手でくるりと回した。
「わたくしとしたことが、名乗るのを忘れていましたわ」
彼女は優雅に一礼し、深紅の髪が揺れる。その瞳には、無邪気さと残虐さの強烈な光が宿っていた。
「わたくしは犬噛 蛍。イサナ様の忠実なる『玩具』であり『至宝』……これで、わたくしをお前と呼ぶ必要はなくなりましたわね。野良犬」
「……俺の名前はヴィンセントだ」
ヴィンセントは低い声で返した。
「野良犬と呼ぶ必要はなくなったな」
名乗り返したヴィンセントに対し、蛍は興味なさそうに鼻を鳴らした。
「野良犬の名前など、いちいち覚えませんわ」
「小娘が粋がるな。俺は子供と遊んでいる暇はない。イルカ・サカイはどこだ」
ヴィンセントの挑発に、蛍の顔から笑みが消えた。代わりに浮かんだのは、獲物を前にした捕食者の獰猛で残忍な表情だった。
「イルカ様の名を、その汚い口で呼ぶことすら許しませんわ。あなたのような野良犬が気安く会える方ではございませんの……ですが、ご安心あそばせ? あなたがこれから見るのはイルカ様のお姿ではなく……」
蛍は、その華奢な身体からは想像もつかない巨大なハンマーをヴィンセントに向ける。小型エンジンブロックほどもある、黒光りする鉄塊。その暴力的な存在感は、静謐な空気を一瞬で引き裂いた。
「──地獄ですわ」
*
「地獄、か。何度も見てきた」
ヴィンセントの返答は、ハンマーの風圧にかき消された。犬噛蛍がハンマーを振り上げたのではない。ただ、巨大な鉄塊を畳の上にトン、と置いただけ。それだけの動作で、大気が震え、畳が悲鳴を上げ、床下の構造体が軋む音が聞こえる。常軌を逸した質量と、それを軽々と扱う少女の怪力。
「あら? 何かおっしゃいまして?」
理屈ではない。長年の戦闘で培われた傭兵としての直感が、最大級の警鐘を鳴らしていた。目の前の少女は、これまで対峙してきたどんな敵とも次元が違う。力も、速さも、そしてその身に宿す狂気も。
ヴィンセントは躊躇わなかった。『阿修羅』過剰駆動を即座に起動する。思考が加速し、世界が静寂に包まれる。犬噛蛍の動きが、粘性の高い液体の中を進むように鈍化する。勝利への道筋は見えた。この速度差があれば、首を刎ねるのにコンマ1秒もかからない。
ヴィンセントは床を蹴った。最短距離で蛍の懐に潜り込む。赤熱した『斬火』の刃が、静止した空間に紅い軌跡を描きながら、蛍の華奢な胴体を狙って水平に閃いた。狙いは完璧。手応えは……ない。ない!?
刃は確かに蛍の身体を通り抜けた。赤いジャケットを、黒いインナーを、そして雪のような肌を両断したはずだった。しかし、そこに斬撃の感触は一切なかった。まるで、ホログラムか何かを切り裂いたかのような、空虚な感覚だけが手に残る。
両断されたはずの蛍の姿が、陽炎のように揺らめき、淡い光の粒子となって霧散した。
「──残像ですわ」
背後から囁き声が聞こえた気がした。
ヴィンセントが振り返るより早く、凄まじい圧力が彼の全身を襲った。巨大な鉄の塊が、空気を圧縮しながら振り下ろされる際に生じる、純粋な暴力の塊。『阿修羅』による超感覚がなければ、認識すらできずに圧殺されていただろう。
ヴィンセントは咄嗟に身体を捻り、後方へ跳んだ。身体を限界までしならせる。ハンマーのヘッドが、彼の鼻先を掠めて畳に叩きつけられた。
轟音はない。ただ、畳が、床が、そしてその下のコンクリート躯体までもが、音もなく陥没していく。もし直撃していれば、ヴィンセントの身体は分子レベルで粉砕されていただろう。
(俺の『阿修羅』より早いだと……!?)
ありえない。『阿修羅』は現行最強の過剰駆動のはずだ。これを超える神経加速器など存在するはずが……。
ヴィンセントは犬噛蛍の背後に立つ。
彼女の背中の皮膚の下で、三日月を模した青白い光の回路が脈打っている。振り返った蛍の瞳は冷たい青色の光を放っていた。
蛍は逃さないとばかりに鉄槌を振り抜いた体勢のまま、彼女の左腕が変貌を遂げる。清廉な少女の腕が、分解・再構築され金色の回路が走るカノン砲へと姿を変えた。
過剰駆動発動中の銃火器は、基本的に悪手だ。射出された弾丸は加速の影響を受けない。亀のようにゆっくりと飛んでいく。使い手によっては自滅しかねない諸刃の剣。ヴィンセントの戦闘データも、そう結論付けていた。
だからこそ、ヴィンセントは信じられなかった。
砲口が収束し、光の矢が放たれる。それは、ヴィンセントが知る物理法則を完全に無視していた。
凍てついた時の中を、速度を保ったまま一直線に突き進んでくる。純粋な熱エネルギーの塊が、光の槍となって空間を貫く。回避は、不可能。
(馬鹿なっ!)
絶体絶命。ヴィンセントに残された選択肢は、防御しかなかった。彼は迫りくる光の槍に対し、咄嗟に『斬火』の刀身を盾のように構えた。
ゴウッ!という凄まじい音と共に、熱の津波がヴィンセントを飲み込んだ。
『斬火』の刀身が、熱線を正面から受け止める。キィィン!という金属の悲鳴が、過剰駆動の中でありながら鼓膜を突き刺した。
これがただの鋼の刀であれば、一瞬で蒸発していただろう。だが、『斬火』が高熱を発するサーマルユニットであるが故に、奇跡的にその形状を保っていた。それでも、刀身は限界を超えて赤熱しヴィンセントの腕を焼く。衝撃で吹き飛ばされ、茶室の壁に叩きつけられた。
過剰駆動が限界を迎え、強制的に解除される。
現実の時間が、暴力的に流れ込んできた。
「ぐっ……はっ……!」
全身を打撲と火傷の痛みが襲う。右腕の装甲繊維コンバットシャツは熱で溶け、皮膚にべっとりと張り付いていた。肺が酸素を求めて喘ぐ。『斬火』を握る手は感覚が麻痺している。背中の『阿修羅』は限界使用のため排熱中だ。
ゆっくりと立ち上がったヴィンセントの目の前で、犬噛蛍は鉄塊を軽々と肩に担ぎ直し、つまらなそうに彼を見下ろしていた。
「まだ生きていましたの? あなたのその刀、少しは上等な品のようですわね。わたくしの『天照』を受けて、形が残っているなんて」
彼女の背中の光は消え、瞳の色も元の紫水晶に戻っている。先ほどまでの攻防がなかったかのような涼しい顔だった。
ヴィンセントの『阿修羅』と同じ稼働時間を過ぎたというのに排熱すらしていない。
その時、ペントハウスの天井に埋め込まれたスピーカーから、神奈備《AI》の声が響き渡った。
『理解しましたか、ヴィンセント。それが、我々が生み出した真の最高傑作。犬噛蛍です。あなたのデータは、すべて彼女を完成させるための礎となりました。あなたは、彼女のための捨て石。旧式のプロトタイプなのです』
「最高傑作、だと……?」
『彼女はあなたの上位互換。パワー、スピード、そして搭載されたサイバーウェアの質と量。あらゆる面で、あなたは彼女に劣る。あなたが見たくなかった現実です。ヴィンセント』
神奈備の言葉は、ヴィンセントの心を抉るように響いた。だが、彼の心は折れていなかった。それどころか、絶望的な状況が、彼の魂に再び火を灯していた。
(旧式? 捨て石? ……上等じゃねえか)
ヴィンセントは、焼け付く腕の痛みを無視して『斬火』を構え直した。バイザーの奥で、彼の目が挑戦的に輝く。
「だったら、見せてやるよ。旧式の欠陥品が、お前らの最高傑作をスクラップに変える様をな……!」




