ネオ・トーキョー上空にて
ネオ・トーキョーの夜空を、一台の重厚な影が滑るように飛んでいた。サカイ社製都市型多目的AC『天浮橋』。機体表面は、極限まで磨き上げられた鏡のような装甲である鏡面装甲『水鏡』で覆われており、極彩色なネオンや街並みをそのまま表面に映し出す。滑らかな弾丸型のフォルムは、『天鳥船』よりも『情報の秘匿』と『美学』を優先したデザインだ。
機内では、リリカ・ヴォルコヴァが子供のようにはしゃぎ回っていた。
「うっひょー! マジかよこれ! 本革じゃん! ははっ! 見ろよサナエちゃん! 人がアリンコみたいだ!」
リリカはシートを撫で回したかと思うと、窓に張り付いた。
「これが『天浮橋』! 一回のフライトでアタシの年収分くらい飛んでくんじゃねーの!?」
「……落ち着け、リリカ。揺れる」
対面の席で、鷹空早苗は眉間を押さえながらため息をついた。リリカの興奮は、早苗には理解し難いものだった。
これが、蛍が八雲メトロポリスへの長距離移動に使用する特注の空飛ぶ要塞――『天鳥船』であれば、その驚きも理解できる。だが、この『天浮橋』はあくまで都市圏内移動用の通勤車だ。
早苗にとっては、ちょっとした移動に使う『乗り慣れた社用車』以外の何物でもなかった。
「ただの移動手段だ。非効率にはしゃぐな」
「はしゃぐなってのが無理だろ! こいつ一機の値段だけで、スラムの難民が人生3回分は遊んで暮らせる額だぜ!? 目が回るような金持ちの道楽だ!」
リリカはケラケラと笑うと、自身の両脇に抱えていた荷物――熟睡して鼻提灯を作っている犬噛蛍と隠神八尾を、ふかふかのソファ席へと丁寧に転がした。
「むにゃ……イサナ様……プリン……」
「くぅ……」
無防備な二人の寝顔を横目に、早苗は視線を窓外へと戻した。眼下にはネオ・トーキョーの光の海が広がっている。だが、早苗の脳裏を占めているのは、ヘンリエッタ・アーチボルトが最期に残した言葉だった。
『情報提供者《裏切り者》がいる……機密情報へアクセスする権限を持つ者……』
(……特殊資産管理部のデータは、明部長とボク。そしてごく一部の最高幹部しか閲覧できないはずだ。そこから情報が漏れたということは……)
早苗の青い瞳が暗く沈む。管理部の中に裏切り者がいるのなら、通信すら傍受されている可能性がある。だからこそ、早苗はACの要請以外、明への詳細な報告を濁していた。
(……帰投次第、明部長と対面で話すしかない。ログの解析も、管理部のオフライン環境で行うべきだ)
「おーい、サナエちゃん? 何シケた顔してんの?」
リリカの声に早苗はハッとした。リリカはいつの間にか席を立ち、キャビネットに備え付けられた冷蔵庫を勝手に開けていた。まるで自分の家のものかのように中身を物色している。
「勝手に開けるな。部外者の飲食は申請が……」
「固いこと言うなよボス。これくらいの役得、経費で落ちるだろ?」
「ぐっ……それは……そうだが、規律というものが……」
早苗が言葉に詰まる。リリカはニシシと悪戯っぽく笑い、畳み掛けた。
「それにさ、喉カラカラで集中力が落ちたら、いざって時にこのお姫様たちを守れないかもよ? 傭兵のコンディション維持をケチって任務失敗……それって凄く『非効率じゃない?」
早苗の眉がピクリと跳ねた。彼女の美学である『効率』という言葉を盾にされては、反論の余地がない。
「……はぁ。好きにしろ」
「話が早くて助かるねぇ!」
リリカは勝ち誇った顔で物色しながら語る。
「で、どうするよ? サカイのお偉いさんに裏切り者がいるってことは……このフライトも安全じゃないかもよ?」
リリカは軽薄そうに見えて勘が鋭いようだ。早苗の懸念を正確に言い当てていた。
「……ヘンリエッタのログ解析は戻ってから行う」
早苗は慎重に言葉を選んだ。
「内通者が特殊資産のデータにアクセスできるならば、迂闊な通信は命取りだ。今は警戒レベルを最大にしておく」
「りょーかい。ま、アタシは無事にこのお姫様たちを送り届けるだけだしな」
リリカはソファで眠る蛍と八尾を指差し、肩をすくめた。
「平和なもんだぜ。主役二人は爆睡中だ」
「……全くだ」
「んじゃ、アタシも一眠りしようかな~……おっ! いいもんあるじゃん!」
リリカが冷蔵庫から取り出したのは、最高級のヴィンテージ・シャンパンだった。
「あっ……」
早苗の喉から、思わず制止の声が漏れかけた。それは単なる備品ではない。いつか敬愛する上司――犬噛明とこの機体で二人きりになった際、夜景を見ながら共にグラスを傾けようと、早苗が自費で手配し、密かに冷やしておいた『とっておき』だったのだ。
「それは……」
言いかけて、早苗はハッとして口をつぐんだ。
(……待て。もし、そんなことを口走ればどうなる?)
早苗の脳裏に、ニヤニヤと意地悪な笑みを浮かべるリリカの顔が浮かぶ。「へぇ~? 上司へのゴマすり? それとも……ラブ?」などと、あることないこと執拗に揶揄ってくるに決まっている。
ただでさえ『内通者』という懸案事項で脳内メモリが圧迫されている今、リリカの玩具になって精神的リソースを摩耗するのは、極めて非効率的だ。
「あーん? なんだよその『待った』かけたそうな顔は?」
リリカはボトルのラベルと、早苗の強張った表情を交互に見比べ、怪訝そうに眉をひそめた。
「もしかしてコイツ、ただの備品じゃなくて……アンタの私物だったりする?」
鋭い。野生の勘と言うべきか、リリカの瞳が探るように細められる。
(……シャンパンなど、金さえ出せばまた買える。ここは損切りするしかない)
「……なんでもない」
早苗は断腸の思いで、出かかった言葉を飲み込んだ。否定しなければ、余計に掘り下げられる。
だが、リリカには肯定に聞こえたようだ。
「ふーん? そっかそっか。図星ってわけね。やっぱサナエちゃんの『とっておき』だったわけだ」
リリカは悪びれる様子もなく、むしろ嬉しそうにボトルを掲げた。
「だったら尚更、一人で飲むのは野暮ってもんだろ? 一緒に乾杯しようぜ! 任務成功の祝い酒だ!」
リリカはグラスを二つ取り出し、琥珀色の液体を注ぎ始めた。
「……断る。酒は飲まない主義だ」
早苗は即座に拒否した。アルコールは判断力を鈍らせる。任務中には最大の非効率だ。
「あ? 飲まない主義」
リリカの手がピタリと止まった。彼女は琥珀色の液体が揺れるグラス越しに、早苗をジロリと見据えた。
「おかしいじゃん。自分が飲まないなら、なんでこんな高い酒をわざわざ冷やしておいたんだよ? まさか……」
リリカはニヤリと口角を吊り上げた。
「誰か『特別な相手』に渡すつもりだったとか? それとも、二人きりでしっぽりやる予定だったとか~?」
「ッ……! ち、違う!」
早苗の声が微かに裏返った。痛いところを突かれ、彼女のポーカーフェイスが崩れかける。
「これは……あくまで一般的な来賓用だ! VIPをもてなすための備蓄であり、個人的な感情など一切含まれていない! 断じて!」
「へぇ~? 必死だねぇ」
早苗の過剰な否定に、リリカはますます面白そうに目を細めた。
「その『飲まない主義』ってのもホントかね〜? 飲まないんじゃなくて、『飲めない』の間違いじゃない?」
リリカはわざとらしく早苗の顔を覗き込んだ。
「もしかしてアンタ、蛍と同じで年齢サバ読んでるタイプだったり? 実は未成年だから飲めないとか?」
ピキッ。
早苗の鉄壁のポーカーフェイスに、明確なひびが入った。
年齢と身長、そして子供扱い。彼女にとってそれらは地雷だ。
「……訂正しろ。ボクは成人済みだ。法的にも生物学的にも、アルコールの摂取に何ら問題はない」
「へぇ〜? じゃあ飲みなよ。減るもんじゃなし」
リリカはニシシと笑いながら、グラスを早苗の目の前に突き出す。
その表情は、新しい玩具を見つけた猫のような、獲物を弄ぶ捕食者のそれだった。琥珀色の液体越しに、ニヤニヤとした挑発的な視線が早苗を絡め取る。
早苗はムッとしてグラスを受け取った。ここで飲まなければ、子供扱いされたまま終わる。それは彼女のプライドが許さなかった。だが、グラスを口元に近づけた瞬間、早苗の手が止まる。
(……アルコール摂取による反応速度の低下率は約15%、判断力の低下は20%と予測される。極めて非効率的だ。だが……ここで断れば、このふざけた女は未来永劫ボクを『お子様』扱いするだろう。それは……許容できない屈辱だ)
早苗はグラスの中で弾ける気泡を見つめながら、トップエージェントとしての理性と、子供扱いされたくないという幼稚なプライドの間で激しく葛藤していた。
「……」
その様子を見てリリカはグラスの中身を一気に煽ると、ぷはーっと息を吐いて笑った。
「あはは! 冗談だって。意地張らなくてもいいんだぞ?」
リリカは優しい目をした。
「別にバカになんてしないさ。酒が飲めなくても、アンタが優秀なのは変わんないしな」
その言葉は、逆に早苗の対抗心に火をつけた。
「……馬鹿にするな。ボクは大人だ。これくらい……」
早苗は意を決し、グラスを傾けようとした。
その時だった。
早苗の視界の端、窓の外にあり得ないものが映った。
夜空を飛ぶ鳥でもない。ドローンでもない。回転しながら、猛スピードでこちらに向かってくる巨大な質量。
「……車?」
早苗が呟くのと衝撃が走るのは同時だった。




