決着
白い人工血液が滴り落ちていた犬噛蛍の左腕。だが、その傷口が微かに発光し、驚異的な速度で塞がっていく。
内部装甲と『ナノマシンコロニー』による超回復能力だ。神経が再接続され、麻痺していた指先がピクリと動く。
「……ふぅ。少々、痛かったですわよ?」
蛍は脂汗を拭いもせず、不敵な笑みを浮かべて怪物を睨み上げた。誰が見ても、蛍の劣勢は明らかだ。エネルギーは枯渇寸前、身体機能は限界を超えている。だが、彼女のその瞳から、勝ち気な光が消えることはない。
「あら? どうしましたの、デカブツさん……お疲れのようですわね」
蛍の指摘通り、怪物の動きは明らかに鈍化していた。先ほどまでの疾風のような速度は消え失せ、肩で息をするように巨体を揺らしている。再生能力も完全には追いついていないのか、カグツチで焼かれた傷跡がまだ燻っている。
「バカな……!?」
ヘンリエッタが狼狽した声を上げた。
「ありえないわ! バイオウェアはサイバーウェアよりもエネルギー効率が良いはず! 独自の代謝システムで、理論上は数時間稼働できるのに!」
「理論上はそうでしょうね」
蛍は鼻で笑った。
「わたくしの『月読』に追いつくため、細胞を焼き切るほどの過剰な加速。その上『カグツチ』の熱ダメージを即座に修復するという離れ業までやってのけましたわ。さらに醜く膨れ上がるおまけつきでしてよ?」
蛍は理路整然と、しかし残酷な事実を突きつけた。
「いくら燃費が良くとも、タンクが空になれば車は走りませんわ……この哀れなデカブツは今、極度のガス欠状態ですのよ」
VIPたちがざわめき出した。
「おい、話が違うぞ! 無尽蔵のスタミナじゃなかったのか!」
「欠陥品か? 金を返せ!」
罵声が飛び交う中、ヘンリエッタは必死に取り繕おうとする。
「せっ、静粛に! 一時的な代謝不良です! すぐに回復します!」
「回復? ええ、方法ならありますわよ」
蛍はふらつく足取りで怪物に近づくと、その巨体を――今の八尾は抵抗する力さえ残っていなかった――怪力で強引に持ち上げた。
「んっ……しょ、っと!」
ドサァッ!!
蛍は怪物を、ヘンリエッタが座るソファの目の前へと放り投げた。ガラスのテーブルが粉々に砕け、ヘンリエッタが悲鳴を上げて飛びのく。
「ひっ!?」
「今のヤオが、わたくしに勝つ方法は一つですわ」
蛍はヘンリエッタを指差し、悪魔のように微笑んだ。
「エネルギーが足りないなら、補給すればよろしいのですわ……そこに、手頃な『餌』があるじゃありませんの」
「な……っ!?」
「あなたがヤオのご飯になればよろしいのですわ。そうすれば、タンパク質もカロリーも満タン。わたくしともう一度遊べますわよ?」
その提案にVIPたちが狂喜した。
「おお! それは名案だ!」
「創造主が被造物に喰われる! 最高のショーじゃないか!」
「やれ! 喰え! 喰ってしまえ!」
下劣な歓声が響く中、ヘンリエッタは青ざめた顔で首を振った。
「ふ、ふざけないで! 私は……私はこのプロジェクトの責任者よ! 私が死んだら、隠神シリーズのデータも、量産計画もすべて水泡に帰すわ! 代わりはいないのよ!」
必死の命乞い。我が身可愛さ故の醜い保身。蛍はそれを聞いて、心底つまらなそうに目を伏せた。
「……あなたの信念とは、所詮そんなものですのね」
蛍の脳裏に、主であるイサナの姿がよぎる。あの方は違う。あの方のためなら、わたくしは喜んでこの身を差し出す。そしてあの方も、わたくしという存在を決して無駄にはなさらない。
「ヤオ……あなたは仕える主人を間違えましたわね」
蛍は右腕を掲げた。警告音が鳴り響く。冷却が不十分な状態での再起動。腕が焼け落ちるかもしれない。だが、構わない。
「ですが、イサナ様は違いますわよ……あの方の威光を示すためなら、わたくしはこの身が砕けようとも構いませんの!」
右腕の装甲が展開し、赤熱した鉤爪が顔を出す。
「さあ、歯を食いしばりなさい!!」
蛍は残った全エネルギーを注ぎ込み、ヘンリエッタの足元で蹲る怪物へと拳を叩きつけた。
ズドォォォォンッ!!
限界を超えた熱エネルギーが炸裂した。今回は内部からの爆発ではない。表面の装甲と肉を削ぎ落とすための、制御された破壊。怪物の巨体が紅蓮の炎に包まれ、ピンク色の肉塊がボロボロと剥がれ落ちていく。
「ギャァァァァァッ!!」
断末魔と共に怪物の巨体が霧散し、中から小さな影が弾き出された。黒焦げになり、煙を上げる床に、ぼとりと落ちたのは――元の姿に戻った隠神八尾だった。
「ぅ……ぁ……」
八尾はピクリと指を動かしたが、そのまま意識を失った。生体コアとしての限界を迎え、強制シャットダウンしたのだ。
そして、蛍もまた限界だった。
「……ふぅ」
短時間でのカグツチの連発、月読の酷使。彼女の神経系は焼き切れる寸前だった。蛍は糸が切れたように後ろへ倒れ、大の字になって天井を見上げた。
「……あーあ。制服がボロボロですわ……お母様に怒られますわね……」
動けない。指一本動かせない。完全なエネルギー切れ。
静寂が戻った部屋で、ヘンリエッタ・アーチボルトがゆっくりと立ち上がった。彼女は震える手で乱れた白衣を直し、床に転がる二人の少女――機能停止した八尾と、満身創痍の蛍を見下ろした。
そして、彼女の顔に、卑劣な笑みが戻った。
「……勝った。勝ったわ!」
ヘンリエッタは瓦礫の下から、護身用の大型リボルバーを取り出した。
「サカイの狂犬も、エネルギーが切れればただのガラクタね……ここで君を殺し、脳と身体をサンプルとして頂くわ。そうすれば、隠神シリーズはさらに完璧なものになる!」
ヘンリエッタは銃口を、動けない蛍の眉間に向けた。
「さようなら、転校生……君の死は、科学の発展の礎となるのよ」
トリガーに指がかかる。蛍は逃げることも、防御することもできない。だが、彼女はその瞳から勝ち気な光を失わず、ニヤリと笑ってみせた。
「……遅いですわよ、三流科学者」
ドォン!!
銃声が響いた。だが、撃ち抜かれたのは蛍の頭ではなかった。ヘンリエッタが持っていたリボルバーが、弾き飛ばされて空中で回転したのだ。
「なっ……!?」
ヘンリエッタが驚愕して入り口を振り返る。そこには、銀髪のツインテールを揺らす長身の傭兵と、氷のような瞳をしたサーファーが立っていた。
「へへっ、間に合ったじゃん!」
リリカ・ヴォルコヴァが、『天之羽矢』を担いで笑う。
「……蛍主任。随分と無様な姿だ」
鷹空早苗が、二丁の拳銃を構えながら冷ややかに告げた。
「だが、時間稼ぎとしては上出来だ」




