番外編:売国奴と蛍の父親候補
ネオ・トーキョーの空は、重金属を含んだ低い雲に覆われ、絶え間なく降り注ぐ酸性雨が街のネオンを滲ませていた。
かつてこの国の政治の中枢であった千代田区「霞ヶ関」は、今や日本政府の威信など塵ほども残っていない。立ち並ぶ庁舎の窓には、主権を委託された外国企業のロゴが誇らしげに輝き、星条旗を模したGF社の紋章が、日の丸よりも高い位置で風に翻っている。
『国立議事堂』。その白亜の石造りの内部では、現在進行形でこの国の息の根を止めるための儀式が執り行われていた。
「――以上、第百四十二号法案『関東租界地における私有軍事権の恒久化、および国民遺伝子データの譲渡に関する特別措置法』。賛成の方は御起立願います」
議長の無機質な声が響く。壇上の議員たちは、考えることも、疑うことも忘れた精巧な自動人形のように、一斉に腰を浮かせた。その網膜にはGF社や他国企業から送られた『YES』の指示が明滅している。
「全会一致。本法案は可決されました」
議場の上階、傍聴席の影に一人の男が立っていた。男の名は、仙道和馬。この議場の主の一人である大物議員の第一公設秘書という肩書きを持つが、その実態は売国の実務を担う調整役に過ぎない。
和馬は、仕立ての良いスーツのポケットに手を突っ込み、眼下で繰り広げられる茶番劇を、吐き気を催すような嫌悪感とともに見つめていた。
(……承認マシーンどもめ。自分たちが何を売ったのか、理解すらしていないのか)
「仙道君、顔色が悪いな。少しは休んだらどうだね?」
隣に座っていた中堅議員が、脂ぎった顔で話しかけてくる。彼の首筋には、GF社から支給されたばかりの最新型ニューラル・ポートが銀色に輝いていた。
「いえ、少し空気が悪いだけです……それより先生、今の法案でまた一つ自治体が消えましたね。支持者の方々には何と説明なさるおつもりで?」
「ハハハ! 説明など必要ない。これは『八雲・メトロポリス』の妖怪ども……いや、我が国の領土を奪い取った大企業共もだな。あのテロリストどもから国民を守るための尊い犠牲だよ。我々は平和を、自由を輸入しているのだ」
(自由、か。GF社製の鎖を首に巻いて、よくそんなことが言える)
和馬は適当な相槌を打つと、逃げるように議場を後にした。廊下を歩く彼の耳に、暗号化された通信が入ったのはその時だった。
『――和馬君。聞こえるかしら』
脳内に直接響く、ワインのように芳醇で、氷のように冷徹な女性の声。和馬は足を止めず、壁際の自動販売機に向かい、味のしない『シンセ・プロ』のカップを買うフリをして答えた。
(……明さん。議事堂の中にまで割り込んでくるとは、相変わらず大胆ですね)
『あら、この国の法が書き換えられている最中だもの。少しは様子を見たくなるわ』
犬噛明。境インダストリアル、特殊資産管理部の部長。和馬が密かに通じている、最強の敵にして協力者である女性だ。
『場所を変えましょう。ミナト・ヒルズの『銀魚』、個室を押さえてあるわ。一時間以内に来られるかしら?』
(……拒否権はありませんよね)
『賢い子は嫌いじゃないわ。待っているわよ』
通信が切れると、和馬は手にした『甘露』のブロックをゴミ箱に放り込んだ。彼は急ぎ足で駐車場へ向かい、政府公認の黒塗りセダンに乗り込む。
一時間後。社畜の給水所とも呼ばれる高級地区『ミナト・ヒルズ』。ホログラムの桜が舞い散る料亭『銀魚』の最奥、厚さ十センチの防音装甲に囲まれた個室で彼女は待っていた。
犬噛明は、黒いロングコートを脱ぎ捨て、ワインレッドの髪を美しく編み込んで座っていた。卓上に置かれたロックグラスの中では、本物の氷が琥珀色の液体と触れ合い、カランと贅沢な音を立てている。
「お疲れ様。仙道和馬秘書官」
明は、獲物を値踏みするような黄金色の瞳で和馬を見つめ、艶やかに微笑んだ。
「その顔……今日も今日とて、国の切り売りで忙しかったようね」
和馬は黙って彼女の対面に座った。部屋に漂うのは高級な白檀の香りと、彼女が纏う火薬とオイルの混ざった独特の芳香。
「本題に入りましょう、明さん。なぜ、私をこんな目立つ場所に呼び出したんです」
「あら、ここは境インダストリアル系列の会員制寿司バーよ? 秘書官様は高級ナイトクラブがよかったかしら?」
明はグラスを傾け、一口飲むと本題に入った。
「ネオ・トーキョー随一のフィクサー、ファラリスが死んでから……一ヶ月が経ったわ。空席を巡って、ハイエナたちが動き始めている。それは知っているわね?」
「……ええ。裏社会の物流と情報のハブを握っていた怪物だ。その後釜に誰が座るかで、これからの十年のパワーバランスが決まる」
「その通り。各企業は必死よ。自分の息のかかったパペットを、新たなフィクサーとして押し込もうとしている。特に、あなたの『お客様』であるGF社を筆頭とした外国資本はね」
明の瞳が、猛禽類のような鋭さを帯びる。
「教えなさい、和馬君。外国企業たちが裏で推している、フィクサー候補の名簿を……政府の『租界地管理局』に、そのリストが届いているはずよ」
和馬は息を呑んだ。彼女の目的は明白だ。境インダストリアルの息がかかったフィクサーを擁立するために、邪魔な候補者を物理的に排除するつもりなのだ。
「……それを渡せば、私は完全に死刑台へ登ることになる。GF社の内部調査部にバレれば、私の脳は焼き切られて路地裏のゴミ箱行きです」
「安心して。私たちがそんな無様なことはさせないわ」
明は立ち上がり、ゆっくりと和馬に歩み寄った。彼女の背筋が描くしなやかな曲線、そしてタイトなシャツを押し上げる豊かな胸の膨らみが、和馬の視界を圧迫する。彼女は和馬の背後に回ると、その白く細い指先で彼の首筋の接続ポートをなぞった。
「あなたは私の大切な『資産』よ。誰にも渡さないし、壊させない……そうでしょう?」
耳元で囁かれる甘い声。和馬の全身に鳥肌が立つ。彼は懐から一枚のデータチップを取り出し、卓上に置いた。
「……候補者は三人です。一人はロマノフ・バイオダイン、一人は崑崙・ネットワークスの『龍』、そして最後の一人が、GF社が最高の支援を約束しているアメリカの元軍人。全ての身辺データと、現在の潜伏先をそこに収めてあります」
明はチップを手に取り、それを満足げに眺めた。
「よくやったわ。これでネオ・トーキョーの『掃除』が捗るというものよ。イサナ様も、そしてあの隠居したお爺様も……きっとお喜びになるわ」
彼女はチップをコートの内ポケットに仕舞い込むと、去ろうとする和馬を呼び止めた。
「――そういえば。一つ、釘を刺しておかなければならないことがあったわ」
明はロックグラスを置くと、椅子に深く背を預けた。編み込まれたワインレッドの髪が、微かな衣擦れの音を立てて肩から滑り落ちる。彼女の黄金色の瞳が、獲物を狙う猛禽類のように細められ、和馬の顔を正面から射抜いた。
「……和馬君。あなた、最近少し『余計なこと』を嗅ぎ回っているようね」
「……何のことでしょうか」
和馬は努めて冷静を装ったが、背中を嫌な汗が伝うのを隠せなかった。
「あなた、私の身辺を探っているでしょう? 正確には……蛍の『父親』について、かしら?」
和馬の背筋に、冷たい氷の柱が突き刺さったような感覚が走った。確かに彼は探っていた。『深紅の女狐』と呼ばれた女が、どのタイミングで表舞台から消え、いかにしてあの『狂犬』を産み落としたのか。そして、その種となった男は、一体何者なのか。
「それは……その……」
和馬が言い訳を探して唇を震わせた瞬間、明の指先がテーブルを小さく叩いた。乾いた音が個室の静寂を切り裂く。
「二度は言いません。やめなさい……私の過去を暴くことは、八雲メトロポリスの地下シェルターを素手でこじ開けようとするくらい、無意味で致命的な行為よ」
和馬の脳裏に、省庁の地下データベースから密かに抜き出した、ノイズまみれの噂話がフラッシュバックする。
一つは、ロシアの巨大バイオ企業『ロマノフ・バイオダイン』の人間牧場にまつわるもの。かつて傭兵時代の明が囚われ、実験体として『種付け』された末に産み落としたのが蛍だという説。もう一つは、より無機質なもの。蛍は明のクローンであり、遺伝子調整によってかつての明よりも完璧な戦闘素体として再設計された存在だという説。
だが――それら以上に深く、そして危険な『禁忌』が存在することを和馬は知っていた。
凄腕の傭兵であった明を拾い上げ、一時は秘書兼ボディガードとして自らの身近に置いた境シゲル。境インダストリアル会長である彼が、かつて自らの懐刀であった明を女として愛でていたとしたら。そして、蛍がその妖怪翁の血を引く娘なのだとしたら。それは単なるスキャンダルなどではない。境インダストリアルという巨大帝国の根幹を揺るがす、最悪の導火線だ。
それらはどれも憶測であり、噂話の域を出ない。確たる証拠など、このネオ・トーキョーのどこを掘り返しても出てこないだろう。
だが、和馬は明の拒絶の言葉から、逆説的に『何か』を感じ取っていた。
単なる企業の不祥事を隠蔽する事務的な冷徹さではない。もっと個人的で、泥のように重く、そして血の通った『情念』が渦巻いている。彼女が隠そうとしているのは、企業の機密データなどではない。一人の女としての『記憶』なのではないか、と。
「……あの子、蛍さんは。あなたの夫となるはずだった人の子……ということでよろしいのですか?」
和馬は確信めいたものを感じ、思わず言葉を漏らした。明は夫とは呼ばず、あくまで蛍の父親という表現を使った。そこには戸籍や法を超越した、彼女にしか理解できない執着と拒絶が同居しているように見えた。
明の瞳に、一瞬だけ言葉にできないほど暗い色が過った。しかしそれは瞬き一つで消え去り、代わりに艶やかな笑みが唇に浮かぶ。
「しつこいわね、和馬君。あまりに私のプライベートに興味を持たれると、困ってしまうわ……これ以上しつこく探るなら、周囲に言いふらしてしまいましょうか。蛍の父親は、仙道和馬だと」
明は、和馬の顔の数センチまで顔を寄せた。彼女の吐息が彼の頬を熱く撫でる。冗談めかした口調。場を和ませるためのユーモアにも聞こえるはずの言葉だったが、この女が言うと冗談に聞こえなかった。
境インダストリアルの部長。イサナの腹心。この国の戸籍データなど、彼女にとっては子供の粘土細工も同然だ。もし、自分が『赤い狂犬』の父親に仕立て上げられたら。政府からは消され、境インダストリアルの派閥争いに巻き込まれ、そして何より――あの恐ろしい娘に『パパ』と呼ばれる未来が、鮮明な悪夢として網膜に焼き付いた。
「……明さん。それは笑えませんよ」
和馬の声が情けなく裏返った。それを見て、明は鈴を転がすような声で笑い、和馬の胸元を軽く叩いて身体を離した。
「あら、冗談よ。本気にしてしまったかしら? あなたの心拍数、いま三割も跳ね上がったわよ」
彼女は再びロックグラスを手に取った。先ほどまでの蛇のような恐ろしさを消し去り、また優雅で冷徹な『部長』の仮面を被っている。
「安心なさい。あなたのような脆弱な遺伝子を、私の『至宝』に混ぜるようなことはしていないわ」
明は氷を転がし、琥珀色の液体を喉に流し込んだ。彼女の所作一つ一つが、計算され尽くした舞台劇のように完璧だった。
和馬は、強張った肩をゆっくりと降ろしながら、彼女の横顔を見つめた。
(狂犬の父親……)
かつて最強の名をほしいままにした傭兵、犬噛明。彼女を女として組み敷き、あの規格外の暴力装置である蛍の血の半分を分け与えた男。一体、どんな怪物がその役割を担ったのだろうか。あるいは、その男もまた、この女によって処理された部品の一部に過ぎなかったのか。
彼女の夫として並び立ち、あの狂犬の父になれる者など、この腐りきった世界に存在し得るのだろうか。
「……和馬君。お茶が冷めているわよ。契約を履行している限り、私はあなたの味方だわ……今のところは、ね」
「……肝に銘じておきます、明さん」
明は立ち上がり、黒いロングコートを羽織った。
「候補者たちの『処理』は、こちらで進めるわ。あなたは議事堂で、せいぜい上手に嘘を並べていなさい」
彼女が去った後、個室には白檀の残香と、カラン……と氷が溶けて崩れる音だけが残された。
和馬は深く椅子に沈み込み、荒い呼吸を整えた。
(……蛍の父親。探るなと言われれば、余計に地獄の底が見たくなるな)
彼はまだ震えている手で、冷めきった緑茶を口にした。




