鵺
『月読』の世界。超音速世界の中で、犬噛蛍は優雅にステップを踏んだ。
「……やはり目で追っていますわね」
凍りついた世界で、隠神八尾の瞳だけが微かに痙攣しながら蛍の姿を追おうとしていた。
過剰駆動なしでは到底不可能な芸当。やはり、彼女の神経反応速度は異常な領域にある。
「ですが、見えているのと反応できるかは別ですわ」
蛍は八尾の目の前で、残像を残すほどの高速フェイントを入れた。右へ行くと見せかけ、左へ。上段と見せかけ、下段へ。八尾の瞳が混乱し、焦点を失う。
「隙ありですわ」
そこからは一方的な蹂躙だった。蛍は12秒という稼働時間を、残酷に使い切った。腹部への連撃、膝裏へのローキック、顎を跳ね上げるアッパー。致命傷は避けつつも、二度と逆らえないよう、身体の芯に『格の違い』を刻み込む暴力の雨。
「……終了、ですわ」
蛍が指を鳴らす。時が動き出した瞬間、蓄積された衝撃が一気に炸裂した。
「ガッ……ア、ギッ……!?」
八尾の身体がゴムまりのように跳ね、無様に床へと転がった。受け身を取ることすらできず、彼女は深紅の絨毯に突っ伏した。
『……蛍主任。なぜ首を折らなかった?』
早苗の冷淡な声が脳内に響く。
『今の12秒で20回は殺せたはずだ』
「無粋なことを言わないでくださいまし」
蛍は乱れた前髪を指で払いながら、倒れ伏す八尾を見下ろした。
「わたくしを模したというのですから、その性能がどんなものか、じっくりと試したかったのですわ」
蛍は八尾の元へ歩み寄り、その顔を覗き込んだ。
「どうかしら、ヤオ? わたくしのペットになるというなら今回の無礼、寛大にも許して差し上げますわよ?」
『……やはり、それが目的だったか』
早苗が呆れたように呟く。蛍は構わず続けた。
「あなたの働き如何によっては、特殊資産にわたくしが推薦して差し上げてもよくってよ? 悪い話ではありませんでしょう?」
ボロボロになった八尾が震える手で床を掴み、何かを答えようとした……その時だった。
「……甘いわね、サカイの狂犬」
ヘンリエッタが冷酷に言い放った。
「彼女はまだ負けていない……見せてあげなさいヤオ。『最強の個体』としての真の姿を!」
ヘンリエッタの命令がトリガーとなった。蛍が先ほど打ち倒し、部屋の隅に転がっていた五人のヌエ・ユニットたち。彼らの肉体が、突如としてビクリと震えた。
「グヂュ……ググッ……」
不快な粘着音と共に、彼らの輪郭が崩壊していく。骨が溶け、筋肉が液状化し、彼らは人の形を捨てた『肉塊』へと変貌した。まるで磁石に吸い寄せられる砂鉄のように、床を這いずり、八尾の元へと集結し始めたのだ。
「なっ……!?」
蛍が眉をひそめて後退する。
肉塊たちは八尾の身体に絡みつき、膨れ上がっていく。
「まっ……まってくださっ……ヤオはまだ負けてなっ」
八尾の悲鳴ごと肉の増殖音にかき消される。可憐だった少女の姿は、瞬く間に醜悪な肉の繭に飲み込まれた。
「これが、君に言った彼らとの融合……」
ヘンリエッタが恍惚とした表情で両手を広げた。
「そしてこの姿こそ、君がなり得たかもしれない未来! 最強の姿よ!」
肉の繭が弾け飛び、中から「それ」が現れた。もはや、隠神八尾の面影はどこにもなかった。
そこに立っていたのは、二足歩行する巨大な犬のような怪物だった。体高は3メートルを超え、全身の皮膚は毛が一本もなく、剥き出しのピンク色の筋肉が脈動している。太い血管がミミズのようにのたうち回り、顔には目がない代わりに、巨大な裂け目のような口だけが並んでいる。八尾という個体は、この肉の鎧の深奥、生体コアパーツとして埋め込まれてしまったのだ。
『……解析完了』
早苗の声に微かな戦慄が混じる。
『ヌエ・ユニットたちは、単なる兵士ではなかった。奴らはヤオを強化するための『生体パーツ』であり、外部バッテリーだったようだ』
「……そんなの見ればわかりますわよ」
蛍は吐き捨てるように言った。目の前の怪物は、生理的な嫌悪感を催すほどに醜かった。
「これが、あなた達の言う最強……? 美しさの欠片もありませんわね」
蛍は軽蔑の眼差しを向けた。
「醜く膨れ上がることが強さだと言うのなら……その定義が間違いだと、わたくしが今ここで証明して差し上げますわ」
蛍は優雅に構え、冷徹に言い放った。
「美しくない強さなど、ただの暴力。イサナ様の美学に反するゴミですもの」
「減らず口を……!」
ヘンリエッタが苛立ちを露わにした。
「その生意気な態度、しっかり矯正してあげるわ! やりなさいヤオ!」
「■■■■■■■■――――ッ!!」
怪物が咆哮した。言葉にならない、魂を削るような叫び。ピンク色の巨体が、床を爆砕させて蛍に襲いかかった。
だが、蛍は冷静だった。
「芸がありませんわね……ただ大きくなっただけの的ですわ」
蛍の瞳が青く光る。
「『月読』、再起動」
刹那、世界から音が消えた。
認識領域が極限まで加速し、周囲の時間が凍りつく。ヘンリエッタの嘲笑も、怪物の咆哮も、全てが引き伸ばされたスローモーションの彼方へと追いやられる。
この超音速の世界において、蛍以外の事象は止まっているも同然だ。
(……遅いですわね)
眼前に迫る巨大な鉤爪。一般人なら瞬きする間にミンチにされるその一撃も、今の蛍にはあくびが出るほど緩慢な動作に見える。
軌道は完全に見切った。回避からカウンターへの道筋も、すでに脳内で描き終えている。
蛍はフワリと優雅に身を翻した。死の暴風を紙一重でかわし、ガラ空きになった怪物の懐へと、致命の一撃を叩き込むべく滑り込もうとした――。
その瞬間だった。
ピクリ。
静止しているはずの怪物の筋肉が、脈動した。
「……え?」
蛍の思考が凍りつく。次の瞬間、止まっていたはずの巨大な腕が、蛍の認識を超える速度で軌道を変えた。『月読』の超音速世界に、一瞬だけ追いついたのだ。
「がはっ……!?」
蛍の横腹に、丸太のような腕が直撃した。過剰駆動発動中であるにもかかわらず、蛍の身体はボールのように弾き飛ばされた。彼女は部屋の壁を突き破り、瓦礫と共に隣の部屋へと吹き飛ばされていく。
瓦礫の山に突っ込んだ蛍は、床を転がりながらも即座に受身を取った。
『キチン皮下シェル』と『経津主』が衝撃を分散させる。全身義体フルボーグでも即死級の一撃だったが、彼女の身体は致命傷を免れていた。
「ッ……生意気な、肉団子ですこと……!」
蛍が顔を上げ、体勢を立て直したその瞬間。破壊された壁の向こうから、ピンク色の悪夢が雪崩れ込んできた。
「■■■■■■――――ッ!!」
八尾を取り込んだ異形の怪物が、瓦礫を粉砕しながら突進してくる。その速度は巨体に似合わず、砲弾そのものだ。巨大な口から涎を撒き散らし、丸太のような腕を振り上げ、蛍を押し潰そうと迫る。
「『建御雷』!」
蛍の脚部から青白いプラズマが迸った。電磁反発フィールドが床を叩き、彼女の身体を爆発的な速度で垂直方向へと弾き飛ばす。怪物の剛腕が蛍の残像を空しく薙ぎ払い、床をクレーター状に陥没させた。
遥か頭上、天井の配管に逆さまに着地した蛍は、眼下で暴れる怪物を睨み下ろした。荒い息を吐きながら、彼女は脳内の相棒へと問いかける。
「早苗! 説明なさい! なぜあれは『月読』の世界で動けましたの!?」
蛍の過剰駆動は、超音速の領域だ。過剰駆動を持たない生体兵器が、あの領域に干渉できるはずがない。
脳内に、鷹空早苗の冷静な声が響く。彼女は蛍の神経と深くリンクしているため、蛍が体験した『月読の世界』を共有し、観測していた。
『……単純かつ、野蛮な理屈だ』
早苗の声には嫌悪感が滲んでいた。
『あれは過剰駆動のような神経加速技術を持っているわけではない。融合した5体のヌエ・ユニット……彼らの脳と神経系を並列処理させ、さらに過剰なアドレナリンと電気信号を流し込むことで、生物的な反射速度を限界以上に「暴走」させている』
「暴走……?」
『ああ。奴は筋肉繊維が断裂しようが、神経が焼き切れようがお構いなしに、無理やりこちらの速度領域に『身体能力』だけで食らいついてきているんだ。言わば、複数のエンジンを同時に爆発させながら走っているようなものだ』
早苗は冷徹に結論づけた。
『ヤオというコアを守るために、取り込んだキメラたちの命を使い捨ての燃料にして加速している……極めて非効率で、醜悪なシステムだ』
「……命を燃やして、わたくしの月読に追いついたと」
蛍は軽蔑の眼差しで、咆哮を上げる怪物を見下ろした。技術の粋を集めた『月読』の静謐な加速とは対極にある、血と肉を代償にした汚らわしい加速。
「そんな醜い速さで、わたくしに勝てると思って!?」
蛍が天井を蹴った。空中から急降下し、怪物の頭上を取る。
「ただの肉塊が、調子に乗らないでくださいまし!」




