バレちゃったら仕方ない
『……『月読』、起動」
犬噛蛍の瞳が青白く輝いた。世界が凍りつく。音も、空気の流れさえも置き去りにする超音速の領域。その中で唯一、自由を許された蛍だけが動く。
彼女は優雅に、しかし疾風のごとき速度で五人のヌエ・ユニットの間を駆け抜けた。潜入任務のため、愛用の大槌『凄乃王』は置いてきている。だが、彼女にとって武器など己の四肢で十分だ。
一人目の顎を掌底で砕き、二人目の鳩尾に膝を叩き込む。三人目と四人目は同士討ちさせるように腕を絡め、最後の五人目の延髄に手刀を落とす。
「……解除」
蛍が指を鳴らすと同時に、時間は再び流れ出した。
ドサッ、ドサッ、ドサドサッ……!
一瞬前まで殺気を放っていた五人の異形たちが、糸の切れた人形のように一斉に崩れ落ちた。誰一人として、自分が倒されたことすら認識できていない。
「ふぅ……準備運動にもなりませんわね」
蛍は軽く息を吐き、乱れた制服の襟を直した。
『……生体反応確認。全員、気絶しているだけだ』
早苗の声が脳内に響く。
『殺さなかったのか? 珍しい』
(ええ。わたくしでも、生きたままサカイに持ち帰り、実験動物にする必要があると思えば手加減くらいしますわよ)
蛍は冷ややかに言い捨てると、ソファのヘンリエッタ・アーチボルトに向き直った。ヘンリエッタはワイングラスを持ったまま、微かに震えていた。だが、その表情は恐怖というよりは、未知のデータに対する興奮に彩られていた。
「素晴らしい……! これがサカイの最高傑作、犬噛蛍……! 私の可愛い傑作たちが、手も足も出ないなんて」
ヘンリエッタは、彼女の偽名である『西園寺蛍』ではなく、その真の名を高らかに呼んだ。
「あら? バレてしまいましたの?」
蛍は驚く様子もなく、むしろ面白がるように小首を傾げた。
「いつからお気づきでしたの?」
「最初からよ」
ヘンリエッタは事もなげに言った。
「このご時世、サイバーウェアを一切埋め込んでいない『完全な生身』の人間など、都市伝説の中にしか存在しないわ。ましてや、君のような異常な身体能力を持つ少女なら尚更ね。存在するとすれば……それは高度に偽装された『怪物』だけよ」
『……やはり、蛍主任に潜入任務の適正はなかったようですね』
脳内で早苗の呆れた声が響く。完璧な偽装IDとバックストーリーを用意したにも関わらず、蛍の暴力を隠そうともしない態度がすべてを台無しにしていたからだ。
「バレてしまったなら仕方ありませんわ。コソコソするのは性に合いませんし」
「えっ……? 犬噛……蛍……? 西園寺蛍様じゃなくて……?」
八尾だけが状況についていけず、目を白黒させている。
だが、彼女はすぐに「はっ!」と何かに気づいたように手を叩いた。
「名前なんて関係ないですぅ! 蛍様は蛍様! 強くてカッコいい、ヤオの憧れですっ!」
八尾は混乱しながらも瞬時に事実を受け入れ、さらに瞳をキラキラと輝かせた。その盲目的な肯定ぶりは、ある種の狂気すら感じさせた。
ヘンリエッタは立ち上がり、熱っぽい視線を蛍に向けた。
「気が変わったわ。君はそのまま素材にするには惜しい。どう? 改めて提案するわ。我々のバイオウェアを受け入れなさい。君の機械の体に、最強の生物の強靭さを加えれば……君は文字通り『最強の個体』になれる!」
ヘンリエッタの勧誘に、蛍は心底可笑しそうに鼻で笑った。
「最強? ……ナンセンスですわね」
蛍は自身の胸に手を当て、誇り高く宣言した。
「わたくしにとって『最強』とはゴールではなく、単なる過程に過ぎませんの。わたくしが求め、渇望するのは、ただ一つ……イサナ様からの寵愛のみ。そのためならば強さなど、当たり前の前提条件。最強などただの言葉遊びですわ」
その揺るぎない忠誠心と美学に、部屋の隅で縮こまっていたはずの隠神八尾が、瞳を輝かせて声を上げた。
「す、すごいっ……! 蛍様、かっこいいですぅ! ヤオも、蛍様みたいになりたいっ!」
ヤオは興奮気味に尻尾をブンブンと振っている。蛍はそんな八尾に、冷ややかな視線を向けた。
「……わたくしのようになりたい、ですって? ヤオ、あなたは随分と傲慢ですわね」
蛍はゆっくりと八尾に歩み寄った。
「犬噛蛍は、この世に一人いれば充分ですのに」
「えっ……? か、かっこいいから、つい……」
八尾は可愛らしく首を傾げた。蛍の言葉の意味が理解できない、無垢な少女のように。
蛍は八尾の目の前で立ち止まり、深いため息を一つ吐いた。
「はぁ……あなたのその性格、とても愛らしく思いますわ。願わくば……それが演技でないことを祈りたいですけれど」
「……え?」
八尾の動きが止まる。
「おかしいと思いませんこと? ヤオ」
蛍は畳み掛けるように疑念を――いや確信を突きつけた。
「いくらマスコット兼チアガールとはいえ、何のサイバーウェアの反応もないのは怪しすぎますわ。それに、自信がないと言いつつ初対面のわたくしに物怖じせず話しかけてきたり……極めつけは」
蛍は部屋を見渡した。
「ここまでのこのことついて来たことですわ。ここは選ばれた特待生しか入れない『プラチナ・クラス』……なのに、ヘンリエッタはわたくしだけでなくあなたも招き入れた。まるで、あなたがここに居て『当然』であるかのように」
それは、残酷なまでの答え合わせだった。八尾の表情から、少しずつ『か弱き少女』の仮面が剥がれ落ちていく。
「間違いなら言いなさい」
蛍は八尾の顔を覗き込み、決定的な一言を放った。
「あなた……わたくしが『月読』で加速した動きを、その目で追っていましたわよね?」
コンマ数秒の世界。加速した時の中で蛍は見ていたのだ。ヌエ・ユニットたちが凍りついている中、部屋の隅にいたこの少女の眼球だけが、高速で移動する蛍の姿を正確に追尾していたことを。
「…………」
八尾は数秒間、沈黙した。そして、俯いていた顔をゆっくりと上げた時、そこにあったのは怯えでも憧れでもなかった。
「……蛍様、さすがですぅ♡」
甘ったるい口調はそのままに、ヤオの全身から爆発的な殺気が膨れ上がった。
「バレちゃったら、仕方ないですねっ!」
ドォン!!
床を砕き、八尾が弾丸のように飛びかかった。蛍は即座に反応し、その突進を正面から受け止める。
ガシィッ!!
互いに互いの両肩を掴み合い、四つに組んだ体勢となる。
「くっ……!?」
蛍の表情が歪んだ。重い。そして、硬い。小柄な少女の細腕からは想像もできない、万力のような怪力が蛍の力と拮抗している。下手に動けば一瞬でねじ伏せられ、骨ごと砕かれるほどの圧力。
早苗の声が脳内に響く。
『蛍主任。ボクはてっきり、あなたが本気であの子をペットにするつもりじゃないかと、ヒヤヒヤしていましたよ』
(……ッ、舐めないで、くださいまし……!)
蛍は歯を食いしばり、八尾の圧力に耐えながら脳内で言い返した。
(わたくしの目は……節穴ではありませんわ……!)
目の前で、ヤオはニタニタと笑っている。サイバーウェアの駆動音は一切しない。だというのに、サカイの最新技術の結晶である蛍と互角、いや純粋なパワーではそれ以上に渡り合っている。
(……この感触。間違いありませんわ)
蛍は確信した。先ほどのヌエ・ユニットなど、ただの試作品。金属探知機にも、サーファーのスキャンにも引っかからない、完全なる生体兵器。
この隠神八尾こそが、ロマノフ・バイオダインが作り上げた『新型バイオウェア』そのものなのだ。
二人が膠着状態に陥ったその時、高みで見物していたヘンリエッタが高らかに手を叩いた。
「素晴らしい! さあ、ご覧なさい皆様!」
ヘンリエッタの周囲に、無数のホログラムパネルが出現した。そこに映し出されているのは、世界中の軍事企業、PMC、裏社会のフィクサーたちの顔。先ほど廊下で蛍を見ていたスカウトたちを含む、VIP中のVIPだ。
「これぞ世紀のデモンストレーション! サカイの誇る最新サイボーグ・犬噛蛍と、我がアカデミーの最高傑作・隠神八尾! 金属対 細胞! 二つのテクノロジーによる頂上決戦をとくとご覧あれ!」
ヘンリエッタの宣言と共に、部屋全体が闘技場のようにライトアップされる。
『……チッ』
早苗が舌打ちした。
『通信回線がロックされた……どうやら、誘き出されたのはボク達の方みたいですね』
蛍は八尾の顔の至近距離で、不敵に笑い返した。
「なるほど……わたくしを『当て馬』にして、この駄犬を売り込むつもりでしたのね……いい度胸ですわ」
蛍の瞳孔が、危険な赤色に発光する。
「ですが、後悔なさい……サカイの狂犬を噛ませ犬に選んだこと、地獄で懺悔させてあげますわ!」




