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 飼い犬の遊びにもならない

 ネオ・オリンピア英才育成機構の廊下は、瞬く間に熱狂の坩堝と化した。


 「転校生が特待生のバナンに喧嘩を売ったぞ!」


 その噂は瞬時に広まり、生徒やスカウトたちが雪崩れ込んできたのだ。しかし、彼らの目に宿っているのは、好勝負への期待ではない。

 無謀な小娘が、最強の怪物によって無惨に破壊される様を見物しようとする、嗜虐的な好奇心だった。


「……あらあら。随分とギャラリーが集まりましたわね」

 

 犬噛蛍は、周囲を取り囲む無数の視線を涼しい顔で見回した。


「大勢の前で恥をかいてしまいますわね、バナンさん?」


 対するバナンは、巨大な腕を誇示するように広げ、下卑た笑みを浮かべた。


「ハッ! 恥をかくのはどっちだ? こいつらはな、俺の専属ラウンドガールが二人同時に増える、歴史的瞬間に立ち会える幸運な群衆さ」


 その言葉に、隠神八尾が蒼白な顔で蛍の袖を引いた。犬耳がぺたりと垂れ下がっている。


「て、転校生さん……! お願いです、逃げてください……!」


 八尾は必死に訴えた。


「バナン君は、アカデミーの公式能力査定で『ダイヤモンド級』なんです! プロの世界でも頂点として活躍できる保証……このアカデミーにおける最上級の評価なんですよ!? 転校生さんがいくら強くても、バナン君には勝てません! お願い、棄権してください!」


 八尾の目には涙が溜まっていた。彼女は本気で蛍の身を案じているのだ。蛍はその様子を見て、ふっと優しく微笑むと、八尾の頭をポンと撫でた。


「八尾。わたくしがここで棄権したら、二人ともあの男のラウンドガールですのよ? それとも、あのゴリラの横でビキニを着たいのかしら?」

「そ、それは嫌ですけど……でも、死んじゃうよりは……」

「死になんてしませんわ」


 蛍はきっぱりと言い切った。


「それに、わたくしの名前は『転校生』ではありませんわ……蛍。これからはそう呼んでいただいて結構ですのよ?」

「け、蛍さん……」


 二人のやり取りに痺れを切らしたバナンが、拳をバチバチと鳴らした。


「おいコラ、お喋りは済んだか? 後悔してももう遅ぇぞ」


 バナンは嗜虐的な笑みを深め、蛍の華奢な腹部を睨みつけた。


「その生意気なツラ、苦痛で歪ませてやる。腹筋ボコボコにして、泣かしてやるよ!」


 その宣言を聞いた瞬間、蛍は可笑しくてたまらないといった風に、クスクスと笑い始めた。


「ふふっ、あははは! いいですわね、その意気込み」


 蛍はスッと表情を消し、冷徹な瞳でバナンを見据えた。


「その言葉、そっくりそのまま返してあげますわ」


 それが合図だった。


「死ねェッ!!」


 バナンが床を砕く勢いで踏み込み、突進した。

 彼が放ったのは、蛍の顔面を粉砕せんと繰り出された、渾身の右ストレートだった。

「腹筋ボコボコにしてやる」という宣言はフェイントだ。


 ドスッ。


 鈍い音が響いた。しかし、それは少女の顔面が砕ける音ではなかった。


「……なっ!?」


 バナンの目が驚愕に見開かれる。彼の巨大な拳は、蛍の小さな片手によって、完全に受け止められていた。いや、受け止められただけではない。蛍の細い指が、バナンの拳を万力のように握り込んでいた。


「ぐっ、離せ……ッ!?」


 バナンは腕を引こうとした。だが、びくともしない。彼の強化人工筋肉がフル出力で唸りを上げているのに、蛍の細腕はピクリとも動かないのだ。まるで、巨大な岩盤に腕を埋め込まれたかのように。


「はぁ……」


 蛍はわざとらしいほど深く、失望のため息を吐いた。


「『第二のジャック・ヒューベル』と聞いて、少しは期待してましたが……この程度ですの?」


 蛍がパッと手を離した。

 拘束から解放されたバナンは、たたらを踏んで後退し、距離を取ろうとした。

 だが、取れない。

 彼がバックステップで下がる速度と全く同じ速度で、蛍が詰めてきている。


 ドンッ。


 バナンの背中が壁に当たった。逃げ場がない。


 彼はその時初めて、自分が狩られる側の獲物であることに気づき、背筋に冷たいものが走った。


「あなたには、がっかりですわ」


 蛍は冷ややかに告げると、これ見よがしに右拳を大きく振りかぶった。素人でも分かる、大振りのテレフォンパンチ。だが、バナンの本能がそれを不可避だと直感する。


(ガードだ! 俺の腹部装甲は衝撃の70%をカットする! 耐えられる!)


 バナンは亀のように身体を縮め、腹部を両腕でガッチリとガードした。蛍の拳が振り下ろさられる。


「ごきげんよう」


 ドォォォォォン!!


 衝撃音が校舎を揺らした。バナンの鉄壁のガードごと、その腹部が深々と沈み込む。70%の衝撃吸収? そんなものは紙切れだ。蛍の拳から放たれた運動エネルギーは、装甲を、筋肉を、内臓を、衝撃波となって貫通した。


「ガ……ッ、ア……!?」


 バナンの口から、胃液と空気が混じったものが噴き出した。白目を剥き、巨体が崩れ落ちる。彼は膝をつき、両手で床を掻きむしりながら激しく嘔吐した。


「八尾。カウントをお願いしますわ」


 呆然としていた八尾が、ハッと我に返り、震える声でカウントを始めた。


「わ、わん、つー、すりー……」

「グッ……グゥゥゥ」

「……しっくす、せぶん、えいと!」

「ウ、グゥゥゥッ……!」


 バナンは脂汗を流しながら、なんとか立ち上がった。プライドだけで身体を支えている状態だ。


 蛍は腕を組み、冷たく言い放った。


「あら、立ち上がるだけなら、生まれたての子鹿でもできますわよ? ……さあ、ファイティングポーズをお取りなさい。まだ終わっていませんわ」

「クソ、が……ッ!」


 バナンが震える拳を構えようとした、その時。


「待てぇぇぇいッ!!」


 人混みを掻き分けて、スーツ姿の男が飛び出してきた。バナンのマネージャーだ。彼は手元のタブレットを見ながら、顔面蒼白で叫んだ。


「し、試合の邪魔すんなッ! 俺はまだ……!」

「違うんだバナン! データが出た! 今出たんだ!」


 マネージャーは震える指で蛍を指差した。


「この転校生の査定……お前と同じ、『ダイヤモンド級』だ!!」


 会場がどよめいた。あのか細い少女が、アカデミー最高評価だと? ほとんど生身なのに?

 しかし、蛍はその評価に不満げに眉をひそめた。


「……心外ですわね」


 彼女は冷徹な視線をマネージャーに向けた。


「新しい査定基準を設けるべきですわね。わたくしと、このゴリラが同じカテゴリーだなんて……耐えられませんわ」


 蛍はバナンを一瞥し、ふふんと鼻で笑った。


「いえ、訂正しますわ。ゴリラに失礼でした。ゴリラの方が、もっと強く、賢いですもの」


「テメェ……ッ!! 言わせておけばァァァッ!!」


 理性が焼き切れた。バナンは獣のような咆哮を上げ、マネージャーの制止も聞かずに突進した。技術も何もない、ただの殺意の暴走。

 蛍は一歩も動かず、その突進を正面から見据えた。


「やはり、ゴリラではありませんね」


 バナンの拳が蛍に届く直前、彼女は半歩だけ踏み込んだ。


「パワーのないサイですわ!」


ズドンッ!!


 蛍のカウンターが、バナンの鳩尾に突き刺さる。先ほどの一撃とは比較にならない、芯を食った一撃。バナンの巨体は「く」の字に折れ曲がり、砲弾のように後方へと吹き飛んだ。


「ぐべぇッ!?」

「どわァッ!?」


 吹き飛んだバナンは、後ろにいたマネージャーを巻き込み、壁に激突してようやく止まった。二人まとめて白目を剥き、ピクリとも動かない。完全KO。


 静寂が廊下を支配した。誰も言葉を発せない中、蛍はパンパンと手を払い、乱れた制服の裾を直した。

そして、呆然と立ち尽くす八尾の方を向き、ニッコリと、花が咲くような笑顔を向けた。

「どうでしょう、八尾?  ……わたくしの勝利に、華を添えていただきませんこと?」


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