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隠神

 現在のスポーツ界は、かつてない分断と熱狂の中にあった。生身の肉体のみで競う『ナチュナル・リーグ』と、サイバーウェアによる強化を無制限とする『エンハンスド・リーグ』。大衆が熱狂し、莫大な金が動くのは圧倒的に後者だった。


 人間を超越した速度、破壊力、そして派手な視覚効果。人々はスポーツに『感動』ではなく『衝撃』を求めていたのだ。

 そんな狂った時代の象徴とも言える場所、ネオ・オリンピア英才育成機構の廊下を、犬噛蛍が歩く。


「おい、見ろよあの転校生! スキャン結果が出たぞ!」

「マジかよ……ほとんど生身じゃねぇか! あの見た目でだと!」

「ありゃあ凄い。ぜひ愛人に……いや、ぜひチアガールに! すぐにでもトップを取れる逸材だ!」


 壁際に並んだテレイグジスタンス・ロボットのスカウトたちが、蛍の姿を見るなり蜂の巣をつついたような騒ぎになった。彼女の華奢で愛らしい容姿と、ほとんど生身という情報。刺激に飢えたスカウトたちにとって極上の蜜の味だった。彼らはマイクのゲインを上げ、蛍に向かって契約金や待遇を叫び立てる。


「……やかましいハエどもですわね」


 蛍は柳眉を逆立て、彼らを無視して歩を進めた。彼女の目的は、スポーツ界のスターになることでも、この歪んだ青春ごっこを満喫することでもない。この施設のどこかに隠された、ロマノフの新型バイオウェアを奪取すること。それだけだ。

 蛍はさりげなく周囲を見回した。


(……警備は厳重ですわね。角ごとにガードマン、死角になりそうな場所はほとんどありませんわ)


『……カメラだ』


 脳内に鷹空早苗の声が響く。


『このエリアだけで、確認できる監視カメラは9基。死角を消すように配置されている。物理的な潜入は困難だ』

「あら、弱気ですわね。サーファーも常駐しているはずですわよ? 見つからずに突破できますの?」


 蛍の問いに、早苗は鼻で笑うような気配を伝えてきた。


『愚問だ。カメラが多いということは、それだけ『侵入経路ジャック・ポイント』が多いということだ……ボクを誰だと思っている』


 瞬間、蛍の視界の端に青いインジケーターが走り、9つの『接続完了』サインが灯った。

『制圧完了……所要時間0.5秒。敵のサーファーは、自分のカメラが乗っ取られたことにすら気づいていない』

「相変わらず、可愛げのない手際ですわね」

『効率的なだけだ……視界を共有する』


 蛍の網膜に、新たなウィンドウが展開される。


 それは、天井付近にある9基の監視カメラからの映像を統合し、リアルタイムで生成された俯瞰マップだった。上空からの『神の視点』。廊下を歩く生徒たち、巡回する警備員のルート、そして壁の向こうの熱源までもが、赤と青のワイヤーフレームで可視化されていく。


『スキャン開始……生徒、職員、警備員……全員のインプラント情報を解析』


 早苗の冷徹な処理能力が、施設内の人間を丸裸にしていく。チタン骨格の等級、人工筋肉の出力、神経加速器の型番。ありとあらゆるデータが滝のように流れ落ちる。

しかし、数秒後。早苗の声にわずかな苛立ちが混じった。


『……該当なし』

「なし、ですって?」

『文字通りだ。このエリアにいる全員をスキャンしたが、ターゲットとおぼしき『新型バイオウェア』の反応は検出されない……妙だ。情報では、ここの特待生に移植されているはずだが』


 早苗のハッキング能力に疑いの余地はない。彼女が見つけられないということは、電子的なデータとして「見えていない」ということだ。


 蛍は足を止め、廊下を行き交う改造された子供たちを見つめた。そして、ふと気づいたように口元を歪めた。


「……早苗。あなたの目は『機械』を見るのには長けていますが、『生物』を見るのは苦手なようですわね」

『何が言いたい』

「バイオウェアとは、即ち生体組織ですわ。もしその新型が、あまりにも精巧に人体を模倣し、機械的な信号を一切発しない『完全な臓器』として機能していたとしたら?」


 蛍は自身の腕――見た目は生身だが、中身は機械の塊である腕をさすった。


「あなたのスキャンやハックは、回路と電気信号には無敵でしょうね。ですが、純粋なタンパク質と細胞の塊に対しては、ただの肉としてしか認識できない可能性がありますわ」

『……なるほど。木を森の中に隠すように、生体兵器を人体の中に同化させているということか……ハッキングによる検知は不可能というわけだ』

 早苗が悔しそうに認める。電子の魔術師である彼女にとって、ハックできない対象というのは存在しないも同然の幽霊だ。


「ええ。つまり……ここから先はわたくしの出番ということですわ」


 蛍はニヤリと笑い、制服のスカートを翻して歩き出した。


「機械の目で見えないのなら、直接触れて、確かめるしかありませんもの……任せなさいな。この蛍の『鼻』は、獲物の匂いを逃しはしませんわ」


 電子の網をすり抜ける有機的な謎。それを暴くのは、最新鋭のシステムではなく、野性の勘と暴力的なまでの行動力を持つ『狂犬』の役目だった。



 *





 無機質で清潔すぎる廊下を、犬噛蛍は鋭い観察眼を持って歩いていた。すれ違う生徒たちの身体的特徴、歩き方の癖、筋肉の付き方。そのすべてをスキャンし、隠された違和感を探る。だが、早苗の報告通り、決定的な「何か」は見つからない。


「……ふぅ。退屈ですわね。もっとこう、分かりやすく怪しい影でもあればよろしいのに」


 蛍が小さく溜息をついた、その時だった。


「あ、あのっ……! 転校生さん!」


 背後から、鈴を振るような可愛らしい声がかけられた。蛍が振り返ると、そこには奇妙で、そして愛らしい少女が立っていた。


 身長は蛍と同じくらいだろうか。小柄で、どこか儚げな印象を与える少女だ。特徴的なのは、艶やかな黒髪のロングヘア。前髪が長く、片目を完全に覆い隠している。そして何より目を引くのは、頭頂部からピョコピョコと生えている犬の耳と、スカートの裾から揺れているふさふさの尻尾だ。ファッションとしてのバイオウェアか、それとも遺伝子調整の結果か。


「……あら? あなたは?」

「ヤ、ヤオ……隠神八尾いぬがみ やおって言います……」


 少女――八尾は、モジモジと指先を合わせながら、上目遣いで蛍を見つめた。


「その……転校生さん、すごいです。さっき、スカウトの人たちに囲まれても全然動じてなくて……それに、とっても強そうで、綺麗で……」


八尾の瞳が、憧れの色で輝いていた。


「ヤオ、スポーツ団体のマスコット兼チアガールとして、近々売り出される予定なんですけど……自信がなくて。だから、転校生さんのその堂々とした姿、すごく羨ましいなって……」


 自分と同じくらいの背丈でありながら、自分にはない圧倒的な『強者のオーラ』を纏う蛍。八尾にとって、それは眩しい太陽のように見えたのだ。


 蛍は八尾をじっくりと観察した。


(……黒髪、片目隠れ、小柄、そして犬耳……。ふむ、悪くありませんわ。いえ、むしろ……)

「合格ですわ」


 蛍はニッコリと微笑んだ。


「え?」

「あなた、見所がありますわよ。その儚げな雰囲気、わたくしの隣に置くのに丁度よろしいですわ」


 蛍は八尾の手を取り、グイッと引き寄せた。「もし、どこにも引き取り手がなくて困っているのなら、わたくし専属のチアガールにして差し上げてもよくってよ? わたくしの姿を、一番近くで応援する権利をあげますわ」

「え、ええっ!? せ、専属……!?」


 八尾は顔を真っ赤にして慌てふためいたが、その表情は満更でもなさそうだ。


「す、すごいです……。ヤオも、それくらい自分に誇りを持てたら……」


 二人がそんな会話を交わしていると、ドシドシと床を揺らすような重い足音が近づいてきた。巨大な影が、蛍と八尾の上に落ちる。


「おいおい、勝手なこと抜かしてんじゃねえぞ、新入り」


 現れたのは、熊のような巨躯を持つ男子生徒だった。制服の袖が筋肉ではち切れんばかりに膨れ上がり、首には太い金鎖。その全身からは、隠しきれない傲慢さと暴力の匂いが漂っている。


 男は八尾の肩に無遠慮に腕を回し、ニヤリと笑った。


「この八尾はなぁ、俺様がプロ入りした暁には、専属のラウンドガールになる予定なんだよ。俺の勝利のトロフィーみたいなもんだ。手ぇ出すんじゃねえ」

「ひっ……バ、バナンくん……」


 八尾が怯えて身を縮こまらせる。


 蛍は男の腕を不快そうに見つめ、冷ややかに言い放った。


「……なんですの、あなた。馴れ馴れしいですわね」

『……データ照合完了』


 脳内に早苗の冷静な声が響く。


『男の名はバナン。このアカデミーの特待生だ。フルボーグ級ボクシングを3回制した伝説の王者『ジャック・ヒューベル』の再来との呼び声も高い。近接戦闘能力は極めて高いと推測される』

(ふーん。ゴリラの真似事がお上手なようですわね)


 蛍は興味なさそうに鼻を鳴らし、バナンを睨み上げた。


「お言葉ですが、八尾はわたくしのチアガールになる予定ですのよ。あなたのような暑苦しい男の横では、彼女の可憐さが枯れてしまいますわ」

「ああん? なんだとコラ……」


 バナンは額に青筋を浮かべたが、すぐに蛍の全身を舐めるように見回し、下卑た笑みを浮かべた。


「へっ、よく見りゃお前も上玉じゃねえか。気が強そうな顔しやがって……ゾクゾクするぜ」


 バナンは蛍に向かって顎をしゃくった。


 「いいぜ、許してやるよ。……お前も、俺のラウンドガールになるってんならな。その生意気な口を塞いで、俺のリングサイドで愛想振りまいてりゃあ、可愛がってやるよ」

「……お断りしますわ」


 蛍はきっぱりと言い放った。


「わたくし、弱い殿方にそのような格好を見せるつもりはありませんの」


ピキッ。

バナンの笑顔が凍りついた。彼は努めて穏やかな、しかし殺気を孕んだ声で問い返した。


「……あ? 今なんて言った? 弱いって……俺のことか?」

「ええ。聞こえませんでしたの?」

 

 蛍はバナンの胸板をツンと指先で突いた。


「頭も弱い方とは思いましたけれど、耳まで遠いとは……これではギャングのボディガードにもなれませんわよ? お可哀想に」

『……蛍主任。挑発が過ぎる』


 早苗が警告を発した。


『無用なトラブルは任務の支障になる。隠密に行動すべきだ』


(いいえ、早苗。逆ですわ)


 蛍は脳内で反論した。


(ターゲットが巧妙に隠されている以上、コソコソ探していても見つかりませんわ。ならば、こちらから目立つしかありませんの。わたくしが圧倒的な力を見せつければ、必ず『本物』が反応するはずですわ)

「……テメェ……!」


 バナンの堪忍袋の緒が切れた。彼の腕の人工筋肉が唸りを上げ、血管が浮き出る。


 「転校初日にその態度……教育が必要だなァ。調教してやるよ、スパーリングでな!」

「スパーリング?  望むところですわ」


 蛍は不敵に微笑んだ。


「ただし、わたくしは素手で戦いますわ。ハンディキャップですの……あなたは、何を使ってもよろしくてよ? グローブでも、メリケンサックでも、隠し持っているナイフでも」

「舐めやがって……! 後悔させてやる!」


 バナンは怒りで顔を真っ赤にしながら吠えた。


「いいか! 俺が勝ったら、八尾だけじゃねえ! テメェも俺の専属ラウンドガールだ! 毎試合、ビキニ着て俺の横でニコニコ笑うんだよ!」

「ええ、構いませんわよ」


 蛍は涼しい顔で受け入れた。


「もしあなたが勝てるなら、メイドさんでもバニーガールでも、なんでも着て差し上げますわ……一生叶わぬ夢でしょうけれど」

「言ったな!?その約束、忘れんじゃねえぞ!」


 バナンは捨て台詞を吐き、準備のためにその場を離れようとした。

「あら? どこへ行きますの?」


 蛍の声が呼び止める。


「あ? リングの準備と、装備の調整に決まってんだろ」

「必要ありませんわ」


 蛍は優雅に上着を脱ぎ捨て、バナンの前に立ちはだかった。


「本日ただ今、この場所でやりますわよ」

「はぁ!?」


 バナンが目を丸くする。

 蛍は挑発的な笑みを深めた。


 「それとも、昔のポンコツボクサーのように、相手に合わせて何日も調整が必要なのかしら……『第二のジャック・ヒューベル』様ともあろうお方が?」

「……ッ!! 上等だオラァッ!!」


 バナンは叫び、床に荷物を叩きつけた。


「今すぐブチのめしてやる! ここがテメェの処刑台だ!」


 廊下の空気が一変し、生徒たちが遠巻きに集まり始める。


「て、転校生さん……! ダメです、バナンくんは本当に強いんです……!」


 八尾が青ざめた顔で蛍の袖を引いた。


「ヤオのために、そんな……!」


 蛍は八尾の方を向き、安心させるように、しかし絶対的な自信を持って微笑んだ。


「心配いりませんわ、八尾」


 蛍はバナンを一瞥し、宣告した。


「あのような駄犬、躾けるのに3分もかかりませんもの。……あなたはもう、わたくしのチアガールになったも同然ですわ」


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