狂犬・ドージョー破り
アサクサの地下深く。かつて地下鉄が走っていた暗い空洞に、どす黒い熱気と、鉄錆の臭いが充満していた。
荒魂組が管理する非合法の修練場、『荒行殿』。
ひび割れたコンクリートの壁には、スプレーで描かれた般若のグラフィティ。床には、衝撃吸収と防汚機能を備えた『黒いポリマー畳』が敷き詰められている。黒いのは、飛び散った血やオイルのシミを目立たなくするためだが、それでも所々に赤錆色の痕跡がこびりついている。
「オラァッ! 腰が入ってないぞ!」
「ギ、ギャアアアッ!」
師範代・鉄山の怒号と共に、鈍い破砕音が響いた。
黒いポリマー畳の上で、若い構成員が腕を逆方向にねじ曲げられのたうち回る。周囲を取り囲む荒魂組の男たちは、その光景を見ても眉一つ動かさない。彼らにとって、肉体の損壊など日常茶飯事であり、サイバーウェアの交換時期が早まった程度の認識でしかないのだ。
「ごきげんよう、むさ苦しい殿方の皆様」
重厚な防護扉が、まるで紙細工のように蹴り開けられる。土煙の中から現れたのは、この血と脂に塗れた地下道にはあまりにも不釣り合いな、鮮烈な「赤」「白」のコントラストだった。
先頭に立つのは、真紅のライダースジャケットを纏った少女。艶やかな赤長髪。そして、見る者を射抜くような紫水晶の瞳。
境インダストリアル特殊資産管理部所属、犬噛蛍である。
そして、その斜め後ろに影のように寄り添う、もう一人の人影。
身長185cmの長身を、純白のコートドレスで包んだ美女。
顔の下半分を装飾的なガスマスクで覆い、紫色の瞳だけが周囲を冷ややかに観察している。
同じく特殊資産管理部所属、蛇森水母である。
「……臭いますね。古びたオイルと、手入れのされていない安物の鉄屑の臭い。蛍様の肺が汚れてしまったらと思うと」
水母はわざとらしく手で空気を仰ぎ、マスク越しにくぐもった声で侮蔑の言葉を吐いた。
「あら、ここは動物園の檻の中みたいなものですわ。獣臭いのは当然でしょう?」
蛍は、その華奢な体に似合わない巨大なハンマー『凄乃王』を、今日は持っていなかった。手ぶらで、まるで自分の庭を散歩するかのように、悠然と道場の中へと足を踏み入れる。
稽古を止めた組員たちが、一斉に二人を睨みつけた。
ざわめく男たちの中で、師範代の鉄山だけが、その義眼を危険色に発光させていた。彼は上裸の鋼鉄の肉体を軋ませ、一歩前へ出る。
「『狂犬』か……何の用だ。ここは我ら荒魂組の聖域。いくらサカイの飼い犬とはいえ、土足で踏み込んでいい場所ではないぞ」
鉄山の低い声が、地下空間の空気を震わせる。
だが、蛍は鈴を転がすような声で笑った。
「あら、ご挨拶ですわね。わたくし、今日はお腹いっぱい食べて満腹ですの。ですから……」
彼女は小首をかしげ、愛らしい童顔に、捕食者の残忍な笑みを張り付かせた。
「少し、運動をしに来ましたの。サンドバッグをお借りしてもよろしくて?」
その言葉の意味を理解した瞬間、道場内の空気が凍りつき、即座に沸騰した。
侮辱だ。プライドだけで生きている彼ら荒魂組にとって、これ以上の挑発はない。
「ナメやがって……! 女だからって容赦しねえぞ!」
「細切れにして東京湾に沈めてやる!」
怒号と共に、数人の男たちが前に出る。
全身をサイボーグ化した巨漢たちだ。彼らの腕には、建設重機並みの出力を誇る『磐座』グレードの金剛腕が装着されている。
殺気立った男たちが迫る中、水母が一歩前に出ようとした。
彼女の白衣の下から、シュウウウ……と不穏なガスの噴出音が漏れる。
「……蛍様。こんな不衛生な猿たちに触れてはなりません。私が処理します。致死性の神経毒なら、痛みを感じる暇もなく溶かせられますが?」
水母の瞳には、愛する主人の敵に対する、底知れない殺意と嗜虐心が渦巻いている。
しかし、蛍は片手でそれを制した。
「いいえ、水母。下がっていなさい」
「しかし……」
「『待て』ですわ」
その一言で、水母の動きがピタリと止まる。
彼女は恍惚とした表情で頬を染め、一歩下がって恭しく頭を下げた。
「……はい。仰せのままに、蛍様」
蛍は満足げに頷くと、襲いかかる男たちに向き直った。
彼女は退屈そうにあくびを噛み殺し――そして、宣言した。
「あなた達ごときに、わたくしの可愛い『おもちゃ』を使うのはもったいないですもの」
蛍は右腕を掲げた。
『カグツチ』の熱量も、『月読』の加速も、『天照』の閃光もない。
ただの、白く華奢な少女の掌。
「今日は素手で遊んで差し上げますわ」
ドゴォッ!!
衝撃音が炸裂した。
先頭の男が振り下ろした『磐座』アームが、蛍の掌によって真正面から受け止められていた。
微動だにしない。
体重差100キロ以上、出力差数倍はあるはずの激突にも関わらず、蛍は一ミリも後退していなかった。
「な、んだと……!? 俺のフルパワーだぞ!?」
「あら、今のハエが止まるような動作がフルパワーですの? サカイの製品カタログに泥を塗るような出力ですわね」
蛍は冷たく言い放つと、握りしめた男の拳を、そのまま握力だけで圧壊させた。
メキメキメキッ……!
「ぎ、ぎゃああああッ!?」
超硬質合金の装甲が、アルミ缶のようにひしゃげていく。
男の悲鳴など意に介さず、蛍はその潰れた拳を掴んだまま、コマのように回転した。
「さようなら」
ブンッ!
彼女の細腕が閃く。
巨漢のサイボーグが、ボロ雑巾のように宙を舞った。男は弾丸となって後続の仲間たちに突っ込み、ボウリングのピンのように彼らを弾き飛ばした。
ズガガガガッ!
壁に激突し、折り重なって倒れる男たち。
土煙が晴れると、そこには悠然と立つ蛍の姿があった。
突如背後から迫る刃を、彼女は振り向きもせずに裏拳で迎撃した。
バキィッ!
強化プラスチック製の刀身が砕け散り、男の顔面が陥没する。過剰駆動『戦鬼』の奇襲であっても、蛍からすれば相手にもならないのだ。
「あぁ……素晴らしい……」
後方で控えていた水母が、熱っぽい吐息を漏らす。
彼女は自分の体を抱きしめるようにして、蛍の圧倒的な暴力に見惚れていた。
「策略や技術なんて必要ない。絶対的な『力』……なんてお美しいのでしょう、蛍様」
水母の歪んだ賛辞を背に受けながら、蛍は汚れをパンパンと払った。
「さて、次はどなたですの? わたくし、まだ準備運動も終わっておりませんわ」
彼女は挑発的に手招きをした。
「バ、バカな……『過剰駆動』も使わずに……」
「あの腕力、金剛腕の最上位モデルか!?」
動揺する組員たちを押し退け、師範代の鉄山が進み出る。
その背中から、無数の排熱ダクトが展開し、白い蒸気が噴き出した。
「退がっていろ、雑魚ども……私がお相手をする」
鉄山が腰を落とし、独特の構えを取る。
『荒神流』喧嘩殺法。
彼の両腕には、高周波振動ブレードが仕込まれた鉄扇が握られていた。
「サカイの最高傑作、その性能……私の骨の髄まで使って試させていただく!」
「ええ、構いませんわよ。おじい様」
蛍はニッコリと笑う。だがその瞳孔は、針のように細く収縮していた。
「ただし、壊れても保証はいたしませんけど」
鉄山の姿がブレた。
過剰駆動オーバードライブ『迅雷』起動。常人はおろか軍用サイバーアイでも捉えられない超高速の踏み込み。
瞬きする間に蛍の懐に潜り込み、高周波ブレードが彼女の首を狙って下から斬り上げられる。
キィィィン!
金属音。
だが、首は落ちていない。
蛍は、鉄山の鉄扇を人差し指と親指だけでつまんでいた。
「遅い」
一言。
蛍にとって、鉄山の加速でさえスローモーションに過ぎない。
彼女の神経系は、常時『阿修羅』クラスの反応速度を維持している。反応するだけなら『月読』を起動するまでもないのだ。
「なッ……!?」
鉄山が驚愕に目を見開く。
その隙を、狂犬が見逃すはずがない。
「おやすみなさい」
蛍の左足が、鞭のようにしなった。
美しいハイキックが、鉄山の側頭部を捉える。
ガァァァァンッ!!
鐘を突いたような轟音。
鉄山の2メートルを超える鋼鉄の巨体が、真横に吹き飛んだ。
道場の太いコンクリート柱に激突し、柱を「く」の字にへし折って、ようやく彼は止まった。
「が、は……ッ」
鉄山が口から黒いオイルを吐き出し、膝をつく。
頭部のセンサーが割れ、火花が散っている。一撃で脳震盪、あるいはシステムエラーを起こしたのだ。
静寂が、道場を支配した。
数十人の荒くれ者たちが、たった一人の少女に手も足も出ずに圧倒されたのだ。
「蛍様の御御足に蹴られたことを光栄に思いなさい、粗大ゴミ」
水母が倒れた男たちを見下す。
蛍は、鉄山の前までゆっくりと歩み寄ると、しゃがみ込んでその顔を覗き込んだ。
「……あらあら。もうおしまいですか? 少しは楽しませてくれると思いましたのに」
彼女は失望したように溜息をつき、鉄山の頬をペチペチと叩いた。
「これでは、食後の運動にもなりませんわ……次からは、もう少し頑丈なサンドバッグを用意しておいてくださいな」
蛍は立ち上がると、呆然とする組員たちには目もくれず、出口へと踵を返した。
その背中には、一切の傷も乱れもない。
「行きましょう、水母。ここは埃っぽくて喉が渇きましたわ」
「はい、蛍様。お車の冷房を効かせておきますね……ああ、今日の蛍様も最高でした」
水母はうっとりとした様子で蛍の後ろをついていく。
「では、ごきげんよう」
お嬢様然とした挨拶を残し、彼女たちは暗闇の中へと消えていく。
残されたのは、呻き声と、破壊された鉄屑の山。
そして、「本物の怪物」を見てしまったという、拭い去れない恐怖だけだった。




