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 飼い犬と鷹の腹の虫

 「ごちそうさまでした」


 犬噛明は、早苗が一口しか齧れなかった合成タンパク質(不味くて安い代替食料)の塊を、何の躊躇いもなく平らげると、空になった串をプラスチックのトレーにコトリと置いた。彼女の艶やかな唇が、ナプキンで優雅に拭われる。


 その一連の動作を、鷹空早苗は瞬きさえ忘れて凝視していた。


(……食べた。明部長が、ボクの食べかけを)


 早苗の脳内CPUは、かつてないほどの処理落ちを起こしていた。あの串には、間違いなくボクの唾液が付着していたはずだ。それを、明部長は自身の唇で……論理回路が弾き出した結論は、たった一つの単語。


 『間接キス』。


 その四文字が、早苗の視界いっぱいに赤い警告色で点滅していた。オガクズのような味など、もはやどうでもよかった。今、彼女の口の中に残っているのは、幻の甘美な味だけだ。


「……ふふ、懐かしい味でした。さて、次はどこへ行きましょうか?」


 明が席を立ち、早苗に声をかけた。だが、早苗からの返事はない。彼女は座ったまま、頬を桜色に染め、どこか遠い目をして宙を見つめていた。その頭の周りには、目に見えない「ぽわぽわ」としたピンク色の効果音が漂っているかのようだ。


「……早苗?」


 明が顔を覗き込む。早苗の思考は、雲の上を漂っていた。


(……明部長の唇……柔らかそうだった……ボクの串……共有……融合……)

「早苗? やっぱりまだお腹が空いていて、動けないのかしら?」

「へっ……?」


 耳元で囁かれた明の心配そうな声で、早苗の意識は強制的に現実へと引き戻された。


「あ、い、いえっ! 滅相もございません!」


 早苗はバネ仕掛けの人形のように立ち上がった。


「お、お腹など……いっぱいです! 先ほどの一口で、十分すぎるほどのカロリーと……そ、その、幸福を摂取いたしましたので! 満腹です! タンク容量120%です!」


 彼女は必死に取り繕った。これ以上、明に気を使わせるわけにはいかない。それに、あんな不味いものを(しかも明部長が食べた後に)これ以上ねだるなど、あってはならないことだ。


「そうですか? でも、あの量では小鳥の餌にもなりませんよ?」

「問題ありません。ボクは燃費が良いのです。空腹など、精神力で制御可能で……」


早苗が、キリッとした表情で言い切ろうとした、その時だった。


 グゥゥゥ~~~~……キュルルッ……。


 彼女の腹部から、なんとも情けない、しかし生命力に溢れた音が盛大に鳴り響いた。ミナト・ヒルズの喧騒の中でもはっきりと聞こえるほどの、可愛らしくも恥ずかしい主張。


「…………」


 時が止まった。早苗のポーカーフェイスが崩壊する。顔から火が出るというのは、こういうことを言うのだろう。彼女の耳までが真っ赤に染まり、クールビューティーの仮面は粉々に砕け散った。


(……裏切り者。ボクの胃袋め、なぜこのタイミングで……!)


 明は目を丸くし、それから口元を手で覆って、肩を震わせた。

「ふっ……くすくす……」

「あ、あう……ち、違います、これは……消化器官のエラーで……」

「やっぱり、お腹空いているんじゃありませんか」


 明は愛おしそうに目を細めると、真っ赤になって俯く早苗の手を取った。


「嘘をつかなくていいのですよ。……可愛いお腹の虫が、正直に教えてくれましたからね」

「うぅ……申し訳……ありません……」


 早苗は蚊の鳴くような声で詫びた。穴があったら入りたい。いや、光学迷彩で今すぐ消えたい。


「謝ることではありません。成長期の娘がお腹を空かせるのは健全なことです」


 明は早苗の手を引いて歩き出した。


「さあ、行きましょう。懐かしい味もいいですが……やはり、次は『ちゃんとした』美味しいものを食べに行きましょうか。私の可愛い早苗のお腹を満たすためにね」

「……はい、明部長」


 早苗は明に手を引かれながら、トボトボと、しかし内心では幸福感に満たされながらついていった。空腹の恥ずかしさと、繋がれた手の温かさ。今日のシミュレーションは既に崩壊していたが、予測不能なこの展開こそが、何よりも代えがたい「ご褒美」なのかもしれないと、早苗は思った。






 一方その頃。しっとりとした大人のデートを楽しんでいる明と早苗とは対照的に、犬噛蛍の休日は、嵐のようなエネルギーと食欲に支配されていた。


 場所はアサクサ・食倒街。屋台から高級レストランまでがひしめくこのエリアを、蛍はまさに台風の目のように練り歩いていた。

「水母! 次はあそこの『極上合成マグロ丼』ですわ! 特盛で頼みますわよ!」

「はい、蛍様。直ちに確保します」


 二人が足を止めたのは、電磁回転寿司屋『回天(カイテン)』。

 リニアモーターカーの技術を転用した回転寿司であり、そこにはレーンすら存在しない。寿司皿が『磁気浮上』し、店内の空中軌道をジェットコースターのように高速で飛び回っているのだ。

 本来、客は手元のタッチパネルで皿を『ロックオン』し、目の前に強制着陸させて食べるシステムなのだが――。


 「間に合いませんわ! サーモン! えんがわ! 大トロ!」


 蛍の注文スピードに、システムの挙動が追いつかない。

 水母は無言でタッチパネルを破壊しそうな勢いで連打していたが、それでも蛍のブラックホールのような胃袋を満たすには遅すぎた。


 「……失礼」


 業を煮やした水母が席を立った。

 彼女は超人的な動体視力を見開き、空を飛び交う寿司皿の軌道を予測すると、シュバババッ! と目にも止まらぬ速さで空中の皿を直接鷲掴みにした。


 「んぐっ、もぐもぐ……! いい手際ですわ水母! 次はウニですわよ!」


 物理的に撃墜された寿司が次々と蛍の前に積み上げられていく。


「あら、向こうの屋台からいい匂いが……『絡繰カラクリラーメン』? いいですわね、それも追加で!」

「了解しました。列に割り込んででも購入します」


 そこは、6本の腕を持つ阿修羅のようなロボットが切り盛りするラーメン屋台だった。

 

 『イラッシャイ。ナニニシマスカ?』


 無機質な音声と共に、6本の腕が残像が見える速度で麺を湯切りし、丼を差し出してくる。

 出されたスープは、ドス黒い漆黒の液体だった。

 配給食料の「甘露」をベースに、致死量寸前の化学調味料と、軍用覚醒剤レベルのカフェインを限界まで添加した『特製ブラック・オイル・スープ』。一杯食べれば3日は眠らなくても戦えると言われている、ネオ・トーキョーの労働者ワーカーたちのガソリンだ。


 「ズズッ……ふぅ、パンチが効いてますわね。おかわり!」

 『ナニニシマスカ?』


 蛍はそれをスープまで一滴残らず飲み干し、即座に空の丼を突き出した。


 「チャーシュー増しで!」

 『ヘイ。ナニニシマスカ?』

 「全部乗せ!」

 『ナニニシマスカ?』


 蛍の吸引力は止まらない。

 ロボットはプログラム通りに注文をさばこうとするが、供給が消費に追いつかず、次第にスープタンクと具材ボックスが空になっていく。


 「替え玉!」

 『ナニニ……シマ……ザイリョウガ……』


 プスン、と黒い煙を吐き、店主ロボットの動きが停止する。在庫切れによる強制シャットダウンだ。蛍は屋台一台分の食材を、文字通り食い尽くしてしまったのだ。


 蛍の健啖ぶりは、常軌を逸していた。彼女の小柄で華奢な身体のどこに、それほどの許容量があるのか。

 彼女はその後も、息つく暇もなく店を梯子はしごしていった。

 ジャンボ焼き鳥、クローン恐竜の唐揚げ、虹色綿菓子……次々と運ばれてくる料理を、リスのように頬をいっぱいに膨らませながら、それでも決して品性を損なわない優雅な所作で、ブラックホールのような胃袋へと吸い込んでいく。


「ふぅ……美味でしたわ」


 蛍は空になった丼を積み上げ、満足げにナプキンで口元を拭った。そのテーブルには、成人男性三十人分はあろうかという食事の残骸が散乱している。


 横で給仕兼荷物持ちをしていた蛇森水母は、主人の食事風景をうっとりと眺めていた。


(……ああ、蛍様。あんなに小さな口で、一生懸命もぐもぐと……なんて愛らしい……自分がその食材になって咀嚼されたい……)

「……何を見ていますの、水母」


 視線に気づいた蛍が、少しバツが悪そうに咳払いをした。


「誤解しないでくださいまし? わたくしは普段、小食で清楚な大人の女性ですのよ? ただ今日は、その……特別にお腹が空いているだけですわ」


 蛍はほんのりと頬を染め、言い訳のように早口でまくし立てた。


「そう、わたくしは今……『成長期』ですの! 身体が大きくなろうとして、栄養を求めているのですわ。これは不可抗力、生物としての義務ですのよ!」

「……はい、承知しております。蛍様の発育は、何よりも優先されるべき重要事項ですので」


 水母は真顔で頷いた。


 蛍は普段、「わたくしは完成されたレディですわ」と公言して憚らない。だが、水母は知っている。蛍がサカイ・アカデミーの初等部に在籍していた頃、その類稀なる才能と容姿をイサナ・サカイに見出され、そのまま特殊資産として引き抜かれたという経緯を。つまり、彼女の実年齢はその幼い外見と完全に一致している。十代半ば、正真正銘の『成長期』なのだ。


 もちろん、水母がそれを口にすることはない。背伸びをして大人の振る舞いをしようとしつつ、食欲という本能には勝てない主人の「隙」こそが、水母にとっては至上なのだから。


「ふぅー……満腹、満足ですわ!」


 蛍はポンと平らな腹部を軽く叩くと、艶然と微笑んだ。


「さて、水母。たっぷりと栄養を補給した後は……何が必要か、分かりますわね?」

「……お昼寝、でしょうか?」

「違いますわ!『食後の運動』です!」


 蛍は立ち上がり、待たせてあった『天羽々斬』へと向かった。


「車を出しなさい。行き先は…… 旧地下鉄浅草駅ですわ」


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