デートの味はオガクズ
ネオ・トーキョーにおける、企業戦士たちのためのかりそめの楽園、ミナト・ヒルズ。
この地区には、酸性雨の汚れもスラム特有の異臭もない。強力な空気清浄フィールドが展開され、常に『ラベンダーと電子機器の香り』が漂っている。路面は清掃ドローンによって磨き上げられ、ゴミ一つ落ちていない。
自動タレットで浮浪者を排除し、スラムへ投棄していくことでこの景観を維持していた。
巨大企業の摩天楼が空を覆い隠すこの場所は、金さえ払えば安全と快楽が保証される『ストレスの換金所』だ。
ここを歩く人々は、全員が何らかの企業の社員証を誇らしげにつけている。最新の防弾スーツを着用した彼らは一見優雅に見えるが、その顔色は悪い。彼らは『いつ自分がリストラされ、スラムに落ちるかという恐怖を、高級な酒とドラッグで誤魔化す者が大半だ。
鷹空早苗にそんな誤魔化しなど必要ない。
今日は、彼女が待ち焦がれた「特別な休日」なのだから。
ホログラム桜並木の満開の桜が舞い散り、道行く人々の肩をすり抜けては地面に消える広場の一角で、早苗は静かに佇んでいた。
普段の戦闘的なボディスーツ姿ではない。今日の彼女は、この日のために計算し尽くされた私服を身に纏っている。
淡いアイスブルーのノースリーブニットは、彼女の華奢な肩のラインと白磁のような肌を上品に露出させ、ボトムスには純白のワイドパンツを合わせている。足元は機能性重視のブーツではなく、華奢なシルバーのサンダル。髪にはいつもの無機質なバレッタではなく、小さな真珠のあしらわれたヘアクリップが留められている。
テーマは『調和』だ。隣を歩くであろう犬噛明の圧倒的な美貌を引き立てつつ、決して見劣りせず、かといって彼女より目立ちすぎない。何千通りものシミュレーションを経て選び抜かれた、渾身のコーディネートだった。
その清廉で知的な佇まいは、華やかなミナト・ヒルズにおいて、一輪の雪解け花のように異彩を放っていた。
行き交うサカイやGF社のエリート社員たちが、思わず足を止め、彼女に見惚れる。サイバーウェアで着飾った人工的な美女は見慣れている彼らにとっても、早苗の持つ天然の美しさと、どこか儚げな透明感はあまりに新鮮だったのだ。
「……ねえ、君」
不意に声をかけられた。早苗が視線だけを動かすと、高価なイタリア製スーツを着た男が馴れ馴れしい笑みを浮かべて立っていた。どこかの企業の部長クラスだろうか。
「待ち合わせかな? 君のような素敵な女性が一人で立っているなんて、トーキョーの損失だよ」男は自信満々な様子で、早苗の隣に並ぼうとする。
「もし相手が遅れているなら、僕とお茶でもどうだい? この近くに会員制の……」
早苗は男の方を見向きもしなかった。彼女の視線は、広場の入り口一点に固定されている。広場の時計は、約束の時間まであと数分であることを告げていた。
「……興味がない。失せろ」
「なっ……!」
男は早苗の冷徹な拒絶に面食らい、顔を赤くした。
「君ねぇ、僕がどこの誰だか知って……」
男がさらに詰め寄ろうとした、その時だった。
広場の雑踏が、モーゼの海割れのように左右に開いた。先ほどまで早苗に向けられていた視線が、一斉にその一点へと吸い寄せられる。
「……お待たせしましたね、早苗」
豊潤なアルトの声と共に、その人は現れた。犬噛明。彼女の私服は、早苗のシミュレーションを遥かに超えつつも、完璧に予想通りの『美』を体現していた。
深いワインレッドのラップドレスは、彼女のグラマラスな肉体の曲線を優雅に包み込み、歩くたびにスリットから健康的な太ももが覗く。肩には黒いカシミヤのストールを羽織り、豊かな赤髪は緩く巻かれて背中に流されている。その姿は、大企業の重役というよりも、銀幕のスターのようだった。
男は明の顔を見た瞬間、蛇に睨まれた蛙のように硬直した。
「い、犬噛……明……!?」
犬噛明の悪名は、裏社会だけでなく表のエリート層にも轟いている。
男は青ざめ、「し、失礼しました!」と叫ぶと、脱兎のごとく逃げ出した。
明は逃げる男に一瞥もくれず、微笑みを浮かべて早苗の前に立った。黄金色の瞳が、早苗の全身を優しくスキャンする。
「ふふ、素敵な装いですね。アイスブルー……とてもよく似合っていますよ。私の隣を歩くのに、これ以上のパートナーはいません」
その一言で、早苗の心臓はオーバーヒート寸前まで跳ね上がった。数日かけたコーディネートの苦労が、一瞬で報われた瞬間だった。
「……申し訳ありません。少し、待たせてしまいましたか?」
明が申し訳なさそうに小首をかしげる。時計の針は、約束の時間のわずか30秒前。明は遅刻などしていない。むしろ、早苗が楽しみすぎて2時間も前から待機していただけだ。
早苗は、ブンブンと首を横に振った。ポーカーフェイスを維持しようと務めたが、その頬は微かに朱に染まり、声は弾んでいた。
「いいえ! 待ってなどいません!」
早苗は、まるで初めてデートに誘われた少女のように、一歩踏み出した。
「ボクも……今来たところです!」
早苗の訓練された兵士のような、それでいて恋する乙女のような食い入るような返事に、明は口元に手を当ててふわりと微笑んだ。
「ふふ、そんなに身構えなくてもいいのですよ。今日は仕事ではないのですから」
「は、はい……!」
早苗の脳内データベースには、この日のために構築された数千通りものデートプランが格納されていた。
『最新のアートギャラリー巡り』『静かな庭園でのティータイム』『会員制ブティックでのショッピング』……あらゆる天候、混雑状況、明の気分別に最適化された完璧なシミュレーションだ。
だが、早苗にとって最も優先されるべきアルゴリズムはただ一つ。明部長の意思こそが絶対であるということ。
「ボクのプランなど些末なものです。明部長が行きたい場所がございましたら、そこがボクにとっての最適解です。どこへなりとも」
「私が決めてもいいのなら……そうですね」
明は少し楽しそうに顎に手を当て、ミナト・ヒルズの喧騒を見渡した。そして、意を決したように歩き出した。
「では、参りましょうか」
早苗は三歩下がってついていくのではなく、今日は隣を歩くことを許されている。緊張で手足が同時に出そうになるのを必死に抑えながら、彼女は明の横顔を見つめながら歩調を合わせた。
しばらく歩くと、明がふと立ち止まり、早苗の方を向いた。
「そういえば、早苗。お腹は空いていますか?」
早苗の胃袋の状態など関係ない。彼女は脊髄反射で即答した。
「明部長が空腹であれば、ボクもまた空腹です」
あまりに忠誠心に溢れた返答に、明は声を上げて笑った。
「あはは、相変わらずですねあなたは……ちょうどよかった。あそこ、懐かしい匂いがしたものですから」
明が白く細い指先で指し示した先。そこは、最新鋭の摩天楼が立ち並ぶミナト・ヒルズの片隅、排気ダクトの陰にひっそりと店を構えた古びた屋台だった。煤けた提灯には『極上』の文字。塗装の剥げたカウンター。漂ってくるのは、焦げた醤油と、どこか化学的な油の匂い。
「や、屋台……ですか?」
早苗は目を丸くした。サカイの社食や、任務での高級店でしか食事をしたことのない早苗にとって、そこは未知の領域だった。いや、知識としては知っている。ストリートの住人が栄養補給をする場所として。
だが、まさかサカイの重役であり、美の体現者である犬噛明がここを選ぶとは。
(……いや、待て。これは明部長の選択だ。ボクには計り知れない、深遠な意味があるに違いない。例えば、庶民の生活を視察する高尚なマーケティングリサーチ、あるいは……)
早苗が脳内で高度な深読みをしている間に、明は慣れた様子で暖簾をくぐってしまった。
「大将、やってるかしら?」
「へいらっしゃい! ……おや、こりゃまた別嬪さんが二人も」
油で汚れたエプロンをした店主が、明と早苗を見て目を白黒させた。
「軽く食べてからにしましょうか……今日のおすすめは?」
明がスツールに腰掛けながら尋ねる。その優雅な所作は、パイプ椅子さえも玉座に見せる。
「今日はヤキトリが入ってるよ。新鮮だ」
「あら、いいわね。それを二本」
「……ボ、ボクも、同じものを」
早苗もおそるおそる隣に座った。注文を待つ間、早苗はどうしても気になっていたことを口にした。
「……明部長。その、意外でした。部長のような方が、このような……庶民的な場所に抵抗がないとは。よくいらっしゃるのですか?」
明は出されたプラスチックのコップを手に取り、懐かしそうに目を細めた。
「よく、というわけではありませんが……嫌いではないのですよ。私がまだ『部長』と呼ばれる前、右も左もわからない新米だった頃は、こういう場所が私のダイニングでしたからね」
「新米……」
早苗は息を呑んだ。犬噛明にもそんな時代があったのだ。彼女の知らない、若き日の明の姿。その一端に触れられた気がして、早苗の胸が温かくなった。
「へい、お待ち! 特製ヤキトリだ!」
ドン、とカウンターに置かれた皿を見て、早苗の思考は停止した。
「…………」
それは、彼女の知る焼き鳥ではなかった。串に刺さっている、という一点においては共通している。だが、肉の形状が明らかにおかしい。鶏肉の切り身ではなく、何かをミンチにして円筒形に固めたような、茶色い塊が三つ。強いて言うならつくねに近いが、表面の質感はゴムのようにのっぺりとしており、肉汁の輝きはない。
(……これは、間違いでは?)
早苗は助けを求めるように明を見た。明は何の違和感も抱いていない様子で、そのヤキトリを手に取り一口齧った。
「ん……この味。タレと、合成タンパク質の焦げた香り。懐かしいですね」
(……美味しい、のか?)
明が食べているのだ。見た目はアレだが、味は絶品なのかもしれない。ネオ・トーキョーの隠れた名店という可能性もある。
早苗は意を決し、串を手に取った。そして、その茶色い塊をおそるおそる口へと運んだ。
咀嚼。
「…………っ!?」
瞬間、早苗の味覚センサーが緊急警報を鳴らした。鶏肉の味などしない。口の中に広がったのは、乾燥したオガクズを噛み締めたようなパサパサの食感と、劣化したプラスチックを溶かしたような科学的な後味。そして、それを誤魔化すために大量にぶっかけられた、塩分過多の合成調味料の味。
一言で表すなら、『不味い』。いや、食べ物としての尊厳を疑うレベルだ。
「……何、これ?」
早苗の口から、ポーカーフェイスを維持しきれない、素の声が漏れた。
店主が怪訝そうに顔を上げる。
「あ? 何って、ヤキトリだよ。100% 合成タンパク質 のな」
「……これが?」
早苗のこめかみに青筋が浮かんだ。彼女は知っている。本物の焼き鳥を。炭火で焼かれ、外はカリッと、中はジューシーな鶏肉の味を。これを『ヤキトリ’と称して客に出すなど、食文化への冒涜であり、何より明部長への不敬罪に当たるのではないか。
(……許せない。この店、買収して潰すべきか? いや、衛星軌道上からレーザーで焼却するか?)
早苗の中で、冷徹な破壊衝動が鎌首をもたげた。だが、隣には明がいる。せっかくの休日、明が懐かしんで連れてきてくれた場所で、騒ぎを起こすわけにはいかない。
早苗は口の中の異物を、気力だけで飲み込んだ。
「ぐっ……」
その様子を見ていた明が、くすりと笑った。彼女は自分の串を綺麗に平らげると、ナプキンで口元を拭い、困り顔の早苗を覗き込んだ。
「ふふ、ごめんなさいね早苗。あなたのような育ちの良いお嬢さんには、少々刺激が強すぎましたか?」
「い、いえ! そのようなことは……ただ、少々……前衛的な味でして……」
明は、早苗の一口かじっただけの『ヤキトリ』に視線を落とした。
「無理をしなくていいのですよ。……もし口に合わないようなら、私が食べてしまってもいいかしら?」
「えっ……?」
早苗は固まった。明部長が、ボクの食べかけを?
間接キス、という単語が脳内を駆け巡り、オガクズの味など一瞬で消し飛んだ。




