飼い犬と蛇による営業停止処分
静謐な個室を後にし、蛍と水母は「関係者以外立ち入り禁止」の札がかかった重い扉を蹴破った。
そこは、料亭の厨房というよりは、狂気じみた実験室だった。
ステンレスの調理台には、食材ではなく遠心分離機や培養カプセルが並び、煮えたぎる鍋からは出汁の香りではなく、鼻を突く化学薬品の臭気が立ち上っている。壁一面のモニターには、店内の客たちのバイタルサインと、脳波の同調率を示すグラフが波打っていた。
「へいへい、何の用だ? 客が迷い込む場所じゃねえぞ」
糊の効いた高いコック帽に、ダブルのコックコート。格式高い料理長の装いだが、その白衣は調理の汚れではなくどす黒い血と怪しげな薬液のシミで不気味な地図が描かれている。はだけた襟元から覗く首筋には狼の刺青――『狼の兄弟団』の紋章が刻まれている。料理長を装ったギャングの幹部だ。
「あら、ごめんなさい。お料理があまりに独創的でしたので、レシピを伺いに来ましたの」
蛍は扇子で鼻を覆い、冷ややかな視線を送った。
「具体的には……『ナノ・キャビア』の調達ルートと、その裏にいる飼い主の名前をね」
男の目つきが変わった。
「……チッ、嗅ぎ回るネズミか。おい、お客様にデザートを振る舞ってやれ!」
男が指を鳴らすと、厨房の奥から数人の男女がふらふらと現れた。彼らは高級スーツを着崩した重役たちだが、その瞳には理性の光がない。白目は充血し、口からは涎を垂らしている。
『ナノ・キャビア』を食べ、完全にハックされた『人形』たちだ。
「ウゥ……ア……コロ……ス……」
彼らは食器や包丁を手に、獣のような唸り声を上げて二人に襲いかかった。
「やれやれ。せっかくの着物が汚れてしまいますわ」
蛍はため息をつき、一歩後ろに下がった。
「水母、任せますわ。掃除なさい」
「了解しました、蛍様」
水母が前に出た。襲い来る狂ったサラリーマンたち。彼らはただの事務屋ではない。
企業に所属する者は多かれ少なかれ戦闘用サイバーウェアを備えているものだが、ここにいるのは『部長』クラスの重役たちだ。その体内には、金に糸目をつけない最高級の軍事用インプラントや、違法な反射神経ブースターが満載されており、その戦闘力は下手な全身義体のサイボーグよりも量と質において勝っている。
だが、水母にとって彼らは止まっているも同然だった。彼女は燕尾服の裾を翻し、流れるような体術で最初の一人の腕を極め、床に叩きつける。続く二人の攻撃を紙一重でかわし、的確に急所へ打撃を叩き込んで昏倒させる。
毒を使うまでもない。元GF社員としての基礎戦闘能力だけで、彼女は数秒のうちに暴徒たちを無力化し、床に転がした。
「制圧完了です」
水母が報告すると、蛍は床に転がるサラリーマンたちの顔を覗き込む。ある男の顔を見てふと眉を上げた。
「あら……この顔、見覚えがありますわ。資材調達部の部長代理……先日のお茶会で、イサナ様の方針を『時代遅れの保守派』だと陰口を叩いていた豚ですわね」
蛍は他の数人の顔も確認すると冷酷に笑った。
「なるほど。ここにいるのは、揃いも揃って反イサナ派の愚か者ばかり……どうやら毒見の必要もなかったようですわね」
彼女は水母を見上げ、無慈悲に命じた。
「水母。ゴミの分別は不要ですわ。まとめて『処理』なさい」
「はっ」
水母の雰囲気が変わった。彼女の背中、燕尾服のスリットから、黒く艶やかな影が音もなく伸長する。GF社製・試作戦術尾部モジュール『デスストーカー 』。蠍の尾のごときそれが、鎌首をもたげた。
「……イサナ様の敵は、蛍様の敵。蛍様の敵は……自分の敵」
水母の呟きと共に、黒い尾の先端がコーポたちの首筋にある接続ポートへと次々に突き刺さる。物理的なハッキングと、致死性の神経毒の注入。
「ガッ……ギ……」
彼らは断末魔の声を上げることもできず、身体を数回痙攣させると、泡を吹いて絶命した。それはあまりに静かで、事務的な処刑だった。
だが、その静寂はすぐに破られた。
「おかわりの注文だぞお前らァ!!」
料理長を装った男が叫ぶと同時に、厨房の搬入用大型シャッターが内側から突き破られた。
なだれ込んできたのは、上半身裸の毛深い男たち――いや、『獣』たちだ。
全身を覆う過剰な多毛症、鋭く変形した犬歯、そして異常発達した顎。安価だが凶悪な副作用をもたらす遺伝子改変剤』を過剰摂取した成れの果て。
『狼の兄弟団』の戦闘員たちが、涎を垂らしながら咆哮する。
「ガアアアアッ!!」
同時に、天井の中央から『重機関銃座』が起動し、赤外線レーザーサイトが蛍の心臓を捉えた。
「死ねやァ! アマ共ォッ!!」
銃弾の嵐が吹き荒れる――はずだった。
《《バキィン》》ッ!!
金属が引き裂かれる不快な音が響く。
水母が跳躍し、天井のタレットを素手で強引に引き剥がしていたのだ。
彼女は着地と同時に、『デスストーカー』の尾をタレットの制御ポートへ突き刺し、強制接続する。
本来、拠点防衛用の重機関銃は、サイボーグであっても手持ちで撃つことは想定されていない。凄まじい反動と重量で腕がねじ切れるからだ。
しかし、水母は何でもないことのようにそれを片手で軽々と持ち上げると、その巨大な銃口をギャングたちへと向けた。
蛍は扇子をパチリと閉じ、言い放つ。
「狼気取りのスカベンジャーは殺処分ですわ」
ドガガガガガガガガガッ!!
狭い厨房内で炸裂する大口径弾の嵐。それは戦闘というよりは、一方的な破砕作業だった。
『遺伝子改変剤』で強化された肉体も、重機関銃の至近距離射撃には耐えられない。男たちは次々と弾け飛び、赤い霧と肉塊へと変わっていく。
数秒後。
回転していた銃身が停止し、薬莢がカランカランと床に落ちる音が響いた。
辺り一面は血の海と化し、壁も床も原形をとどめない肉片で埋め尽くされている。
だが――。
中央に立つ蛍と水母の衣服には、ただの一滴の返り血も、汚れさえも付着していなかった。
手下たちを一瞬で全滅させられた料理長の男は、顔を引きつらせて後ずさった。
「ば、化け物か……!? テメェら、一体何なんだ!?」
「サカイの衛生局ですわ。あなたのお店、営業停止処分よ」
蛍が合図を送ると、水母の『デスストーカー』が男に向かって伸びた。その鋭利な先端が、男の脳天にあるチップスロットを貫こうとした、その瞬間。
「クソッ! 捕まってたまるかよォッ!!」
男が叫び、自身の奥歯を強く噛み砕いた。
カッ!
男の頭部が内側から発光し次の瞬間、頭部が破裂するように自爆した。脳漿とチップの破片が飛び散るが、水母が瞬時にコートを広げ、蛍に汚れがかかるのを防いだ。
「……自爆シークエンス。情報の漏洩を防ぐためのプロテクトか」
水母は悔しそうに尾を収めた。
「申し訳ありません、蛍様。尋問する前に……」
「構いませんわ。死人に口なしとは言いますが、状況証拠は十分ですもの」
蛍はハンカチで鼻を覆いながら、飛び散った男の肉片と、実験器具に残されたロゴマーク――双頭の鷲が、DNAの二重らせんを掴んでいるデザイン――を冷ややかに見下ろした。
「バイオウェアを用いた洗脳技術。そして、この場にいない企業の陣営……」
蛍の脳内で、パズルのピースが組み合わさる。
「…… ロマノフ・バイオダイン。奴らが一枚噛んでいますわね」
蛍は確信に満ちた声で推理を口にした。
「サカイの内紛を煽り、弱体化を図りつつ自社の技術実験を行う。実に小賢しいコソ泥のやり口ですわ」
「ロマノフ・バイオダイン……」
水母が復唱する。その声には、主人の敵に対する新たな殺意が込められていた。
「では、次は奴らの研究所を?」
「ええ。ですが、まずはこの汚い厨房を消毒するのが先決ですわ」
蛍は優雅に踵を返した。
「水母、あなたの得意分野でしょう? 派手にやってしまいなさい」
「はい、蛍様……喜んで」
水母は懐から、禍々しい色の液体が入ったアンプルを取り出し床に叩きつけた。立ち上る毒の炎を背に、二人は悠然と店を後にした。燃え上がる『彼岸』の炎は、ミナト・ヒルズの夜空を赤く染め、新たな抗争の狼煙となった。




