着飾る飼い犬と付き従う蛇
ミナト・ヒルズの奥座敷。喧騒から切り離された一角に、料亭『彼岸』は静かに佇んでいた。
ネオンの洪水を拒絶するように周囲は漆黒の塀で囲まれ、門前には清廉な打ち水が打たれている。
入り口に揺れるのは、古式ゆかしい藍色の暖簾。一見すると伝統的な日本家屋だが、その建材には最高級の防弾木材と対ドローン障壁が組み込まれており、セキュリティレベルは軍基地に匹敵する。
重厚なエンジンの停止音と共に、漆黒の『天羽々斬』が滑るように車寄せに停まった。すぐに黒服のバレーパーキング係が駆け寄り、恭しく助手席のドアを開ける。
そこから降り立ったのは、いつもの『狂犬』ではなかった。
「……ふぅ。やはり、こちらの装いは落ち着きませんわね」
犬噛蛍は、艶やかな深紅の振袖ドレスに身を包んでいた。最高級のネオ・シルクで織られたその着物は、伝統的な和装をベースにしつつも、大胆に肩と背中を露出させた現代的なデザインだ。
いつもの赤髪は結い上げられ、鼈甲と真珠の簪で飾られている。首輪はそのままだったが、ドレスの意匠と調和し、むしろ高貴なアクセサリーのように見えた。
その姿は財閥の令嬢にしか見えないだろう。彼女が地面に足をつけた瞬間、周囲の空気が華やかに色めき立った。
続いて運転席から降りてきたのは蛇森水母だ。彼女もまた、普段のコートドレスではない。
彼女が身に纏うのは、ミッドナイトブルーの燕尾服風パンツスーツだった。
185センチの長身と、豊満な曲線美を強調するシャープなカッティング。インナーのシャツは純白で、胸元のボリュームが今にもボタンを弾き飛ばしそうだ。
そして、彼女の象徴であるガスマスクもTPOに合わせて換装されていた。口元を半透明のスマートガラスと白金のフレームで構成された、ヴェールのようなデザイン。呼吸に合わせて淡く青い光が明滅し、彼女のミステリアスな美貌を隠すと同時に引き立てている。
蛍の引き立て役にして最強の守護者だ。
「……蛍様、足元にお気をつけください」
水母が恭しく手を差し出す。その所作は、完璧に躾けられた執事のそれだ。
「ええ、ありがとう水母……ふふ、その格好もよく似合っていてよ? まるで王子様のようですわ」
蛍が耳元で囁くと、水母は耳まで真っ赤にした。
「お、王子様……恐縮です……自分は、ただの従者ですので……」
二人は暖簾をくぐり、エントランスへと足を踏み入れた。受付には着物姿のアンドロイドと、鋭い目つきの黒服が控えている。
完全会員制。一見客は門前払いどころか、視界に入ることすら許されない閉ざされた世界。
「いらっしゃいませ。会員証の提示をお願いいたします」
水母が無言で懐から一枚のチップを取り出し、端末にかざした。
『認証……完了。ようこそお越しくださいました。境インダストリアル特別顧問、西園寺様。および秘書の音無様』
犬噛明が手配した偽造IDだ。サカイの力をもってすれば、この程度の偽装は赤子の手をひねるより容易い。黒服たちの警戒心が解け、恭順な態度へと変わる。
「奥のお座敷へご案内いたします」
中に入ると、そこは別世界だった。琴の音が静かに流れ、人工的な小川がせせらぐ。中央には巨大なホログラムの桜が、季節外れの花びらを散らせている。
そんな優雅な空間の住人は、ネオ・トーキョーの行く末を決める者たちだ。GF社の重役、崑崙・ネットワークスのエージェント、あるいは政界の大物たち。そしてコンパニオンの女性たち。男が好みそうな綺麗どころの女性たちが接待している。
だが、蛍と水母が広間に足を踏み入れた瞬間、その場の空気が一変した。ザワザワとした会話が、波が引くように止まったのだ。
全ての視線が、二人に釘付けになった。
「おい……あの子を見ろ。なんて美しさだ……」
「どこの令嬢だ? 見かけない顔だが……」
「連れの護衛も凄いな。あの体つき……目つきもそそるな」
羨望、嫉妬、そして隠しきれない情欲。男たちの視線は蛍の露出した白い背中や、あどけなくも妖艶な顔立ちを舐めるように這い回り、女たちの視線は彼女の身につけている着物の価値を値踏みし、敗北感に唇を噛む。
高級店に集う彼らは、美しい女など見慣れているはずだ。だが、犬噛蛍の放つオーラは異質だった。単に造形が整っているだけではない。その身に宿す、隠しきれない「暴力の匂い」と「絶対的な自信」が、彼らの本能を強烈に刺激するのだ。
蛍は自分に突き刺さる無数の視線を、まるで心地よいシャワーのように浴びていた。彼女は扇子を広げ、口元を隠して艶然と微笑む。
「あらあら……皆様、お食事が喉を通らないようですわね。そんなに見つめられては穴が空いてしまいますわ」
堂々たる振る舞い。注目されることが当たり前であるかのような言動。
対照的に、水母の纏う空気が張り詰めていく。
(……見ている。あのハゲた男、蛍様のうなじを……あの女、蛍様の着物を品定めして……許せない。全員、目をくり抜いてやりたい……)
紫色の瞳が、不躾な視線を送る客たち一人一人を射殺すように睨みつけている。彼女の脳内では、すでにこの広間に神経毒を散布するシミュレーションが完了していた。
「水母」
蛍が小声で窘める。
「殺気を漏らしすぎですわ。これでは『デート』が台無しになってよ?」
「はっ……申し訳ありません。蛍様があまりにお美しいので、周囲の害虫が気になってしまい……」
「ふふ、頼もしいナイトですこと。さあ、行きましょう。お母様が指定した個室は一番奥ですわ」
蛍は優雅に裾を翻し、視線の海を割るようにして歩き出した。水母はその背後を影のように、しかし誰一人として近寄らせない鉄壁のガードで付き従う。
その夜、『彼岸』を訪れた客たちは食事の味を覚えることができなかった。深紅の着物を纏った美しき少女と、青いマスクの騎士が通り過ぎた時の甘く危険な残り香だけが、彼らの記憶に鮮烈に焼き付けられたのだった。
*
通された個室は静寂と贅の極みだった。壁一面のデジタル障子には月夜の枯山水が映し出され、床には本物の井草の香りが漂う。外部からの盗聴を完全に遮断するサウンド・ダンピング・フィールドが展開されたその空間で、蛍と水母はテーブルに向かい合って座っていた。
ほどなくして、件の料理が運ばれてきた。
「金目鯛の薄造り、ナノ・キャビア添えでございます」
着物姿のアンドロイド給仕が深々と頭を下げて退室すると、テーブルの上には芸術品のような一皿が残された。透き通るような白身魚の刺身が牡丹の花のように盛り付けられ、その上には宝石のように輝くキャビアが散りばめられている。一目でわかる。この時代では希少な天然ものの魚。刺身となればそれだけで高級車と同等の価値がある。
どこからどう見ても、超一流の職人が腕を振るった極上の逸品にしか見えない。
「まあ、美味しそうですわね」
蛍は、扇子で口元を隠しながら目を細める。
「毒が入っているなんて信じられませんわ。見た目も香りも完璧……ねえ、水母。せっかくですから、わたくしが一口いただいてみましょうか?」
蛍は悪戯っぽく微笑み、箸を伸ばす素振りを見せた。
「――駄目ですッ!!」
水母はガタッと椅子を鳴らして立ち上がり、身を乗り出して蛍の箸を持つ手首を強く掴んだ。
「きゃっ……!?」
蛍が驚いて目を丸くする。水母の反応は予想以上に鋭く、そして早かった。
「あっ、あの……申し訳ありません、蛍様。ですが、それだけは絶対に駄目です……!」
水母は必死な瞳で訴えた。
「毒の専門家として……そして何より、蛍様の盾として……正体不明のものを、貴女の体に入れるわけにはいきません」
「あらあら、そんなに必死にならなくても。冗談ですわよ?」
蛍はくすりと笑い、掴まれた手首を優しく解いた。
「では、お言葉に甘えて……毒味役は任せましたわよ、水母」
「はい……いただきます」
水母は席に戻ることなく、立ったまま自身の箸を手に取った。彼女はマスクの下部にある摂食ポートを開くと、躊躇なく金目鯛の切り身とキャビアを口へと運んだ。
咀嚼。嚥下。静寂な個室に、衣擦れの音だけが響く。
蛍は頬杖をつき、興味深そうにその様子を観察していた。
数秒後。水母の紫色の瞳が、スッと細められた。味覚情報が脳内の分析システムへと送られ、成分が瞬時に解析されていく。
「……なるほど。そういうことですか」
「お分かりになりまして?」
「はい」
水母は箸を置き、ナプキンで口元を拭った。
「料理自体の味は一級品です。ですが……このキャビアに見せかけた黒い粒。これは魚卵ではありません。極小の『バイオウェア』です」
「バイオウェア?」
「はい。胃酸でカプセルが溶けると、内部のナノマシンが消化管の粘膜から侵入し、迷走神経に吸着します。……これは、毒というよりは『受信機』です」
水母は冷静に分析結果を述べた。
「おそらく、これを食べた対象者を外部のサーファーがハッキングするための『中継媒体』の一部かと。カメラやマイクの役割を果たし、さらには神経系へ直接干渉するためのバックドアを開く鍵にもなります……重役たちの不可解な行動や溺死は、これを経由して身体操作を乗っ取られた結果でしょう」
「へぇ……」
蛍は感心したように声を上げた。
「食事に混ぜてセキュリティを内側から食い破るなんて、考えたものですわね。陰湿で、実に大企業らしいやり口ですわ」
蛍はふふっと笑いながら、水母の顔を覗き込んだ。
「それにしても、水母ってば。そんな得体の知れない機械仕掛けのゲテモノを食べて、お腹は大丈夫かしら? 今頃、あなたのお腹の中でナノマシンが大暴れしているのではなくて?」
からかうような言葉だったが、そこには「自分の所有物が傷つくのは面白くない」という、彼女なりの気遣いも含まれていた。
水母は事もなげに言い放った。
「ご心配には及びません、蛍様。自分は『化学耐性スキン』をはじめ、体内環境を完全に制御下に置いています。胃に入った瞬間に、強力な酸と分解酵素でナノマシンごと消化しました」
彼女は豊満な胸を張り、瞳を冷ややかに光らせた。
「この程度の不純物、自分の身体にとってはただの栄養素にもなりません……蛍様の敵になるようなものは、全て自分が喰らい尽くしますので」
その頼もしい言葉に、蛍は満足げにふふんと平たい胸を張った。
「素晴らしいですわ、水母。そうでなければ困りますもの。さすがは、わたくしが見込んだ部下ですわね」
蛍はテーブルの上に置かれていた料理の残りを、証拠保全用の真空パックへと手際よく詰め込んだ。シュウッという音と共に、美しい刺身がただの証拠品へと変わる。
「さて」
蛍はパックを水母に手渡すと、優雅に立ち上がった。
「料理の中身も分かりましたし、証拠も確保しました。となれば次は……」
蛍は厨房の方角へと視線を向け、獰猛かつ妖艶な笑みを浮かべた。
「こんな素晴らしい隠し味を振る舞ってくださったシェフに、丁重にご挨拶をしましょうか」
「はい、蛍様」
水母もまた、主人の殺意に呼応するように目を細めた。
「調理場は火を使いますから……事故が起きても不思議ではありませんね」




