飼い犬、毒蛇と戯れる
ネオ・トーキョーの夜空は、酸性雨と極彩色のネオンが混ざり合い、ドロドロとした光のスープのようだった。その汚れた大気を、一筋の紅い閃光が切り裂いていく。
境インダストリアル製・特別儀礼用高速クーペ『天羽々斬』だ。総重量4トン、950馬力。全長6メートルを超える超ロングノーズ・ショートデッキに、空気抵抗を極限まで排除した流線型のボディ。その心臓部にはプロ用レースマシンに匹敵する怪物が眠っているが、車内は深海のような静寂に包まれている。
一般市民が一生かかってもタイヤ一つすら買えないであろうその漆黒の車体は、周囲の景色を内部にリアルタイム投影する『オムニ・ビュー』技術により、外部からの視線を完全に遮断しつつ搭乗者にはパノラマの視界を提供していた。
運転しているのは蛇森水母。そして広々とした空間の助手席で、優雅に足を組んでいるのは犬噛蛍。この車の持ち主だ。
「……ふふ、いい運転ですわね。水母」
蛍は流れる夜景を眺めながら、満足げに微笑んだ。ネオンの光を浴び深紅の輝きを放つ車体は、蛍の髪色と完全に同調するように調整された生体塗料。イサナが蛍へ与えたカスタム車だ。
「加速も減速も滑らかで、不快な振動が一つもありませんわ。以前、早苗に運転させようとした時は最悪でしたもの。あの子ったら、車載システムで自動運転させるだけなんですもの。あまりに機械的で、味気なくて……退屈で死にそうでしたわ」
「は、はい……光栄です。蛍様」
水母は緊張で少し硬くなりながらも、ガスマスクの下で頬を緩ませた。
水母の首筋には、車両と神経を直結するための太いプラグが深々と突き刺さっている。彼女はいまハンドルを握っているのではない。この巨大な鉄の塊と『同化』し、自身の肉体として操っているのだ。
『天羽々斬』は車載AI『ハバキリ』による完全自動運転の設計であり、ハンドルもペダルも存在しなかった。それを蛍のわがままにより、操縦ユニットが備えられたのだ。
天羽々斬は広大な車体サイズに反して、座席は二人分しかない。つまり、運転席と助手席の距離は必然的に近くなる。
五つ星ホテルのスイートにも匹敵する最高級レザーシートの香り。微かに漂う新品の匂い。
そして何より、すぐ隣から漂ってくる、甘く、危険で、脳を蕩けさせるような――犬噛蛍の匂い。
(……ああ、いい匂い……蛍様の匂い……硝煙と、高級な香水と……あと、血の匂いが混じったような……)
水母は運転に集中するふりをしながら、マスクのフィルター越しに、その芳香を胸いっぱいに吸い込んでいた。
合法的に誰にも邪魔されず、密室で蛍と二人きりになれるこの空間。彼女にとって、運転手という役割は雑用などではない。特権階級だけに許された、至上のご褒美だった。
信号待ちで車が静かに停止すると、蛍が水母の方を向き悪戯っぽく瞳を輝かせた。
「それにしても、こうして二人きりで高級料亭に向かっていると……なんだかデートみたいですわね?」
「ブッッ!!!!」
水母は思わず吹き出しそうになり、集中が乱れた。950馬力の怪物が一瞬だけ唸り声を上げ、車体が揺れる。
「ひ、ひぃっ!? も、ももも、申し訳ありません蛍様!! し、しし、失言……いえ、誤操作を……!」
「あらあら、動揺しすぎですわよ」
蛍は揺れなど気にも留めず、楽しそうにクスクスと笑った。
水母の心臓はエンジンのピストン運動よりも激しく暴れ回っていた。
(デ、デート……!? 蛍様と自分が……デート……!? 高級料亭で……しっぽりと……!? ああ、ダメだ……想像しただけで脳が溶ける……!)
ガスマスクの下で、水母の顔は茹で上がった蛸のように真っ赤になっていた。もしマスクがなければ、だらしなく緩んだ表情筋を晒していただろう。マスクがあって本当によかったと、彼女は心底ホッとした。
「……そ、それで、蛍様」
水母は必死に理性を総動員し、震える声で話題を任務へと戻そうとした。これ以上この話題を続けると、心不全で事故を起こしかねない。
「その……『彼岸』への潜入にあたって、我々は……どのような設定でいくのでしょうか? 姉妹でしょうか……それとも……」
「そうですわねぇ」
蛍は顎に手を当て、楽しそうに思案した。
「わたくしと水母の身長差……そしてこの雰囲気……姉妹というには、水母が大きすぎますし……」
蛍は妖艶に目を細め、水母の豊満な胸元と、自分の小柄な身体を見比べた。
「やはり、王道で行くのがよろしいのではありませんこと? お忍びで遊びに来た企業のお嬢様と……」
蛍は身を乗り出し水母の耳元で囁いた。
「そのお嬢様に絶対の忠誠を誓い、夜のお相手も務める……『秘書兼愛人』というのはいかがかしら?」
「あ、あ、あ、あ、愛人ッッ!?!?!?」
プシューーーッ。水母のガスマスクの排気弁から、まるで蒸気機関車のように白い蒸気が噴き出す。
「冗談ですわよ……まあ、当たらずとも遠からずですが」
蛍は水母の反応を存分に楽しんだ後、居住まいを正した。
「『我儘なお嬢様と、それに振り回される護衛』……これなら演技の必要もございませんでしょう? いつものままで通じますわ」
「は、はい……! 護衛……! 自分は護衛です……! 命に代えても、お守りします……!」
自分に言い聞かせるように復唱した。あくまで任務。これは任務だ。デートではない。愛人でもない。だが、その瞳の奥には、消しきれない熱情と、ほんの少しの残念さが燻っていた。
「では着替えましょうか。用意はありますわよね? ハバキリ」
『もちろんでございます蛍様。しかし着替える前にイサナ様よりメッセージです。「お土産のプリンは冷蔵庫にあります」とのこと』
AIの柔らかな声に、蛍の耳がピクリと反応した。彼女はサイドテーブルを開け、宝石のような瓶に入ったプリンを取り出す。
「さすがイサナ様♡ わたくしの好きな物もお見通しなのですね」
蛍は嬉しそうに目を細め、スプーンを口に運ぶ。
「あの……蛍様? 先ほどのお言葉は一体……」
蛍は一瞬逡巡しプリンを飲み込んでから答えた。
「お話を聞いていたでしょう? 設定に合わせた格好になるのは当然ですわ! プリンも食べましたし着替えますわよ水母! 運転はハバキリに任せなさい」
蛍はジャケットを無造作に脱ぐと、ぴったりとした黒インナーへと手をかける。
その瞬間、水母の思考回路はショート寸前の火花を散らした。
(こ、こ、ここここ、ここで脱ぐのですかッ!? 今ッ!? 私の目の前でッ!?)
車内は完全な密室。外からの視線は遮断されているとはいえ、水母の視界は遮断されていない。
インナーの裾が持ち上げられ、ネオンの光よりも眩しい、透き通るような白磁の肌が露わになろうとしている。それは水母にとって、直視することさえ憚られる『聖域』の開帳に他ならなかった。
(見、見てはいけない……! 不敬だ! 蛍様の裸身を、ただの従僕が直視するなど万死に値する……!)
理性は「目を逸らせ」と警鐘を鳴らしている。だが、本能という名の怪物が「この機会を逃せば一生の損だ」と網膜を強引にこじ開けていた。
柔らかく、それでいて引き締まった肢体。幼さと妖艶さが同居するその曲線美。
水母のガスマスクのフィルターが、シュコオォォッ、シュコオォォッ、と過剰な酸素摂取音を立てる。
(ああっ、なんてこと……! 尊い……尊すぎて目が潰れる……! ですが、護衛として……万が一、お体に傷や痣がないか確認するのも……自分の義務、ですよね……?)
水母は自身の邪念を無理やり正当化し、その光景を電脳回路へ永遠に焼き付けるべく、食い入るように凝視した。
天羽々は滑るように闇を駆け、ミナト・ヒルズの妖しいネオンの中へと吸い込まれていく。密室の中、主人の甘い香りと、従者の熱い吐息を乗せて。




