以毒制毒
サカイ・タワー中層階にある社員専用ラウンジ。そこでは秒刻みで世界経済を動かす企業戦士たちが合成カフェインを流し込み、束の間の休息を得る場所だ。
「なあ聞いたか? アーサーのこと」
「アーサー? どこのアーサーだよ」
「警備部部長のアーサー・ゴウダだ。アーサーのクソ野郎がやられちまったって話」
「あぁ? 補助心臓の動作不良による心停止って聞いたぞ? 安物を使ってたとかで」
「かまととぶるか? このご時世に管理職が安物のサイバーウェアを使うわけないだろ。十中八九始末されたのさ。最近旗色が悪そうだったからな」
社員たちに心休まる休息などない。企業に属する者は生き馬の目を抜くほどでなくてはやっていけないのだ。空いたポストに誰が座るかで情勢が変わる。社員の休息とはあくまで肉体にとってのものだ。
「ほーん……で? 次の部長は誰になるんだよ」
「噂によると神無椿が有力だそうだ」
「へぇ! クソ野郎と違って出世欲なさそうなのによ」
「他に適任者がいないからな。今のうちに唾をつけとけ」
「面の良い女には喜んでつけるぜ」
田中は彼らのように下世話な会話などしない。しかし最後の容姿端麗な女性に唾をつけるという言葉には同意せざるを得ない。
田中ケンジ。28歳、物流管理課所属。どこの企業にもいるだろう平凡な社員。そんな彼にとってここは単なる休憩所ではなかった。なぜなら、彼女がいるからだ。
窓際で一人、栄養ドリンクの缶を両手で包むように持っている女性。蛇森水母。白と金を基調としたコートドレス。顔の下半分を覆う美しい装飾が施されたガスマスク。憂いを帯びた紫色の瞳と、隠しきれない豊満な肢体。
(ああ……今日も美しい……)
田中は、自動販売機の陰から熱っぽい視線を送っていた。社内では彼女について「元GF社員の危険人物」「陰気デカ女」などと陰口を叩く者もいる。
だが、田中にとってそれはプラス要素でしかなかった。元敵対企業の社員というミステリアスな経歴。常にマスクで顔を隠す奥ゆかしさ。話しかけられた時に見せる、あのおどおどとした反応。それら全てが、田中の『守ってあげたい』という歪んだ庇護欲を刺激していた。
田中は水母のことなど何も知らず、勝手に「組織に馴染めず孤立する薄幸の美女」というフィルターを通して見ていたのだ。
今日こそは。田中は意を決し、ネクタイを直すと水母の元へと歩み寄った。
「あ、あの……蛇森さん、ですよね?」
声をかけられ、水母はビクリと肩を震わせた。驚いたような瞳が田中を見る。
「あ……は、はい。……自分に、何か用……?」
その消え入りそうな声に、田中の胸が高鳴る。
(やはり、可愛い……! 俺が優しくリードしてあげなければ)
「いえ、業務の話ではありません。いつもお一人でいらっしゃるので、その……もしよろしければ、少しお話しでもどうかなと」
田中は精一杯の爽やかさを演出し、隣に立った。
「僕は物流の田中です。蛇森さんは、その……職場には慣れましたか? 特殊な部署だと聞いていますが、何か困ったことがあれば、僕が力になりますよ」
水母は困惑し、視線を泳がせた。
「困ったこと……いえ、自分は……その……」
彼女は人との会話が苦手なだけなのだが、田中はそれを『遠慮している』と好意的に解釈した。
「遠慮しないでください。元GF社員とかそんな噂、僕は気にしませんから。君のような素敵な女性が……」
田中が距離を詰めようとした、その時だった。
「あら? 珍しい光景ですこと」
鈴を転がすような、しかし場違いに明るい不遜な声が割り込んだ。
田中が眉をひそめて振り返ると、そこには一人の小柄な少女が立っていた。
鮮烈な赤髪。挑発的な赤のライダースジャケットに、極端に丈の短いホットパンツ。首には黒い首輪。どう見ても社員ではない。ネオ・トーキョーの掃き溜めから迷い込んできたような、チンピラ風情の少女だ。
少女――犬噛蛍は、ニヤニヤとした笑みを浮かべて水母を揶揄う。
「水母にも、こんなに熱心なファンがいたのですわねぇ。いつも陰気でモジモジしているから心配していましたけれど、これならお母様……明部長も安心なさるでしょうね」
彼女にとって、部下が異性に言い寄られている図など、またとない娯楽だった。
しかし、田中にはその空気が読めなかった。彼には愛しい水母が、外部の行儀の悪いガキに絡まれているようにしか見えなかったのだ。サカイの正社員としてのプライドと、水母への格好つけが彼の判断を誤らせた。
「おい、君」
田中は蛍の前に立ちはだかり、威圧的に言った。
「ここは関係者以外立ち入り禁止だぞ。どこの部隊の傭兵か知らないが、口の利き方には気をつけたまえ」
「……は?」
蛍がキョトンと目を丸くした。
境インダストリアルに限らず、アウトローを使って敵対企業への破壊工作を依頼する社員は多い。その中でも、大企業はそれぞれ専門の傭兵を部隊として雇っている。蛍もその類だと田中は考えたのだ。
田中は畳み掛けるように続けた。
「彼女は我が社の重要な社員だ。君のような外部の人間が、気安く馴れ馴れしくしていい相手じゃない。IDを見せろ。セキュリティを呼ぶぞ」
田中は確信していた。このチンピラを追い払えば、水母は自分に感謝し、二人の仲は急接近すると。だが、背後の気配が激変したことに、彼は気づいていなかった。
「……きさま」
先ほどまでの消え入りそうな声ではない。地獄の底から響くような、低く、濁った、殺意の塊のような声。
田中が振り返ると、そこには信じがたい光景があった。蛇森水母が震えていた。羞恥や恐怖ではない。激怒によって。瞳から先ほどの憂いなど消え失せ、爬虫類のような冷酷さと、煮えたぎるような憎悪で満たされていた。
「蛍様に……なんて口を……」
シュウウウ……という微かな音と共に、水母のコートの隙間から、薄緑色のガスが漏れ出した。彼女の殺意に呼応し、体内の毒腺が活性化しているのだ。彼女にとって犬噛蛍は絶対的な崇拝対象であり、信仰する神そのもの。その神に対し、一般社員が「口の利き方に気をつけろ」などと説教をしたのだ。その罪は彼女の中で万死に値した。
「……溶かす」
直後、水母の背中が異様に盛り上がった。
彼女の儚げに見えた肢体が、瞬時に異常な膨張を見せる。激情に合わせて体内薬液が過剰循環し、人工筋肉と結合組織がパンプアップしたのだ。瞳孔が縦長になり白目の部分が充血してどす黒い赤に染まる。
そして、白いコートドレスの背中部分から漆黒の『何か』が鎌首をもたげた。
機械的な駆動音は一切ない。ヌチャ、という生々しい粘着音。人工筋肉とカーボン複合材で構成された節々が、まるで意思を持つ独立した捕食者のように田中の頭上でゆらりと揺らめいた。 光を吸い込むマットブラックな巨蠍の尾―― GF社製・試作戦術尾部モジュール『デスストーカー』
水母の脊椎に格納されていた全長5メートルを超える機密兵器が、その禍々しい全貌を現した。尾の先端であるダイヤモンド・ニードルがギラリと照明を弾く。
「その汚い舌も、目も、全て……ドロドロに溶かして排水溝に流してやる……ッ!!」
「ひっ!?」
田中は悲鳴を上げ、腰を抜かした。
「きゃあああっ!?」
「な、なんだあれ!? 警備部を呼べッ!」
「ガスだ! 毒ガスが出てるぞ!!」
平和な昼下がりのラウンジは、一瞬にして阿鼻叫喚の地獄絵図と化した。 コーヒーカップが床に落ちて砕け散り、悲鳴を上げて逃げ惑う社員たち。異形の兵器を生やし毒の霧を纏った水母の姿は、まさに噂に語られる怪物そのものだった。
「へ、蛇森さん!? な、何を……!?」
田中は意味がわからなかった。なぜ彼女が怒る? 自分は彼女を助けようとしただけなのに。そのガスは何だ? 警報が鳴らないのはなぜだ?
思考する時間は与えられなかった。
水母の殺意に呼応し、『デスストーカー』がしなった。
先端にある『三毒の針』――戦車の装甲すら貫く合成ダイヤモンド製の極微細針が、田中の眉間、脳髄のど真ん中を狙って不可視の速度で射出される。
「――よしなさい、水母」
死の突風が、田中の鼻先で止まった。田中の眼球までわずか数センチ。風圧だけで皮膚が切れそうな距離で、その巨大な蠍の尾は静止していた。横から伸びてきた蛍の小さな手が、太い機械アームを無造作に鷲掴みにしていたのだ。
「ほ、蛍様……! ですが、この虫けらは蛍様に無礼な口を……!」
水母はガスマスク越しに荒い息を吐きながら訴えた。尾はまだ殺意を孕んで小刻みに震えているが、蛍の拘束を振りほどくことはできない。
「ええ、聞こえていましたわ。ですが……」
蛍は田中を見下ろし、そしてプッ、と吹き出した。
「くすくす……あはははっ! 見まして? 今の顔! 自分を正義の騎士だと勘違いして、意気揚々と説教を垂れたと思ったら、守るはずの姫に殺されかけるなんて! あはははは! 傑作ですわ!」
蛍はお腹を抱えて笑った。その笑い声に、ラウンジの空気が少しだけ緩む。彼女は涙を拭いながら、恐怖で固まる田中に顔を近づけた。
「あなた、お名前は?」
「た、田中……です……」
「そう……田中。あなた、命拾いしましたわね。わたくしが止めていなければ、今頃あなたの顔はゼリーのように崩れ落ちていましたわよ?」
「は、はあ……」
「水母。『リミッター・カット』を解除しなさい」
蛍が命令すると水母は即座に従った。『デスストーカー』は脊柱へと戻り、膨れ上がった体と瞳が元に戻る。何事もなかったかのようにガスが霧散していく。
「……はい。申し訳ありません、蛍様……」
蛍は田中の方に向き直り、ニヤリと笑った。
「あなたのその無知と、滑稽な勘違いに免じて今回の無礼は許して差し上げますわ。わたくし、珍しいものを見られて上機嫌ですの。普段はおとなしい水母が、これほど感情を露わにして怒るなんて」
彼女は水母の肩をポンポンと叩いた。
「愛されていますわねぇ、わたくし」
「……はい。蛍様は、自分の全てですので」
水母は先ほどの殺意が嘘のように、うっとりとした瞳で蛍を見つめた。
「という訳で、田中。感謝なさい? わたくしの慈悲に」
蛍はそう言い残すと踵を返した。
「行きましょう、水母。お母様がお待ちよ」
「はい、蛍様。すぐにお供します」
二人はラウンジを出て行った。残されたのは、腰を抜かしたままの田中と、微かに漂う甘い毒の香りだけだった。
*
重厚なセキュリティゲートが開き、特殊資産管理部の冷たく無機質な空気が流れ出す。
犬噛蛍と蛇森水母がオフィスへと足を踏み入れる。そこには既にデスクに向かい、ホログラムモニターに映るコードの羅列を目で追う鷹空早苗の姿があった。
早苗は二人の入室を感知すると、モニターから視線を外し手元のデジタル時計へと冷ややかな目を向けた。
「……遅い」
感情の籠らない声が響く。早苗は椅子を回転させ、蛍を真っ直ぐに見据えた。
「定刻より4分23秒の遅延だ、蛍主任。上級主任という立場にある者が、時間の管理すらできないとは嘆かわしい。あなたのルーズさは、部全体の規律を乱すノイズになり得る」
彼女は蛍のことを、役職通り「主任」と呼んだ。だがその響きには敬意など微塵もなく、むしろ「その地位に見合う振る舞いをしろ」という皮肉が込められていた。
しかし、蛍は早苗の方を見ようともしなかった。彼女にとって、早苗の小言など空調のノイズと同じだ。
「あら? 水母、聞こえまして? 耳障りなラジオは無視なさい」
「は、はい……蛍様がそう仰るなら……」
水母は蛍の後ろにぴたりと付き従う。
蛍は早苗を完全に無視し、部屋の最奥にある重厚なマホガニーのデスクへと小走りで向かった。
「お母様! お待たせいたしましたわ!」
デスクの奥では、犬噛明が優雅に脚を組み黄金色の瞳で娘たちを迎えた。
「ええ。待っていましたよ、蛍……早苗も小言はその辺にしておきなさい。蛍に時計の概念を教えるのは、猫に微積分を教えるより骨が折れますから」
「……了解、明部長」
早苗は不服そうに口を引き結び、再びモニターへと向き直った。
明はデスク上の端末を操作し、空中に一枚の立体映像を投影した。それは、豪奢な料亭の外観だった。
「さて、早速ですが仕事です。場所はミナト・ヒルズの一角にある高級料亭『彼岸』」
「料亭……ですの?」
蛍が興味深そうに首をかしげる。
「ええ。完全会員制の隠れ家的な店ですが、最近ここで会食を行ったサカイの重役たちに不可解な行動が見られるのです」
明は指先でデータを弾く。画面には数人の男性の写真と、その後の行動ログが表示された。
「ある者は、翌日に極秘の社内データを競合他社へ誤送信した。ある者は、突然意味不明な言動を繰り返し、精神病院へ送られた。そしてある者は……自宅の浴槽で謎の『溺死』を遂げた」
「まあ、物騒なお店ですこと」
蛍はクスクスと笑った。
「食あたりにしては随分とたちが悪いですわね」
「単なる偶然か、それとも何者かによる意図的な工作か。毒物、あるいは神経系へのハッキングの可能性が高いと踏んでいます」
明の瞳が鋭く光る。
「蛍。あなたには客としてこの『彼岸』へ潜入し、その裏側を暴いてきてもらいたいのです。場合によっては、店ごと『掃除』しても構いません」
「承知いたしましたわ、お母様! 潜入調査……ふふ、スパイ映画みたいで素敵ですわ!」
蛍は目を輝かせ、くるりと後ろを振り返った。
「では、今回は水母を連れて行きますわ」
その言葉に、作業をしていた早苗の手がピタリと止まった。彼女は再び椅子を回転させ、異議を唱えるように口を開いた。
「……異議あり。潜入調査ならば、ハッキングと隠密行動に長けたボクが適任だ。水母の戦闘スタイルは派手すぎる上に、毒物は痕跡を残しやすい。非効率だ」
早苗の指摘はもっともだった。しかし、蛍はニヤリと悪戯っぽい笑みを浮かべた。
「あら、早苗。あなたは何もわかっていませんのね」
蛍は水母の腕を引き、自分の横に立たせた。
「今回の敵は、毒を使う可能性があるのでしょう? ならば、こちらも毒の専門家を連れて行くのが道理というもの。それに……」
蛍は芝居がかった口調で、明に向かって真剣な表情を作ってみせた。
「お母様。水母は元GF社員。サカイに来て日も浅い彼女の実力が本物かどうか……この目で確かめる必要がありますわ。それに、万が一にも裏切り行為がないよう、上級主任であるわたくしが直々に『監視』をする必要もございますでしょう?」
それは、あまりにも透けて見える建前だった。蛍の本音は、顔に書いてあるも同然だ。『この忠実で可愛い部下を連れ回して、私の活躍を見せつけたい』『私の所有物として、もっと可愛がりたい』ただそれだけである。
早苗は呆れてため息をついた。
「……公私混同も甚だしい」
明は娘のそんな下心など最初からお見通しだった。その上で、彼女は妖艶に微笑んだ。
「いいでしょう。許可します」
「ありがとうございます、お母様!」
蛍がパアッと顔を輝かせる。
明は続けた。
「ただし、彼女のスキルを上手く使いこなしなさい……水母、あなたもわかっていますね?」
話を振られた水母はガスマスクの下で頬を紅潮させ、震える声で答えた。
「は、はいっ……! 明部長……! 自分は……蛍様の盾となり、矛となり……この身が溶け果てようとも蛍様をお守りします……!」
「うふふ、頼もしいですわね、水母! さあ、行きましょう! 久しぶりの潜入任務ですわ!」
蛍は上機嫌で水母と腕を組み、スキップせんばかりの勢いで出口へと向かった。
「……あ、あの、蛍様……近い……です……」
水母は蛍に腕を抱きしめられ、その体温と柔らかさに触れて、歩きながら卒倒しそうになっていた。
二人が去った後、オフィスには再び静寂が戻った。早苗は不満げに眉を寄せ、明に視線を向けた。
「……明部長。本当に良かったのですか? あの二人に任せて。店一つ消し炭にする未来しか見えませんが」
明は手元の端末を操作しながら、くすりと笑った。
「構いませんよ。毒を以て毒を制す……と言いますが、あの子たちは毒どころか劇薬ですからね。悪い膿を出し切るには、それくらいの刺激が必要でしょう」
明の黄金色の瞳は、モニターに映る『彼岸』の情報を冷徹に見据えていた。
「それに……たまには娘に、お気に入りの玩具で遊ばせてあげないとストレスが溜まってしまいますから」




