お掃除
ネオ・トーキョーの雨はいつだって冷たく、そして汚れている。ファラリスは愛車の高級セダンの窓を叩く雨音を聞きながら、後部座席でネクタイを少しだけ緩めた。
「……ヴィンセントのシグナル、完全にロストしました」
運転席の部下が、怯えたような声で報告してくる。ファラリスは無表情で頷いただけだった。
(やはり死んだか)
所詮は傭兵。使い捨ての駒だ。惜しい手駒ではあったが、感情に流されて引き際を誤るような人間に未来はない。
「空港へ向かう予定を変更する……『セーフハウス・デルタ』へ」
「は、はい! しかしボス、あそこはまだ……」
「GF社が用意した隠れ家だ。サカイの手は及ばない……今の私の状況で、正規ルートの出国はリスクが高すぎる」
ファラリスの四対の義眼が、めまぐるしく情報を処理していた。今回の作戦失敗は痛手だ。境インダストリアルは必ず報復に出る。影響力、信用、そして築き上げてきたコネクション……その多くが失われるだろう。
だが、命さえあればいい。
この街には『失敗したフィクサー』の死体は山ほど転がっているが、『生き延びたフィクサー』には必ず次のチャンスが巡ってくる。人脈という名の蜘蛛の巣を張り巡らせている限り、ファラリスは死なない。
車はスラムを抜け、郊外の閑静な住宅街へと滑り込んだ。目当てのものはすぐに見つかった。一見すると、どこにでもある中流家庭の建売住宅。
だが、ファラリスの目は誤魔化せない。
壁の中に埋め込まれた対人センサー、窓ガラスに施された防弾コーティング、そして地下から微かに漏れる独立電源の駆動音。
完璧だ。『セーフハウス・デルタ』にして正解だった。たとえ境の『夜行』部隊が襲撃してきたとしても、地下の脱出ルートを使って逃げる時間は十分に稼げる。
「お前は外で見張っていろ」
部下を車に残し、ファラリスは一人で玄関の生体認証ロックを解除した。重い電子音と共にドアが開く。
廊下は静まり返っていた。空気清浄機の低いハム音だけが聞こえる。ファラリスは大きく息を吐き出し、張り詰めていた神経をわずかに緩めた。
まずはシャワーだ。そして、GF社の役員に連絡を取り、身の安全を完全に保証させなければ――。
彼はリビングのドアを開け、壁のスイッチに手を伸ばした。
パチン。
照明が灯り、無機質なリビングが明るく照らし出される。そして、ファラリスの思考は凍りついた。
「……随分と遅かったですわね」
リビングの中央。上質な革張りのソファに、深紅のジャケットを着た小柄な少女が、我が物顔でふんぞり返っていた。行儀悪く組まれた足。テーブルの横へ無造作に放り投げられた巨大なハンマー。 不釣り合いなほど可憐な唇から紡がれる、優雅で残酷な言葉。
犬噛蛍。今回のターゲットの護衛にして、境インダストリアルの『最重要危険因子』
「な、なぜ……ここに……」
ファラリスの声が震えた。ありえない。ここはGF社が提供した極秘の隠れ家だ。データ上には存在せず、足取りも完璧に消していたはずだ。なぜ、この怪物が先回りしている?
「ひっ……!」
本能的な恐怖に突き動かされ、ファラリスは後ずさった。逃げなければ。地下へ。今すぐに。
だが、その背中が『何か』にぶつかった。壁ではない。柔らかく、温かく、そして薬品の匂いがする『何か』に。
「……動かないでくださいね。空気が汚れますから」
耳元で、甘く湿った声が囁いた。ファラリスが恐る恐る振り返ると、そこには純白のロングコートを纏い、装飾的なガスマスクをつけた長身の女が立っていた。蛇森水母。その紫色の瞳は、ゴミを見るような目でファラリスを見下ろしている。
前門の虎、後門の狼。逃げ場はない。
「……座りなさい」
蛍が短く命じた。それは交渉の余地などない、飼い主が駄犬に与える命令そのものだった。
ファラリスの膝から力が抜けた。彼は数々の修羅場を潜り抜けてきた。企業との交渉、裏切りの銃撃戦、拷問。だが、目の前の少女が放つプレッシャーはそれらとは次元が違った。格が違う。ここにいるのは人間ではない。大企業による最新技術の粋を集めて作られた、暴力の化身だ。
ファラリスは観念したように、震える足でソファへと歩み寄ると蛍の向かい側に座った。四対の義眼が、恐怖で激しく明滅している。
「……どうやって、ここを?」
ファラリスは乾いた喉を鳴らし、どうにか言葉を絞り出した。
「簡単なことですわ」
蛍はテーブルの上のブドウを一粒摘み、口に放り込んだ。
「あなたの逃走ルート、隠し口座、そしてこの《《ネズミの穴》》の情報……すべてわたくしたちに教えてくれましたもの」
彼女が指を鳴らすと、部屋の大型モニターが勝手に起動した。そこに映し出されたのは、ファラリスの部下が車の中で穴という穴から血を流して絶命している映像だった。画面の隅に淡いブルーシルバーの髪をした少女のデフォルメアイコンが、冷ややかに微笑んでいる。
鷹空早苗。リズを殺した怪物は彼女だったのか。
「さて、ファラリス……でしたかしら?」
蛍は身を乗り出し、その美しい顔を近づけた。深く澄んだ紫水晶の瞳が楽しげに、そして嗜虐的に細められる。
「イルカ様誘拐計画を企てた罪、どうやって償ってくださいますの? ……たっぷり聞かせてくださいませ」
背後で、水母が何かを取り出す音がした。ガラスのアンプルが触れ合う、カチリという硬質な音。ファラリスは悟った。人脈も、金も、情報も、ここには届かない。今夜、地獄を見るのだと。
「……おっしゃる通り、私は罪を犯しました。償いましょう」
ファラリスは脂汗を流しながらも努めて冷静な口調で切り出した。膝の上で握りしめた拳が、微かに震えている。
だが、まだ終わっていない。情報は力だ。この状況をひっくり返すジョーカーになり得る。
「しかし、私を殺せば貴女方は重要な『真実』を失うことになります」
蛍は興味なさそうに、自分の爪を眺めている。ファラリスはその態度に焦りを感じながらも、言葉を続けた。
「今回の誘拐計画……その根幹にある情報は、外部の人間には知り得ないものです。イルカ・サカイの極秘視察ルート、護衛の配置、セキュリティの空白時間……これらは全て、境インダストリアルの『内部』からリークされたものです」
蛍の手が止まった。彼女はゆっくりと視線を上げ、ファラリスを見据える。その瞳の奥で赤い光が揺らめいた気がした。
「……続けて?」
「取引をしましょう。私を見逃すと約束してくれるなら、その裏切り者の名前を――」
ガシャアアッ!!
轟音と共に、テーブルが粉砕された。いや、テーブルごとファラリスの右足が無くなっていた。
「ぎ、ぎゃあああああああああっ!!!」
遅れてやってきた激痛にファラリスはソファから転げ落ち、絶叫が防音室に響き渡る。高級なスーツのズボンが破れ、そこから覗く膝は、肉と骨とサイバーウェアが混ざり合った無惨な肉塊に変わっていた。断面から鮮血とオイルが噴き出し、高級なカーペットを汚していく。
蛍は『スサノオ』を軽々と肩に担ぎ直し、冷ややかな目で見下ろしていた。
「交渉しに来たわけではありませんわ」
彼女の声は、鈴を転がすように美しく、そして絶対的だった。
「勘違いなさらないで。わたくしはただ『聞いている』だけですのよ? ……あなたの耳も、目と同じように増やした方がよろしいのではなくて? そうすれば、わたくしの言葉がよく聞こえるかもしれませんわね」
蛍の言葉には慈悲など欠片もない。彼女にとって、ファラリスは対等な交渉相手などではない。ただの、情報を吐き出すための肉袋に過ぎないのだ。
「言っ……言います……! 言いますから……!」
ファラリスは苦痛に喘ぎながら、血の泡を飛ばして叫んだ。プライドも、駆け引きも、全てが粉砕された。今はただ、この痛みと恐怖から解放されたい一心だった。
「アーサー……アーサー・ゴウダ……! 境インダストリアル警備部・部長……奴が、情報を売ったんだ……!!」
ゴウダ。その名を聞いた瞬間、蛍は「ああ」とつまらなそうに嘆息した。
「あの野心家ですのね」
蛍は納得したように頷いた。意外そうな様子はない。むしろ、「やはりあいつか」という諦めにも似た納得が含まれている。
出世のためなら同僚を売り、上司を蹴落とし、汚れ仕事も厭わない男。イサナの父『境シゲル』への忠誠を装いながら、裏では自らの派閥を作るために暗躍していたことは蛍も勘づいていた。
「社内政治に負けて左遷されそうになっていたのを、イルカ様が拾ってくださった恩も忘れて……嘆かわしい裏切り者ですこと」
彼女は吐き捨てるように言い、ソファからゆっくりと立ち上がった。深紅のジャケットがふわりと揺れる。
「い、言ったぞ……約束だ……助けてくれ……」
「約束? ……わたくし、『助ける』なんて一言も言っていませんわよね?」
蛍は無邪気に小首を傾げた。その顔には、虫を踏み潰す子供のような残酷さが張り付いていた。彼女は踵を返し、出口へと歩き出す。
「お話は終わりですわ。……水母」
彼女は短く告げた。
「始末なさい」
「はい、蛍様」
背後で、冷たく湿った声が響いた。ファラリスが振り返るよりも早く異様な音が空気を震わせた。グチュリ、という有機的な駆動音。蛇森水母の純白ロングコートの袖から、毒々しい植物の蕾のような砲口が覗いている。GF社が秘密裏に開発したという有機的ハンド・ランチャー『ネメシス』だ。
「あっ、ま――」
ボシュッ!!
圧縮された高濃度の酸性スライム弾が、至近距離からファラリスの顔面に直撃した。悲鳴を上げる間もなかった。強酸性の粘液が、ファラリスの皮膚を、肉を、そして四対の義眼を、瞬時に融解させていく。服が焼け焦げ、骨が露出し、ジュワジュワという不快な溶解音がする。
「ア……ガ……ッ……!」
ファラリスだったモノは、ソファの上で痙攣し、やがてドロドロの肉塊となって崩れ落ちた。
ネオ・トーキョー随一のフィクサーの最期にしてはあまりにも呆気なく、そして惨めな幕引きだった。
「……ふふっ」
蛍は振り返り、その凄惨な光景を見つめて微笑んだ。鼻につく酸の刺激臭と、肉の焦げる臭い。普通の少女なら卒倒するような悪臭の中で、彼女は花の香りを嗅ぐように目を細めている。
「やはり綺麗に掃除することにかけては、あなたの独壇場ですわね」
彼女は水母の方を向き、悪戯っぽくウィンクした。
「早苗と違って、あなたは素直ですし。汚れ仕事も嫌な顔一つせずにやってくれる……ええ、そうですわ」
蛍は上機嫌に、ハンマーを肩に担ぎ直した。
「次の作戦も……水母。あなたを連れて行きますわよ。アーサーの処分には、あなたの毒が一番似合いそうですもの」
その言葉を聞いた瞬間、水母の瞳が恍惚の色に染まる。彼女はその場に跪き、震える声で答えた。
「ああ……光栄です、蛍様。自分のすべてを、あなた様のために……」
床に広がるファラリスの残骸など、もはや二人の目には入っていない。
二匹の怪物は、新たな獲物の匂いを嗅ぎつけネオ・トーキョーの闇へと消えていった。




