池田さんと春 その2
彼女の顔が、ほかの人に比べて特別整っているというわけではないように思われました。顔を構成するそれぞれの部位にも、人並み外れた大きな特徴があるとは言えませんでした。彼女の顔の一つ一つの中で、平均と言える域から逸脱しているものがあるか、と問われたら、そうは言えない、と答えるしかありませんでした。しかし、あるいはそれゆえに、私の心は強く打たれたのです。鼻や目、唇、眉、肌の色、額の広さなど、彼女の持つあらゆるものが、特筆する必要のない僅かな特徴を持ち、それらの特徴が見事に調和することで、全体として各個の和の最大値を超越した、えも言えぬほど洗練された、玲瓏な光を放つのです。
私が彼女の笑顔について分析している間に、公演が終わってしまったようでした。あっという間のようで、宇宙が始まってから終わるくらい長いようでもある時間を過ごしました。この新歓の第一部ともいえる、先輩達によるネタの披露会は終了したので、これから居酒屋で行われる第二部へ移ろうとしていました。先輩方は教室の片づけをしてから、遅れて目的の居酒屋へ向かうので、我々新入生で先に居酒屋に入っていてほしい、とのことでした。先輩がそのことを私たちに説明している間、私は今にも振り返って彼女の顔を見たい衝動を抑えることで精一杯でした。そして長い説明の後、その行為が許されたときに、私が感じたことは、池田さんは笑顔だけでなく、平常の時も美しいということです。見つめていることが彼女にばれないように、すぐに下を見てカバンを探して、お茶を飲み干しました。
先輩の指示に従って居酒屋へ向かう際、その手段として、我々は大学から歩くことにしました。目的地は渋谷の道玄坂にあり、電車を使ったほうが早くはあるが、一応大学から徒歩圏内であることと、大学の最寄り駅から渋谷方面とは反対方面に住んでいる者が多く、新入生の多くが大学の最寄り駅から渋谷駅までの通学定期券を持たないため、電車を使うことに反対するものが多かったからです。
私は移動している間もずっと池田さんのことを考えていました。忘れ去るにはあまりにも衝撃が強く、また、あまりにも時間が足りませんでした。私たち新入生は、先頭を歩く人に従って大きな塊を作り、魚の群れのように動いていました。
居酒屋へ向かう途中で、新入生の内2人の男性と1人の女性が私に向かって話しかけてきました。彼らが話すのは、出身地はどこか、どこの学部に所属しているのか、先輩たちのお笑いに対する感想、といった、当たり障りのないような話題ばかりでした。池田さんのことを考えていた私には、返事を考える余裕などなく、私は「ああ」とか「ふん」とかだけ言いました。
つい二時間ほど前に初めて出会った者たちが共有している話題は非常に少なく、典型的な話題しか話すことができないのは自然なことで、会話を弾ませるのは簡単ではありません。それでも、会ったばっかりの一人の女性のことを考えていた私を除く新入生たちは、何とか、所属するサークルを同じにしようとする同輩たちと仲良くなろうと、両手いっぱいの米粒から、特定の形をしたものを探し出すような、途方もない思考の末に、どこかから話題を見つけて、あるいは造り上げて、その場を乗り切ろうとするのでした。
そんな彼らにとっては、すべての質問に対してうわの空でしか返さない私は面白くなく、邪魔な存在であったので、私が二言目を発するのが遅いか早いか、彼らはもれなく私から切り上げ、ほかの新入生たちに目標を変えるのでした。
私は歩きながら終始池田さんを探していましたが、見つからなかったので、私がいる集団の真ん中よりも後ろの、私の視界に入らないところにいるのだろうと思い、わざと歩みを遅くして、居酒屋へ向かう集団の最後方へと移動しました。移動、というよりは彼らに抜かされる形でした。集団は、人が3人並べるか、といった幅の、いかにも都会らしく小汚ない歩道を、幅いっぱいに、長さ5メートルほど陣取り、のろのろと歩いていました。集団は教室の時から変わらず二十人前後に思われます。彼らは、自分たちの話題を広げることに夢中になりすぎるあまり、歩くのが遅く、幅を取っていることが、どれだけ周囲に迷惑をかけているのかには気づいていないようでした。
その集団を、後ろから一人離れて注意深く確認しましたが、池田さんをその中に認めることはできませんでした。いないはずがない、と思ってどれだけ丹念に探しても、やはり、池田さんは集団の中にいないように思われました。なぜかはわかりませんが、彼女がこの場にいないということは事実であるようなのです。
彼女がいないと分かると、突然興が醒めたように感じました。落胆の表情が浮かび上がるのを抑えることができませんでした。その顔を誰かが見ていたら、私のことをとても奇妙に思ったことでしょうが、幸い私が最後方にいて、かつ、先ほどの会話の影響で誰からも注目されていないということが、せめてもの救いでした。
突然、目の前をのそのそと歩く集団が、何の面白みもない無機質の機械仕掛けの人形のように見え始めました。機械仕掛けの渋谷の町に、機械仕掛けの人形の軍隊が行進しているさまを私は後ろから眺めていました。
それでも、夕飯1食分の代金が浮くという事実は、私にとっては重大であったため、飲み会の参加を取りやめる、というわけではありませんでした。ここでいう重大とは、単に金欠というわけではなくて、先輩に奢られる、ということが社会経験として重大である、ということです。なにしろ私には社会経験が人並みから大きく外れて、少なかったのです。




