池田さんと春 その3
目的の居酒屋に到着し、我々の集団の先頭に立って、地図アプリを使って我々を案内していた男性が、出迎えた店員に、「予約していたササキです」と言いました。その男の左胸には五反田、と書いてあるので、どういう冗談かと思いましたが、後でササキという名前はこの店を予約した先輩のものであると分かりました。
店員は左胸の名前と、先ほど発せられた名前が違うことには興味を示さず、五反田君に向かって平坦な調子で「奥の席へどうぞ」と言いました。
店員の案内で中に入った私は、指示されるままに6人掛けテーブルの左隅に座りました。店内では、我々新入生は4つのテーブルの島を作り、店の一角を占領しました。
私の向かいには、大学からこの店まで私たちを先導して、ついさっきまで店員と話していた五反田君が座りました私と五反田君とは反対の隅に座ったのは2人とも女性でした。私とは対角の位置の隅に座っている髪の長いほうは田村、私の右隣の隅に座っているほうは赤坂と書かれた紙を、さっとテーブルに置きました。二人は、紙を服に張り付けるためのテープが粘着力の強いものであったため、着ていたニットがほつれてしまうことを気にして、服にはつけず、手に持っていたのだ、と言いました。私と五反田君は「はあ」と納得したように呟き、彼女らと談笑を始めました。二人は、見事に同じ柄の、しかし配色だけが異なったニットのセーターを着ていました。二人は今日初めて出会い、示し合わせたのではないのだ、ということを強調しました。
「私、あんまりこのサークルに入るつもりないんだ」
二人の内どっちかがそういうと、もう片方が「うん」と大きくうなずくので、彼女らの目的は私と同じであることが分かりました。
我々が作った4つの島はすべて、中央の2席が開けられていましたが、これは先輩方に言われてのことでした。すべてのテーブルの中央に自分たちが座り、お笑いで鍛えあげられた話術によって、新入生を「タージマハル」加入へと導く腹だったのでしょう。
私たちは、先輩方が到着するまで、それぞれ飲み物を一つ注文して待ちました。
先輩方が着いたのは我々のドリンクが席に運ばれてから5分ほどたったころでした。片付けるものは椅子と、ステージ代わりに使われたあの背の低い段しかなかったので、早く片付けが終わったとのことでした。
私たちの席には、男性と女性の先輩がそれぞれ1人ずつ座りました。男性のほうが私とは反対側に席につき、こちら側は女性のほうが座りました。残念ながら、先輩たちは左胸に名前を下げていなかったので、名前まではわかりませんでした。私は、私の隣に座った女性の先輩が、先ほど落語を披露していた方ではないかと思いましたが、何しろ、池田さんによる影響が強く、ほかの人の顔を鮮明には覚えていなかったので、自分の推測に確信を持つことができませんでした。
先輩方は、やはり会話には長けているらしく、低空飛行していた我々の会話は、先輩たちの着席とともにいきなり、ボルテージが上がったように勢いをつけていきました。会話の内容は、数十分前に披露されたお笑いの感想から始まり、現代の日本のお笑いが持つ課題、お笑いの歴史、今後目指すべき理想のお笑い像へとつながっていきました。そして、盛り上がりに、盛り上がった会話は、どのような過程をたどったのかは、道程が非常に長いため覚えていませんが、最終的に性善説、性悪説のどちらを信じるか、という話にまで到達しました。
私は、先輩が何度も助け船を出してくれたこともあり、何とか話題に追いつくことができましたが、脳裏には常に、あの時見た池田さんの笑顔が張り付いていました。時間がたってから考えても、それはとても美しいものでした。油断すると、池田さんはなぜ、飲み会に参加しなかったのだろうか、という思考に脳が侵されていきました。この、私の脳内で行われた、私しか知りえない思考の防衛線のために、私は先輩から多くの援助をいただかなくてはいけない状態に陥ったのでした。
私にとってとても奇妙だったのは、私を除いて誰も、池田さんのこと、それほど美しいと思っていなかったという事実でした。世論としては、私の1つ飛ばして右隣の席に座っている、赤坂さんという女性が最もかわいいとされているから不思議でした。私にしてみれば、(もちろん、この二つの対象の間では、かわいいという言葉の持つ意味が異なっていることはわかっていますが)店の前で番をしていた、タヌキの信楽焼のほうがよっぽどかわいいように思えました。
居酒屋での飲み会は、時間制限の通り2時間で終了しました。私と同じテーブルに座っていた男性の先輩が代表して会計を済ませ、(その男性が例のササキさんでした)我々新入生とほかの先輩方は店の外で待っていました。そこでのもっぱらの話題は、二次会をどこで行うか、というものでした。どうやら、先輩方は今夜の出費が痛く、財布の紐をきつく締めたいようで、二次会は新入生だけで行われるようでした。私は、当初の目的であった夕飯代を浮かすということは、達成されたのだし、池田さんがいないのでは華がないので、参加しないことに決めていました。
私が新入生の集団から少し離れて、虚空を見つめていると、先ほど私の隣に座った、女性の先輩が私に話しかけてきました。
「キミは二次会には参加しないのかい、河原君」
「はい。金欠なもんで」
私はやれやれ困った、というように右手で頭の後ろを掻きました。
「このサークルに入るかはもう決めたのかい」
「実は、まだ迷っているところなんです」
実際、私の今回の目的はこの飲み会であって、お笑い自体に興味はさほどありませんでした。
「キミは今日、一日中何かを考えごとをしていて、私たちとの会話には集中していないように見えるな。キミと話していても、なんだか底の深い井戸に向かって一人でしゃべっているような気持になるよ。一目惚れでもしたのかい」
「はい」
私は、うその得意な性格ではなかったので、正直に答えました。
「ほう。で、誰に」
先輩は私に耳を近づけ、内緒話をするような恰好で聞いてきました。
「……」
いざその名前を挙げようとすると、なぜだかとても恥ずかしくなって、口をうまく動かすことができなくなってしまいました。頭の中では何度もその名前と顔を言おうとしていたのに、黙ってしまいました。なかなか返事がないので、先輩は先ほどまでの恰好をやめ、こちらに体の正面を向けて私の目を見ました。それからも私は、池田さんである、と口に出すことができませんでした。
「もしかして、私」
あまりに長い時間黙って先輩を見つめてしまったので、先輩が冗談めいた口調でそう言いました。
「違いますけど」
「そう。じゃあ、誰」
先輩はあくまで引きさがるつもりは無いようでした。
「池田さんなんです」
「ああ、あの」
先輩は合点がいったように拳をたたきました。
「私も彼女は好きだよ。彼女はうちの大物ルーキーになれるね。私の芸の時に君たちの中で一番笑ってたし。笑いのセンスがいい。飲み会に参加しなかったのは残念だったなあ。彼女、私たちが片づけをしているときに一人できて、サークルに入りたいので、入会届をください、って言って、渡したらその場で書いて帰っていったんだよ」
「じゃあ、池田さんはもうこのサークルに入ったんですか」
「うん」
いいことを聞いたぞ、と私は思いました。池田さんが「タージマハル」に入ったのなら、私が入らない理由がありませんでした。
「キミも入りたくなっただろう。これ、あげるから、明日にでも持ってきてね。ちなみに、同じテーブルに座ってた五反田君と赤坂さんももう入会してるよ」
私は紙を一枚受け取りました。そこには「入会届」と書いてありました。紙から視線を上げると先輩はもうそこにはいませんでした。私は店の前で屯していた集団に向かって1言挨拶をしてから、家に向かって歩き始めました。
私の家は渋谷の代官山にあるので、道玄坂の店から歩いて20分とかからず家につくことができました。私は家に帰ってからも池田さんのことを考えていました。こうも人の脳内を支配してしまうとは、女性の笑顔には、目には見えない強力な力が宿っていると思いました。
飲み会から時間がたち、酔いが醒めてくると、私は池田さんの笑顔に違和感を覚え始めました。時間がたったので、顔を鮮明に思い出せなくなったというわけではありません。私はその時でも、実際に見たものと100分の1まで拡大しても違いを見つけられないと自負するほど正確に、彼女の顔を覚えていました。
ただ、彼女の顔に、何か裏があるように覚えてきたのです。とてもうまく隠されていますが、注意深く、時間をかけて吟味すれば見つけることができるような、何かを感じました。例えるなら、サクランボのようにです。美しい曲線、鮮やかな赤、かわいらしい大きさ、そして、何といってもあの甘酸っぱい味。サクランボが、その外側は誰をも魅了する性質を持つと同時に、種の中には毒を隠していて、その毒の存在が茎を通じて外に漏れ出ているのと同じように、池田さんの笑顔には、何か、重大な秘密が隠されているように感じました。
私のこの気づきは、深く考えれば考えるほど、確信へと変わっていきました。
私はこの秘密を何としてでも暴いてみたいと思いました。彼女のことを深く知りたいと思いました。それは、単に私が彼女に惚れているからではなく、そうすることが、私の、人生をかけて求めているものと、深く関係していると考えたからです。
私は入会届に名前を書き、翌日それを提出しました。




