何処かの誰か
その部屋にはひとりの精悍な顔つきをした男性が地図を眺めて座っていた。
初老に差し掛かったくらいだろうか。しかし鍛えられた身体は年齢を感じさせず、並みの騎士では相手にもならないような雰囲気を感じさせる。
「いるか?」
「はっ、お傍に」
男性の問いかけに答えたのはその身を黒い衣装で包む小柄な少女。
まるで最初からその場にいたかのように姿を現すと膝をつき忠誠を示す。
「ひとつ頼みたいことがある。この新事業案に名を連ねる者、特にこの『サクラ』という者について情報を集めて欲しい」
「かしこまりました。手段は?」
「手荒な真似はするな。彼女は我が国に利益をもたらす案をくれたのだからな」
「……では潜入という形でよろしいですか?」
「任せる」
「はっ」
少女の姿が掻き消えると男性は手元にあるグラスの中身を飲み干す。
男性は考える。この事業案は剣術指南のヴィクター=マルストルの娘とその友が考え、ロストホース商会の助力を受け提出されたものだ。
気になる所もあるが、概ね新事業の初期案としてはかなりよくできているだろう。
しかしその中で気になる名前を見つける。
「サクラ……さくらか。懐かしい花の名だ」
その顔は穏やかにほころび、遠い昔を思い出すように目を細めると憂いを含んだ溜息をつく。
「あら、貴方でもそんな顔をするのね」
先程の少女とは違う妖艶な声が部屋の中へと響く。
「ノックくらいはして欲しいものだな。相も変わらず……神出鬼没な女だ」
そう言って振り返ると、そこには真っ赤なドレスを着こんだ美しい女性が政務机の上に腰かけ微笑んでいる。
しかし、その姿は美しさ以上に言いようのない威圧感を放ち、赤いドレスすら何か得体のしれないもののように見える。
「久しぶりだな。どこぞで死んだかと思ったぞ」
「そうね。この世界には私を殺しうる存在が山ほどいるもの……恐ろしくて外を出歩くこともできないわ」
「抜かせ。ただ興味がないだけであろう。それで、そんな臆病者が今日は何の用で訪ねてきた?」
「酷いわね。シュバリオン王国の話よ。結論から言うと正当な血筋に戻ったわ」
「ほう、やはりキリンダニアは実在したか」
「当たり前じゃない。実在しないものの噂話や伝説なんて残るはずがないもの」
「……お前を見ていると頷くしかないだろうな。それで、一体何をさせたい?」
「何も」
「……何?」
「何もしなくていいわ。この世界のバランスは保たれた。王冠も望んでいることだし、ただそれを伝えに来ただけよ」
「そうか」
「あちらにもその内挨拶に行くわ。あなた達には面倒かもしれないけれど、理解しておいてもらわないといけないしね」
「本当に面倒な事だ」
「本当にね……だけど仕方がないわ。何かがそう定めたんだもの。……そういえば、さっきあの可愛い子に情報収集を頼んでいたわね」
「立ち聞きとは恐れ入るな」
「その子、どうやらマスター・シリウスのお気に入りみたいね。手を出すとそれこそ面倒よ?」
「……そんな理由ではないさ。ただ懐かしく思っただけの事だ」
「人間は不便ね。まぁでも、私のように同胞がいないような虚しい生物よりは余程マシでしょうけど。……ごめんなさい、無駄話が過ぎたわね。久々だしお酒を何本か貰っていってもいいかしら?」
「好きにしろ――いやまてあの30年物の……すばしっこい奴だ」
男性は溜息をつくと頭を抱える。
「……真っ先に持っていかれるな」
そう呟くと彼は部屋を後にする。
誰もいなくなったその部屋の中には、仄かな香水の香りだけが残されていた。




