花鏡の使者 壱
白抜き桜の五つ紋に黒袴の装束で奥座敷から現れた春見亭亭主は、未だ若く見目に稚さを残した少年であった。艶やかな漆黒の髪、黒目がちな大きな瞳に、灯籠だけの仄暗い場所では、ともすれば少女かと見紛うかという面差しをしている。
凛と顔を上げた少年の立てる衣擦れの音が進むごとに、座敷の左右に額ずいていた和装の者らが面を上げていった。
これより『春招の儀』を初めて一人で務めんとする少年の姿に、大役に対する気後れを感じることは微塵もなかった。それどころか、少年はすでに穏やかな春の気を全身に纏っていた。少年が歩を進めた跡に、仄かな光の筋を見い出すことができるかのようだった。
少年が春見亭亭主となるために生を受けて十四年。待ちに待ったその雄姿に居並ぶ者全て、「若き亭主と春見亭に弥栄あれ」と、口ききが可能であったなら声高に寿いでいたであろう。
壱
そこを『四方見亭』という。
広大な面積を誇る塩見家の大屋敷で、四方に向かい門戸を構えているところからそう呼ばれていた。それぞれの門から入る建物にもそれぞれの名称があり、東口を下宿屋『春見亭』、南口を割烹『夏見亭』、西口を旅館『秋見亭』、北口は商いをしていないが『冬見亭』と言った。
その中で、味と雰囲気に定評のある割烹の夏見亭と、一日に三組までしか宿泊客を取らず、夏見亭と料理提携している旅館の秋見亭は有名だ。
だが、半年先まで予約が一杯といわれる割烹と旅館のどちらも、年に一ヶ月半の長期休みがあり、その間はどのようなお得意さんでも受けることはなかった。――それもまた有名な話である。
ちなみに下宿屋を営んでいる春見亭にも一ヶ月半の空白期があり、その間は下宿者さえ敷地内に立ち入ることを許して貰えなかった。そのせいか下宿屋は閑古鳥で、いつでも決まって春先に追い出されることを承知の上の物好きが数人下宿しているだけだった。
――そう。
春分から立春までの一ヶ月半を目の前にして、下宿人は、まさに追い出されたばかりである。
これより春見亭は、本来の役目に立ち返ろうとしていた。
それはごく一部の限られた者たちしか知り得ない真実。春見亭含め四季の名を冠する各亭は、その季節の精霊を立ち起こしにくる天の使者を季節の立ち日に迎え、季節の分け日までもてなすための祭所なのだ。
四方見亭のある場所は古来より『使者が天降る地』といわれ、四方見亭の元となった社(現四方見亭中央部)は、鎌倉後期にこの地を治めていた豪族が、不可思議な力を持った行脚の巫のお告げを受けて建てたものとされている。
神の言霊を得、人の見ぬものを見、森羅万象の理を知っていたという巫は、五人の供とともに社に留まり、――そして現在、その巫の子孫である塩見一族が供の子孫を従えて、代々各亭に亭主をたてて各季節の儀式を受け持っていた。
*
背に痛いほどひしひしと感じられる期待の中、歩みを進める先には黒縁の白襖があった。
玄吾はぶつかることを臆するでもなく、真新しい白足袋に包まれた足を進めた。当たると思いきや、襖は、すっ、と左右に開かれた。中から迎えたのは、玄吾より幾分年長の美しい少女だった。白衣白袴で背に長く髪を垂らしている。
敷居を跨いで部屋にはいると、少女は黙礼の後に左の隅に下がった。少女は名を幸輝といい、春見亭に仕える池元一族から出た巫女だった。
ほんの五畳ばかりの横に長い板の間には、祭具と供物の用意された白木の祭壇が置かれ、その向こうには一枚板のどっしりとした蔵戸が二間あった。
玄吾は祭壇の正面に立つと、呼気を惑わさぬよう浅く、深く息を吐き出した。軽く息を止めて、すっと口から息を吸う。
儀式は、朧気に覚えているだけでも十二回。自分一人でやる儀式は初めてだが、気負いや気後れといった感情は全くなかった。
生まれてからずっと。
初めは母の腕に抱かれ、手を引かれ、一人で歩き……今期は祭壇も一人で用意した。
全ては体に染みついているのだ。もしかしたら生まれる前から魂に刻み込まれているのかもしれない。斎食や禊ぎに費やす時間、衣装を改める時間、歩く歩幅や速さまでも。
そうでなければ、どうして分かろうか。
時は、二月四日。午前二時四十二分五十秒――だろう。祭具に手がかかった瞬間に、四十三分丁度。来る春分となる。
玄吾は、水の入った祭具の蓋に手を伸ばした。
――――ドオンッ
突如起こった振動は凄まじく、三段の祭壇が跳ねて供物や祭具が跳び、なんとか踏み止まった玄吾の足元に落ちた祭具の殆どが派手な音を立てて割れていた。
「何事か!」
慌てて問うも、儀式中の口ききを許されぬ参列者からの返答はない。顔下半分に白紙の覆いをしているが、ただならぬ変異に顔色を失っているのが分かる。その中、
「亭主は何事にも動ぜず」と。
咎めを含んだ言葉だが、鈴を転がしたような声だった。
玄吾は、はっとして傍らの少女を振り返った。落ち着き払ったままガタガタと激しく揺れる蔵戸を見つめていた幸輝が、形のいい唇を開いた。
「いらっしゃる」
ガタッ バンッ
声と同時に蔵戸が内から開かれた。ぱっかりと口を開けてきた四角い闇に、玄吾は目を見開いた。
こんなことは有り得ない。封印を解いてもいないのに何故扉が開くのか――。
混乱を通り越して呆然とする玄吾の前に、唐突に人影が現れた。
それは、燃えるような緋色髪の男だった。片袖抜いて中の派手な着物柄を見せた上に簡単な甲冑をつけている。男は土足のままズカズカと部屋に上がり込み、祭壇を押し退けて、
「亭主殿、えらいことになったわ。こちらに来られよ!」
「やっ、ちょっ……ええっ!?」
口をパクパクする玄吾の腕を掴んだ男は、玄吾を強引に蔵戸の中へと引きずり込んだ。
ふわりと浮いた玄吾の白い袖が闇に呑まれると同時、再び蔵戸は閉ざされた。
――儀式は、形だけの単なる祭儀ではなかった。
現春見亭亭主、塩見玄吾、数え十五才。
不可思議な力を持った巫の血を受け継いだ少年は、人に在らざるものを見る。春分を目前に、春呼びの使者を迎えるための儀式『春招の儀』の真っ直中であった。
* * *
ユリは、街灯のほとんどない城跡公園の中を歩いていた。
暖かい時期なら朝方までそこかしこに人の姿が見られたが、雪の残るような時期のこんな時間になると、夜遊びしてるような若者も、泥酔して寝ているような大人も誰もいない。最近は人から声を掛けられるのが嫌で、一人でぼんやりと過ごせる公園は居心地が良かった。
堀沿いにぶらぶらしながら櫓門までやってきたユリは、三段の石段が欄干がわりになっている橋の縁に腰掛けて堀を眺めた。
白い雪に縁取られて、堀は真っ黒な淀みを見せていた。堀の上に張り出した桜の木は葉も花もなく、かわりに枯れた蔦が無気味に垂れ下がっている。桜の頃には櫓門も入れての絶好の記念撮影スポットになるのが嘘のようだ。今は寒々しさしか感じられない、無惨な残骸だった。
ユリは、なんとなく買って半分以上飲み残していたペットボトルの中身を堀に注いだ。ぼちょぼちょという音を聞きながらペットボトルを持つ手を開くと、すぐに水面を打つ耳障りな音が聞こえた。
中途半端に重く、中途半端に浮力のあるモノ。浮くでも沈むでもなく、流れのない場所に捕まったまま拾われるのを待つだけのモノ――。
まるで自分のようだと、ユリは思った。
言い知れぬ焦燥に駆られて夜中に目覚めるようになり、その後、眠れなくなってしまったのは、もう二年近く前のことだ。
なんとなく家から抜け出して、灯りと人を求めてのコンビニ通いは、いつの間にか駅前の繁華街へと足を伸ばさせていた。そこでユリはいろんなことを知り、覚えた。
だけど。
満たされない。――と感じる。
何をしたいのか分からず、自分は、もっとどこか行く所があるのではないかと……。
ユリは、石段の上に体を倒した。白い息を吐きながら石の冷たさを確かめる。石でさえ、こんなにも冷たいのだ。堀の水はもっと冷たいに違いない。
ひらり、と白いものが目の前を落ちていった。あれよという間に舞い落ちる白は増えていく。
「――雪は、嫌だ……」
ユリは口の中でそう呟いて体を起こすと、雪降る夜空を見上げた。
ユリが夜中に初めて目を覚ました時にも、雪が降っていた。春だというのに、あの日は昼まで雪が降っていた。
鮮明に覚えている。
空から落ちる重たそうな雪。路面の、半ば溶けてぐちゃぐちゃになった雪。溶けて汚い水溜まりとなってしまった雪。
そしてユリの目の前で、そんなものと一緒くたになってしまった――兄。
兄のミツオは素行も頭も見目もよく、将来を期待され、県内でも有数の進学高校にも合格していた。
それなのに、合格発表のあった翌日にわき見運転の車に轢かれてしまったのだ。笑顔も似合う顔も、すらりとした手足も、成功を収めていたであろう将来までも、全て押し潰されてしまった。
真っ黒な空から、塵のような雪が落ちてくる。頬の上で溶ける雪を感じながら白い息を吐き出したユリの目に、ひと筋の光が流れるのがうつった。
「もう二度と、春なんか来ないで……」
流れ星に向かって、ユリは願った。
だけど、そう最初に願っていたのはきっと父と母だろう。芳しく匂う春風の中、祝福を受けるはずだった兄の姿はなく、翌春の受験で、ユリは兄の代わりにはなれなかった。
ユリが春風の中で聞いたのは、母親の漏らした溜め息だ。
「春は嫌だ」
嘆くだけの母親や仕事ばかり父親も、中途半端に周囲を喜ばせただけの兄も、嫌い。全て消えてしまえと、星に願う。
不意に歪んだ視界に、手の甲を目にやった。その時、ユリはようやく気付いた。
――星じゃない?
遙か彼方に見えたはずの光が、ユリのすぐそばに見えていた。
「きゃあっ」
足元に淡い光の塊が落ちる。ガシャン、と金属音のような、ガラスが砕けるような、そんな音をたてて光が弾け飛んだ。周囲が一瞬、閃光に包まれる。
「――ああっ!」
ユリは顔を両手で覆っていた。眩しかったからではない。割れた何かの破片が右目に飛び込んでいた。
「い、痛い、……熱いっ! いやぁっ!」
激痛を訴える右目を押さえ、体をくの字に曲げていた。異物を押し流そうと、止めどなく涙が溢れてくるが、まさに押し出されようとしているのが、眼球そのものであるかのように目の回りが熱く灼けついていた。
ズキンズキンと響く鼓動が頭の芯を直撃する。痛い、熱い、と、それだけが思考を占拠し、意識が霞んでいった。
身悶えして石段から転げ落ちたユリは、すぐ近くに立つ人影に気付いた。肩の上で切りそろえられた髪と白い肌に、かろうじて人影が少女だと分かる。
「助け、て……」
あらん限りに手を伸ばし、それを最後に、ユリは激痛に苦しい意識を手放した。
*
「玄吾くんって、変」
そんな言葉は当たり前。
「玄吾くんって、なんだか気持ち悪いっ」
そんな言葉は生やさしい。
「玄吾くんって怖い。近寄らないで!」
何度言われた? 分かりゃしない。
言われるのは主に春。春先は、使者を迎えたあとに残る春気が残り香のように玄吾に染みついていて、春の眷属は勿論のこと、そこら辺に浮遊している霊的なものまでが使者の春気に惹かれて玄吾にまとわりついてくる。それらが醸し出す気配が混じり合い、周囲に玄吾の異端を感じさせるのだ。
春。それは新学期。進級、クラス替え、あるいは進学でもある。
うまくやろう。新しい友達を作ろう。
そんなことを一念発起したとしても、春の印象が最悪な玄吾が交友を広げるのは困難だった。玄吾自身は何もしていないのに、奇妙な噂がついてまわり、噂の上に新たな噂と憶測があたかも真実のように取り付いていく。
中学三年生を目の前に「触らぬ玄吾に祟りなし。なるべく気にするな」とまで言われてしまった。友達は著しく少なく、彼女なんて、夢のまた夢ってやつだ。自分の置かれる境遇に、理不尽を感じている。
それでも。
脈々と受け継がれてきた巫の血は、玄吾を使命に駆り立てる。人の見ないものを見、聞かないものを聞き、触れ、感じ、使者を呼ぶ。
天より使者が来訪するからこそ季節は目覚め、人の住む地は恩恵を得られるのだ。
教えられたのではなく、ただそれが真実、理であると玄吾は知っている。彼らの仲間はこの世には大勢いて、人間を取り巻く環境を整えている。人には見えずとも、彼らがいなければ世は成り立たず、人は彼らに生かされていると言っても過言ではないのだろう。
それを知るからこそ、玄吾は使者を迎える儀式の重要性を認め、それらの儀式を司ってきた塩見家に生まれた以上、自分の務めなのだと理解している。変だとか気味が悪いだとか心ないことを言われても、使者と係わることのできる自分を誇りに思うようにしてきたのだ。
なのに、何だ?
春招の儀を台無しにして現れた使者は、いいかげんのすかぽんたん。緊張感はまるでなく、あろうことか、
「しくじった。宝物と姫皇子を見失ったわ」
と軽々しく言うのだ。――笑い事じゃない。
季節は、使者が天降っただけでは始まらない。春招の儀で真っ先に招かれる『皇子』と呼ばれるお役が期間中歌い続ける呪歌がなければ、季節は精彩を欠き、四季のバランスを崩し、果ては天災や不作を招いた。
だからこそ、皇子が万事無事に四方見亭に到着するまでを護衛する使者がいるのではなかったか?
玄吾は、皇子を護衛するための武装をした使者を目の前にしていた。二人とも何ら普通と変わりない人間に見えるが、彼らは、玄吾が物心ついた時から見目が全く変わっていない。明らかに人外だった。
しかし武装とは名ばかり、片袖抜いたり薄衣を纏ったりの緊張感のない格好に、玄吾は、罵倒したいのを我慢して拳を握り締めた。初めて一人で務める儀式だったが、失敗なんて想定外。今期儀式を滞りなく終え、名実共に春見亭亭主と認められる予定だったというのに……。
ぐっと噛み締めた唇が切れて、鉄くさい血の味が舌にのった。そうでもしていなければ、あまりのことに昏倒してしまいそうだ。
使者は、玄吾が怒りを堪えているのに気付かないのか、大仰に肩を竦めてきた。前髪ひと房が黄色い緋色髪の青年、春雷の使者が言った。
「そんなに睨むな。わしではない、エベのせいだ」
長く伸ばした襟足を縛った、エベと呼ばれた金髪青年、東風の使者が顔をしかめた。
「違うぞ。クジだろう。俺は何もしておらんわ」
「ぬかせ。姫皇子の様子がおかしくなったのは、エベが余計なことを言うたからだ」
「クジとて懸念を見せていたであろう。姫皇子に春気の滞りを見たは、クジが先ではないか」
「それは出立以前のことよ。わしは口にはしなかった。告げてはならんと触れがあったものをきさまが忘れたせいで、姫皇子が無謀をしでかしたのだ」
「俺は触れなど知らん。大体、知らぬままに来させようというのが気に入らんわ」
「しかしな」
「言うな。そもそも花鏡を筺から出すのを止められなんだは、クジではないか」
「あれは仕方あるまい。よもや花鏡に手を出すなど、誰が思う?」
「そうだな。ならば姫皇子が悪いではないか」
ということだ、などと何の説明もせずに一方的に結論つけたエベが振り返った。その顔に反省の色はない。
「しばらく待たれよ。我らが眷属が姫皇子と宝物を捜して奔走している」
「すぐにでもお連れ申すゆえ――」
「いけません……」
ぼそり、と玄吾は呟いた。何故に、とお気楽顔の二人の目が問うてくる。何を今さら、と玄吾は気の遠くなりそうなほどの頭痛を堪えて使者を見上げた。
「地界は未だ冬気に恵されているんですよ? 歌替えの儀が始まってもいないのに、春の眷属が地界を巡るなど、あってはならないことです。理を崩落させる気ですか!?」
四季の始まりである春で躓けば、自然の流れに歪みを生じさせてしまう。歪みはそのまま、後の災害を引き起こす要因となるのだ。天の使者ならば、人間の自分なんかより余程理解しているはずだと言うのに。
しかし、とクジが言う。
まあまあ、とエベが言う。
「姫皇子と宝物が地界をふらつくことの方が一大事ぞ」
ここは大目に、と悪びれもせず言ったエベに、玄吾の頭の中で、ぶちっ、と音がする。気付けば、使者に指をつきつけて叫んでいた。
「勝手なこと言うなぁ! あんたらがきちっと皇子を護衛してれば、こんなことにならなかったんだぞ!? さっさとそこらに散ってる眷属を招集しろっ。冬見に頼んで冬の眷属に出張ってもらから、皇子が見つかるまでおとなしく春見に隠ってるんだ!」
怒鳴られてきょとんとした使者がまじまじと見つめてくる中、玄吾は、クジが無理矢理開けたために傾がっていた蔵戸を蹴り開けて座敷に飛び出した。
座敷には、幸輝だけが残っていた。怒髪天をつく勢いの玄吾を見て、目を丸くしている。
玄吾は叫んだ。
「僕は、こんなわけ分からないのの尻拭いするために我慢してきたんじゃないんだぞ!?」
こんな奴らのために、平凡でささやかな生活を望めないのかと思うと……。
「く~や~し~い~っ」
握り締めた拳を胸に、玄吾は悔しみに泣き濡れたのだった。
*
時すでに午前の四時半ばを過ぎていた。
皇子捜索を冬見亭に依頼したあと、四方見亭の茶の間でイライラしながら一人待っていた玄吾は、音もなく開かれた障子戸の向こうに初老の男を二人見て、勢いよく立ち上がった。
「玄九郎さん、どうでしたか!? 皇子は、宝物は、見つかりましたか?」
「そう慌てずに。まあ、座りなさい」
逸る気持ちを諭すような玄九郎の穏やかな笑みに、玄吾は渋々と座り直した。
そろそろ六十になろうかという玄九郎は、玄吾からみれば曾祖父の甥の子供にあたり、四方見亭の亭主である。世間では、春夏秋冬の亭をまとめて四方見亭と呼んでいるが、本来は四つの亭に囲まれた中央の屋敷だけが四方見亭という。儀式の全てはここ、外部からの立ち入りを禁じた四方見亭で行われていた。
茶の間に入ってきた玄九郎に続いて、冬見亭に仕えている山名が、拭漆の木箱を手に入ってきた。上座に座った玄九郎に箱を渡し、自分は戸口に控えて座る。
玄九郎より幾分若い山名は、今回の騒動で儀式期間中に他季節の亭、特に冬見亭に立ち入ることを許されない玄吾と、冬見亭亭主との橋渡しをしてくれていた。
玄吾は山名に感謝を込めて目礼し、玄九郎に向き直った。急かす目を向けた玄吾に、木箱を膝に乗せた玄九郎が言った。
「宝物の一部が回収されましたよ」
「一部……。どういうことですか?」
宝物は、皇子の歌う呪歌に導かれ、天の恵みを地を繋ぐという。春の宝物は五花弁の花型銅鏡で、表面に花を抱えて蜷局を巻いた青龍が浮彫にされ、裏側の鏡面は凪いだ水面ように美しく、五色に輝いている。――が。
ご覧、と蓋を開けられた木箱の中を覗き込んだ玄吾は、まじまじと中身を凝視したあと、思わず頭を抱えた。
「なんて……」
真白い綿の上に、六つに割られて色をくすませた花鏡が置かれていた。しかも花びらが一枚足りない。最悪の場合、皇子の代理を立てることができるが、それは宝物があればこその強攻策だ。万が一の手段として、エベとクジに皇子代理となれるよう潔斎を押し付けてきたのだが……。
「……宝物がないと、どうなるんですか?」
「今期の春は精彩を欠くだろうね。陽光が衰え、花はくすむか」
穏やかな口調で言う玄九郎は、しかし眉宇を曇らせていた。
「芽吹きが満足にいかなければ、次の夏気に押されて秋の実りも落ちるだろう。冬は長く深まると考えていい」
座っていなかったら、ショックで腰が砕けていたかもしれない。血の気をなくした顔を手で覆った玄吾に、玄九郎は微かに笑ったようだった。
「これは困った、脅かしてしまったかな? 大丈夫だよ、玄吾くん。宝物の傷や破損は今までもにもあったことだ。宝物の足りない欠片が見つかれば、すぐにでも再生は可能なんだよ。そうだったね、山名くん」
確認を求められた山名が、無言で頭を下げて是と示す。
玄吾は、ほっとした途端に目に涙が浮かぶのを感じた。悔しくて、情けなくて、悲しくて堪らなかった気持ちが、安堵に気が緩んだ隙をついて溢れ出そうとしていた。
儀式をおさめるのが全てだなんて思いたくない。だが、春招の儀の失敗は玄吾に深い疲労と虚脱感を与えていた。まるで自分自身を否定された気さえしていたのだから。
滲んだ涙を手の甲で拭い、玄吾は背を正した。
「それでは僕もこれから皇子を捜しに出ようと思います。宝物の見つかった場所を教えてください」
ひとまずそこから、と聞いた玄九郎は、とんでもないとばかりに首を横に振った。
「今期は玄吾くんにとって大切な節目だよ。あまり出歩いて冬気に惑わされては、後の儀に障るのではないかな?」
節目、の言葉に玄吾は唇を噛んだ。
亭主が一人で儀式を受け持つようになる数え十五の年にだけ、使者呼びの儀式のあとに『御霊送り』と呼ばれる儀式があった。それによって送られるのは、現亭主の守護者として現世に残っていた前亭主の御霊である。前亭主の守護が解かれて初めて、亭主は名実共に亭主となることができた。
だが春招の儀は失敗し、昇魂の途を開く宝物は破片を欠いている。明日の歌替えの儀だってどうなるか分からないのに、節目も何もあったものではない。
玄吾が眉根を寄せているのを見て、無茶を考えてはいけない、と玄九郎はたしなめた。
「春皇子の春気は強いから、冬気の中から見つけるのはさほど難しくないだろう。ここは冬見に任せて、玄吾くんはそろそろ休みなさい」
「ですが」
「今日も学校はあるんだろう? お役は大事だが、お役のために玄吾くんの生活を疎かにしてはいけないね」
「……分かりました」
玄吾は、拳をついて正座したまま後ろに下がると、玄九郎と山名に深く頭を下げた。
「春見の不始末に対するご助力に感謝致します」
「なに、気に病むことはない。こういった時のために四方見亭はあるのだよ。破損した宝物は、奥殿に預かっておこう」
「お願い致します」
玄吾は再び頭を下げ、立ち上がった。
山名が開けた障子戸から出ると、薄暗い廊下の隅で幸輝が立ち上がった。いつからいたのか、底冷えする空気に赤くした頬が強張っているのが見て取れる。
玄吾は少し驚いたが、無言で幸輝の前を通り過ぎた。二、三歩分離れて歩く幸輝を従え、四方見亭の複雑な廊下を春見亭に戻る。背後で四方見亭と春見亭を隔てる格子戸が閉まる音を聞いて、玄吾は振り返った。
「――先に寝ててよかったのに」
幸輝は、ツンと澄まして言い返してきた。
「亭主がお役にある間は、私も役から離れるわけには参りません」
「そんなこと言って、夜更かしは肌に悪いとか言ってなかったっけ?」
「それとこれとは別。気遣ってるつもりなら、さっさと装束を脱いで寝なさいよ」
冷やかす調子の玄吾に、途端に幸輝は命令口調になって笑った。
玄吾は苦笑した。父親が冬見亭亭主、姉が夏見亭亭主であるために、玄吾の家族はバラバラに暮らしている。日に数度母親が春見亭を訪れるとはいえ、玄吾の面倒を見てくれたのは、春見亭に仕えている幸輝の親族であった。幼い頃から一緒に暮らす幸輝とは、実姉以上に姉弟のような付き合いをしている。
袴の帯を解きながら歩く玄吾に、幸輝が言った。
「取り敢えずエベが潔斎に入ったから、南の棟は使えないわよ」
「クジは?」
「クジには眷属を集めてもらって、天降りの使者を春見まで誘導してもらうことにしたわ。この騒ぎで冬気が攻撃的になってるようだから、護衛も兼ねてね」
「は? 眷属なんか動かしたら余計に騒ぎがでかくなるだろ? なに考えてんだよ」
ぎょっとした玄吾に、幸輝は、ふふんと笑った。
「春の、じゃないわ、クジの眷属よ。元々雷は季節の境を司る使者だもの。クジなら出歩いたって影響ないでしょう?」
「あ……そうか」
だからね、と幸輝は玄吾の前に進み出た。
「玄吾くんは、大船に乗ったつもりでいてちょうだい。歌替えの儀までに、必ず皇子を捜し出すわ」
亭主は何事にも動ぜずよ、と。
幸輝は、控えめな美少女ぜんとした見目に似合わず、気が強くしっかり者だ。年もそんなに変わらないのに、気持ちが萎えそうになる時はさりげなくフォローしてくれる。さっきだってそうだ。思い掛けず動転して涙が止まらなかったのを励まし、力づけてくれたのも幸輝である。
大きな目を細めて微笑んだ幸輝に、玄吾は心の中で感謝したのだった。
*
四方見亭茶の間にて。
立ち去る玄吾の衣擦れの音が聞こえなくなるのを待って、四方見亭亭主は口を開いた。
「山名くんは、春皇子の春気を隠す術をどうとるかね。はたして可能かな?」
問われた山名は、軽く顎を引いた。
「未だ目覚めぬ眷属の中に潜んだのであれば可能かと。しかし、皇子の気を留め置けるほどの眷属が地界にいるとは考えられません」
「ならば、天に戻られたか」
「宝物なしでは、途は開かれないと聞いております」
「そうか」
宝物、と呟いて、玄九郎は無惨に割れた花鏡に視線を落とした。
冬の眷属により発見された花鏡は、砕けた衝撃からか半径百メートル内に積もっていた雪を溶かしていた。そして、そこからさらに東へ五メートルの積雪が溶けていたのは、残る春気から春皇子によるものと判明したのだが。
「何故、春皇子の春気が途絶えたのだ」
若い春見亭亭主を動揺させまいと、告げることはできなかったが、春に気に敏感な冬の眷属ですら、その先の春皇子の春気を辿れずにいたのである。
こめかみを押さえて目を閉じた玄九郎に、いつもは寡黙な山名が提案してきた。
「冬皇子に、冬気を強める呪歌を望んではいかがでしょう。歌替えに向けて冬気を抑えているので、春気が判別しにくいのです。付近一帯を冬気で覆ってしまえば、春皇子の居所を掴めるのではないでしょうか」
玄九郎は、首を横に振った。
「いや、立ち日は越えたのだ。冬気を静めなければならない時期に強めては、後に障りがでよう」
「ならば夜明け前までということでは。大雪となりますが、春皇子をいち早く捜すためにも、是非に」
正座したまま、ずいっと前に出た山名を見て、玄九郎は目を細めた。
「太青は、息子の一大事に形振り構っていられないようだね」
己の仕える冬見亭亭主の名が出て、山名は軽く頭を下げた。山名も、幸輝と同じように使者を見ることができ、冬見亭亭主に直に仕えていた。
「亭主は何も。私の一存です」
しかし、と山名は顔を上げた。
「玄九郎殿とて、春見亭亭主の節目の無事を望む気持ちがございましょう。久しく春見亭は落ち着きませんでした。春見亭亭主が節目を迎えるのは、三十年ぶりなのです」
玄吾の前の亭主は四歳、その前の亭主は九歳で病死していた。無事節目を越えたのは三代前だが、十七歳でやはり病により儚くなっていた。
とかく春見亭は変動が著しく、現亭主の玄吾には、御霊送りのできなかった三人の魂がついていた。過去これほど長と現世に置かれた亭主の魂はなく、数も多いゆえ、これ以上置けば何らかの障りが出るのではないかという懸念もあるのだ。
玄九郎は逡巡するように目を細め、ふっと息をついた。
「――夜明けまでに雪を止ませるのだよ」
背を向けたまま言った玄九郎に、山名は無言で叩頭し、茶の間から音もなく出て行った。
「春皇子の大事とあれば、多少の差異は許されようか?」
四方見亭亭主を六十年務めようかという時になっても、天の意はようと知れなかった。
恐ろしいものだ、と玄九郎はひとり呟いた。
――夜半に舞った小雪は、冬皇子の呪歌を得てそのまま本降りとなり、人々が目を覚ます頃には、十五センチの積雪を残してやんだ。




