不穏な空気
夏を迎えた辺境は日増しに暑さが増している。
湿気が少ない分じめじめとした不快感はないが、照りつける太陽の光は人々の肌を刺すようだ。
屈強な男ですら水分の補給を怠れば倒れてしまう、辺境の夏とはそういうものだった。
冬場は厳しい寒さに覆われて冷たい風を吹き下ろすグランディス山脈からは乾いた空気が入り込んでいる。
領地の南側に広がるメンシスの森の近くならいくぶん暑さは和らぐが、だからといってそこに住む者は少なかった。
乾いた空気に満たされた辺境伯城の中を、カッ、カッという軍靴の音を立てながら一人の女性が歩いている。
スラリと伸びた体は女性にしては背が高く、頭の後ろで括ったダークブロンドの髪が揺れていた。姿勢良く歩く女性の視線はまっすぐ前に向けられており、その瞳は曇りなく澄んでいる。
女性にしては珍しく騎士服を着込んだその人は、腰に細身の剣を履いていた。
城は辺境伯家族の住む場所だ。しかし同時に、騎士団の中枢が置かれている場所でもある。
三階建の城の最上階には辺境伯家の住まいがあり、一階と二階が公的な部分となっていた。
中でも一階には騎士団の団長室や軍事作戦を立てるための部屋が連なっていて人の出入りが激しい。
その中の一室の扉を女性がノックする。
「入れ」
許可の声を確認して女性は扉を開けた。
中には大柄な男が二人いる。
二人は部屋の真ん中に置かれた机の上に広げられた地図を見ていた。
「新しい情報か?」
そう問いかけたのは二人の内の若い方、辺境伯騎士団副団長のガルドだ。
「ええ。昨日新しく発生した強盗事件についてよ」
そう言いながら、女性は手元に持っていた書類を地図の上に広げる。
「最近増えているのが気になるな……」
呟きながら書類と地図を見比べているのはもう一人の男、団長であるマディソン辺境伯だ。
四十代後半になろうという彼は、しかしガルドに負けないくらい鍛えた体をしている。
「動きやすくなる夏は元々事件も増えるものだけど……たしかにここ数ヶ月の中ではこの一週間が特に多い気がするわ」
女性は机の上に置かれた小さな箱の中の赤いピンを手に取ると、地図のある地点にそれを刺した。見れば刺したところのすぐ近くに他にもいくつかのピンがつけられている。
「山賊ではなく盗賊かしら。場所は基本的に街道沿いに集中しているわね」
女性の言葉に三人が改めて地図をのぞき込む。
「今度帰ってくる時はこの街道を使うようにヒューゴに知らせるか?」
「ヒューゴ兄さまは放っておくと道なき道を突っ切って帰ってきてしまうもの。つき合わされる馬がかわいそうだわ」
「クロエは手厳しいな」
そう言ってガルドが笑った。
♢♢♢
クロエ・マディソンは今年の春に二十歳になった。
十歳で辺境伯騎士団の騎士になると決めてからクロエは領地を離れたことはない。
見習い騎士から始めて、その後十五歳から十八歳の間は辺境伯領の騎士学校へと進学した。
二年前に卒業してからはそのまま辺境伯騎士団に所属している。
騎士団長を務めるのは辺境伯家当主の父であり、副騎士団長を務めるのは長兄のガルドだ。
しかし、辺境伯の家族だからといってクロエが優遇されることはない。
下積みの間は騎士として将来有望な平民の子たちと混ざって雑務から始めた。そして多くの雑務をこなしながらも訓練を積む。
最初の頃は基礎体力すらなくて走り込みをするだけで倒れるくらいだった。
(倒れたとしても頭から水をかけられて目が覚めるんだけど)
そんなことを思えるくらいには今ではそれも懐かしい思い出だ。
(倒れるくらいならまだマシな方ね。訓練が厳しすぎて吐いた時はさすがに辛かったわ。……まぁそれもいずれ慣れたけれど)
吐いて、倒れて、必要な物を手洗いしているから冬場は手があかぎれになる。そんなおよそ貴族令嬢には相応しくない傷だらけの手もクロエは嫌いじゃなかった。
そうやって辺境伯令嬢であるクロエが騎士学校へと進学したからだろうか。
クロエの下の学年に子爵令嬢と男爵令嬢が入学してきた。
令嬢が仕事をするなんて信じられないとされるエスペランサ王国において、騎士になろうという令嬢が何人もいる辺境の地は変わっているに違いない。
(それでも、騎士なりたいって思っている令嬢は案外いるのよね)
クロエがそう思うには理由がある。
令嬢としての先駆者とでもいうように、最近ではクロエの元へ相談にやってくる女性が増えた。
辺境の地において騎士がどれだけ重要かを知っている彼女たちは、決して冷やかしでやってくるわけではない。
結婚という形ではなく自らの力で家族を助けたいと思う者、悲しくも家族を失い、しかし尊敬していた家族のようになりたいと思う者、理由はさまざまだ。
特に地方の下位貴族の令嬢たちは、結婚するにしても必ずしも良い条件で結ばれるわけではない。そんな事情もあり、騎士として身を立てられるならその方がいいと言う者までいた。
(王都では信じられないことなのでしょうけど)
そう思いながら、クロエは辿り着いた母の部屋の扉をノックした。
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